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「小耳にはさんだいい話」へ


91号〜100号



91号 ありがとうの言葉
 先日、大間々の浅原体験村で『あいさつに笑顔をそえてありがとう』と題する講演会が開かれました。
講師は笑顔セラピストで、五年来の親しい友人でもある中牟田真甫さんでした。
 素敵な笑顔でお話をする中牟田さんは「心の中に優しさや温かさや生き生きとした気持ちがないと美しい笑顔はできません。心と形(笑顔)はベルトコンベアのように繋がっていますから、形を整えると心も整ってきます」と割箸を口にくわえて口角を上げる笑顔練習法を教えてくれました。
「私たちは自分ひとりで生きているのではありません。感謝の気持ちを込めて相手の存在を認めるという行為が挨拶です。挨拶という字にはどちらも手偏が付きますね。これは手を揃えるということです。手を揃えると心も揃います。心が揃うと呼吸も整ってきて、健康にもよく、人間関係もうまく行くようになります」と教えてくれました。
そして、「ありがとう」という言葉の響きや意味を一文字、一文字、詳しく説明してくれました。ありがとうという言葉にはとても大きなエネルギーがあり、心を安らかにして人間関係を円滑にする力があることを改めて知りました。
 何十年も「ありがとうございます」だけを唱え続けている「ありがとうおじさん」という人が、ある本に「ありがとうございますを一日に一万回唱えるのは二〜三時間でできるのです。一所懸命唱えていると自然に感謝の気持ちがわいてきます」と書いていました。
 講演会から数日後、中牟田さんから関係者一人一人に丁寧なお礼状が届きました。「挨拶に笑顔をそえてありがとう」を実践し続け、バッグや財布の内側にも「ありがとうございます」というシールを貼っている中牟田さんの素敵な笑顔が思い出されました。
92号  こころのたべもの
 先日、大間々図書館開館一周年記念で星野富弘さんの講演会が開かれました。
 東村生まれの富弘さんは小学校一年の遠足で初めて足尾線に乗り、大間々の要害山に登ったそうです。「生まれて初めて見た都会が大間々町であり、姉の嫁ぎ先でもあったので子供の頃は大間々へ行くのが何よりの楽しみでした」と最初に挨拶をされました。
「こころのたべもの」と題した著者を囲む会の講演の内容は感動の連続でした。
 富弘さんは中学校の教師になってすぐにクラブ活動の指導中、頚椎を損傷して首から下が全く動かなくなってしまいました。人工呼吸器をつけて眠れぬ夜が続いた時に心の支えになったのが、お父さんが日頃吟じていた「遠く寒山に上れば石径斜めなり」「国破れて山河あり」などの漢詩の言葉や八木重吉の短い詩だったそうです。「わずかに覚えていた詩にどんなに助けられたかわかりません」と。
 入院当初、同じ病室に中学生の少年が入院していました。彼は手術で足を切断しなければならず東京の病院へ転院して行きました。同室の人たちがその子のために白い帽子に寄せ書きをして励ましてやろうということになったそうです。全く体の動かない富弘さんもその子のために帽子に小さな点を一つでも良いから書いて励ましてやりたいと思いました。ペンを口にくわえてお母さんに帽子を動かしてもらい「おとみ」と書いたそうです。富弘さんの優しさと帽子を受け取った少年の姿を想像して涙が溢れました。
「詩画を描く時、絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けているもの同士が一枚の紙におさまった時、調和のとれた作品になります。これは私達の家庭や社会も同じような気がします」という最後のお話にとても深い意味を感じ、大切なことを教えられた気がしました。

93号 雪山に消えたあいつ
  シャンソン歌手の石坂頻伽(びんが)さんが三枚目のCDをリリースしました。「山の歌・美しき恋人たちのメロディー」と題するCDには「山田昇十五年祭によせて」というサブタイトルがついています。
 頻伽さんは沼田高校時代は山岳部に所属しておりインターハイで二回の優勝経験もある山男でした。そして二年先輩には世界的な登山家の山田昇さんがいました。山田さんは世界に十四ある八千メートル級の山のうち九つの山を制覇した日本を代表する山男。平成元年に北米マッキンリーの登頂に成功、「オーロラが見えます。星がきれいです」という無線を最後に二人の仲間と共に帰らぬ人になりました。三十八歳でした。
頻伽さんは山田さんのことをこう話してくれました。「笑顔の優しい春風のような先輩でした。沼高時代、合宿で新潟の八海山へ登った時、水筒の水がなくなり喉がからからになったことがありました。当時、一年生だった私に山田さんは「おい、石坂。おれは喉が渇いてねえからオメエ飲め」と最後の数滴の水をくれました。山田さんも喉が渇いていない訳がなかったんです。でも…山田さんはそういう先輩でした」
 先日の四月二十日、山田昇さんの十五年祭が実家のある沼田で開かれました。頻伽さんは長年心に温めていた山の歌のCDをその日に合わせて苦心の末に完成させました。
「雪山に消えたあいつ」という曲の中にこんな一節があります。「夢にやぶれて帰らぬあいつ 雪に埋もれて眠ったあいつ 山の木霊よ返しておくれ おれにもう一度優しい笑顔 なんで吹雪にあいつは消えた」頻伽さんの澄んだ歌を聴きながら、永遠に輝く星になった山田さんの優しい笑顔を想像しました。
 五月二十日、午後六時半から桐生市文化センターで毎年恒例の「いしざかびんがコンサート」が開かれます。ますます円熟味を増した頻伽さんの澄んだ歌声が楽しみです。

94号 先生、ありがとう
先日発売された金平敬之助著『ひと言のちがい』(PHP文庫)に友人のО先生の話が載っていました。とても感動しました。

『生徒がいた。中学三年生だ。A君という。小学校時代から不登校を続けている。この四月、担任の先生が交替した。О先生だ。もちろんО先生はA君の顔を見たこともない。でも、他の生徒と同様に接することにした。毎日、「学級ノート」を自宅に届けた。届けるのは、クラス全員が協力してくれた。朝の回収は近所に住む生徒に頼んだ。もちろんA君は玄関にも出てこない。母親を通じての受け渡しだ。ノートには返事を書く欄があった。強制はしていない。「よかったら書いて下さい」というものだ。A君の分はいつも白紙だった。なにしろ会ったこともない生徒だ。「何を書いたらよいか?」О先生は毎日添え書きに苦労した。たまたまサッカーのW杯開催中だった。一行書いた。「応援している国は?」。返事がきた。「フランス」。たったひと言でも、О先生は感激した。すぐ行動を起こした。インターネットを駆使した。フランスチームの情報をメチャメチャ集めた。それをノートにペタペタ貼り付けた。その後、A君は相変わらずだった。「ムダか」という思いもあった。迷ったが、先生はノートを送り続けた。やがて夏休みに入る。一学期最後の朝だった。回収されたA君のノートを開いた。とたん先生は涙が溢れて止まらなかった。なんと返事が書いてあるではないか。先生はノートを握りしめて心の中で叫んだ。「この仕事をしていてよかった」。この時の返事も、やはりひと言だった。
「先生、ありがとう」…。
 
 先日、まごころ塾という勉強会でО先生と会いました。A君は二学期から登校するようになり、今年三月に見事、志望校に合格。今は元気で高校へ通っているそうです。


95号 地域の茶の間
 先日来、何人かの友人から同じ本を薦められました。『変革は弱いところ、小さいところ、遠いところから』(清水義晴著・太郎次郎社)という題名の本でした。「ただの人が社会を変えていく」というサブタイトル通り、弱者や小さなグループや都会から遠く離れたところから社会が少しづつ変わり始めているという事例を紹介した本です。
この中に興味深い町おこしの話が出ていました。
新潟県に〈地域の茶の間〉という施設があるそうです。そこは将棋や囲碁で遊ぶ人、縫い物をする人、本を読む人など誰でも気兼ねなくくつろげる場になっています。来るといつも、にぎやかな中で寝ている人がいたそうです。聞いてみると「夜、ひとりで布団に入っていると、不安でさみしくなります。ちょっとした物音でも目が覚めてしまい、朝まで眠れません。私にとって、ここでこうして人の声を聞きながら眠るのは最高のぜいたくなんですよ」と答えたそうです。お年寄りの方たちは、人の温もりや自分の居場所を求めてやってきます。〈地域の茶の間〉にはスタッフも利用者も守らなければならない約束事がひとつあります。それは初めて来た人に「あの人だれ?というような目で見ない」ということです。温かくて優しいまなざしが目に見えるようなとても素敵な約束事だと思いました。ここには小学生も集まり、世代を越えたたくさんの人の交流の場になっているそうです。
 足利屋の隣、旧湯本歯科医院の跡地が故・湯本雄三さんのご好意で町に寄付されました。「地域や障害のある人達のために役立てて」という意向に沿って高齢者や障害者や地域の人たちが楽しく交流でき、商店街の賑わいにも役立つ〈大間々版・地域の茶の間〉が実現しようとしてます。母の胎内にいるような安らぎを感じさせる〈ままの茶の間〉?が一日も早く実現することを願っています。

96号 期待の星
七月にチュニジアで開かれたINASーFID世界陸上競技選手権大会で勢多郡宮城村の若葉養護学校・酒井かづみさんが走り高跳びで見事、銅メダルを獲得。日本人として唯一人のメダリストに輝きました。
 今回の大会には四十カ国から四百名が参加し、知的障害者の世界大会としては最大規模でありながら渡航費用は自己負担という選手にとっては厳しい条件でした。かづみさんは渡航費用を工面するためにアルバイトをしながら練習を続けました。そして、かづみさんの親代わりでもある若葉養護学校の大出文子理事長、大出浩司校長も渡航費用捻出に努力していることを知り、郷土を美しくする会では資金カンパと応援メッセージを募集しました。
親子で一緒に来て大事なお小遣いをカンパしてくれた方、ダルマ弁当の入れ物や小物入れ一杯に貯めた小銭をそっくり届けてくれた方など多くの方の善意により、短期間で五十通を超す応援メッセージと総額十七万七千八百十四円の資金が集まりました。なかには新聞を読んで感動し、心にしみるお便りと現金を学校へ送ってくれた方もいました。『…先生方の生徒を思う心、そして指導、また本人の努力、すばらしい教育の姿を感じさせられました。迷うことなく年金の一部を送金いたします…』自分のためでなく誰かのために迷うことなくお金を使うという善意に目頭が熱くなりました。
 たくさんの人達の善意と励ましに支えられ、かづみさんの頑張りで獲得した銅メダル。そのお陰で私達も大きな感動と喜びを頂きました。「酒井のかづみ」は「世界のかづみ」に飛躍し、私達の期待の星として今後も輝き続けます。


97号 愛と癒しの光の輪
  先日、勢多郡富士見村の友人・狩野愛子さんからお便りを頂きました。
『…世界的な異常気象、テレビに映し出される悲しい事件、アメリカ・イラク戦争。私達は世界が平和であることの大切さ、生命の大切さ、家族の大切さ、そして生かされていることへの感謝の心をいつの間にか忘れてきています。…』
 その手紙を読んでいるうちに『日本のこころの教育』(境野勝悟著・致知出版社)に書かれていた話を思い出しました。
『…人間は何の力で生きているのか。最近、心臓をカチカチと動かしているのは電池であることがわかってきたのです。しかも、その電池は、太陽電池であるということなのです…』。
 太陽がなくなれば地球全体がその瞬間に真暗闇になり、生きているものは全て死んでしまいます。驚くべきことに、二千年も前から日本人はこのことに気付いていて、太陽のことを「お蔭様」とも呼んでいました。そして、私達の命の元は太陽だ、ということから「日の本」という言葉も生まれました。
 太陽と共に命の元として大切なのが大自然と父母(先祖)。日本人は人間と自然とを一緒のものと思って、自然をなるべく破壊しないで美しく守り、崇拝してきました。お母さん、お父さんという言葉にも深い意味が込められています。母親のことを昔は「お日身(カミ)さん」と言いました。日身とは太陽の身という意味。そして、父親は尊い人という意味で「トトさま」それがお父さんになったのだそうです。
 狩野さんのお便りに『今、地球が傷つき、苦しんでいます。本来の光輝く地球に戻れますよう、母なる地球をイメージして愛の想いと愛の光をお送りしましょう。午前六時・七時。午後九時・十時。一緒に地球に向かって祈りましょう』と書かれていました。『念ずれば花開く』、いま、一人一人の想いと行動によって地球の未来が決まります。


98号 優と憂
  シアトルに住むメール友達の若林茂さんから先日、船越準蔵著「教師になった可奈子への手紙」(公人の友社・千二百円)という本をお借りしました。船越準蔵先生は四十年の教師生活を振り返り、その失敗談や経験談を、教師になったばかりの親戚の子・可奈子への手紙という形で綴っています。その中の「憂子」という話に感動しました。
『…若いころ、私は熱心な教師だった。黒板を叩きながら「優と憂を間違える馬鹿があるか。優は、やさしい、すぐれている、憂は、うれい、しんぱい、秋田弁では〈憂(う)だでぇ〉と言う。優と憂はたったにんべん一つで、まるで反対の意味にもなるんだ。憂という字は…」なおも言いかけて、私はあることに気づいて、ハッと息を呑んだ。その級に憂子という子がいたのだった。…授業の中で子供の心を踏みにじって怒鳴り散らした私は、思慮が浅いだけでなく無学であった。少し丁寧に辞書を引けばわかるように、憂は古義をとれば「しとやか」であり、転じた新しい義をとれば「思いやり」である。「憂子」はいい名なのである。その父親は自分の事業よりも業界全体のことに貢献し、その母親は子供の枕元で「誰にでも、できるだけの親切をするのよ」と囁くことを常としていた。人の心を知らざる教師はかくの如しである。たとえこの授業で、優と憂とを書き違える生徒が一人か二人減ったとしても、こんな授業は教育でも何でもない…』
 この授業から二十年後、卒業後の消息がわからなかった「憂子」の父親の名前を新聞の死亡欄に見つけた著者は一晩かけて憂子に手紙を書き、葬儀の受付係にそっと託して会葬しました。長い葬儀が終って帰りかけたとき、父親を失った悲しみに濡れたままの憂子が「―先生。私、何にも覚えていないの。でも、お手紙いただいて、すごくうれしい」と叫ぶように言ったそうです。

99号 お弁当に添えた絵手紙 
 足利屋ではお客様がお買物の合間にゆっくりと休めるように、また、お買物はなくても気軽に立寄っておしゃべりができるようにと店内の三ヶ所にテーブルと椅子を用意してお茶やコーヒーをサービスさせていただいています。お客様にも喜んでいただけますが、そこでお客様から素敵なお話を聞かせて頂けるのが私達の楽しみでもあります。
 先日、前橋からお買物に来られた一柳(ひとつやなぎ)和子さんからとても素敵なお話を伺いました。
 一柳さんは絵手紙教室の先生。前橋では百六十人もの方に絵手紙を指導しています。二年前からは大間々でも毎月第二金曜日に教室を開いて教えています。
一柳さんは以前、大病を患い、それ以来、どんな小さな事にも感謝し、生きている喜びを感じるようになったそうです。ボランティアで老人の施設に絵手紙を教えに行ったり地域のお年寄りへの配食サービスのボランティアにも参加されています。お弁当を配る際に一柳さんは心をこめて描いた絵手紙を添えているそうです。隣町に住むお年寄りのAさんはお弁当に添えられた絵手紙に感激し、わざわざ歩いて一柳さんの家を訪ねてきたそうです。たまたまお留守だったのですが近所の人の話では、Aさんは一柳さんの帰りを夕方までじっと待っていたそうです。夜になってAさんの息子さんから電話がありました。『お弁当に添えられた絵手紙に母はとても感激して、どうしてもお礼が言いたいと出掛けて行きました。お会いできなかったようですが私からもお礼を言わせていただきます。…』一柳さんはその話に感動すると共に寒い中でずっと待っていてくれたAさんの身体を気遣い、風邪をひきませんように、と祈ったそうです。
「絵手紙はたった五十円でお互いの心を温め合える素敵な趣味ですよ」とコーヒーを飲みながら語る一柳さんのお話にホッと心が温まりました。


100号 涙の呼名
 神奈川県開成町に住む中野敏治先生は中学校の数学の先生。生徒達と真正面から向き合い、心の教育に情熱を燃やす中野先生の手記を読んで感動しました。
 『卒業式の朝も彼女は来ていなかった。二年生で私のクラスに転入してきた彼女。前の学校でいじめにより不登校になり始めていた。転入しても登校回数は増えなかった。卒業式当日の朝、彼女のことを思いながら、生徒は廊下に並び、式の入場の準備をした。「卒業生入場」の言葉と共に式場へ入った。私の胸には彼女用の胸花を付けていた。式が始まった。学校長の話、来賓の挨拶、そしてとうとう卒業証書授与。彼女は来なかった。式歌が始まった。その時だった。体育館に彼女の姿が。クラスの生徒も彼女の姿に気づいた。クラス全員が揃っての式になったことの嬉しさに感激し、みんなの歌声が涙声に聞こえた。修学旅行にも欠席した彼女に、クラス全員で京都から手紙を書いたこと、彼女の誕生日には彼女がいなくても彼女のために歌を歌ったこと、自分の入試前日も彼女の家を訪ねていた生徒たち。私の頭の中でたくさんのことが思い出された。私は自分の胸から花をはずし、彼女の胸につけた。式場の時間が止まったようだった。私ももう涙で声にならなかった。彼女は「先生、ありがとう」言った。学校長が「卒業証書を授与するから」と言ってくれた。司会が「ここで、もう一度卒業証書授与を行います」と伝えた。「平成十四年度卒業生○○○○」という私の声は、自分でも涙声で声になったかどうかわからなかった。クラスみんなが泣いた。来賓も保護者も職員も泣いた。クラスの生徒が送ってくれた私への色紙に彼女は「先生のクラスで幸せだった」と書いてあった。
 二年間、家庭訪問を繰り返し、手紙を書き続けた中野先生。一度も玄関に顔を出さず、返信もなかったそうですが中野先生と友達の思いは彼女にしっかり通じていたのですね。