■オリンピック  S39年10月 東京オリンピックが開催され、私は旗章隊員として選抜
         されました。1ケ月くらい前から練馬駐屯地の営庭に模擬競技場を作り
         木製のポールを建てて入場の仕方や、旗揚げの練習をしました。
         旗揚げの合図から、上に静止するまで何秒かかるかなど、秒数を
         数えたりの訓練が続きました。
         開・閉会式では国立競技場で国旗の掲揚等行い、競技の表彰式では
         レスリング会場に行きました。予備要員として駒沢競技場での女子
         バレーボール優勝の瞬間も会場で見させてもらいました。
         自衛隊に在隊したお陰で貴重なものを見せてもらったと今でも
         思います。

■ドライバー   S39年11月 車両操縦教育を受けドライバーとしての特技番号を取得する。
         直ちに大型カーゴのドライバーとなる。自衛隊創設頃に作られた
         「いすず」のオンボロカーゴだった。スターターは足踏み式で回転が遅く
         エンジンのかかりの悪いときは、相棒に頼みクランクハンドルを回して
         エンジンをかけたものだった。
         チェンジレバーの右側に小さいレバー(爪)が付いていて、それを引かないと
         バツクギヤーに入らない古典的な車だった。
         エンジンはガソリンエンジンで最高スピード110kmを出した。
         タイヤのパンク等はドライバーの作業範囲で、当時はよくパンクしていた。
         タイヤが古くなっても新品タイヤはなかなか来ないで、自衛隊の補給処
         あたりで、作り直した再生タイヤがほとんどだった。
         車検は自衛隊の整備工場で行い、ある時シャシー亀裂とあり、亀裂部分を
         電気溶接で修理したことがあった。今では考えられないことが平気で
         行われていた。方向指示器は腕木式といい、何と説明したら良いか
         分からない・・・。とにかく念願が叶いドライバーとなり運転が
         楽しかった!!写真は gsdf-photo に掲載。
         普通科中隊のドライバーはある意味特別待遇で、皆がつまらない訓練をして
         いる時でも、車両係り陸曹に申し出て、整備や故障を名目に訓練をサボる
         ことが出来た。
         配車があると勇んでディスパッチ(運行指令書)を手に東富士演習場や
         相馬が原演習場・千葉県館山・柏の射撃場などいろいろな所を走り回った。

■陸曹教育隊   S41年07月 御殿場市板妻の第三陸曹教育隊に入隊。班長としての教育を半年間
         受ける。北海道から九州まで各師団の陸曹候補生たちが集まり、
         「軽火器区隊」「無反動砲区隊」「迫撃砲区隊」の三区隊に分かれて訓練や
         授業を受けた。
         鬼の三曹教と言われ全国にその名を馳せていた。三歩以上は駆け足と言われ、
         毎日走ることが仕事だった。
         特に「軽火器区隊」の助教「マムシ」の助教は身体は小さいが、人相は黒顔で
         凄くて、候補生たちから「マムシ」と呼ばれ(本人の前では言えない)
         とにかく、恐れられた。起床して点呼後、候補生のリーダーの指揮の下
         駆け足で営門に向かっての上り坂、営門の中央でどっかと両足を開き、腕を
         組んで我々を見下ろしている姿を見ると、ガックリきたものです。
         そして、我々と一緒に駆け足をしていたのですから・・。当時「マムシ」は
         候補生の誰からも嫌われたが、手当てもつかないのにあんなに早く出勤し
         我々に付き合ってくれた、他の幹部、陸曹でこんな人はいなかった。
         (仕事に誇りを持った人で卒業後は彼を尊敬している)
         訓練に出かけるときも、「マムシ」は隊歌(自衛隊の歌-いっぱいある)を
         歌わせ、元気が無いと・・・難癖ををつけ?????必ず駆け足に持ち込んだ。
         「オーイ、リーダー元気が無いから駆け足でいくぞーーー」と
         そして「控え銃」「駆け足」を命じた。ライフルを体の正面に両手で持って
         頭は鉄帽、足は半長靴(はんちょうか)雑のう(物入れ)を背負っての駆け足は
         きつい・・・。訓練場まで30分や40分走るのは当たり前で、訓練場に着く
         頃には汗でびっしょりで訓練する前から疲れていた。
         とにかく、三曹教は忙しいところで、朝から晩まで時間が無くて
         トイレも競争で、私は夜自習時間にトイレに行く習慣をつけた。
         洗濯物もパンツ以外は靴下もPX(売店)のクリーニング屋に出す
         始末だった。
         8月 三曹教の行事として「富士登山」がありました。カーゴで須走り口まで
         行き、夜の8時頃から歩き始める、暗がりの中を懐中電灯を頼りに歩き続け
         明け方の4時頃頂上に着いた。8月というのに頂上は凄い寒さでびっくり
         皆、セーター等防寒着を持って行ったので一安心。帰りは御殿場口へ
         下りました。宝永山を右に見ながら「砂走り」を一気に駆け下りました。
         三曹教生活最後の圧巻は黒岳(くろたけ)持久走で5-10人ほどのグループ競技で
         団体の成績が評価された。ほぼ完全武装で約30kmを走るものだった。
         過去に何人かの死者を出していたので途中休憩のための競技を入れていた。
         距離目測や通信線の構成・射撃などがあった。黒岳は愛鷹連山の一角で
         おむすび状の形をした山で登りだけで30分はかかる山でした。
         頂上で1時間の昼食休憩があり到着した順に休んでは出発する競技でした。
         三曹教は自由の無い世界でしたが完全な男の社会であり軟弱な私を徹底的に
         鍛えてくれた社会でした。
         S41年12月 原隊復帰が急遽変更、体力検定は2級となり以後除隊まで2級を
         通す。


■助  教    S41年12月 原隊復帰予定が今度は教えるほうで三曹教に残ることとなった。
         S41年12月24日よりS42年01月03日までの10日間は遊蕩三昧の日を送ることと
         なった。01月03日 東武練馬駅より一人で三曹教に向かい助教としての
         生活が01月04日より始まった。新任の助教とはいえ班長であり全国から
         集まった内の10人が私の部下となった。当然私より年長者がいたが、
         班長としての当然の職務を遂行した。3月末に行われた、班対抗の
         銃剣道大会では、新任班長の第八営内班が優勝し、賞状は私が記念として
         班員からプレゼントされ、また、教育終了時の餞別会で当時流行っていた
         ガスライターに刻印をして記念品としていただきました。ちょっぴり
         学校の先生になったような気分を味わいました。S42年04月 原隊復帰。


■行  軍    当時の自衛隊では年に一度ほど、行軍の演習がありました。
         S42年頃行われた、行軍は今でも記憶に残っています。東京を昼頃の電車で
         出発し、東海道線東田子の浦の駅に着いたのが午後の4時頃、それから
         東富士演習場を目指し一路行軍が開始されたのです。1時間に約4kmの速さ
         ということになっていますが武装しているのと上り坂のためにでもっと
         遅いと思います。1時間に一回休憩をとりますが、ほとんどの者が疲労
         激しく口数も少なくなってきます。0時を過ぎる頃には10分の休憩でも
         道路際に寝込んでしまう状態です。黙々と歩き夜明けの頃、演習場到着となり
         それから敵の陣地に攻撃を掛けるのです。体力の極限状態です。攻撃の
         途中で何も言わずに倒れてしまう隊員もいました。気力はあっても体力が
         続かないと駄目だということがわかりました。
         倒れた彼は、帰隊後大いに賞賛されましたが・・・。中には、行軍の途中から
         疲労・足痛を理由にカーゴ(トラック)に乗りこんでしまう隊員もいます。
         暗い闇の状況でも誰かがそれを見ています。
         普段、立派なことを言っていてもそんな男は影で皆から軽蔑されていました。
         男の世界ですね。

■銃 剣 道   普通科中隊の代表的な格闘技。面、胴、胸当て、籠手をつけて木銃で
         突き合う格闘技です。起床の点呼後に30分もやると汗でぐっしょりなる
         ほど過激なスポーツでした。私は射撃ばかりやっていたので初段をとった
         のが遅く、最終的には三段をとりました。


■新隊員教育   S43年03月 朝霞駐屯地の第三十一普通科連隊に新隊員教育の助教として
         臨時勤務。3ケ月間新隊員たちと楽しい日々を過ごす。
         ある新隊員のH君は、射撃が不得手で何度、撃っても標的(2mΧ2mくらい)に
         当たらないのです。200mの距離ですから、絶対当たる筈なのに・・・。
         私が直接、指導することになり彼の後方に座り、じつと射撃を見守りました。
         信じられないと思われますが、ライフルの真後ろからじっと見ていると
         ライフル弾が作っていく空気の渦が見えるのです。
         H君はなんと、手前の100mの射座(100mで射撃をする所)を撃っていたのです。
         H君は何度やっても的には当たりませんでした。
         教育の終わり頃、30kmの行軍がありました。
         相棒のH三曹と雨の中、最後尾を歩く写真は私の大のお気に入り。
         gsdf-photo に掲載。
         その頃教えた新隊員だったN君とN君は北海道に赴任して、最近自衛隊を
         定年退官した。現在でもこの二人からは毎年年賀状が届く。

■徒手格闘    S43年頃より、徒手格闘が導入された。日本拳法に類似したもので、面、胴
         サポーター、グローブをつけて戦う、殴る、蹴る、投げる、何でもありの
         格闘技でこれに打ち込んだ。仕事から帰隊した後も胴着に着替えて参加した。
         さんざん殴られて頭痛がひどく眠れない夜もありました。しかし訓練をして
         目が肥えてくるとカウンターパンチがとれるようになり、益々面白く
         熱中した。

■射  撃    第二中隊配属時より射撃の成績が良くて、連隊の射撃の合宿にも参加し、
         何時でも中隊対抗の射撃大会では選手として出場しました。S44年10月
         青森県上北郡六ケ所村にある射撃場で行われた対空射撃訓練にも参加しました。
         半月間滞在し、キャリバー50の重機関銃で連絡機が約600m後方を曳航する
         曳航的に向けて撃ち続けました。PX(売店)の女性を口説く競争にも参加、
         その子が翌年東京に尋ねて来た時はびっくりしました。 
         S41年頃 64式小銃が配備され慣れ親しんだM1ライフルが姿を消しました。
         最終射撃の腕前は準特級でした。


■失  敗    私は自衛隊在隊間、何時でも演習時等は第一線でやってまいりましたが、唯一
         S43年頃 相馬が原で行われた演習で炊事の班長を命じられたことが
         ありました。最新導入されたけん引(トレーラー)式の炊飯器を使用して
         調理をするのです。部下5人ほどを率いて、演習場に乗り込み最初は上手く
         いっていましたが、ある日ゆで卵のメニューがあり容器の中に130ケほどの
         卵を入れてバーナーの火をつけました。火力の調節を誤ったため・・・。
         急な熱湯で容器の中の卵は全部大爆発を起こして、殻も中身も一緒くたに
         なってしまい他の中隊はゆで卵を食べているのにうちは無いとさんざん
         でした。これも楽しい思い出です。





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陸上自衛隊での略歴&経験&生活-その二
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