ホームへ 
「小耳にはさんだいい話」へ


311号〜320号


 320話 人間の一生

 掃除を通して心の荒みをなくし、世の中をよくすることを目指して活動を続けている「日本を美しくする会」の情報紙『清風掃々』に宮城県多賀城市の小畑貞雄さんの手記が載っていました。

 小畑さんは東日本大震災の津波で家財道具が流され、不便な生活を強いられていたにも拘わらず、五百人の被災者が生活していた体育館のトイレ掃除をたった一人で続けてきました。「平日は仕事が終わったあとの四時間、そして週末は午前の昼にかけて、毎日トイレ掃除をさせていただきました。多くのボランティアの方が来られましたが、残念ながらトイレ掃除を一緒にしますという人は一人もいませんでした。避難所生活が続く中、他の避難所では感染症が起きましたが、この体育館では感染症の発生はありませんでした。十月末に避難所が閉鎖されるまで、一日も欠かさず続けてきました」と十一年前のあの頃を振り返っています。そんな小畑さんが大好きな言葉が森信三先生推奨の「人間の一生」という言葉だそうです。

  人間の一生

 職業に上下もなければ貴賤もない。世のため人のために役立つことなら、何をしようと自由である。しかしどうせやるなら覚悟を決めて十年やる。

すると二十からでも三十までにはひと仕事できるものである。それから十年本気でやる。

すると四十までに頭をあげるものだが、それでいい気にならずにまた十年頑張る。

すると五十までには群をぬく。しかし五十の声をきいた時には、大抵のものが息をぬくが、それがいけない。「これからが仕上げだ」と新しい気持ちでまた十年頑張る。

すると六十ともなれば、もう相当に実を結ぶだろう。だが、月並の人間はこの辺で楽隠居がしたくなるが、それから十年頑張る。

すると、七十の祝は盛んにやってもらえるだろう。しかし、それからまた、十年頑張る。するとこのコースが一生で一番おもしろい。

 大間々駅のトイレ掃除が千回を迎えた日、宮城県から仲間と一緒に駆けつけてくれた小畑さんの信念や生き方を見習い、私も七十歳からの十年を頑張りたいと思っています。 


319話 夫がくれたご褒美

大間々町の西條久江さんは、第十六回国民文化祭書道部門で文部大臣奨励賞を受賞し、大間々町ボランティア連絡協議会会長や大間々町文化協会理事などを歴任した文化人で、『風人』という短歌結社の隔月誌も楽しみに読ませていただきました。その西條さんが令和三年度群馬県文学賞(短歌部門)を受賞しました。受賞作品は『車に乗せむ』と題する三十篇の短歌で、ご主人との最期の別れの心情や若き日の思い出が三十一文字に凝縮され、読む人の心に深く沁み入る歌ばかりでした。

面会の叶はぬならば六十年ぶりにしたたむ夫への手紙

玻璃越しに君との面会許されてマスクの下にうすく紅差す

きみが手にそっと触れたる遠き日よ硝子を間に手と手を合はす

皴深きわが手をとりて四日前「苦労かけた」と夫言ひくれし

突然にその時の来ぬ真夜中に電話のベルの高鳴りつづく

きみ背負ひふるさと歩く昨夜のゆめ車に乗せむ明日は納骨

八十七年生きし証しの診察券五枚六枚捨て難くあり

新盆の夕ぐるるとき突然に窓に入りくる精霊バッタ

思ひ出の中に赤城を埋めおく覚満淵を歩きし夏の日

約束は一番電車山頂にれんげつつじが炎と燃えし

遅咲きの桜咲くころまた来むか谷川連峰遠く真白し

ご主人の幸雄さんがお元気だった頃、ご自宅に近い「さくらもーる」でよくお会いし、笑顔で声をかけてくださった姿が思い出されます。久江さんは、地元新聞の取材に「受賞は夫がくれたご褒美かな」と答えていました。とても羨ましいご夫婦でした。

 
318号 ちよにやちよに

 『ちよにやちよに』(発行・文屋)という絵本を読んで感動しました。虹の架橋でも何回か紹介したことがある白駒妃登美さんが文を書き、吉澤みかさんが温かい絵を描き、山本ミッシェールさんの英訳も入った素敵な絵本です。

 私たちの国歌「君が代」は今から千百年以上前の平安時代に編纂された「古今和歌集」に収録された和歌です。その時は、「わがきみは ちよにやちよに さざれいしの いはほとなりて こけのむすまで」という歌で、恋する人に「小さな石が集まって大きな岩となり、そこに苔が生えてくるくらいあなたの命が続きますように、そしてあなたがずっと幸せでありますように」と詠んだ歌だっだそうです。そして百年ほど後に編纂された「和漢朗詠集」には、「君が代は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて 苔のむすまで」と手が加えられました。「わが君」が「君が代」になったことで、和歌に新たな命が吹き込まれました。君というのは、恋人や親しい人だけでなく、一族の長老や主人も表します。君が代の「代」は命や寿命のことで「あなた様の御代がいつまでも続きますように」という一族の繁栄を祈る歌になりました。そして明治に入ると日本の国歌として歌われるようになり、法律で国歌と定められたのは平成十一年のことでした。

その「君が代」が辿ってきた旅を絵本で表現したのが「ちよにやちよに」です。 

 白駒さんは「わずか三十二音から成る、世界で一番短い国歌『君が代』は世界で一番古い歌詞を持つ国歌でもあるのです。そこには和を尊び、命を慈しむ先人たちの真心が溢れています。もしかしたら『君が代』は、先人たちから今を生きる私たちに、そして同じ地球に暮らす、あらゆる命に向けられた時空を超えたラブレターなのかもしれません。永い歴史の中で、国民みんなの歌として愛され、やがて国歌となった君が代の『旅』、この旅が地球に暮らす私たち家族の未来に希望の光を灯してくれることを信じてこの絵本を作らせていただきました」と結んでいます。

 この本の発行元である文屋さんでは、「寄付本プロジェクト」として、未来を創る子どもたちにこの本を贈る活動もしています。

 

317号 神宮大麻

 伊勢神宮は私たち日本人の総氏神であり、皇室の祖先でもある天照大御神を祀る全国の神社の中心です。日本全国には神社が八万社以上あり、コンビニの数より多いそうです。貞和三年(一三四七)に伊勢神宮から勧請したとされる大間々の神明宮は一町十八ヶ村の惣鎮守として、この地域に住む人々の安寧を護り続けています。

 毎年十二月になると、私たち崇敬会役員が地域の家々を回り、神宮大麻のお札(天照皇大神宮・大歳神)を頒布しています。天照皇大神宮のお札には「皇大神宮御璽」という天皇の印が押されています。これは天照大御神が天皇家の祖先である証でもあります。

 大歳神御璽のお札は、毎年正月に各家にやってくる来訪神のお札です。私たちが初日の出を拝むのは、年神様が降臨すると信じられているためであり、門松は、年神様が来訪するための依代(よりしろ)であり、鏡餅は年神様へのお供え物です。年末に神棚の中央に天照皇大神宮のお札を飾り、向かって右側に大歳神御璽のお札を飾ります。一般には松飾りを外す日に外してお焚き上げをします。

 古事記には、天照大御神の弟が正義感の強い須佐之男命(スサノオノミコト)であり、その子供が正月に来訪する大歳神様と書かれています。

 美智子上皇后陛下が国際児童図書評議会の基調講演で、疎開していた頃にお父様がよく神話や昔話の本を持ってきて下さった思い出を話されています。「私は、自分が子供であったためか、民族の子供時代のようなこの太古の物語を、大変面白く読みました。今思うのですが、一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を怖れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらと感じられます。父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えてくれたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました」

 お正月は、私たちの先祖や日本民族の共通の祖先とのつながりを感じさせてくれる時だと思います。

 

316号 継続するための秘訣

 事務所の本棚にあった『正しく生きる』という本を読み返しました。この本は「掃除を通じて、世の中から心の荒みをなくしたい」という目的で活動を続けている NPO法人「日本を美しくする会」の相談役でイエローハット創業者の鍵山秀三郎さんが書いた本です。この本の中に「継続するための秘訣」が書かれています。 

 なにかを継続するには、「工夫すること」が欠かせません。ふつう単純なことは工夫する余地がないと思われていますが、そこを工夫するのです。たとえば掃除は、もう工夫するところなどどこにもないと思われています。だから続かないわけです。工夫することが継続のエネルギーになります。工夫して改良していけば、気持ちが前向きになってやる気が起きてきます。つまらないと思っていたことがおもしろくなり、長く続けることができるでしょう。
 それともうひとつ、継続するための秘訣があります。それは、自分の心の底に絶えず「人を喜ばそう」という気持ちを抱いていることです。それがない人は、いくら目先を変えてみても継続することができません。表面的な利益を求めて「これを習慣にすると得をする」というような考えで続けようと思っても、決してうまくはいきません。また「誰か早く認めてくれないかな」と思ったり、打算や名誉心を持ったりすると続かないのです。なぜなら、自分の期待が外れるからです。甘い期待というのは、ことごとく外れるものです。期待が外れた瞬間にいやになってしまいます。人生では期待通りに行くことなどほとんどありません。そのときに自分を奮い立たせてくれるものが「工夫」と「人を喜ばせたい」という思いなのです。

 十年以上前、富弘美術館のトイレ掃除をしているシルバー人材センターの方たちと一緒に掃除をしたことがありました。先日、富弘美術館で十年前に一緒に掃除をした方から「トイレ掃除のスポンジの選び方を教えてください」と尋ねられたので、イエローハットで売っている洗車用のスポンジを差し上げました。その方は自分の仕事であるトイレ掃除に誇りを持ち、常に工夫をし、人を喜ばそうとしている人なのだろうと思いました。

 

315号 免疫力をアップする3つのスイッチ 

『一日一話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書』という本を毎日一ページずつ読んでいます。十月十七日のページは吉丸房江さんの『免疫力をアップする三つのスイッチ』という話でした。

 「ナチュラルキラー細胞は体の中のパトロール隊、この細胞をフル稼働させ、免疫力を高めるためには三つのスイッチがあります。 

 一つ目のスイッチは、皮膚に気持ちのいいことをすることです。食べた後にお腹をさするのは、本能的に皮膚が内臓につながっていることを知っているからです。皮膚に刺激を与えると内蔵は活発に動き出します。気持ちのいい肌着をつけることも大事なことです。

 二つ目のスイッチは笑うこと、人間が笑った時、体内では十三本の神経が触れ合って、免疫力を高めるホルモンを分泌しています。

 三つ目のスイッチは感謝すること。それも「おおげさに」です。どんな物事にも順序があるように、元氣になるのも一足飛びにはいきません。まずは小さなことにも感謝をしましょう。そうすると喜びが湧いてきます。喜びが湧いてくると元氣になります。だからまずは大げさに感謝する事から始めましょう。こんな辛い人生を歩んで、一体何に感謝をすればいいでしょうか?そんな人もいるかもしれませんね。しかし、「すっ」と一息が吸えたら、それはもう感謝すべきことです。その一息が吸えずに人は死んでいくのですから・・・

宇宙には法則があります。それは自分が投じたものが返ってくるということです。あるいは波動といってもいいかもしれません。すべてが波動であり、それに合わないことは起こらないのです。」

 

 吉丸房江さんの話を読んで私も実践しようと思いました。そして、プロテスタントの牧師・河野進さんの詩を思い出しました。

 

 天の父さま?

 どんな不幸を吸っても?

 吐く息は感謝であり

 ますように?

 すべては恵みの呼吸

 ですから

314号 論語脳と算盤脳

 さいたま市の友人から『論語脳と算盤脳』という興味深い内容の本を頂きました。著者は都立駒込病院脳神経外科部長の篠浦伸禎先生。「渋沢栄一はなぜ論語(右脳)と算盤(左脳)を両立できたか」という答えを脳の働きの視点から解りやすく解説しています。

 渋沢栄一は生涯で五百もの企業と六百もの公共社会事業の設立に関わり、九十一歳で亡くなるまで生涯現役で激務を全うしました。経済学者のドラッガーは「経営の本質は社会的責任であり、それを見事に実践した渋沢栄一はカーネギーやロックフェラーより優れていた」と激賞していたそうです。 

 渋沢栄一は幼い頃、論語や四書五経など数多くの本を「素読」しました。素読とは、たとえ意味がわからなくても、声を出して読み、音でそれを覚えることです。現代では、学校で素読は行われていませんが、江戸時代は、教育の中心は素読でした。素読の利点は、非常に多くの情報量を幼年期に正確に脳の中に入れることができることです。人間の脳の神経細胞は四〜五歳の頃が一番多く、神経細胞をつなぐシナプスは十歳くらいから急激に数を増やすと言われています。意味がわからなくても多くの情報を幼い頃に入れておけば、十歳を過ぎてシナプスが増えてくるとともに、自然とその音の持つ意味がわかってきます。 

 渋沢栄一は後年、「この教育法がよかった。論語が頭に入っていたから人生の岐路で判断を間違えなかった」と述懐しています。

 篠浦先生は「現代人は、論語や偉人の伝記を学んで志を立てるという、脳科学的にもきわめて合理的な手段を失ったことが、不安やストレスの原因であると思います」と書いています。

 渋沢栄一は論語(道徳)的生き方を常に上に置き、それを実現するために算盤(経済)を生かし、幸せな社会を目指してきました。

「今学校で行われている左脳的な知識教育ではなく、渋沢栄一を育てた右脳主体の教育に戻せば、必ずこの国をいい方向に変えていけると私は確信しています」という篠浦先生の最後の言葉に深く共感しました。

313号 習慣が人を創る

長崎県で、人格を磨くことを目的とする私塾「徳塾終身館」を主宰する寺井一郎先生が『浩然の氣を養ふ』という本を上梓しました。イエローハット創業者の鍵山秀三郎さんは、推薦の言葉の中で「知識や技術は人格には及ばない。この本は、人格陶冶の手引書としても大いに役立つものと確信しています」と書いています。

 この本を読み進めていくと、日本という国の歴史や文化の素晴らしさに改めて気づかされ、日本人として生まれたことに誇りと感謝と責任の念が湧いてきました。

「習慣が人を創る」というページにこんなことが書かれています。

 

 受けることが習慣になると

 与えることが惜しくなる

 しかし

 与えることが習慣になると

 寛容で思い遣り深い人になる

 

 怠けることが習慣になると

 励むことが厭になる

 しかし

 励むことが習慣になると

 誠実で信頼を得る人になる

 

 食べることが習慣になると

 空腹に不満をもらす

 しかし

 粗食が習慣になると

 質実剛健で節操が堅い人

 になる

 

 当たり前が習慣になると

 感謝の念が湧かない

 しかし

 感謝の念が習慣になると

 素直で謙虚で礼儀正しい

 人になる

 

 自信過剰が習慣になると

 祈りが疎かになる

 しかし

 祈ることが習慣になると 

 上品で慎み深い人になる

 

 マザーテレサ曰く、

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

 「習慣」とは、小さなことの積み重ねだと思います。小さなことを丁寧に行う『凡事徹底』の生き方を実践したいと思います。

312号 逆境の時こそ力を尽くす

 人間学を学ぶ月刊誌『致知』を二十年以上前から読んでいます。八月号は「積み重ね、積み重ねてもまた積み重ね」というテーマで帝国ホテルの十代目社長・定保英弥さんの記事が載っていました。
 帝国ホテルは百三十一年前、「日本資本主義の父」とも称される渋沢栄一翁が初代会長となり、「日本の迎賓館」を目指して創業しました。定保社長は、「去年は創業百三十年の節目の年であり、東京五輪を終えて開業日の十一月三日にはスタッフやお客様と一緒に盛大にお祝いする予定でしたが新型コロナウイルスの影響でお祝いムードから一転、これまで経験したことのない困難に直面しました」と話しています。定保社長は渋沢栄一翁の「逆境の時こそ力を尽くす」という言葉を常々スタッフに伝え、それが帝国ホテルの行動規範になっているそうです。

 今から十年前の東日本大震災の時、交通機関が麻痺し、帰宅困難となった約二千名もの人たちが帝国ホテルのロビーに溢れました。当時、総支配人だった定保さんはすぐに危機対応の態勢を整えましたが、驚いたことに、上から指示する前に、現場のスタッフたちはロビーに椅子や毛布を出したり、備蓄用の飲料水や乾パン、携帯電話の充電器などを用意しました。そして、調理のスタッフたちは避難者の身体を少しでも温められればと考え、震災の翌朝には、避難者全員に野菜スープを振る舞いました。丸十年経った今も「あの時はお世話になりました」という手紙が届くそうです。

 帝国ホテルには「100-199」ではなく、「100-10」というサービスの教訓となる数式があります。ドアマンがお客様をお迎えし、チェックアウトをしてお見送りするまでの間、どこかひとつの部門、たった一人の担当者がお客様の期待にお応えできなければ他でどんな素晴らしいサービスを提供しても全て台無しになってしまう。信用やブランドを構築するには十年の歳月がかかるけれども、それを失うのはたった十秒。そして再び信用やブランドを取り戻すには十年を要するという「一〇・一〇・一〇の法則」というのもあるそうです。

 渋沢栄一翁の精神を脈々と受け継いでいる帝国ホテルの「おもてなしの心」を見習いたいと思いました。

311号 いのちより大切なもの

 六月十日から二十日まで、さくらもーるのセンターコートで『星野富弘・花の詩画展』を開催しました。期間中の来場者数は千名を超え、「富弘美術館を囲む会」に入会した方もたくさんいました。

 星野富弘著『いのちより大切なもの』の中に富弘さんが入院中の時のことが記されています。

「二十四歳でけがをして入院していた時、膀胱に管を入れて尿を排泄していましたが管が詰まってしまうことがよくありました。苦しがっている私を見かねて、母は、私の尿道につながっていた管を口にくわえ、息を吹き込んだり吸ったりして管のつまりをとってくれたのです。母親にしかできないことだと思います・・・」

 この話を読んで以来、富弘さんの「ぺんぺん草」という詩がいっそう心の中に響いてきました。 

神様がたった一度だけ 

この腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう 

風に揺れるぺんぺん草の

実を見ていたら 

そんな日が本当に

来るような気がした 

 また、東日本大震災の時のことも記されています。「津波が迫る中、水門を閉めるために津波のほうに向かって走っていった人、人の波に逆らうようにして、「津波が来るぞ」と知らせて回っていた人、その人たちは皆、自分のいのちより大切なものに向かっていった人ではないかと思います」 

いのちが一番大切だと

思っていたころ 

生きるのが

苦しかった

 

いのちより

大切なものが

あると知った日 

生きているのが嬉しかった

 今回の詩画展を何度も観てくれたSさんの感想を読んでとても感動しました。

 

「いのちより大切なもの?解らず本を買いました。あっ、私のいのちより大切なものがありました。富弘先生、教えていただきありがとうございました。

 私は膵臓を摘出して、今はインスリンの力で生きています。今まで私は薬で生かされていると思っていました。でも、これからは自分で生きることにします。大切な人たちの為に!