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「小耳にはさんだいい話」へ


81号〜90号



81号 ふりむけば母の愛が
 四十四歳の時に不慮の事故で両手を切断してしまった熊本県の大野勝彦さん。大野さんは入院中に奥さんから貰った「小さな言葉」に深く感動したそうです。
『リハビリを終えて病室に帰ると枕許に一輪のバラが飾ってありました。小さな字で「今後、手が必要な時には私の両手を遠慮なくお使いください」と書いてありました。その日は私が人のやさしさに初めて泣いた記念日となりました。』…
 また「母への思い」をこんなふうに綴っています。
『私は右手が肘の先七センチ、左手十二センチなのである。この手で長袖のシャツを着て義手をつけるのである。当然のように両手とも長すぎて、先を切らねばならない。ハサミで切って捨てるのだが、いつもこれは七十五歳になる母の仕事であった。先日、外出から帰り、母の部屋へ行った。ちょうど袋から取り出した私のシャツを母が切ろうとしている。「まっすぐ切れよ」口に出そうと母を見た私は、一瞬ギョッとなった。母の握ったハサミが涙で濡れているではないか。私に気づき、左手の甲で涙をふきながら、笑った母の顔がさびしくみえた。私はかける言葉もなく部屋を出たが、ほほを伝う熱い涙がとまらなかった。
 子供のシャツを切らねばならぬ母の辛さを気づかなかった自分がとてつもなく親不孝者だと思った。』
82号 そのときの出逢いが
 「一生感動一生青春」「幸せはいつも自分の心がきめる」などの言葉で知られる書家・詩人の相田みつをさんの美術館が東京銀座にあります。その美術館では毎月「ミュージアムライブ」という講演会を開催しています。その四十回目の講師は東村・富弘美術館館長の金子光一さんでした。
 竹下内閣の「ふるさと創生一億円事業」がきっかけで開館した東村立富弘美術館は開館後十一年間で四百万人ものお客様が訪れているそうです。その理由として金子さんは、富弘さんの詩画の魅力を第一にあげ、その魅力に共感して活動を続ける「富弘美術館を囲む会」や東村のボランティアグループ「一粒の麦」のことを紹介しました。そして東村の人と自然の美しさも大切な要素ではないかと言われました。「東村に富弘美術館ができたお蔭で全国のお客様から逆に私達が東村の良さを教えてもらった気がします」と金子さん。
 現在、富弘美術館の入館料は三百円。以前、値上げの話が出たときに星野富弘さんは「大きな理由があれば別ですが、現状ではこんな不便な所まで高い電車賃やバス代を使って、作品を観に来てくださることがありがたい。せめて入館料は今のままにしておきたい」とおっしゃったそうです。
金子さんは「私達の仕事は富弘さんの思いをお客様に伝えること。そのためには当たり前のことですが明るい笑顔、心のこもった挨拶、温かい心配りを大切にしています」と。
冨弘美術館の入口にはいつも東村に咲く草花がさりげなく飾られています。美術館のスタッフや一粒の麦の人達の優しい心配りを感じます。
 相田みつを美術館館長の相田一人さんは「うちの美術館と富弘美術館が大切にしている事は全く同じ。このご縁を大切に…」と講演会の後に挨拶されました。
 私達は多くの人達のお蔭でいろいろな出逢いができます。それはもう一人の自分に出逢うということかもしれません。出逢いって本当に素晴らしいですね。


83号 千羽鶴に祈りを込めて
  虹の架橋を道徳の授業で使い、生徒達と一緒に「和也君のアサガオ」を育ててくれている広島市立日浦中学校の河田優子先生から感動的なお話を聞きました。  
 先日行われた日浦中学校三年生の修学旅行のコースの中に大阪にある各国の領事館訪問があったそうです。各グループ毎にフランス、スイス、インド、フィリピンなどの領事館を訪問して国際的な視野を広めることが目的でした。ところが出発三日前に三組四班が訪問する予定だったS国の名誉総領事Nさんから直々にキャンセルの電話が入りました。Nさんの奥様が手術をされ、時間にも気持ちにも余裕がなく、大変申し訳ないのですが…ということでした。それを聞いた生徒たちは「お土産として作った松ぼっくりの置物と奥様への励ましの手紙だけでも届けてほしい」と、Y先生に託しました。運よくその手紙とお土産をNさんご本人に手渡すことができました。Nさんは涙を浮かべて何度もお礼を言われたそうです。その後、Nさんからお礼の手紙が学校へ届きました
『三年三組四班の皆様 私の家内のことでご心配していただき心より感謝しております。家内の手術の後、医師から経過はよくないと言われました。しかし、娘二人と私は決して諦めません。奇跡というものがあると信じています。…』
生徒達は「私達に何か出来ることはないか」と話し合い、みんなで千羽鶴を折って送ろう、ということになりました。修学旅行から帰った次の日、三年生全員で祈りを込めて千羽鶴を折ったそうです。そして、『…この鶴の一羽一羽に私達の思いを込めました…』『…僕達は奇跡を願って毎日をすごします。遠い広島の地から願っています』と、みんなが励ましの手紙を書き、千羽鶴に大きなリボンをつけて速達で送ったそうです。
『私達に何か出来ることはないか』をいつも考えている生徒さん達、先生方、本当に素晴らしいですね。


84号  「峠の釜めし」誕生秘話
 「峠の釜めし」の発案者であり、横川の荻野屋さんの副社長でもあった田中トモミさんとは三年程前からご縁をいただき、ご指導を頂いています。その田中さんから『一期一会』ー本気の経営ー(潟uレーン発行)という本を頂きました。
 学校の先生をされていた田中さんが不思議な巡り合わせでお姉様の嫁ぎ先の荻野屋さんを手伝うようになり「峠の釜めし」が誕生する秘話を読んで、とても感動し、教えられました。
日本で二番目に古い駅弁屋の荻野屋さんも田中さんが入った昭和二十六年頃は一日に二十〜三十個の弁当さえ残ってしまうほどだったそうです。「お客様がどんなお弁当を求めているか、どうしたら喜んでくれるか」を考えながら駅のホームに立ち続けたそうです。団体の添乗員や役員の人に聞くと異口同音に「どこへ行っても似たりよったり。何か変った弁当が欲しい」という答えでした。
『二月の寒い日、駅のホームのゴミを片付けていると隅のところだけ箸がつけられた弁当が捨てられていた。凍っていたのである。以来、列車の着く時刻に合わせて温かいご飯を盛り付けて駅へ持込んだ。百円の弁当を私の手から買い求めてくださった母子が「このお弁当は温かい!」と言って胸に抱いて下さった。動き出した列車から私に向かって二人が手を振ってくれた。私も手を振った。自然にホームを走っていた。走りながら目頭が熱くなった。列車が見えなくなるまで手を振り、感謝を込めて最敬礼をした』
駅頭での出会いは文字通り「一期一会」。この方々にお喜び頂ける弁当を造ろう、造りたい、造らねばならぬという思いが現実になったのが「峠の釜めし」です、と語る田中さん。「置かれた場所で一所懸命やれば必ず道は開ける」が信条の田中さんは横川駅のトイレ掃除もされています。先日頂いた暑中見舞いのハガキには「横川は私達に任せて下さい」と添え書きがされていました。


85号 無財の七施
 「暗いと不平を言うよりも進んで灯りをつけましょう」というキリスト教のメッセージを聞くとシスター・渡辺和子さんの優しい笑顔を思い浮かべる方も多いと思います。先日、その渡辺シスターの講演を聴いてとても感動しました。
 インドの修道女のマザーテレサが来日した時には渡辺和子さんが通訳として同行しました。今から二十年ほど前、初めてマザーが来日し、池袋のサンシャインビルでの講演で「日本は経済的には豊かで人々は綺麗な洋服を着て立派な建物に住んでいますがもしその家の中に笑顔がなかったら、お互いの思いやりやいたわりがなかったら、その生活は豊かとは言えません。むしろ、カルカッタの泥でこねた家に住んでいても夫婦の情愛がきめ細かく、親子の間の助け合いがあり、お互い笑顔で優しく接しているとすればインドの方が豊かであると言えるのではないでしょうか」とお話になったそうです。
「マザーテレサの施設には見るべき医療はなかったけれど真の看護があった、と言われます。看護の「看」という字は手と目と書きます。温かい手をさしのべ、優しい眼差しを忘れてはいけないと思います」と渡辺シスターは言われました。更に、お金はなくても誰にでも出来る「無財の七施」という御仏の教えも説明されました。無財の七施とは
@眼施(げんせ)優しい思いやりの目を向ける
A和顔施(わげんせ)穏やかな明るい笑顔で接する
B言辞施(ごんじせ)優しく温かい言葉をかける
C身施(しんせ)自分の身体を使って人に奉仕をする
D心施(しんせ)行為の中に思いやりの心をこめる
E牀座施(しょうざせ)席を譲る 居場所を作ってあげる
F房舎施(ぼうじゃせ)一宿一飯をいとわず迎え入れる 

 渡辺和子さんから「楽しくお食事をご一緒にさせて頂き嬉しゅうございました」という葉書のご返事を頂きました。握手をした時のシスターの柔らかな手の温もりと優しい眼差しが忘れられません。


86号  そばにいた青い鳥
 熊本の大野勝彦さんの新しい詩画集が出版されました。「そばにいた青い鳥」というタイトルのその本には大野さんが義手で描いた感動的な詩画と十四編の心に響くエッセーが掲載されています。その中の一つのお話をご紹介します。
『…あれは、私がトラクターに手をはさまれ、切断して一週間がたった頃だったろうか、看病をしていた妹が窓の外を見ながらぽつんと言った。「父ちゃんがね、勝彦には言うなって口止めしているけど、ここ数日でね、七キロも痩せたとよ」彼女の横顔に涙が光っていた。(中略)いつも家族と病室にやってきても、父は一番後ろの遠いところで気遣いながらこちらを見ている。心の中でごめんなさいと呼びかけながらもとうとう声に出せなかった。
 初めての外泊は入院から四十数日後で、父の前に座り心配かけて…頭を下げ、あやまろうとすると、父はニコニコしながら「今日は特別にご馳走してあるとばい。おまえもじゃんじゃん食って体力をつけた方がよかぞ」と食卓にすわり箸をとるのだった。
 その父が天に召された。事故の時、現場に駆けつけ、四十五歳の息子の切れた腕をタオルで結んだ父。救急車にはだしで乗り込み、隊員に「もっと急いで走れんとな」と怒った父。別れの朝、癌の病棟三階から手を振ってくれた父。何度も何度もいただいたこの命、思っても思っても心つきない。その頃の私の作に「やさしさへのありがとうは、あなたのことをずっと思い続けることですね」とある。
あなたに恥じないよう、他人に喜んでいただけることをさせてもらいます。今も背中で父が私を見守ってくれている。』
 両手の十三回忌とお父様の三回忌に愛をこめて出版されたこの詩画集、足利屋でもご覧いただけます。


87号  限りなき挑戦
 先日、ながめ余興場で野球解説者・衣笠祥雄さんの「限りなき挑戦」と題する講演会が開かれました。
 衣笠さんは二二一五試合連続出場の世界記録達成と球界二人目の国民栄誉賞受賞者として知られています。そして「野球を通して自分を磨き、人間としても最高のレベルに到達した人」という高い評価を得ています。講演の中で衣笠さんは何度も「感謝」「周囲の人達のお陰」という言葉を使っていました。
衣笠さんはスランプに陥った時は「野球が衣笠祥雄を試しているのだ」と自分に言い聞かせ、いつも以上に厳しい練習をしたそうです。そして、自分の練習のためにに協力してくれたコーチやグランドのおじさん達やボールを拾ってくれる若い選手への感謝を気持ちを忘れませんでした。
 広島カープの球団創設は昭和二十四年。広島の原爆投下から四年後のことだったそうです。戦争で深い傷を負った広島市民にとってカープの優勝は大きな夢であり、願いでした。その夢が実現したのは昭和五十年のことでした。初優勝して市内のパレードが行われた時、沿道を埋め尽くしたファンの人たちから出た言葉は優勝おめでとう、ではなくて「優勝ありがとう」だったそうです。衣笠さんは「この時の感動は一生忘れられらません。そして、人間にとって目標を持つことの大切さを昭和五十年の優勝が教えてくれました。」と語っていました。
衣笠さんを我が子のようにかわいがった広島カープの故松田耕平オーナーは常々「立派な野球選手より立派な社会人になりなさい。人間性を磨きなさい」と言われたそうです。昭和六十二年、二十二年間の現役生活を終えた引退セレモニーでの「私に野球を与えてくださった神様に感謝いたします」という言葉は衣笠さんの人間性のレベルの高さを証明する素晴らしい言葉でした。


88号 ハピハピバースディ
  メール友達の「広島のやっさん」こと、安宗(やすむね)直樹さんは広島市日浦中学校の先生。やっさんとはEメールでいつも情報を交換し合っています。
 先日、学校のコーラスコンクールでやっさんのクラスが最優秀賞を獲得したそうです。たまたまその日はやっさんの誕生日でした。
その日の出来事を聞いてとても感動しました。
『コーラスコンクールが終わった後、みんなが私の三十九回目の誕生日を祝ってくれました。体育館へ入ると、フロアーは暗く、ステージだけ照明が当てられ二組のみんなが合唱隊型に並んでいました。雰囲気はまるで小コンサート会場。間もなく「ハピハピバースディ」の歌が始まりました。なんとみんな泣いているではありませんか。涙をこらえようともせず、心を込めて歌っている様子に心が打たれました。この日のために生徒たちは担任に内緒で着々と準備を進めてきたんでしょう。だからこそ、いつか音楽の授業を見学してもいいかと聞いたとき「だめ〜」と言ったんですね。聞けば、夕方、近くの公園に集まって歌やあいさつを練習したとのこと。寒くなかったですか?風邪はひかなかったですか?みんなの私を思う優しさに感動しました。それと同時に「こんなことまでしてもらって申し訳ない」という気持ちすら持ちました。みんながここまでしてくれたのに、自分は三十七人に対して何をしてあげられたんだろうと思ったからです。これからは「借りは必ず返す」の精神で頑張っていきますね。生徒たちに負けてはいられない。自分なりに頑張って三年二組に貢献できる担任へと日々成長していきたい。そういう思いを持たせてくれたひと時でもありました。…』
 数日後にも広島のやっさんから素敵な俳句がメールで届きました。やっさんの晴れ晴れとした心が伝わってくるような句でした。
小春日の空の青さに息をのみ

89号 電池が切れるまで
 先日の朝、たまたま観ていたズームイン朝という番組で小学生の女の子の詩が紹介されていました。聞いているうちに涙が溢れてきました。
「命」という詩を書いた宮?ユキナ?さんという漠然とした記憶を頼りに日本テレビに電話で問い合わせ、インターネットでも調べてゆくうちにいろいろなことがわかり感動が益々大きくなりました。
「命」という詩を書いたのは宮越由貴奈さんという当時小学四年生の少女でした。五歳の時、神経芽細胞腫と診断されました。長野県立こども病院でつらい治療を受けながらも院内学級で勉強を続けていました。一緒に入院していた友達が何人か亡くなりました。いじめだとか自殺だとかのニュースを聞くたびに由貴奈さんは「生きたくても生きられない友達がいるのに自殺なんて…」と思ったそうです。院内学級で電池の勉強をしたあとに由貴奈さんは「命」という詩を書き、それから四ヵ月後に天に召されて行きました。
 角川書店から「電池が切れるまで」〜子ども病院からのメッセージ〜という文集の本も出版されました。命について、生きることについて由貴奈さんたちから大切なことを教えられました。

 「命」 小四 宮越由貴奈                               
命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ でも電池はいつか切れる
命はいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど命はそう簡単にはとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと神様から与えられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも「命なんていらない」と言って命をむだにする人もいる
まだたくさん命がつかえるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたと言うまでせいいっぱい生きよう


90号 さよなら、クロ
 毎朝、夫婦と一匹の散歩を楽しんでいます。朝の新鮮な空気と景色の中で、互いに前日の出来事などを話しながら愛犬と歩きます。
 先日、家内が雑誌で読んだクロという犬の話を散歩中に聞いて感動しました。

 今から四十年も昔、長野県松本市の高校に一匹の黒いメス犬が迷いこんできました。文化祭の仮装行列で西郷隆盛の犬の役にさせられたのがきっかけで学校に住みつくようになったそうです。用務員さんの弁当をもらい、朝は正門で生徒を出迎え、昼は教室で授業を聴講?しました。廊下を自由に歩くクロの姿に新入生は緊張をほぐし、受験を控えた三年生は心を癒されたといいます。お菓子の出る職員会議には必ず出席し、深夜の校内夜警のコースを覚えていたクロは新任の宿直の先生の先に立って道案内もしました。そして、職員名簿に「松本深志高校、用務員室、分掌、番犬、クロ」と記載されました。
 自由な校風の学校で十数年を過ごしたクロもやがて、老衰と悪性腫瘍のために亡くなりました。クロの学校葬には千二百人を越える参列者が集まったそうです。校長先生が追悼の辞を読み、生徒が弔辞を読みました。「クロ、長い間、ご苦労だったなあ。俺達、お前が死んでしまって本当に残念だけど、お前は精一杯生きたのだから幸せな犬だったと思う。…俺達みんな、お前が好きだった。クロよ、安らかに眠れ」
弔辞のあと、集まった人達全員で校歌を斉唱。講堂の中にはすすり泣きが聞こえました。クロの遺体が長年住み慣れた校舎を後にする時、生徒達が玄関から校門の間を埋め尽くして別れを惜しんだそうです。
 この話は『職員会議に出た犬・クロ』(郷土出版社)という本になり、更には卒業生らが映画作りを支援する会を作り今年の夏に『さよなら、クロ』という題名で映画化されるそうです。