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「小耳にはさんだいい話」へ


321号〜330号


 330号 変わったから訪れた幸せ
 今、富弘美術館では、第十回詩画の公募展が開催されています。その中で、愛知県岡崎市の友人・森本伸幸さんの入選作品が深く印象に残りました。

 森本さんは、一九九六年、会社の人事でアメリカ支社に異動になり、家族と共にロサンゼルスに移住。その翌年に病院で「悪性リンパ腫」と告げられ闘病生活が始まりました。しかし、持ち前の明るさで病状は回復し、職場復帰を果たしました。それから四年後、帰国の辞令が出た森本さんは、帰国の一週間前、仲間から大好きなツーリングに誘われ、そこでバイクが転倒、頸椎を損傷して首から下の機能を失ってしまいました。

事故で身体の機能を失い、将来への希望を失いかけた時、「何とかなるわよ」という奥さんの広子さんの言葉で救われたと言います。 

 森本さんは、詩画展に応募した理由を「事故で重度障害者となり、妻の介助なしでは生きられなくなりました。しかし、妻と行動するうち沢山の人たちと出会い、想像もしなかった楽しい日々を送っています。もし、あの事故がなかったらと想像した時の気持ちを描きました」と言っています。

五体満足のままだったら 

今頃何してるだろう 

車にバイク ゴルフに酒 

自由気ままに好き勝手に… 今は常に君に守られ生きている 大きく変わってしまった人生だけど 共通の話題が増えた 会話と笑いが増えた 

そして 出会いと友が増えた 変わったから訪れた幸せに感謝 

 星野富弘さんは詩画集『あなたの手のひら』で「絵と文字という別のものを一枚の絵の中に描いていくうちに少しずつ分かってきたのですが、絵も詩も少し欠けていた方が良いような気がします。欠けているもの同士が一枚の画用紙におさまった時、調和のとれた作品になるのです。これは詩画だけでなく、私達の家庭も社会も同じような気がします。欠けている事を知っている者なら助けあうのは自然な事です」と書いています。

 

  329号 これでいいのだ
 清瀬市に住む友人のご好意で、毎月『生命尊重ニュース』という冊子を読ませてもらっています。その十二月号には「ありがとうは不思議な言葉」という木村悠方子さんのいい話が載っていました。

 木村さんは「今は科学が発達して、言葉の波動の低い高いが測れる波動測定器ができました。波動数の低い言葉は、不平・不満・愚痴・悪口・文句・ついてない・心配・許せない等の思いを表す言葉です。嫌な言葉を発したり言われたりすると、氣が落ち込みますね。波動免疫力も運氣も下がります。そして、嬉しい言葉、ありがとう・感謝します・大丈夫・幸せ・大好き・満足・ついている・愛していますという言葉は波動が高い言葉です。波動測定器で測定すると30前後あります。反対に波動数の低い言葉の代表のような、怒る・困った・悲しいと悩んだり、苦しい・怖いなどの言葉は3か2しかありません。10以下の言葉は思わない、使わないようにしましょう。波動が高い言葉・嬉しい言葉を使う方が自分の波動や免疫力を上げ、心も穏やかで明るくなり、より一層多くの方に笑顔を差し上げることができます。和顔施です。

 バカボンのパパの口癖の「これでいいのだ」は、波動数38と高く素晴らしい言葉です。「これでいいのだ」は「すべてをありのまま受け入れる」というお釈迦様の姿勢にも沿っており、悟りの境地をある意味示していると言われています。又、バカボンという名前は薄伽梵(ばぎゃぼん)、つまりは仏に由来しているとも言われています。「これでいいのだ」は、全ての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受容れることです。それによって人間は『陰』の世界から解放されます」

「ありがとう」を自分の年齢×一万回唱えると人生が好転するそうです。新しい年を迎え、これから一年、「ありがとう」と「これでいいのだ」を口癖にして、人生がさらに好転することを目指したいと思います。

 

 328号 間ぬけ銅
 「間ぬけ銅」という話は、足尾銅山発見の経緯を、大間々町小平の阿久津直司さんが古文書の記録を元に落語調に面白おかしく創作し、冊子にまとめたものです。

  足尾銅山は慶長十五年(一六一〇)に発見されたとされていますが、実際にはそれより六十年も前の天文十九年(一五五〇)に発見され、山奥の足尾村には多くの人が住んでいたそうです。(古河鉱業発表)

 戦国時代は、武士に限らず僧侶や民衆も権力争いに巻き込まれていましたが関ヶ原の戦い(一六〇〇)で徳川家康が勝ち、江戸時代が始まると足尾の人たちは、それまで秘密にしてきた足尾銅山の存在を徳川家康に知らせ、庇護を求めることにしました。そして、家康の孫の徳川家光の袴着の儀(現在の七五三)が行われるおめでたい年に銅山が発見されたことにして家康を喜ばそうと決めました。案の定、家康は大変喜び、早速、鉱山奉行に現地調査を命じました。

 鉱山奉行が調査に来ることを知った日光の僧侶たちや首謀者の座禅院や名主たちは大慌て。掘り返した穴がいたるところにあるのを見られたら、発見されたばかりという嘘がバレてしまいます。奉行は、幅広い鉱脈を見て喜び、「他も見たい」と言い出します。「他のところは一切見せず連れ戻せ」と言われていた案内人は顔面蒼白。「これから行くと暗くなります」「気にするな。提灯も持ってきた」「酒席が用意してありますので」「わしは生憎下戸だ。何か見られて都合の悪いものがあるのか」「何もありません」。そして、掘り返した穴を見つけられた案内人は、熊が掘ったとか、猪の寝床だと言い訳をします。奉行は「この者共は危険ではなさそうだ。ここは見なかったことにして彼らの面子を立ててやるのも徳川のためだろう」と判断しました。

 奉行と案内人の滑稽なやり取りや解説の中で、銅が作られる工程や「間吹銅」「問ぬけ銅」という落語のオチも理解できました。

 みどり市では二〇一六年から「百年後まで語り継がれる創生落語」として「石原和三郎」「大間々あきんど物語」「岡上景能」の三つの新作落語を作り、ながめ余興場で市内の小学生に聴いてもらっています。

 

 327号 郷土の偉人・吉村屋幸兵衛
 「三方良し」の会の定例会議で会員の須永孝治さんから『吉村屋幸兵衛関係書簡』(横浜開港資料館発行)という分厚い本をお借りしました。須永さんのお父さんの重雄さんは郷土史家として貴重な郷土資料を収集し、ご先祖は吉村屋幸兵衛とも交流がありました。

 吉村屋幸兵衛(天保七年〜明治四十年)は、十七歳で大間々の二丁目で糸繭商を始め、安政六年、横浜開港と同時に横浜に店を移し、またたく間に商才を発揮して「横浜の三巨頭」と呼ばれるほどの生糸貿易商になりました。慶応四年、明治元年には売上げが百万両を超えていたという記録が残っています。明治政府は生糸貿易を発展させるために明治二年に横浜為替会社を設立し、吉村屋幸兵衛が頭取に任命されました。さらに、翌年には大蔵省の金融制度視察団の一員として、伊藤博文らと共にアメリカ合衆国を訪問しています。帰国後は明治五年に設置された第二国立銀行の設立にも大株主として参画して活躍しました。

 明治十一年、幸兵衛は吉村屋の営業権を渋沢喜作(渋沢栄一の従兄)に譲渡して引退隠居しています。幸兵衛四十三歳の時でした。  

 『吉村屋幸兵衛関係書簡』の中に、幸兵衛が大間々にいた頃は吉田孝三郎と名乗っていたという記述があり、ずっと疑問に思っていた謎が解けました。それは、毎年大間々祇園祭で使っている大太鼓の寄進者の最初に書かれている吉田孝三郎なる人物は誰なのかという疑問でした。大太鼓の胴には「?政四年巳年 吉田孝三郎 須永惣右衛門 金子平右衛門 佐藤六左衛門 長澤小兵衛 二丁目若者」と彫られています。須永、金子、佐藤は戦国末期に大間々を開いた「大間々六人衆」の子孫で、長澤小兵衛も町の歴史に貢献した人物でした。吉田孝三郎が吉村屋幸兵衛だと解ったことで、この太鼓が文政四年ではなく安政四年だったと解りました。太鼓が寄進された百六十五年前、幸兵衛は二十三歳の若者でした。

 大間々祇園祭はあと七年で四百年を迎えます。私たちの先祖が代々大切にしてきた祭りをしっかりと後世に継承したいと思います。

 

 326号 「つながり」の中で生きる
 毎月、友人から「ニューモラル」という冊子をもらって読んでいます。モラロジー道徳教育財団が発行するこの冊子は昭和四十四年九月創刊以来、心豊かな人生、楽しい家庭、明るい職場、住みよい社会をつくるための心遣いと行いのあり方を提唱しています。九月号の「つながりの中で生きる」という話にも共感しました。  

 情報通信技術が発達した今、私たちは世界各地で起こっている出来事について、即座に情報を得ることができるようになりました。その反面、都市部では、自分の家の隣にどんな人が住んでいるか知らないということもあります。「ご近所同士の助けあい」がなくても日々の暮らしが成り立つほど便利な世の中になったということかもしれません。便利な生活に慣れてくると、他人と関係を結ばなくても自分一人で生きて行けると錯覚してしまいそうですが、便利で快適な生活を送ることができるのも、さまざまなサービスを支えてくれている人たちの働きがあるからで、「お世話になっている」という意識があるかないかに関わらず、私たちは多くの人たちとの「つながり」に支えられて今を生きています。

 私たちは身近な人や社会との「横のつながり」の中で、「世の中の支え合い」に参画することができます。一人ひとりが社会の一員としての務めを果たすことで、社会の機能は保たれ、発展していくのです。さらに、過去から未来にわたって続いていく「縦のつながり」の中で、「次の世代の人たちがより幸せになるように」という先人の思いを受け継ぎ、子孫たちの幸せを願って社会の維持・発展に努めることも祖先の世代の恩恵に報いることになるのではないでしょうか。 

 自分自身を支えてくれている縦と横のさまざまな「つながり」を再認識し、これらの「つながり」をさらに豊かに育みながら、一人ひとりの「心豊かな人生」と「住みよい社会」を築いていきたいものです。 

「ニューモラル」の本の中に「先人木を植え、後人その下(もと)に憩(いこ)う」という言葉がありました。

私たちの今の幸せな生活は先人のお陰だと思います。

 

 325号 生きるという仕事
先日、さくらもーるで『星野富弘花の詩画展』を開催し、十日間で千人以上の人たちに観ていただきました。星野富弘さんは群馬大学を卒業後、中学教師になって二カ月目に部活の指導中に頸椎を損傷、首から下が動かなくなってしまいましたが口に絵筆をくわえて絵や詩を書きはじめ、その作品は多くの人に感動を与えています。
 富弘さんは著書の中で「私はたまたまこんな大けがをしましたが、だからといって私だけが特に大変というわけではなく、人は皆、それぞれ他人にはわからない苦しみや悲しみを抱えています。大切なのは、それをどう受け止めていくかということではないでしょうか。確かに、けがをして大変な思いをしました。人にもずいぶん迷惑をかけました。でも、何も起きずに順調に生きている自分を想像すると恐ろしくなります。教師としても人間としても、何も知ってはいなかったからです。障害ゆえにできなくなったことも沢山あります。でも、いのちより大切なものに気づくことができた。けがをしたおかげで、この人生ほんの少し得をしたかな…と思っています。作家の三浦綾子さんが晩年「私には死ぬという大切な仕事が残っている」とおっしゃっていましたが、死ぬということも神さまが下さる仕事で、自分の努力で死ねるわけではありません。私はけがをして、「死」と枕を並べて寝ているような時期もありました。でもこうして生かされて、今、いのちが与えられている。ですから、神さまに「死ぬという仕事」を与えられるまで「生きるという仕事」をしっかりさせていただきたいと思っています。せっかく生かされたいのちです。しまい込まず、使い込んで良い味が出るまで、思いきり使っていきたいと思っています」 (いのちのことば社『いのちより大切なもの』より)

「今日という日」という富弘さんの詩があります。
 今日という日は二度と来ない 二度と来ない日が毎日来る 目覚めればスイッチを入れないのに 目には画像が映り 気がつけば呼吸もしている 
生きていることを忘れていても生きている 誰に感謝したら良いのだろう 
今日も一日が始まった

324号 凡事徹底
  『凡事徹底』ー前橋育英高校野球部で教え続けていることーという本が出版されました。「はじめに」で前橋育英野球部の荒井直樹監督は「私が書けるのは、ほんの些細なことだ。だがその小さな出来事の積み重ねが今に辿り着いたのは間違いない。『当たり前』を当然と考えて疎かにするのではなく、『当たり前』だからこそ徹する、しかも誰より、丁寧に、しぶとく、」と書かれていました。

 今から二十三年前、荒井監督が前橋育英の指導者になり、指導方法に迷っていた頃、たまたま読んだ雑誌で、イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんの『凡事徹底』という言葉に出会ったそうです。「誰にもできることを、誰にもできないくらい徹底してやること」という言葉に「まさにその通り」と感服した荒井監督は、野球の中で最も大事で、すべての要素が含まれているキャッチボールを徹底的に指導することにしました。そして「何度言ったらわかるんだ」ではなく、同じことを表情を変えずに言い続けました。甲子園で優勝する前は「あのやり方では絶対ダメだ」、「怒らないから勝てない」と言われ続けてきましたが、八年前に初優勝してからは「凡事徹底の発想がいい」「選手を信じる指導がいい」「怒らないから選手が伸びる」と称賛されるようになりました。

 荒井監督は「何が正解かはわからない。だが、選手たちに求め、自らに掲げるのは、誰かを超える、この人に負けないではなく、『自分を超える』ということ。そう考えれば、きっと少しずつ、たとえ1ミリでも成長できるはずだ」と語っています。「指導者として私にできることは、寄り添うこと」という言葉は、荒井監督の人柄を端的に表していると思います。

 荒井監督と鍵山秀三郎さんが初めて会ったのは、前橋育英が優勝した翌年の二月、鍵山さんが大間々へお越しになった日のことでした。「凡事徹底」を実践し続け、多くの人たちに感動と共感を与え続けるお二人の話を目の前で聞いていた私たちも深く感動し、「凡事徹底」を唱えるだけでなく実践しようと誓いました

 323号 3年ぶりの感動特集
  三十年前からネパールで単身で支援活動を続けているOKバジこと垣見一雅さんが日本に帰国し、全国各地で支援者へのお礼の報告会を開いています。帰国直後に届いた垣見さんからのメールを読んで、私たちが忘れていた大切なことに気づかせていただきました。  

『去る五月十四日、三年ぶりに日本に帰ってきました。カトマンズからの直行便 RA 433が成田空港に着陸した時のドシンというショックが、今でも気持ちをワクワクさせてくれます。空港内ではコロナ関係の検査で三時間かかりましたが、無事に通過しました。

 今日は三年ぶりに帰ってきた感動特集をお送りいたします。 

あまり迷わずにSuicaのリチャージができて感動。

娘の所に着いて水道の蛇口から水が出、更にそれが飲めて感動。

シャワーの水勢の強さに感動。さらに湯が出て大感動。

湯船に三年ぶりに浸かって天国気分で感動。(涙が出たことは内緒です)

洗濯を機械がやってくれて感動。

日本語で買い物ができて感動。

醤油味に感動。旨い。懐かしい。

どの車も僕の頭と同じピカピカで感動。

道にゴミが落ちてなくて感動。凄い!

電車のpunctuality(時間厳守)に感動。すごい国です。

自分の母国がこんなに素晴らしい所だと改めて思い直し、嬉しさが伝わり、また感動。 

 でもネパールと違って少々悲しかったことは、

子供の声が聞こえない。人の顔の表情が固い。笑い声が少ない。空が狭い。漲るエネルギーが感じられない。下向き老人が多い。(僕もかな?)

これから皆様の所にお邪魔させていただきますのでよろしくお願いします』

 

 私たちは恵まれ過ぎて、感謝や感動を忘れていると思いました。トルストイの

「一切の不幸せは不足から生ずるのではなく有り余るところから生ずる」という言葉通りだと思いました。感謝を忘れず前向き老人になろうと思いました。

 

 322号 小善のすすめ

 今から三十年ほど前にカー用品のイエローハットの創業者・鍵山秀三郎さんを知りました。鍵山さんは自転車一台で行商から身を起こし、一代で理想の会社に仕上げた尊敬する人格者です。鍵山さんは小さなことを疎かにしない「凡事徹底」の実践者で、その生き方に共鳴した人達が「日本を美しくする会」を作り、「掃除を通して心の荒みをなくし世の中をよくする」という活動を続けています。鍵山さんと出会ったことがきっかけで大間々駅のトイレ掃除がはじまり、その翌年には大間々の「ながめ余興場」で鍵山さんの講演会を開きました。その時の話を本にしたのが『小善のすすめ』です。

 今から三千年前に作られた中国の『易経』という書物の中に、「小人は小善をもって益なしとして為さざるなり。小悪をもって傷(そこな)うなしと為して去らざるなり」という言葉があります。鍵山さんは「小人(普通の人)は、小さな良いことをしても益はないと思ってやらない。例えば、目の前にゴミや空き缶が落ちていても自分にプラスになるわけではないと思ってやらない。一方、吸殻や空缶を捨てるような小悪をしても誰も見てないからいいだろうと思って小悪を止めない。小善はやらないで、小悪はやるのと、小善をやって、小悪をやらないのとでは、一日や二日では大した差ではありませんが、五年十年と続けると、人生が変わるくらい大きな差になるのです」と言っていました。道端にゴミや空缶が落ちているのを見ると、今でも鍵山さんの笑顔と「小善」と「小悪」という言葉が頭に浮かんできます。

 鍵山さんが大間々に来るたびに、駅のトイレ前の花壇の雑草を一本一本丁寧に抜いて、同じ向きに束にして並べながら『益はなくとも意味はある』という言葉も教えていただきました。

 大間々駅のトイレ掃除は平成九年七月二十五日に第一回目を行い、一週も途切れることなく、六月十日で千三百回を迎えます。そして、七月には丸二十五年を迎えることになります。『十年偉大なり、二十年畏るべし、三十年歴史なる』という言葉通り、一回一回の小さな積み重ねが歴史を作り、自分自身を作り上げていくのだと思います。

321号 はがき一枚の力

 今から二十九年前、単身でネパールの寒村に移住し、村々への支援活動をはじめたOKバジこと垣見一雅さんは、長年の活動が評価され、ネパール暦の一月一日(四月十四日)にネパールの大統領から勲章を授与されました。その時の報告と写真がメールで送られてきました。「大統領や首相をはじめとしてお偉方がずらりと並んでいる前で、一人一人の名が呼ばれ、簡単に活動内容が説明され、大統領からメダルを受け取りました。今回私が着ているものは上から下まで全て村人達がプレゼントしてくれたものです。着せ替え人形ぶりをご覧ください。・・・今年は帰国できることを楽しみにしています」

 桐生市の富澤繁司さんと垣見さんは三十数年来の友人で、垣見さんがネパール移住を決めると同時に、物心両面の支援を開始、桐生で「OKバジを支援する会」を立ち上げました。小さな善意の累計は桐生の会だけで六千三百万円を超えました。今では全国に支援団体が誕生しており、富澤さんも天国でさぞ喜んでいると思います。

 OKバジは『からっぽがいい』という著書の中で、「毎年、父の日にネクタイを買う代金の中から、千円寄附してくださる方がいる。ある年、その千円で山奥の子どもたち五十人に、一冊二十円のノートを買ってプレゼントした。子どもたちがそのノートを高く上げた姿を写真に撮り、寄付してくれた方に送った。彼女は自分の千円がこんな形で活かされたと、喜びの手紙を送ってくれた。それを受け取った私も、さらに嬉しくなり、お礼のハガキを書いた。喜びのキャッチボールである。この種の喜びが私を励まし、私を生かしてくれた。私がたくさんの団体、個人の方から支援金をお預かりできたのは、一見小さく見えるハガキ一枚の力だと信じている」、という話の通り「寄付をするならOKバジへ」という方が増えています。

 六月四日午後二時、OKバジが三年ぶりに桐生に来て、文化会館で活動報告会を開催する予定です。