陸上自衛隊での略歴&経験&生活-その一
■入 隊 S37年08月 18歳で群馬県北群馬郡榛東村の相馬が原駐屯地に入隊。
生まれて初めてホームシックを味わいました。
ここでは簡単な教練や戦車の体験搭乗などをして過ごす。食事の量の
多さにいつも食べきれずに残していた。
■前期教育 S37年08月 相馬が原から初めての大型トラック(自衛隊呼称・カーゴ)に
乗せられ、上越線、八木原駅から電車で神奈川県横須賀市にある
武山駐屯地第一教育団に入隊しました。途中の東京駅で同僚の姉さんが
見送りに来ていました・・・その姉さんの綺麗な人だったこと今でも
はっきり憶えています。
入隊後、宣誓をさせられ宣誓書に署名したように覚えています。直ちに
認識番号 G583359 を付与されるが・・(不思議と今でも憶えている)
写真入の身分証明書の扱いは、特にうるさくビニールケースに入れて
それに紐を結び胸ポケットのボタンに結ぶよう指導されました。
また、各装備品や、衣服類などに名札や階級章、部隊章を付ける為に
針仕事があり、不器用な人は階級章や部隊章が曲がってついてしまい
何度も、やり直しをさせられていました。
武器授与式で初めてM1ライフルを手にする。感想は 重い!!
初めての射撃訓練ではあまりの音の大きさと衝撃で度肝を抜かれた!!
武山での3ケ月間は自衛官としての、基本的な共通の知識を学びました。
隊舎は木造の古い二階建てで、駐屯地が海に面しているのでベッドの
すぐ近くの窓から海が見えて、気持ちの良い海風をたっぷりと、
吸う事が出来ました。
海なし県育ちの、私にとって最高の環境で、土曜の午後や日曜日には
海ばかり見に行っていました。当時、相馬が原は汲み取りトイレでしたが
武山は洋式の水洗トイレでした。
教育中に何度か適性検査が行われて、後期教育の職種が決定します。
同期隊員の中から、教育の終了直前、自分の希望職種に行けない事を
悲観して自殺した隊員がいました。遺体は片付けられた娯楽室に安置
されて、ライフルを「立て銃」した先輩隊員が一晩中交代で警護に
ついていました。
遺体を引き取りに来た家族を、隊員が道路の両端に並び、見送りました。
悲しい思い出です。
最初の体力検定では50kgの土のうが持ち上げられずに判定は級外となる。
■後期教育 S37年11月 夕暮れの中、東京都練馬区の練馬駐屯地、第一普通科連隊に
到着。移駐に際して全員を代表して申告をしました。
後期教育隊に入隊。普通科隊員(昔の歩兵)としての教育を受けることと
なりました。班員は10名で区隊長、班長の他、班付き、と呼ばれる
陸士長(旧軍では上等兵)がおり、この酒飲み陸士長は夜遅く帰っては
我々を起こす癖がありました。
しかし、陸士長の口から匂って来る酒の何とも甘美な匂いに、この酒の
種類を聞いたところ、これは「ジン」だと教えてくれました。
解禁されたら絶対に「ジン」だと思い・・・後日「ジン」をたっぷり
飲みました。
また、同僚隊員のN二士は「あご」が外れる癖があり、3ケ月の教育期間中
何度か「あご」外し、ひどい時は医務室に運ばれました。
私にとって「あご」の外れるのを見たのと「てんかん」の人を見たのは
初めての経験でした。
この年の冬に新潟県で豪雪があり一般の隊員は災害派遣に出動しました。
体力検定は6級となる。
■配 属 S38年02月 練馬駐屯地の第一普通科連隊第二中隊に配属される。04月
定時制都立北野高校2年に編入して通学。しかし当時射撃の成績が
たまたま良くて合宿に入ったため出席日数が足りず、都立を断念し
私立豊南高校(豊島区高松町)に再編入。同校に3年通い卒業。
■不寝番勤務 自衛隊には中隊を警備するために不寝番(ふしんばん)という勤務が
あります。字の如く寝ずの番をするのです。午後10時から朝6時までを
8等分し10時から11時までを1直、11時から12時までを2直という具合です。
当然2直は1時間寝たらすぐに起こされるイヤな時間帯です。2直とか7直は
新任者が命じられ1直とか8直は先任者(古参)がやれるような勤務割が
なされるのです。中には寝込んでしまい、当直が巡察に廻り不寝番を
発見できず大騒ぎになったことがありました。
■体力検定 当時の体力検定は年に2回ほど行われました。体力を使うので敬遠され
参加者は中隊の半分くらいだったかなー。1級から6級、級外まであり
種目の得点で級が決まるのです。種目は
1.ソフトボール投げ
2.100m走
3.走り幅飛び
4.懸垂
5.50kg土のう担ぎ50m走
6.1.500m走
これでタイムや距離、回数を競い、得点を評価表と照らし合わせ
自分の級が決まるのです。私は前期教育で級外、後期教育で6級
陸士時代は3級がほとんどでしたが陸曹候補生から4級・3級・2級
となり除隊まで2級を通しました。中隊でも1・2級はわずかで
ほとんどの人が3級以下でした。
■作 業 員 聞きなれた言葉ですが、自衛隊の場合、朝礼のときに訓練幹部、または
先任陸曹等から、作業員を命ぜられます。
大体が動作等が鈍い隊員が選ばれるのですが、公平を期す意味で
少しは作業員勤務をしなくてはなりません。大きい作業になると班長
クラスの陸曹も作業員の長として出る破目になります。
私は、一等陸士の頃、ボイラー室の洗缶作業を命ぜられたことが
ありました。
中隊一人くらいで、6人が交代での作業でした。支給された、上下つなぎの
作業服で、ボイラーの貯湯タンクの中に入り、マスクをして缶内部に
付着した白い???物質を落とす清掃作業をしたことがありました。
缶の上部には付着物は少なく下部のほうに沢山、着いています。
1日作業をすると体全体が真っ白になったようでした。
その他にも、作業の種類としては連隊の補給物品の整理、連隊内の
道路の補修、武器の整備、草むしり等多岐にわたりました。
■警衛隊勤務 各駐屯地には駐屯地を警備するために警衛隊勤務があります。当時の
練馬駐屯地の場合は午後3時に前任の部隊と交代し新警衛隊が上番します。
午後3時から午後3時までの完全24時間勤務です。
勤務は1直、2直、3直の3人が2時間交代で勤務します。すなわち1直が
3時から5時まで2直は5時から7時までという具合、2時間勤務して下番
すると休憩ですが昼間は車両の出入りや面会者の応対があるため
全然休めません。3人が2時間交代ですから上番、休憩、控え、を
繰り返すのです。これは疲れます。練馬の表門に指名されると大変
練馬は第一師団司令部があり、師団長や駐屯地司令が出入りします。
その度にラッパ手がラッパを吹いて、我々は整列して「捧げ銃」を
繰り返すのです。勤務中に寝られるのは2時間ほど翌日午後3時に下番
する頃には睡魔と疲れでがっくりです。ある年の大晦日、練馬駐屯地の
弾薬庫の歩哨に2直で上番しました。2直は5時から7時までと11時から
1時までが上番です。弾薬庫の堤防の上で新年を迎えました。皆は
暖かい部屋で紅白を見ているというのに私は北風の吹く弾薬庫の上で
除夜の鐘を聞きました。今まで気付かなかったことですが駐屯地の
周囲からあんなに多くの鐘が聞こえてくるとは驚きでした。
■KP勤務 KPが何の略語か?多分キッチン〇〇とか言うのでしょう。陸士の階級では
中隊上司の命でKP勤務があります。午前5時頃不寝番に起こされて
食堂に行き業務隊の古参上等兵(陸士長)の指揮下に入り、まず食堂の
清掃をし皆を迎える準備をします。食事配り等は炊事係りがやり
KPは食器洗いをさせられるのです。これを朝、昼、晩の3回です。
我々は第一線の戦闘員という意識が強いので後方支援の業務隊の
古参のデブ(訓練はせずにやることが無く食べてばかりいるので皆デブ)
陸士長に命令されることが最大の屈辱でした。幸い私は射撃等の合宿
もありKP勤務は同僚に比べ大変少なく8年余りの在隊間で4日間
くらいですみました。
■免 許 当時は自衛隊に入れば自動車の免許が貰えるという風潮がありましたが、
確かに職種によりそういうこともありましたが我が普通科中隊では隊員の
数に比べて車両が少なく(中隊に大型カーゴ2台とジープ4台)ドライバーも
必要が無く。したがって競争率も激しく・・・。自衛隊で免許が取れずに
民間の教習所で普通免許を取る人が多くいました。
幸い私はS39年04月に第一師団自動車教習所に入校し大型自動車免許を
取得した。当時の「いすず」のカーゴはクラッチ操作がシングルクラッチ
ではなくダブルクラツチで下手なドライバーの車に乗るとギアが鳴いて
ばかりでドライバーの技量がすぐに分かるほどでした。
後にけん引免許が新設されて私はすぐに1トントレーラーではない
弾薬運搬用のトレーラーでけん引免許も取得しました。
■オートバイ 免許を取得し、2年満期の退職金があったので、オートバイが欲しくて
たまらなかった。四中隊のW三曹が乗っていた「ホンダドリーム250」が
売りに出されると言うので、先輩の隊員に間に入ってもらい、交渉成立
\40.000円で購入しました。マフラーを取替え、2気筒の音色を楽しみ
学校仲間だった、通信大隊のS君とは、よくツーリングを楽しみました。
夜間通学をするのにも大変便利で、電車通学は、徒歩で「東武練馬駅」
まで行き「大山」まで電車、それからまた徒歩で学校までは、通算で
約45分くらいかかるのが、オートバイだと15分くらいで時間の節約・・
食事と入浴の時間がゆったりで本当に助かった。
同じ中隊のI君もオートバイが好きで、私が洗車などしていると、いつも
覗きこんで見ていた。
高校を卒業し、第三陸曹教育隊への入校が決定したので、名義の変更を
条件にI君にオートバイをあげた。
I君は大喜びだった。
■災害派遣 S39年08月 東京が水不足に陥り、給水の災害派遣に出動する。最初の夜は
靖国神社の境内で蚊に刺されながら仮眠する。今考えると何故あんな所に
寝たのかなーと思う。宿泊していた月島の小学校で夜、余りの暑さに
同僚数人とプールに飛び込んだのはいいが次の日に見たらボウフラが一杯
だった。
アタリマエダヨネ!!水不足なんだから・・・。
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