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351号~360号


 357号 OKバジの呼び水支援
 『OKバジの賢慮の生き方』(川田英樹著・千倉書房)という本が出版されました。OKバジは、三十二年前からネパールのドリマラという寒村に住み、村人と寝食を共にして支援活動を続けている垣見一雅さんのことで、村人の願いをOK、OKと叶えてきたことからOKバジと呼ばれるようになりました。
『OKバジの賢慮の生き方』の本の中でOKバジの支援活動のことが詳しく記されています。
 OKバジの支援は『呼び水支援』とも呼ばれています。村人たちの欲しいものを全て提供するのではなく、本当に必要なものは何かをいっしょに相談し、資材だけをOKバジが提供し、それ以外は村人たちの無償労働で賄われます。村人たちにとっては自分たちがつくったという達成感や愛着や自立心が生まれます。そして、日本からOKバジの活動を支えている支援者には、OKバジから写真や手紙で支援金がどのように使われ、村人たちの役に立ったかが報告され、支援者も大喜びします。
 一昨年の六月に開催した「虹の架橋三百号記念イベント」の際、多くの方々からご協力ををいただいた協賛金や寄附金五十万円をOKバジに託しました。その一年後にOKバジから「飲料水タンクが完成しました」というメールと写真が送られてきました。「皆様にご支援いただいた飲料水プロジェクトの完成式に行ってきました。場所はパルパ県ジルバース郡ブトゥ゙クディ村です。タンセン市から車で二時間、そして凸凹の泥道を二時間かかる十六世帯の小さな村です。皆様のお蔭でこの村では飲料水の心配がなくなり村人たちは大喜びです。いつか是非お越しください。
OKbaji」
 飲料水タンクの写真には「飲料水プロジェクト『命と水』虹の架橋三百号イベント実行委員会」という日本語と英語の看板が写っていました。
 毎年六月七月、OKバジは日本に帰国して支援者への活動報告会を開催しており、今年も帰国最初の報告会が桐生市で開かれます。
 六月八日(日)午後二時から、桐生市市民文化会館四階国際会議場で「OKバジ講演会」をお聴き下さい。


 356号 『立志式』講演の感想文
  さる二月十九日、明照学園・樹徳中学校で立志式が行われました。明照学園は大正三年設立の歴史のある学園で、中学校は二〇〇一年に開校しました。
 立志式の起源は、武家社会の元服であり、十四歳の立春の日に元服式が行われていました。樹徳中学校では、開校以来毎年二月に立志式を行い、生徒一人一人が自分の将来を考え、目標や志を立てる日にしています。
 立志式後の記念講演では『ゼロから一までの距離』と題して、二十八年前に大間々駅のトイレ掃除を始めたきっかけや、その後一週も途切れることなく千四百回以上続いているのは多くの人との出会いや周囲の支えのお陰であり、人に喜んでもらうことが自分の喜びであることを伝えました。
 数日後、記念講演を聴いた二年生全員と、一年生、三年生代表の感想文が送られてきました。

・今までの人生が一気に変わる瞬間をゼロから一で表していると分かり、私にもその瞬間がいつか来るのだとワクワクして楽しみになりました」    二年一組 Sさん

・特に勉強になったのは「大きな努力で小さな成果」という言葉です。これからは挫けそうな時も諦めず前を向いて歩いて行こうと思います。 二年一組 Tさん

・この講演で立志のことに深く考えさせられました。人との出会いと日々の積み重ねが大事だと思いました。 二年一組 Hさん

・トイレをきれいにすることで自分自身も磨かれるという言葉が印象に残りました。  二年一組 Yさん
・松﨑さんの話を聴いて、今までずっと一番私のそばにいてくれていた母の自慢の娘になれるよう頑張りたいと思います。 二年二組 Iさん

・一週も途切れず駅の掃除をする姿勢がかっこいいと思いました。二年二組 Iさん

・自分がした努力の裏には必ずそれを支えてくれた人がいるということを忘れず努力し続けられるよう頑張ります   二年二組 Oさん

・素敵な人と出会うためには自分が素敵な人になることですね。 二年二組 Kさん

 生徒さん一人一人の感想文を読んで嬉しくなり、全員にお礼状を書きました。
 355号 運を味方にする人の生き方
  さいたま市に住む友人から『運を味方にする人の生き方』という本を送っていただきました。この本は、一昨年の三月に開催されたWBCで三大会ぶりに世界一に輝いた侍ジャパンの名将・栗山英樹監督と鎌倉円覚寺管長の横田南嶺老師の対談でした。この対談は、一昨年、月刊誌『致知』に掲載されて大きな反響を呼び、今年一月に単行本として発売になりました。
 栗山監督は「自分のことより人のため、チームのためにすべてを尽くせる選手をつくりたかった。強い組織というのは、全員がチームの目標を自分の目標と捉えていることだと思っています。そういうことを伝えるために、三十人の選手全員に墨筆で手紙を書きました。真心ってそういうものでしか伝わらないと思ったたものですから」と言っていました。 
 栗山監督は、横田南嶺老師の著作はほとんど読み、円覚寺のYouTubeなどでも南嶺老師の教えを学んできたそうです。栗山監督からの対談の申し入れに対し、南嶺老師は「野球に興味がなく、WBCなるものも知りませんでしたので丁重にお断りしました。しかし、栗山さんから是非ともというお声がけをいただき、勉強のつもりでお引受けしました」と書いていました。南嶺老師は「栗山さんの書籍を手に入る限りは求めて読んでみると、この方は、勝ち負けの奥にある、もっと深い人間についての真理を学ぼうとされていると感じました。どうしたら勝てるのかを栗山さんは懸命に求めてこられました。それを極めてゆくと、人間とはいかに生きるべきかに通じます。日常の些細なことを疎かにしていては、大勝負で迷いが出てしまうことを体感されたのでしょう。それがまた勝って傲ることのない態度となるのだと思いました」と書いていました
 あとがきに、対談を読んだ南嶺老師のお母様が電話で「よく勉強したね」と褒めてくれたそうです。息子が野球には全く興味のないことをよく知っていたからでした。「還暦を迎えたものの、この対談のおかげで母からお褒めの言葉もらったのが私にとっては最も嬉しいことでありました」と書いてあり感動しました。


 354号 『吾輩は銅である』
 『吾輩は銅である』は、大正初期に足尾鉱業所が発行した社内報『鉱夫之友』に連載されたお話です。『吾輩は銅である。吾輩は日本の銅である。生立った所は、元来草や樹に覆われた巌の底であるが、だんだん人間というものに見つけられ、つれ出されて、今では世界各国到るところを住家としている。ずいぶん人間が吾輩を重宝がる。吾輩をなくてはならぬ物のように言う。そこで吾輩も金属仲間では幅を利かしている…』という書き出しで始まり、夏目漱石の『吾輩は猫である』の小説と同様に銅の視点から日本の歴史や文化、経済を解りやすく紹介しています。
 日本では、神話の時代から「三種の神器」の銅鏡(八咫鏡)が登場し、仏教の伝来とともに仏像が造られるようになり、銅の需要は日増しに増えてきました。日本で初めて銅が発見されたのは武蔵国秩父郡で、元明天皇はまず年号を和銅元年(七〇八)と改め、銅の発見者三人には国司以上の位を授け、日本国中の罪人に大赦を下され、高齢者は物を賜り、「和同開珎」という銅銭などの鋳造も始まりました。その後、全国各地で次々に銅山が発見され、天平十七年(七四五)に聖武天皇の発願で奈良の大仏が鋳造され、五二〇トンの銅を使って完成、開眼供養を行いました。
 足尾銅山が発見されたのは江戸時代初期の慶長一五年(一六一〇)で、当時三十四ヶ所あった銅山の中で足尾銅山が一番産出量が多くなりました。 
 この本の中で『銅』は『二十世紀は機械の文明であり、電気の文明である。しからばこの電気をやったり取ったりできるのは吾輩の力によるのだ。吾輩が身を絲の如く伸ばし繋いでいるから機械も電話も電灯も電車も使えるのである』と自慢しています。

『鉱夫之友』を編集復刻した太田の坂本寛明さんは「鉱夫之友は、読者に役立つ面白い内容が明るく思いやりのある言葉で語られています。これを読むことで社会での行動意欲に繋げてほしいという思いで復刻しました」と書いています。

『吾輩は銅である』と、坂本さんの著書『みんなに役立つ足尾銅山の歴史』は足利屋でも販売中。是非読んで下さい。(各200円)
 353号 優便お焚き上げ
 「もう会えないあの人への手紙を預かります」という優便ポストが島根県飯南町にあります。
 今から八年前の十一月二十三日(いいふみの日)に創設された「優便ポスト」は、飯南町出身の詩人・里みちこさんが提唱し、地元有志の手で温かみのあるポストがつくられました。
 あの時、伝えられなかった「ありがとう」や「ごめんなさい」の手紙を優便ポストが優しく迎えてくれます。お預かりした優便は開封することなく、毎年一月第二土曜日に行われるお焚き上げの際に、一条の煙となって天高く空にお届けします。優便ポストの横には、里みちこさんの「ありがとうとごめんなさい」という詩が添えられています。

 目でいえる 口でいえる
 手でいえる 合掌でいえる
 体でいえる 心でいえる
 ふたつの言葉
 ありがとうとごめんなさい
 どちらかひとつを選ぶとしたら
 それはやっぱりありがとう
 最期のことば ありがとう

 自称・優便ポスト応援団長の永井康隆さんとはフェイスブックの友達として繋がり、私も応援団員九百二十名の一人に加えていただきました。永井さんは、「優便ポストは、心にチクッと刺さっているトゲを抜き、心を癒す優しいポストです。今はもう逢えないあの人に伝えられなかった「ありがとうやごめんなさい」の気持ちを、そして自分が一人で抱え込んでいる悩みや不安や迷い心を便箋に書いて、〒690-3514 優便ポスト宛に送って下さい。(郵便番号と宛名だけで届きます) 文字は五千年の歴史を持ち、人間を進歩させた計り知れないパワーを秘めており、心の鏡ともいわれています。その文字の力を信じて心につかえている気持ちを優便ポストに送ってみて下さい。気持ちがスッキリ軽くなりますよ…」
 令和七年のお焚きあげは一月十一日㈯。前日迄に届けば間に合うそうです。
 あなたも手紙を出してみて下さい。「あの人」が天国で手紙を待っているかもしれまん。
私も出します。

 352号 努力には無駄がない
  愛媛県久万高原町に住む小倉くめさんとは二十年来のお付合いになります。くめさんは『秘めだるま』という季刊誌の発行を続けて四十一年。先日届いた秋冬号が第百六十三号でした。そして、南海放送の『ラジオエッセイ・くめさんの空』も三十年を超える長寿番組です。『秘めだるま』も『くめさんの空』も、人として明るく正しく生きるヒントが満載です。
 くめさんは今年七十八歳。脊柱側弯症という障害をもって生まれ、いじめや辛い思いをしてきました。その経験から、全ての人間に平等が保証される社会を目指し、「難しいことをやさしく、やさしいこと深く、深いことをおもしろく」四国のお国言葉の久万弁で明るく語りかけてくれます。
 『秘めだるま』や『くめさんの空』でよく紹介されるのが、日本を美しくする会相談役の鍵山秀三郎さんの言葉や、ネパールで支援活動を続けているOKバジの紹介。相田みつをさんや星野富弘さんの詩なども、くめさんの温かい語り口で紹介されています。十一月十七日の放送では鍵山秀三郎さんの「努力には無駄がない」という話をくめさんが朗読して心に沁みてきました。「私が努力には無駄がないというと、九十九%の人が『そんな馬鹿な、世の中そんな甘くないよ』と言います。努力するよりも要領よく立ち回った方が、手を抜いてでも手っ取り早くやった方が勝ちだという人も少なくありません。ところが、努力には無駄はないというのは本当なのです。自分が期待した形になって戻ってこないから一見無駄のように感じますが、必ずそれは形を変えて戻ってくるのです。今の世の中、点数至上主義や利益至上主義という物差しで見ようとして、何かをつかんだ方が勝ちだという風潮になっていますが、世の中をよくしていくには、目立たない小さなことに対する努力に目を向け、評価してあげるという視点が必要なのではないでしょうか…」
 二〇二四年秋冬号の表紙には、「あなた良し、わたし良し、地球良し」の言葉が添えられています。『秘めだるま』は足利屋の休憩コーナーでも見られます。
 351号 あの人に会いたい
 詩画作家・星野富弘さんがご逝去されて半年が経ちました。富弘美術館の入口には、弔問のための記帳所が設けられ、毎日多くの方が「富弘さんから生きる勇気や感動をもらった」などのメッセージを記しています。 
 十月十九日にはNHKの『あの人に会いたい』という番組で富弘さんの生涯が紹介されていました。三十年前の『こころの時代』に出演した時の若々しい富弘さんから、八年前に『ほっとぐんま640』に出演した時の円熟した富弘さんの笑顔や温かみのある声が画面から流れ、改めて富弘さんの魅力を感じました。 
 富弘さんは体育教師になった二か月後に部活の指導中にケガをして首から下が全く動かなくなりました。「早く命が終わればいい」と思った富弘さんでしたが、お母さんは入院中の九年間ずっとベッドの横の狭いところで寝起きして看病を続けました。富弘さんの『ぺんぺん草』の作品にはお母さんへの思いが込められています

神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら
母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の
実を見ていたら
そんな日が本当に
来るような気がした

 富弘さんは番組の中で「花って秋になると枯れてきますよね。でも虫に食われちゃったり、花びらが揃ってない方が面白い。自分の嫌な面も繕わず、そのまま受け入れて生きる方が楽だと思います」と話していました。
 七十八年の生涯を全うされた富弘さんから、全てを受け入れ、ありのままに生きる強さと優しさを教えてもらいました。「あの人に会いたい」と思った時、やさしさにいつでも逢える富弘美術館があり、富弘さんを囲んで撮ったたくさんの写真が私たちに「がんばれよ」と声をかけてくれています。