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「小耳にはさんだいい話」へ


341号〜350号


 
 
 350話 世界一幸せな国?
  壮大なヒマラヤ山脈の高地に位置するブータン王国は、手つかずの自然がそのまま残り、伝統文化を大切に守り続けている国です。発展途上国ながら国民の幸福度意識が高く、2013年には『世界一幸せな国』として知られるようになりました。 
 ブータンでは、第4代国王が『国民総幸福量(GNH)は、国民総生産(GDP)よりも重要である』と語り、国民も「風雨をしのげる家があり、食べるものがあり、家族がいるから幸せだ」と答える姿が世界中のメディアで報じられていました。
 しかし、2019年の世界幸福度ランキングでは、ブータンは世界の156か国中95位にまで下落してしまったのだそうです。
 なぜ、わずかの年月でこのような結果になってしまったのか。かつてブータンの幸福度が高かったのは、他国からの情報が入らず、比較する対象がなかったからだと言われています。近年、急速な勢いでSNSなどによる情報が氾濫し、全てのことが比較できるようになってしまったことで、それまで幸せを感じていたことても、他人や他の国と比べるようになってしまった途端に幸福度が下がってしまったのだと分析されています。
 日本人の幸福度が低いのも、他人や他国と比べてしまう習慣に関係しているのかもしれません。精神医学においても、他人と比較する人は幸せになれないという分析結果が出ているそうです。
 元曹洞宗管長の板橋興宗さんは「人と比べたときから不幸がはじまり、あと先考えることから不安が生まれる」と言い、「掃除の神様」と呼ばれる鍵山秀三郎さんは、人と比べることを相対差、自分自身と比べることを絶対差と捉え、「相対差の世界で生きていると本当の安らぎは得られない。比較するのは周囲ではなく昨日の自分。勝つとか負けるという世界ではなく、争わない世界で自分を高めることが大切」と言っています。
 今、富弘美術館で開催中の企画展『小さなしあわせ』でも「普段は気付かない些細な日常にこそ、私たちが本当に大切にしたい幸せが隠れているのかもしれません」と書いています。
 349話 岩宿の発見
 『岩宿の発見』で日本の考古学の歴史を塗り変えた相沢忠洋さんの考古資料(39370点)が今年3月、国登録有形文化財に答申されました。最初の発見から78年目のことでした。
 相沢さんは、自転車で納豆売りの行商をしながら考古学の研究を続けていました。相沢さんが20歳の時、新田郡(現みどり市)笠懸村の関東ローム層の中から旧石器を発見しました。しかし、当時の考古学の世界では、関東ローム層の時代は、火山活動などが活発でヒトが住める環境ではなかったと言われ、発掘作業の際に関東ローム層にあたるとそれ以上掘ることはありませんでした。相沢さんは石器を持って考古学者を訪ね、関東ローム層の中から石器が出土した事実を説明して回りましたが相手にされず、地位も学歴もない相沢さんに対して「行商人風情が」などと誹謗中傷され続けたそうです。しかし、相沢さんは調査を続け、昭和24年の夏、誰が見ても疑いようのない黒曜石の石槍(槍先型尖頭器)を岩宿の関東ローム層の中から発見したのでした。そして、明治大学を中心とした発掘調査隊が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、縄文時代より1万年以上も前に日本に旧石器時代があったことがようやく証明されました。しかし、その時の新聞には相沢さんの功績は記されず、単なる調査の斡旋者として扱われただけでした。それでも相沢さんの考古学への情熱は冷めることなく、地道に調査を続け、数多くの旧石器遺跡を発見し続け、日本の旧石器時代の存在を発見した考古学者として正当に評価されるようになり、昭和42年には第1回吉川英治文化賞を受賞しました。
 相沢さんは『岩宿』の発見の本の中で、『古代人の一家団欒の場で使われた石器を見ると夫婦、親子などの人間関係への郷愁と思慕を感じた』と書いています。不遇な少年期を過ごした相沢さんにとって、古代人の一家団欒の姿が考古学研究の原動力だったのかもしれません。
 岩宿博物館では9月23日まで『岩宿人のくらしをさぐる』という企画展を開催中。相沢さんが行商で使っていた自転車なども展示されています。
 348話 じっとしていられない
  阿蘇の大自然の中にある『風の丘阿蘇大野勝彦美術館』は、一万二千坪の敷地の中に建つ大野勝彦さん個人の美術館です。
 大野さんは三十五年前に農業機械に両手を挟まれ切断。以来、義手で絵や詩を書き、持ち前の明るさとやさしさで多くの人に勇気と感動を与え続けています。そんな大野さんの十一冊目の本『勝彦の無手勝流』という詩画集が出版されました。
 本の中で、八年前の熊本地震の時のことが書かれています。

「(あの時の地震で)本館は残ったものの、そこに通じる道、電気、水まで届かぬ陸の孤島となってしまいました。そんな状況の中で、わずか一年後に再オープン。出来たのは、数えきれない人たちの支援、励まし、アドバイスがあったからでした。弁当持参で何度も来てくれた人、力仕事があるでしょうと仲間の男性を集めて来てくれた人。でもよく考えてみるとその多くの人たちも被災され、自分も大変な状況の中で風の丘まで来ていただいていたのです」
 ある時、美術館によく来てくれる車イスのおばちゃんから『手伝いに行きます』という電話がありました。大野さんは一瞬「あなたの来る所ではありません。気持ちだけいただきます』と言いかけました。大野さんも東北の震災の時、手伝いに行こうと飛行機の手配までしていたのに、『手無しのあなたが行っても迷惑をかけるだけ』と言われ断念したことを後悔し続けていました。本当は『じっとしていられない』、その心が有難いと思った大野さんは「はい、助かります。お待ちしています」と答えていました。約束した日、御主人と娘さんがお母さんの分まで作業に汗を流してくれました。お母さんは車の助手席に正座をし、美術館の方を向いて両手を合わせて祈り続けていました。それを見た大野さんはその場に座り込み、手の代わりに二本の義手を合わせて『あ・り・が・と・う・ございます』と何度も何度もつぶやいていたそうです。 
 『勝彦の無手勝流』(税込三千円)は足利屋にも置いてあります。

 347話 いのちより大切なもの
  富弘美術館の館長で、星野富弘さんとは旧東村の杲(ひので)小学校からの幼馴染でもあった 聖生(せいりゅう)清重さんに母校の桐生高校同窓会みどり支部で講演をしていただきました。 
 聖生さんは「小学校から高校までの多感な時期に、故郷の山々や渡良瀬川などの豊かな自然の中で遊び、高校時代は登山に夢中になっていた体験が富弘さんの作品のベースになっています」と説明してくれました。 
 富弘さんは群馬大学を卒業後、倉賀野中学校の体育教師になったばかりの六月十七日、部活の指導中のけがで首から下が全く動かなくなり、それまでの生活が一変しました。群大病院に入院中の富弘さんは毎日「チキショー、チキショー」と言っていたそうです。そんな富弘さんの心を癒してくれたのは九年間毎日、病院に付き添っていたお母さんの献身的な愛情と奥様となった昌子さんとの出会いや聖書との出合いであり、苦しみを乗り越えて「星野富弘の世界」が出来上がったのでした。
 富弘さんは著書『いのちより大切なもの』の中で、「けがをして、もう一生首から下を動かすことができないのだとわかってきた時『俺はもう生きている価値がない』と思いました。夜は『次の朝には死んでいたらいいのに』と思いながら寝るのですが、いつもどおりの朝が来て、看護師さんが脈や血圧を測ると正常値なのです。その時、『いのちというものは、俺とは別にあるんだ。俺がいくら生きることをあきらめても、いのちは一生懸命生きようとしているのだ』と思いました。私の努力でいのちがあるのではなく、『いのちが一生懸命俺を生かしてくれている』と気づいたのです。私はけがをして『死』と枕を並べて寝ているような時期もありました。でもこうして生かされて、今、いのちが与えられている。ですから、神さまに『死ぬという仕事』を与えられるまで『生きるという仕事』をしっかりさせていただこうと思います」
「富弘さんの本の中で『いのちより大切なもの』が一番売れてます」と聖生さんに聞き、「いのちより大切なもの」とは何かを考えています。

 346号 遺言
 五月三日、前橋キリスト教会で星野富弘さんの葬儀が行われました。パイプオルガンの音色に合わせて讃美歌を合唱し、牧師様が聖書を朗読されました。
式の最後、奥様の昌子さんのお礼の挨拶に深く感動しました。

「本日はお忙しい中、夫・星野富弘の葬儀にご臨席いただきありがとうございました。星野富弘は一九四六年みどり市東町に生まれ、群馬大学を卒業し、中学校の体育教師になりましたが一九七〇年、部活指導中の事故で手足の自由を失ってしまいました。その苦難を通して神様に救われ、信仰が与えられました。私は入院中の富弘さんと知り合って結婚しました。一九八一年に初めての本『愛深き淵より』を出版し、次に詩画集『風の旅』を出して忙しい生活になりました。(中略)
 ある時、舟木牧師が訪ねて来て下さり、富弘さんに『昌子さんに遺言を書いたのですか』と聞きました。富弘さんは、『私は絵を描く事、文章を作ることが遺言です』と答えられました。結婚生活は四十二年間になります。その間、たくさんの作品を描きました。作品は私たちの子どものようなものです。 私が『子どもがいなくて寂しいかい?』と聞くと『だから絵をたくさん描いたんだよ 子供に手を引かれて歩けるように』と言ってくれました。
 富弘さんは『ことばの雫』の本の中で『いつか分からないが神様が用意していてくれる本当の私の死の時まで胸を張って生きよう』と書いています。そんな富弘さんの生きる姿を見せられつつ病院で一緒に過ごし、私も頑張って一生懸命看病しようと思わされました。主人が天に還って淋しくなってしまいましたが神様に見守られ、皆様の変わらない御厚情をお願いして生きて行きたいと思います。本日はありがとうございました」

 葬儀後、富弘さんの遺体は荼毘に付されました。遺骨は晩年の痩せた姿からは想像できないほど太く、この逞しい骨が富弘さんの長い闘病生活を支えてくれたのだと思いました。ご冥福を心からお祈りいたします。

 345号 OKバジ ネパール支援30年
 OKバジこと垣見一雅さんは今から30年前の1993年に単身でネパールの寒村・パルパ郡ドリマラ村に移住、村人たちが建ててくれた6畳一間の小屋を拠点に日本からの善意を暮らしに困っている村人たちに届けるパイプ役になりました。OKバジとは「願いを聞いてくれるおじいさん」という意味。東京で英語教師という安定した仕事を辞してネパールに移住した垣見さんに対し、最初に支援団体を立ち上げ、物心両面で応援したのが桐生の富澤繁司さんとその仲間達でした。今、OKバジを支援している団体・個人は国内だけでも200以上になっています。
 今年の3月、桐生のOKバジを支援する会(OKSS・富澤均会長)の一行がネパールを訪問し、OKバジの案内で30年間に作られた学校や医療施設などを見学し、生徒や村人達から熱烈な歓迎を受け、交流を深めてきました。
 2015年のネパール地震の際には、「NPO法人日本を美しくする会」から復興のための資金として350万円がOKバジに託されました。日本を美しくする会は、掃除を通して世の中の荒みをなくす活動を地道に続けている団体で、OKバジの活動を応援する支援者もいて以前から交流がありました。OKバジは預かった支援金をマダナアスリット校というベーシックスクールの6つの教室の復興に活用しました。その教室の壁には「NIPPON-O-UTSUKUSHIKU-
SURU-KAI」というプレートが掲げられていました。
 桐生のOKSSからOKバジに託された支援金は30年の間に6500万円を超えました。OKバジはこの善意を村人達と相談しながら無駄なく活用しています。そしてその活用した報告を、覚えたてのパソコンで毎月、写真付きのメールで送信してくれています。
 6月2日?午後2時から、桐生市市民文化会館国際会議室でOKバジ講演会を開催いたします。ぜひご来場ください。
 344号 大火災の顛末書
 今から百二十九年前の一八九五年、大間々の歴史に残る大火災が発生しました。その時の様子が岡直三郎商店の文書蔵に保存されていた「大火災の顛末書」に克明に記されています。
「四月二十六日午後三時、警報が耳をつらぬき、鐘の音がけたたましく鳴り響いた。二丁目の空家から出火した火災は、またたく間に町の東街、西街を経て三丁目を全焼し、四丁目にまで広がった。この頃には風が益々猛威をふるい、猖獗(しょうけつ・荒れ狂うさま)を極めていた。各隊の消防手は烈火の中を右に左に奔走したが周囲を烈火に取り囲まれ四方八面に逃走せざるを得ない有様であった。ことに水源が乏しかったため、隊の防御は全く機能しなくなり、遂に当店の板塀に飛び火し材木小屋へと延焼した。この危難の折、水源が渇乏する時に及び、当店蔵人は煮込七十二〜三石、二番醤油十二〜三石ほどを使用して消火にあたり、その効あってようやく火は鎮まった」
 この記録によれば、消火のために使った醤油は約八十五石、一升瓶に換算すると八千五百本分にも相当します。
 大間々町誌の記録では「この火災で焼失した家屋は二百七十三戸、土蔵二十三棟、町役場、警察署、銀行、小学校などを焼失させ、群馬県の火災史上に残るものとなった」と書かれています。
 岡商店は、天明七年に大間々で醸造業を始めた近江商人です。近江商人は「売り手よし、買い手よし、世間よし」の『三方良し』の精神を守り続け、この時の大火災でも「世間よし」のために商品の醤油を消火のために使い、町の半分を救いました。火災後には「当店より金五十円を罹災者救助義捐金として篤志出金し、焼け出された家には個別に見舞をした」と顛末書に記されています。
 岡商店には近所の人に使ってもらうための『三方良しの井戸』があります。水に困った大火災の時の教訓から掘られたのかもしれません。 
 343号 負けない 逃げない 諦めない
 熊本の大野勝彦さんとは二十五年来のお付合いになります。大間々のながめ余興場でも何度も講演をしていただき、群馬県内でも大野さんのファンが広がりました。二〇一六年四月に発生した熊本地震の際には「風の丘・阿蘇大野勝彦美術館」も甚大な被害を受けました。三か月後には大野さんを応援するために、ながめ余興場で復興支援イベントを開催し、たくさんの来場者から義援金もお預かりして大野さんに手渡しました。先日、七年ぶりに大野勝彦美術館を訪問しました。地震直後の美術館の状況を見た時は「再オープンは難しいのでは」と思っていましたが一年後に再オープンの案内をいただいた時は驚きました。その時の手紙が次の文章です。

 熊本地震から一年、立ちはだかる困難に心が折れそうになることも度々でした。でも、その度に皆様のあたたかい励ましをいただき元気が出ました。道路はなくなり、電気も水もない。崩壊した丘に向って誓ったのは「負けない 
逃げない 諦めない」の心を持ち続けることでした。危険な風の丘に自己責任で通い続けてくれたスタッフ、応援してくれた友人、ボランティアの人たちには人としての心のありようを学ばせていただきました。「危険なところには行かないで下さいと言われてきました」と笑いながら来て下さった方々、「私は一年分の有休を全部もらってきました」と何日も通ってくれた友人、「何かできることはありませんか」と家族で弁当持参で来てくれた人、「何かのお役に立ててください」と義援金を届けてくれた人たち。負けんぞ、強く生きるぞと歯をくいしばっていた私でしたが、何度隠れて涙を拭いたことでしょう。ひとつの出来事には何か意味があり、命を残された私たちは、旅立たれた人の分も本気で生きなければと思いました。

 熊本地震の時の大野さんからのメッセージを読み返して、改めて能登半島地震で被害に遭われた方たちのことを思い、今自分たちに何ができるか考えています。

 342号 小さな世界都市
 私の人生の師から「なぜ豊岡は世界に注目されるのか」という本をいただきました。著者の中貝宗治さんは兵庫県議会議員を十年務め、その後の二十年は兵庫県豊岡市長として、理想の街づくりを実現させた方です。 
 中貝さんが目指してきたのは「小さな世界都市」。人口規模は小さくても、世界の人々に尊敬され、注目されるまちを目指し、絶滅したコウノトリを野生復帰させたり、受け継いできた地域の財産を守り育て、小さな街に人が集まる演劇祭を開催し、ジェンダーギャップを解消し、若い女性が戻ってきたくなる魅力溢れるまちづくり実現させました。
 今から五十三年前、野生のコウノトリの最後の一羽が豊岡で息絶え、日本の空からコウノトリが消えました。絶滅前にコウノトリを守る運動が豊岡で起こり、人工飼育が続けられましたが、ヒナは孵ることはありませんでした。転機が訪れたのは一九八五年、ロシアから六羽のコウノトリの幼鳥が贈られました。飼育員の松島興治郎さんがたった一人で大切に育て、人口飼育の開始から二十四年目の一九八九年に待望のヒナが誕生したのでした。農薬や環境汚染等で絶滅した野生の動物を再び野に帰す取組は「コウノトリも住める環境」を創ることでもありました。コウノトリも住める環境への取り組みを重ね、二〇〇五年九月二四日、コウノトリの野生復帰の日、秋篠宮両殿下のテープカットで五羽のコウノトリが大空に飛び立ちました。コウノトリのカップルはオスとメスが平等に巣作りをし、子育てをします。その姿はジェンダーフリーのお手本にもなっています。 
 現在、日本国内で生息するコウノトリは三〇〇羽を超えました。羽を広げると二メートルにもなるコウノトリが空を飛ぶ姿は豊かな環境の象徴となり、豊岡は世界中から注目を浴びるようになりました。
 豊岡市には「永楽館」という芝居小屋があります。五年前、四国で全国芝居小屋会議が開かれた時、中貝宗治さんとお会いして話を聴き、街づくりは一歩一歩の積み重ねだと実感しました。
 大間々も小さな世界都市になれると思います。
 341号 三大幸せホルモン
人間の脳は、さまざまなホルモンや神経伝達物質を分泌する力を持っていて、その種類は百以上もあると言われています。その中の【幸せホルモン】とはその名の通り、心を楽しく元気にしてくれる大切なホルモンのことで、@心の安定をもたらすセロトニン A意欲がみなぎるドーパミン B優しい気持ちになるオキシトシンを三大幸せホルモンと呼んでいるそうです。この三つのホルモンは毎日のちょっとした習慣や心がけひとつで簡単に作り出せるそうです。
 セロトニンの分泌を促すには、笑うことや笑顔を絶やさないことが大切で、作り笑いでもセロトニンは分泌され、高齢者の認知能力の低下を低下を抑える働きまで証明されているそうです。起きたらすぐにカーテンを開けて室内に日光を取り入れ、一日三分、呼吸を整えて瞑想を行うなど規則正しい生活が効果的と言われています。
 ドーパミンは目標を達成した後に分泌されるホルモンで、それを促すには小さな目標でもたくさん設定してそれを達成することを繰り返すことでさらにやる気や幸福感を高めることができてきます。
 オキシトシンの分泌を促すには、親しい人やペットなどとのスキンシップや肌触りの良い服やタオルを使ったり人に優しくする行動でも分泌が促されます。アメリカの大学では、困っている人を助けた際にオキシトシンが大量に分泌するという研究結果も発表されました。そして、@社会的に活躍し成功している人、A何もしてない人、B地域でボランティア活動などをして、ちょっと仲間を助けている人の三グループを比べると、一番幸せを感じて元気だったのはBのささやかでもボランティアを続けている人達だったそうです。自分だけでなく、周りの人にまでハッピーな気分を届けてくれるオキシトシンは「三方良し」の幸せホルモンとも言えそうです。
 今年も虹の架橋の発行を定期的に続け、トイレ掃除や三方良しの会の活動をコツコツと続けながら「三大幸せホルモン」の効果を発揮して、元気で楽しい毎日を送っていきたいと願っています。