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「小耳にはさんだいい話」へ


41号〜50号


41号 年賀状は仏様に上げますよ
 毎年、年の瀬には喪中ハガキが届きます。天寿を全うされて天国へ旅立たれた方もいれば、若くして病に冒され、小さな子供さんを残されて他界された方もいます。ご家族の心中を察すると言葉もありません。ただただご冥福を祈るばかりです。
「喪中につき年末年始の御挨拶をご遠慮申し上げます」という丁寧な挨拶状が多い中でちょっと変わった、心に響く喪中ハガキも届きました。差出人は太田市の鎌田さん。昨年、初めて出会った方ですが人生を前向きに生きる見本のような方でお会いする度に尊敬の念が深まり、もう何10年もお付き合いさせていただいているような錯覚さえ感じる心暖かい方です。
鎌田さんからのおハガキにはこんな文章が綴られていました。
『母(ヒサ)が天国へ行ってしまった。10月26日。秋田生まれで民謡大好き。若い時は商売好きでいくつかの職を転々としながらペンチレース加工を始めたのが今の会社のはじまりなのだ。46歳の大交通事故は身と心を丈夫にし、83歳の他界は長生きだと思う。貧乏に強かったが、子供には涙も見せた。その涙で子供4人を育ててくれた。
陽気な母だった・・・ハガキも好きだった・・・だから年賀状は仏様に上げますよ。
年賀状歓迎です・・・。』
お母様にはお会いしたことはありませんでしたが鎌田さんの人柄とおハガキの内容からきっと素晴らしい人生を全うされた方だったのだろうなと思います。今年もヒサ様宛ての年賀状がたくさん届いたことでしょうね。
新年をこの世とあの世で一緒に祝っている鎌田さん親子の笑顔が見えるようです。

42号 きいちゃんの浴衣
 インターネツトで知り合った山元加津子さんは石川県小松市の養護学校の先生。その学校の高等部の「きいちゃん」は小さい時の高熱が原因で手足が不自由になってしまいました。
 ある時、きいちゃんのお姉さんが結婚することになりました。結婚式に出るのを楽しみにしていたきいちゃんにお母さんは「結婚式には出ないで欲しい」と言いました。お姉さんが肩身の狭い思いをするのでは・・・と心配したからでした。
悲しんでいるきいちゃんに山元先生は「お姉さんにプレゼントをつくろうよ」と言いました。そして真っ白な布を夕日の色に染めて浴衣を縫ってプレゼントすることにしたそうです。針で何度も指を刺してしまい、練習用の布が血で真っ赤になってもきいちゃんは「おねえちゃんへのプレゼントだから・・・」と言って体を壊すのではないかと思うくらい一生懸命に縫い続けました。出来上がった浴衣を宅急便でお姉さんに送ってから二日後、お姉さんから山元先生に電話がありました。きいちゃんと一緒に結婚式に出て欲しいと言うのです。
 結婚式のお姉さんはとても幸せそうでしたが、まわりの人たちは、きいちゃんを見てひそひそ話をしていました。やっぱり出ない方がよかったかしらと思っていた時です。
お色直しから出てきたお姉さんは、なんときいちゃんが縫ったあの浴衣を着ていたのだそうです。お姉さんはお相手の方とマイクの前に立ち「皆さん、この浴衣を見て下さい。手足の不自由な私の妹がこんな立派な浴衣を縫ってくれたのです・・・。妹は私の誇りです・・・」式場は大きな拍手で一杯になりました。
山元先生はその時のきいちゃんの笑顔とお母さんの感激の涙が今でも忘れられないそうです。
43号 子牛の出産

 2月に開催された『商業界』の勉強会で上甲晃(じょうこうあきら)先生から感動的な話を聞きました。
『北海道家庭学校は全国で唯一の私立の教護院、いわゆる非行少年を更生する学校です。全寮制で一つ屋根の下で少年たちと先生方の家族も一緒に暮らしています。先生方が教育に対して本気でなければとても勤まらない真剣勝負の学校です。
この学校の生徒が牛のお産に立ち会った時のことです。親牛は苦しみながら踏ん張っていました。子牛の前脚が出てきたのを見てオロオロしている生徒に、先生はぬるま湯を用意しろ、クサリを用意しろと次々に指示を出します。クサリを子牛の前脚にひっ掛けて、さらにそれにロープを付けて引っ張るのです。
子牛の前脚がちぎれてしまうのでは、と生徒達が加減して引っ張っていると先生から「もっと強く引っ張れ」と言われおもいっきり引っ張りました。やがて下半身が出てきましたが、難産で頭が出てきませんでした。ようやくベチャベチャに濡れた子牛が出てきたのですが息をしていませんでした。先生が子牛の鼻の穴を吸え!と言いました。
先生が片方の穴を吸い、生徒がもう片方を夢中で吸いました。やがて子牛は無事に自分の力で呼吸をはじめたのです。その生徒が急に泣き出してしまいました。そしてこういったそうです。
「ボクのお母さんもボクをあんなふうに苦しんで生んでくれたのにボクはお母さんにつらく当たり、ひどいときには暴力を振るって困らせていたと思うと、すごく悪く感じました。これからは、お母さんに対してだけじゃなく、ボクの為に一生懸命になってくれている人達に対して心配をかけずにやっていきます。」』

44号 感謝を教える入社試験

 いつも「いい話」をファックスして下さる柏市の堀野耕資さんに教えて戴いた話です。 …会社の成長にとって大切なことは、仕事に取り組む社員の心が豊かでなければならないということです。このことに気付いたある会社の社長は、毎年入社試験で学生に、必ず二つの質問をするそうです。「あなたはお母さんの肩叩きをしたことがありますか?」 「はい」「それはいいですね。では次に、お母さんの足を洗ったことはありますか?」ほとんどの学生が経験していないことです。すると社長は、お母さんの足を洗って三日後に報告に来てください。それで入社試験はおしまいです、と言うのです。学生達は皆、そんなことで入社できるのなら、とほくそ笑みながら会社を後にします。ある学生は不審がる母親をようやく縁側まで連れて行き、タライに水を汲み入れ、鼻歌まじりに準備を始めました。ところが、母親の片足を持ち上げた瞬間、その足の裏があまりにも荒れ放題にあれているのを手のひらに感じ、思わず絶句してしまいました。その母親は若い時に夫を事故で亡くし、女手一つで死に物狂いで働いて子供達を育ててきたのでした。そのことを悟った学生は、急に胸がいっぱいになり、「母さん、長生きしてくれよな」と、一言いうのが精一杯でした。それまで、息子の柄にもない孝行を冷やかしていた母親は「ありがとう」と言ったまま黙り込んでしまいました。ふと、彼の手に落ちてくるものがありました。母親の涙でした。学生は母親の顔を正視できなくなり、「お母さんありがとう」といってそのまま自分の部屋に引きこもってしまいました。この会社の社長はいつも「人は決して一人でいきて生けるものではない、たくさんの人に支えられていきているのだ」と諭されるのだそうです。     


45号 折鶴の首飾り
 白内障の手術をした父を眼科の検診に連れていったた日、遠回りをして、戦友だった桐生のBさんの家へお線香を上げに行きました。Bさんが亡くなられてから1年半、奥様は一人暮らしを続けていました。仏壇にはBさんが82歳の誕生日に長寿センターの職員の方から頂いたというバースデーカードが宝物のように置かれていました。画用紙で作った手づくりのバースデーカードを広げてみると右側にBさんの笑顔の写真が貼ってあり、左側には「ユーモアたっぷりのBさん、これからも一緒に楽しく過ごしましょう」と心のこもった手書きの言葉が書かれていました。Bさんは近所の長寿センターのお風呂へ行くのが何よりの楽しみだったそうです。Bさんが亡くなりお棚あげがすぎた頃から奥様は千羽鶴をおりはじめました。「これはボケ防止にもなるのよ」といいながら丁寧におった折り鶴をみせてくれました。もう1万羽以上も作ったそうです。「主人が長年お世話になったお礼に、お誕生日を迎えた方へのプレゼントとして使ってもらえたら嬉しい…」と折り鶴を糸に通して首飾りにして福祉センターへ贈り続けているのだそうです。長年、献身的な介護を続けてこられた奥様は「主人も送り出したし、息子夫婦もよく来てくれるし、体もどうにか健康だし、今は本当に幸せよ」と明るく話していました。
久しぶりの父の訪問に涙を浮かべて喜んでいた奥様はとても84歳とは思えない若々しさでした。帰り際に父の手をとって「また来てくださいね」…と。「ありがとう。奥さんもいつまでも元気で…」と言った父の目も潤んでいました。          

46号 アサガオの願い

 大間々町桐原のWさんからアサガオの種をいただきました。その種は小さな透明のビニール袋に入りピンクのリボンが掛けられていました。そして、そのアサガオの由来が書かれたコピーを読んで感動しました。
『昭和五十五年七月、大阪堺で、林和也君という小学校一年生の少年が、交通事故で亡くなりました。和也君は家族が見守る中、「大きい車どけてちょうだい」という言葉を残して短い生涯を閉じました。和也君が理科の授業で育てていたアサガオは、和也君が亡くなった後、花を咲かせ、秋には種がたくさんとれました。和也君のお母さんは、最愛の息子を失った悲しみに耐え、交通事故撲滅を訴える手紙をある新聞社に送りました。そして、アサガオの種を同封し、旅行が好きだった息子のかわりに、遠くの方に和也君のアサガオの種をもらってほしいと願いました。このお母さんの願いにたくさんの人がこたえました。それから二十年、全国各地で和也君のアサガオは花を咲かせ、種がとれて優しい人の手から手へとわたり、粕川村までやってきたのです。…』 Wさんはこのアサガオの種を粕川村隣保館でもらってきたそうです。粕川村隣保館では、人の「いのち」の大切さ、かけがえのなさ、人の心の優しさをを思いながら和也君のアサガオをたくさん咲かせたいと願って来館された方に種を差上げているのだそうです。アサガオの花言葉は「愛着」、縁あって粕川村から大間々町に届いた「アサガオの願い」の種を育て、「大間々でも君のアサガオが咲いているよ」と天国の和也君にみせてあげたいと思っています。           

47号  親の背中
 『在宅介護の記録』(文芸社)という本を読みました。
この本は桐生市の茂木治さんご夫妻と治さんのお姉さんが8年間、老人性痴呆のお母様を献身的に介護した記録です。読んでいて何度も共感の涙が溢れました。そして、治さんのご長男が書いた『親の背中』という作文(知事賞を受賞)にも大変感動しました。
『・・・朝、父か母が祖母を起こして流動食を食べさせる。そしてオムツを交換し、水を飲ませる。その後出勤をする両親から伯母にバトンが渡される。
伯母の仕事は祖母に昼・夕食を食べさせること、オムツを交換すること、そして祖母に話しかけることである。実の母のためとはいえ、伯母の努力は並大抵のものではない。これも娘から母への一途な愛情なのだろう。
両親が帰宅すると伯母から両親ヘバトンタッチ。オムツを交換し水を飲ませてから寝つかせる。こういった介護を日々繰り返している。
「介護が苦だという人がいるけれど、俺はあたりまえだと思うんだ。それはお祖母ちゃん自身がお祖母ちゃんのお母さんを介護していた姿をこの目で見てきたからなんだ」と父が語ったとき、まさに「子は親の背中を見て育つ」だなあと思った。そして今、私はその両親の背中を見ている。
以前祖母に、どのような大人になってほしいかと訊ねた時、祖母は「そうだね、偉い人になってほしいね」と答えた。・・・(中略)・・・今、私は「偉い人」の輪郭を自分なりに掴み始めている。それは、祖母を一生懸命介護し続けている父や母、伯母のような人になれということではないだろうか。・・・』
子供の教育、家族の有難さ、生きる意味を茂木さんご一家から教わりました。

48号 生かされて

 十年ほど前、スーパーマーケット「カスミ」の創業者である神林照雄さんと食事をしたことがありました。「いただきます」と心からの感謝を込めてお料理に手を合わせた姿が今でも強く印象に残っています。そして、毎年、終戦記念日が近づくと神林さんの戦争体験談を思い出します。
 南方戦線を移動中の神林さんの部隊が乗っていた靖国丸という輸送船がアメリカの潜水艦の攻撃を受け、千人の戦友が次々と大暴風の海に投げ出されました。暗い海の中で「南無阿弥陀仏」「南妙法連華経」とお経を唱える声が聞こえてきましたが、その声も少しづつ小さくなりやがて消えてゆきました。神林さんも感覚がなくなり「もう駄目だ」と思った時に聞こえてきたのは出征する時のお母さんの声でした。「万歳、万歳」の歓呼に送られ汽車がゆっくりと走り始めた時、お母さんが下駄ばきでデッキに駆け寄り「照雄や、母ちゃんは軍国の母や靖国の母にならなくてもいい。とにかく手がなくなっても足がなくなっても、生きて帰ってきておくれ」…その言葉を思い出した神林さんは「生きて帰るよ、母ちゃん」と再び力が沸いてきたそうです。しばらくして水平線にマッチ棒の先のような小さな点が見えました。それが船とわかり日章旗が見えました。あの時の気持ちは生涯忘れられないそうです。
 日本に戻った神林さんは一坪半の薬局を始めました。生かされている自分の使命を思い、人の役に立つ仕事を…と困っている人には薬をただで差し上げたそうです。人にもモノにも深い愛情を注ぎ続けた神林さんの生き方は今も多くに人に影響を与え続けています。

49号 理想の学校

 自然豊かな赤城南麓、宮城村に平成六年に開校した若葉養護学校は全国でも数少ない私立の養護高等学校です。 創立者の大出文子先生はそれまで勤務していた学校を定年退職した後、理想的な養護学校を作りたいと考えました。授業科目は基本的な生活習慣を身に付けるための生活単元と作業学習、そして音楽と体育と美術だけ。このシンプルなカリキュラムを根気強く続けることによって知的障害を持った生徒達が社会に出て人に迷惑をかけず幸せに暮らして行ける力を身に付けさせようと考えました。前例のないカリキュラムと大出先生の学校設立の熱い思いは役所に理解されず学校法人の設立認可はなかなか下りなかったそうです。言葉に表せない程の苦難や屈辱に耐えつづけ夢をあきらめずに関係団体や役所に日参し、認可が下りたのは計画から何と十年目でした。  一年生の教室の壁に生徒一人一人の一年後の目標が掲げられていました。ある生徒は 『一年後はひとりでトイレに行けるようになる。そして、今よりもっと元気になってみんなを喜ばせる』。また、ある生徒は『作業学習を今より頑張ったり勉強をがんばったりして社会のために役立ちたいです』とエンピツで書かれていました。挨拶をきちんと教え、思いやりの大切さを教え、骨身を惜しまず働くことの尊さを教える学校を作りたいという理想を持ち続け、ついにその理想の学校を作り上げた大出先生の思いはしっかりと生徒たちにも伝わっているのだと感動しました。とても小さな体で、杖をつきながらも優しい笑顔を絶やさない大出文子先生は今年七十六歳、しかし、話をしている時のキラキラとした目の輝きはとても若々しく魅力的でした。 

50号 母に送る宣誓

 毎月、親しい友人から『職場の教養』という朝礼集が何冊も届きます。毎朝、皆で声を出して読み、その日一日の心がけを確認し合っています。その中でとても心に残った話がありました。ご紹介します。『六月三十日に開幕した全国高校野球選手権南北海道大会で、美唄高校・山名千晴主将は手話を交えた選手宣誓を行いました。ゆっくりとはっきりした口調、大きな手振り。スタンドにいた母の千鶴子さんは「立派な選手宣誓だった」と涙ぐみながら筆談で答えていました。山名君が手話を交えて選手宣誓をしようと決意したのは、「耳の不自由な母に自分の宣誓をはっきり伝えたい」という思いからでした。山名君は幼い頃から母と手話で会話し、言葉と手話をほとんど同時に覚えたそうです。大勢の観客が見守る中、手話を交えての宣誓は大変な勇気を必要としたことでしょう。けれどもそんな大舞台だからこそ、彼はあえてたった一人の母の為に手話による宣誓を行いました。思えば今、私達が健康に張り切って仕事に取り組めるのも、自分の命をこの世に生み出してくれた親あればこそです。どんな時も親への感謝を忘れずに充実した人生を歩もうではありませんか。』 桐生一高の優勝で幕を閉じた今年の全国高校野球選手県大会、試合以外でもこんな素敵なドラマがあったことを知って感動しました。 毎週月曜日の夜、NHK教育テレビの手話ニュースの中で、書家、詩人として親しまれている相田みつをさんの言葉が手話で紹介されています。相田さんの言葉に『育てたように子は育つ』というのがあります。山名君のお母さん、きっと素敵な方なのでしょうね。