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「小耳にはさんだいい話」へ


61号〜70号


61号 可能性に火をつける
 八月二十六日、大間々で三輪真純(しんじゅん)先生の講演会が開催されました。三輪先生は現在八十五歳。安中市の小中学校長を歴任した後、安中市教育長、助役も務められました。
 群馬県で一番若くして校長になったという三輪先生もかつては中学受験に失敗した経験があったそうです。「家が貧乏で月謝の必要な学校には行けませんでした。中学校を落ちて、行くところがないので月謝の要らない師範学校へ入りました。1年のときは落第は免れたもののひどい成績、でも、いつも母が励ましてくれていました。…」
 最愛のお母さんが亡くなったのは三輪先生が十六歳の時。父親は涙ながらに「母ちゃんは、太郎(三輪先生の本名)の試験が終わるまでは知らせないでくれ、と言った。…母ちゃんは死ぬ間際までお前の写真を障子の桟のところに置いて眺めていたよ」と語りました。三輪先生は神社の大木を見上げて、ボロボロ泣きながら「自分の成績をよくして母ちゃんを喜ばせよう」と決心したそうです。それからは睡眠時間三時間の猛勉強が始まりました。「体重がどんどん減ると同時に成績がジワジワと上ってきました。三年の二学期が終わった時、担任の先生に「先生、僕の成績はどのくらいでしたか」とそっと聞きました。受け持ちの先生は、にやっと笑って「何番だと思う?三輪、お前が一番だよ」と言いました。私はその通知簿を位牌の前に供えて「母ちゃん、一番がとれたよ」と泣きながら報告しました。…」
 どんな人にも限りない可能性が秘められています。その可能性に火をつけてくるのが出会いであり、感動であることを三輪先生は自らの体験を通して熱く語ってくださいました。

62号 垢こそ宝
 『手振りうどん』で有名な大間々の星野物産や上電通運、前橋運輸、群麺センターなど群馬県内に十数社の企業を擁する星野グループのトップ・星野精助さん(八十五才)が、このたび『起縁・隋縁・結縁』という本を出版されました。
 人生はまさに出会いの連続、その出会いの縁を生かし、素晴らしい人生を送っている星野さんの生き方に深い感銘を覚えました。そして、星野さんが最初に大きな影響を受けたお母さんのエピソードを読んでとても感動しました。
 「…私が子供の頃、家には三、四十人ほどの従業員がおりました。普通なら風呂などは、まず家族のものが先に入り、そのあとで雇い人が入るものでしたが、母は「働いてくれる人がいるから生活できるんですよ」と言って、私たち母子は一番最後に風呂に入っていました。子供でしたから、汚いなあと思っていましたが、母は「この垢が今日一日働いた宝だよ」と私に言って垢を取り除き、感謝しながら入ったのです。
 また、昭和二十八年に当時のお金で一千二百万円(今のお金にすると十億円くらい)の不渡手形をつかんでしまった時も、怒る父を制して「お父さんと私のせいで、お前を大学に行かせてやれず、常々すまないと思っていた。一千二百万円の損は一生忘れないだろうし、この体験を活かすことは、社会大学を卒業したようなものだから、お赤飯でも炊いてお祝いしましょう」と慰めてくれました。…」
 自らを『愚翁』と称する星野さんの座右の銘は「一日一生、日々元旦」。一日、一日を感謝しながら生きている星野さんの元には、今も多くの人たちが教えを求めて集まっています。
63号 さよならのあとに
 十月二十四日、熊本県の大野勝彦さんが星野富弘さんに会う為に大間々へお越しになりました。
 五町歩の田畑にハウスの野菜を栽培していた大野さんは平成元年、農作業のトラクターに手を挟まれ
両手を切断してしまいました。何の前ぶれもなく始まった手無しの生活に幸せが音をたてて崩れてゆくのを感じたそうです。その時、大野さんが一番こころを痛めたのは三人の子供達のことでした。大野さんは奥さんと相談して「子供達が病室に来たら楽しい話だけをしよう」と決めました。子供達が来ると部屋の中は笑い声でいっぱいになりました。子供達が帰り、病室に元の静けさが戻ると「子供達は、俺の両手切断のことでショックを受けていないようだ」と安心したそうです。でも、お見舞いに来た近所のおばさんが「勝彦さんの長男の隆君は、毎日夕方になると玄関の前に座って頭を抱え込んで、暗くなっても何時間も動かない。意地らしくてかわいそう」と涙声で教えてくれました。子供達は病院に行く道すがら「お父さんのところへ行ったら楽しい話だけをしよう」と話し合っていたのです。大野さんはその時、家族の優しさに胸いっぱいの幸せを感じたそうです。
 星野富弘さんの『わたしは傷をもっている でもその傷のところからあなたの優しさがしみてくる』
という詩画に深く感動した大野さんは今、義手で筆を持ち、素敵な絵や詩を書いて多くの人に生きる勇気と優しさを与えてくれています。
 大野さんの名刺の裏には『しあわせは気づいたときから始まる。本当はしあわせなんだけどさよならのあとで気づくの』と書いてありました。

64号 恵みの呼吸
 東村富弘美術館の開館十周年を記念して、渡辺和子先生の講演会が開かれました。渡辺先生はノートルダム清心学園の理事長さん。『生きること、死ぬことの大切さ』というテーマで心に響くお話をされました。
『…よく生きる、ということは与えられた命を大切に使うこと。そのためには、小さな仕事やいやな仕事も「つまらない、つまらない…」と思いながらするのではなく、心を込めて「お幸せに、お幸せに…」と祈りながらすることが大切。もし、それで相手が幸せと感じなくても「お幸せに…」と祈りながら仕事をするあなたが一番幸せになるのです』とおっしゃいました。
 渡辺和子先生が三十六歳でノートルダム清心女子大学の学長になり、大変なプレッシャーと苦しみを感じて悩んでいた頃、ある牧師さんからこんな詩をいただいたそうです。
『天の父さま、どんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように。すべては恵みの呼吸ですから』…。三十数年経った今も、この色紙は大学の正面玄関に飾られているそうです。苦しみや不幸のない人生が良い人生ではなく、苦しみや不幸に意味を見出し、それを感謝に変えられる一生こそ尊い人生なのだ、ということを渡辺和子先生はいろいろなエピソードを交えて優しい口調で語りかけてくれました。
 富弘美術館の入口のカウンターには東村の季節の草花がいつもさりげなく飾られ、スタッフの方々が優しい笑顔で迎えてくれます。美術館全体が来館者に「お幸せに、お幸せに…」と祈ってくれているような素敵な雰囲気。秋の観光シーズンも終わり、また、ゆっくりと富弘さんの詩画を観賞できる季節になりました。
65号 心の季節
 『こころの風景』という素晴らしい本に出会いました著者の荒木忠夫さんは苦学をして九州大学を卒業、サラリーマンを経て現在『寺子屋荒木塾」を主宰。地元の教育委員長や高校講師もされています。『こころの風景』には五十三篇の心温まるお話が載っています。その中の「お父さんのおかげよ」をご紹介します。
 『…会社勤めだった私はずっと人事部に所属していた。一見華やかそうに見えるが、サラリーマンとしての悲しさを見るのが、仕事みたいなものである。五年に一回行われる会社の大運動会は大きな遊園地を一日貸し切って、家族ぐるみで行われる大規模なものだった。大観覧車の下で、ある社員が奥さんと小学生の女の子の四人で楽しそうに弁当を食べていた。実は、この父親は会社ではあまり評価されていない人だった。毎年、配置転換の対象となり、人事部の私は、その人の受け入れ先を探し回ったが、なかなか受け入れられる職場が見つからなかった。とてもまじめな人であったが、仕事が遅いのであった。その父親を囲んで、一家四人が楽しそうに弁当を食べていた。父親は子供達を見ながら、満足そうにうなずいていた。父親が会社でどんな評価を受けていようと、この子供達にとってはまったく関係ないのである。小学生の女の子が言った。「お父さん、今日は楽しいね。いい会社に入ってよかったね」すると、母親が言ったのである。「そうよ、お父さんのおかげよ」…。家族のかなめは父親である。しかし、そのかなめを支え、生かすのは母親の心なのである。家族の中での母親の役割は大きい。…』
66号 人の痛みがわかる人
 「致知」という雑誌にシドニーオリンピック男子柔道監督の山下泰裕さんの対談が載っていました。山下さんは選手たちに「柔道で大事なのは勝ち負けだけじゃない。自分が勝って誰かが悲しむような勝負はするな。勝っても自惚れず謙虚さを失ってはいけない」と、常々言っていたそうです。そして、こんなエピソードも紹介されていました。「シドニーの大会では、前日に試合が済んだ選手は次の日の選手の付き人としてつくことになっていました。前日、金メダルを獲得した野村忠宏選手は明け方四時ごろまでマスコミの対応に追われ、ほんの数時間の睡眠で次の中村行成選手の付き人をしましたが中村選手は残念ながら負けてしまいました。控え室に帰ってきて、中村選手が座り込んで着替えを始めたとき、野村選手は中村選手の柔道着をものすごく大切に一所懸命たたんでいました。付き人はそこまでやる必要はないんです。それなのに負けた中村選手の柔道着をものすごくいとしそうに丁寧に丁寧に折り畳んでいる。その姿に皆が心を打たれました。野村選手は人の痛みがわかる本当のチャンピョンに成長していたのです」…。
 コラムニストの金平敬之助さんの十冊目の本「ひと言の贈りもの」の中で金子みすヾさんの「大漁」という詩が紹介されています。
『朝焼け小焼けだ大漁だ 大羽いわしの大漁だ 浜は祭りのようだけど 海の中では何万の いわしのとむらいするだろう』(『金子みすヾ全集』JULA出版局)
「こうなって私はこんなに嬉しいけれど、でも、こうなって悲しい人もいるのではないか」物事をこんなふうにとらえる事が大切、と書いてありました。
67号  親子の季節
 「こころの風景」(荒木忠夫著)を読んだ方から、たくさんの感動のお便りや電話を頂きありがとうございました。今月はこの本の中の「親子の季節」というお話を紹介いたします。
『受験シーズンたけなわである。受験といえば、私にも忘れられない思い出がある。高校卒業後、父は私を就職させようと考えていた。
私はどうしても大学へ行きたかった。父はしぶしぶ承知したが、九州大学以外は絶対にだめだと言い張った。おそらく、九大なら必ず落ちると考えたのである。そして、休日になると、私を無理やり畑に連れて行った。父は私の不合格を望んでいると考えて、父を恨んだのである。それが逆に私を奮起させた。「今にみとれ、このくそおやじめ」私はいつも心の中で、そう叫んでいた。入試が終わり家に帰っても父はゆっくり休めとは一言も言わず、私を畑に連れて行った。私はますます父を恨んだのである。
 いよいよ発表の日が来た。発表は夜十一時から、ラジオで行われた。私は昼間から、おんぼろラジオのチャンネルを合わせ、布団に入って耳をすましていた。発表開始とほとんど同時に、私の名前が出たのである。私は思わす「やった」と叫んでいた。すると、その時、隣の部屋から「万歳」という父の声が聞こえたのである。私は驚いて父のところへ行った。すると、父の目には涙が光っていた。そして、私の手をしっかりと握って、声をあげて泣き出したのであった。
私はその時、初めて父の本当の心を見たような気がした。そして、心の中で父に謝ったのである。受験シーズン、それはまさに「親子の季節」なのである。』
68号 尽しあい
 縁あって、熊本県の中学校の真田晴美先生が大間々にお越しになりました。
一緒に食事をしながら、真田先生と親しくしていた同僚の崎坂祐司先生の話を聞いてとても感動しました。
 崎坂先生は熊本県腹栄中学校の数学の先生でした。生徒に人気のある、とても明るい先生でしたが、平成元年に「アミロイドーシス」という難病であることを宣告されました。この病気は体の機能が次々に衰え、発症から十年から十五年で死を迎えるという恐ろしい病気です。教師を辞めることを考えた崎坂先生に「あんたしかできん教育があるとと違うと」と同僚の先生から励まされ、体力の続く限り教壇に立ち続ける決意をしたそうです。崎坂先生は授業中いつも「問題を解き終わったら、人に教えろよ。自分だけできればいい、そんな人間にはなるなよ」と教えていたそうです。
病気が進行し自分で運転が出来なくなってからは奥様の運転で学校に通いました。学校に着くと数人の三年生の生徒が崎坂先生をおぶって職員室のある二階まで行き、二階に着くと女子生徒が上履きを用意して待っていてくれたそうです。入試で三年生が来られなかった日は二年の男子にその役目を頼み、後輩たちも一日も休まず続けてくれたそうです。平成二年の卒業式の日、問題児と言われていた生徒が「はよう、バイクん免許ば取って、バイクば買って、サイドカーに崎坂先生ば乗せて俺が送り迎えばしてやる。免許ば取るまで、おらすやろか」とぼろぼろ涙を流したそうです。
 崎坂先生でなければできない「尽し合い」の教育を命をかけて実践されたことに感動しました。今は亡き崎坂先生のご冥福をお祈り致します。
69号 逃げない心 
 毎月、友人から「職場の教養」という朝礼集を頂いています。足利屋、アスクでもそれを使って毎朝、朝礼を行っています。朝礼集の話の中には仕事をしてゆく上で、また、日々の生活の中で大切な事がたくさん書かれています。その中に「逃げない心」という話が紹介されていました。
『女子柔道の四十八キロ級で活躍した長井淳子さん(二六歳)が、福岡女子国際柔道選手権の開会直前に現役引退を表明しました。
 長井さんは「世界のトップに立てる実力者」といわれながら、世界選手権やオリンピックなど桧舞台に立つことはありませんでした。それは同じ階級に田村亮子という巨大な壁があったからでした。けれども「田村さんのいない階級への変更を考えなかったと言えばウソになります。でもそれは私自身の逃げであり、負け。あくまで四十八キロ級で戦います。」と彼女は階級へのこだわりを持ち続けました。
 そして引退表明の日、自分の信念を貫き通し、多くの強豪に戦いを挑んできた彼女の顔には、清々しささえ漂っていました。巨大な壁に屈することなく挑み続けた柔道人生は、今後の彼女の人生の大きな励みになることでしょう。私たちも目の前の壁が大きければ大きいほど、挑戦意欲を沸き立たせ、挑み続けていきたいものです。』
 田村亮子さんの陰にこんな立派な人がいたことを知りませんでした。大切なことは相手に勝つことではなく自分に克つことだということを教えられました。

70号 あおいこえ
 先日、まごころ塾という勉強会に参加しました。塾長は元小学校教諭の内堀一夫先生。内堀先生は二十数年間、毎日学級通信を発行し続け「出会いと気づき」の大切さを子供たちに教え続けた先生です。ある日の学級通信『あおいこえ』に四年三組の田端由佳里さんのこんな詩がありました。
『先生、あのね 今日二十分休みに大須賀君は廊下のところにあるほうせんかに水をあげていました。私は「大須賀君えらいね!」といいました。(中略)これからもがんばってね、大須賀君!』
大須賀君の行為とそれを詩にした田端さんに内堀先生はまぶしいくらいの優しさを感じ、クラス全員にこの感想を書くことを宿題にしました。感想文は期待以上の内容でした。内堀先生は全員にAまるをつけて返し、「どうかしっかりと読んであげて下さい」と親達にもお願いしました。翌日の「あおいこえ」には大須賀君の感想文が載っていました。『ぼくは土のかわいたほうせんかが目に入った。あ…まだかれていない、命がある。すぐに水をやった。その時、つぼみが一つだけあるのに気づいた。よかったよかった、と心で思った。田端さん、ぼくはこんな気持ちで水をやりました』
 人や物への思いやりや命を大切にする心はこんな小さな事の積み重ねから生まれるのだと思いました。
その年の毎日新聞の「上州っ子」という欄に内堀学級の中島由弥子さんのこんな話も紹介されました。『今日の帰りにきれいな花が捨てられていました。私は「かわいそうに」と思って一つずつ拾って、私の家の花だんにおいて水をかけてやりました。私、こんなことできる人間じゃなかった。でも、内堀先生にならって変わったみたい!先生ありがとう。』