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「小耳にはさんだいい話」へ


301号〜310号


 
310話 支援される喜び・する喜び
OKバジこと垣見一雅さんは、平成五年からネパールのドリマラ村という寒村に住み、単身で村々を歩いて支援活動を続けています。バジとはネパール語でおじいさんのこと。村人の願いをOK、OKと叶えてくれるのでOKバジと呼ばれるようになりました。
 毎年、ネパールが雨季の六月〜七月には日本に一時帰国して、全国各地の支援者への報告会を開いてきましたが今年も去年に続き、新型コロナウイルスの影響で帰国できなくなってしまいました。日本とネパールの間の郵便も閉鎖されたままになっていますが、筆まめなOKバジからの手書きの手紙は現地の友人のパソコンのメールに添付されて送られてきます。 
 去年の秋、大間々のFさんから「少額ですがOKバジさんに送って下さい」と頼まれました。その時のお礼状と3枚の写真がメール添付でOKバジから届きました。
F様
コロナ騒ぎの中、どんな日々を過ごされていらっしゃるでしょうか。2020年の秋、私の口座にネパールへの御協力金を松ア靖様を通してお振込み下さりありがとうございました。このご支援金を辺境の地、チムダーダ村の幼児教室の子どもたち二十八人のために使わせていただきました。子どもたちの興奮と喜びの様子がこの写真から伝わってくれるといいのですが。ご協力ありがとうございました。コロナ君に愛されませんように充分気をつけられて下さい。お元気でよい2021年を続けられて下さい。ごきげんよう。垣見一雅(OK・Baji)

 OKバジの活動は、単なる物質的な支援だけではなく、支援する人の想いも一緒に届け、支援を受けた人たちの喜びを支援した人に送り届けています。「橋渡し役の私が二倍の喜びを感じています」と嬉しそうな笑顔を見せるOKバジ。
これからもOKバジへの支援を続けたいと思います。

309話 天国からの手紙
 桜の花が散る季節になると思い出す人がいます。大間々で草滄窯という工房を主宰していた絵付陶芸家の米山和子さんは八年前、桜の花が美しく散るように、六十二年の生涯を閉じました。「幸せ」「嬉しい」「有難い」が口癖の素敵な女性でした。自宅前の渡良瀬川の四季折々の景色を愛し、「私の肩に鳥が止まったのよ。私を枯れ枝と間違えたのかしら」と笑った横顔が今でも忘れられません。
 お別れの会は、彼女の望み通り、ごく少数でお経も唱えず、お線香も焚かず、彼女の柩の横には工房の庭に咲いていた紫色の花大根の花が飾られていました。
 お別れの会の後、息子さんと娘さんの名前で封書が届きました。それは、米山さんが生前に書き遺していた天国からの手紙でした。

『松ア靖様・和子様 私・米山和子は四月二十四日に膵臓癌で旅立ちました。私は、死が再生につながると考えています。木々も秋は葉を落とし、花もいつかは枯れます。けれどその下に次の新しい芽が用意されているのです。新芽から若葉になり、散って実を結び、種を残す。そうやってつながっていくのですね。群馬の自然が私に大切なことをたくさん教えてくれました。山々を私は尊敬しています。落ち着いたら、子供達に(私の骨を)粉にして、海にまいてもらう予定です。海に溶け、空に昇って雲に乗り、山に雨を降らせ、一滴の水となって川を下って、思う人の心にいつもいます。いつも見守り励まします。最後に、お世話になった方々へ心から感謝しています。ありがとうございました。』 

 膵臓癌の宣告から半年、余命最期の日々に彼女は自宅の窓から目の前の満開の桜を見ることができ、念願だった息子さんの結婚式にも出席できました。別れの手紙に添えられていた息子さんと娘さんからのメッセージには「全身全霊の人生は息子の私から見ても、とても気持ちの良いものでした」、「母が感謝と笑顔のうちに旅立てたのは皆さまのおかげと私もとても感謝しています」と書かれていました。
 私たち夫婦が最後に彼女の家を訪れた日、「かけた年金をもらわずに若い人たちのために使ってもらえて嬉しいわ」と笑っていた彼女の一言が今でも心に深く残っています。

308話『日本はなぜアジアの国々から愛されるのか』
『日本はなぜアジアの国々から愛されるのか』という本を読みました。著者の池間哲郎さんは沖縄で生まれ、戦後教育を受ける中でいつの間にか日本に対して不信感を持ち、日本人であることに誇りを持てなくなっていたそうです。
しかし、三十年ほど前から国際協力活動を始め、アジア各地を二百回以上訪問して現地の人々から話を聞く中で、日本人は本当に信頼され、愛されていることを知りました。この本のページをめくるたびに日本人としての誇りが蘇り、感謝の心が深くなってきました。
 昭和二十年、敗戦の翌月、昭和天皇は連合国最高司令官マッカーサーを訪ね、「私が戦争の全責任を負います。この上はどうか、国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」と願われました。後にマッカーサーは回顧録で「明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとする勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでもゆり動かした。私はこの瞬間、目の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であると感じた」と書いています。
 アメリカは、戦争に負けた昭和天皇は日本にいられなくなると判断し、ロンドンか北京に亡命させようと考えたそうです。ところが天皇は亡命どころか「自分の命はどうなってもいい」と覚悟を決め、終戦の翌年から八年かけて、国民を励ますために日本中を巡幸されました。そして、天皇を迎える日本国民の姿に世界中が驚きました。世界の常識からすれば敗戦国の君主は国民に殺されるか国外逃亡が当然と思われていました。ところが、どこに行っても天皇は歓迎されました。日本国民は天皇陛下を敬愛していたのです。 
 ギネスブックでは、世界で最も古い国は万世一系の天皇を擁する日本であると認定しているのです。
 反日教育を続けてい
る近隣の二〜三の国以外はみな日本と日本人に好意を持ち、倫理観、道徳心、礼儀正しさは世界一と評価しています。私たちはこの評価を裏切らないように努力しなければいけませんね。
 二年前、桐生市倫理法人会主催の講演会で池間哲郎さんの講演を聴き、奥様にもお会いしました。奥様を愛し、日本を愛し、アジアの人々への支援活動を続けている池間先生の生き方を見習いたいと思います。
307話 『ありがとう』
 神戸に住む友人からドキュメンタリー映画「1/4の奇跡」「光彩〜ひかり〜の奇跡」「天から見れば」を勧められ、ネットで観てとても感動しました。
「光彩〜ひかり〜の奇跡」に登場する寺田のり子さんはカラー心理セラピストとしてたくさんの人に幸せを届ける活動をしていましたが末期がんと診断され余命宣告を受けました。さらに片眼も失明、失意のどん底に落ちた時に養護学校の先生だった山元加津子さんの講演会に参加し、山元先生の教え子だった笹田雪絵さんの「ありがとう」という詩と出合いました。雪絵さんは中学二年の時に目が見えなくなり、手足が突然動かなくなる「MS(多発性硬化症)」という難病と闘いながらも多くのエッセイや詩を遺し、惜しまれながらこの世を去りました。

「ありがとう」 笹田雪絵
 私決めていることがあるの
この目が物をうつさなくなったら目に そしてこの足が動かなくなったら足に「ありがとう」と言おうって決めているの

今までみえにくい目が一生懸命見よう見ようとしてくれて
私を喜ばせてくれたんだもん
いっぱいいろんな物 素敵な物を見せてくれた
夜の道も暗いのにがんばってくれた
足もそう 私のために信じられないほど歩いてくれた
一緒にいっぱいいろんなところへ行った
私を一日でも長く 喜ばせようとして目も足もがんばってくれた

なのに、見えなくなったり  
歩けなくなったとき
「なんでよー」なんて言ってはあんまりだと思う
今まで弱い弱い目 足がどれだけ私を強くしてくれたか

だからちゃんと「ありがとう」って言うの
大好きな目、足だからこんなに弱いけど大好きだから「ありがとう もういいよ休もうね」って言ってあげるの

多分誰よりもうーんと疲れていると思うので・・・。

 十一年前、大間々で開催した山元先生の講演会と映画会の感動が蘇りました。
この映画はネットでもご覧いただくことができます。
306話 岩宿時代を広めよう

日本における旧来の考古学の定説では、縄文時代(一万六千年)以前の日本は富士山などの火山活動が活発で、火山灰が堆積した関東ローム層の年代は人間が生活できる自然環境ではなかったとされてきました。そのため専門家の発掘調査では関東ローム層から下には人類の痕跡はないと判断されてきました。

 昭和二十四年、自転車で納豆の行商をしながら独学で考古学研究を続けていた相沢忠洋さんは、岩宿(現みどり市笠懸町)の関東ローム層の中から黒曜石の小さな石器を発見しました。この小さな石器の発見は、日本の歴史を二万年近くも遡らせた歴史的大発見でした。相沢さんの著書『岩宿の発見』を読むと、相沢さんの生い立ちや岩宿遺跡を発見するまでのエピソードに深く感銘を受けます。

 明治天皇の玄孫の竹田恒泰先生はユーチューブ『竹田学校』で「世界最古の磨製石器は日本製なのです。それが初めて発見されたのが岩宿遺跡で、三万五千年前のものでした。打製石器は猿でも作れますが、磨製石器は指先を自由に動かせる人間しか作れないのです。だからもし、世界博物館があるとすればまず最初に展示すべきは岩宿の磨製石器です。歴史の教科書では、この時代を先土器時代とか無土器時代と書いていますが、弥生式土器が最初に発見されたのが東京弥生町なので弥生時代と呼ぶように、これからはこの時代を岩宿時代と教えるべきなのです」と力説しています。竹田先生の説によれば、縄文時代の前の二万年の間は岩宿時代ということになるのです。

 みどり市のマスコットキャラクター「みどモス」は、相沢忠洋さんが発見した石器と同じ時代には日本にもマンモスが生息していただろうという推測から、みどり市のマンモスで「みどモス」と名が付けられました。みどモスは三万五千歳の男の子で誕生日は一月二十七日、性格はやんちゃだけどかわいいというプロフィールになりました。 

 世界中のゆるキャラの中でみどモスは最年長の男の子、岩宿時代のみどモスをみんなで応援しましょう。

305話 「笑顔と食と健康と」

大阪の友人から「笑いと食と健康と」という本をいただきました。著者の昇幹夫(のぼり・みきお)先生は、日本笑い学会副会長で産婦人科医、「元気で長生き研究所」の所長であり、「健康法師」として全国各地で講演活動もされているユーモア溢れる先生です。この本を読んだだけで笑ってしまい、健康になるような気がしてきます。

 食と健康の章では、「食い改めて、穀菜人になりましょう」と提唱。その土地の旬のものを食べることが健康の秘訣であり「春は芽、夏は葉、秋は実、冬は根」を使った料理を推奨。春はフキノトウやタラの芽を天ぷらに揚げると良いそうです。平安時代に枕草子の中で清少納言も「春は揚げもの」?と言っていますよね、と書いてあり、笑ってしまいました。「春は揚げもの」、「夏は酢のもの」、「秋はくだもの」、「冬は鍋もの」というのも納得しますね。

 笑いと健康の章では、「私たちの体は六十兆もの細胞でできていて、心臓と歯以外の細胞は六十日から百二十日で生まれ変わっています。その中で毎日五千個のガン細胞が生まれ、それを退治するのがNK細胞です。NK細胞は五分笑うことで活性化します」と書いています。笑いがガンに効くことは色々な実験で証明されているようです。

「ガンの原因は、心(ストレス、生きがいの喪失)、食事(肉食と白米・欧米型の食事)、ライフスタイル(不規則な生活・働き過ぎ・過労)にあります。このガンの原因を割合で示すと、ライフスタイルが二割、食事が三割、心の持ち方が五割です。だから、ガンだけを切り取っても、その原因を変えない限り、確実に再発します」とも書かれていました。

 昇先生は、ガン患者十五名と共にモンブランに登ったり、ガン克服日米合同富士登山にも参加、末期ガンから生還した百人が千人の闘病者に体験を語る「千百人集会」にも参加するなどの活動をしています。

 友人から貰った「笑いと食と健康と」の本の裏表紙に「誰と食べるかで味は決まる 昇幹夫」という直筆サインが入っていました。

 良い仲間と過ごす時間が健康に一番良いようです。

304話 みんなの幸せを創る子

 新潟県長岡市立中之島中央小学校の今年の教育目標は「みんなの幸せを創る子」です。アッキー先生こと金子明子校長先生は「自分の人生は自分で選ぶことができます。過去を気にする人は後悔、未来に悩む人は不安を引き寄せます。今の自分の心を大切にし、自分のワクワクを舵取りにすると間違いがありません。そして、自分と違う考えの人がなぜそんなふうに考えるのか、その背景にある願いや思いを知ると、その考えを理解することができます。みんなで幸せな世界を創るために自分にできることを楽しんで行い、一緒に楽しい世界を創りましょう」と子どもたちに教えています。

 アッキー先生は去年、バチカンで開かれたデザイン・フォ・チェンジ(DFC)世界大会に参加しました。DFCとは、子どもたちの未来をより良く変える力を育むための世界的な活動です。DFCの活動が始まったのは今から10年前、インドのガンジーが提唱したBe The Change(自ら行動し変革せよ)の精神が元になっています。

 シンガポールが主催した今年の世界大会は新型コロナウイルスの影響でZoomを使っての開催になりましたが25カ国から300人の子どもたちが参加して交流や発表が行われました。日本からは中之島中央小学校の子どもたちが参加し、自分たちで作ったお米を売ってバングラディシュの子どもたちが学校へ行けるようにと寄付をしたり、昨年の水害で被害に遭った小学校に寄付をした活動や学校での秋祭りや大凧揚げの様子などを発表。ケニア、シンガポール、マカオの子どもたちとの交流の様子が世界中に発信されました。

 大間々駅のトイレ掃除を続けている郷土を美しくする会の仲間7人が去年に続いて今年も長岡の中之島中央小学校へ行き、道徳の授業で6年生の子どもたちにトイレ掃除を指導してきました。子どもたちが真剣に便器を磨く姿を見て清々しい気持ちになりました。帰りには5年生の子どもたちからお米をもらい、2年生からは焼きたてのお芋をもらいました。

 みんなの幸せを創る子たちはみな輝いていました。

 

303話 江戸時代の大間々と葛飾北斎

 九月十三日付の朝日新聞に、『北斎の肖像画、群馬の両替商でした』という記事が載りました。長野県小布施町の北斎館が所蔵する肖像画のモデルは誰だったのかを調べた結果、上野国山田郡大間々の両替商・上山喜兵衛であることがわかった、と書いてありました。葛飾北斎も上山喜兵衛も、当時江戸で流行していた狂歌の指導者の浅草庵・大垣市人の門人でした
 狂歌とは、「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶ(文武)といふて夜も寝られず」 (大田蜀山人)といった時代風刺や、和歌の教養に裏打ちされた粋な江戸の短歌のことです。
 門人七百人と言われた浅草庵・大垣市人の一番弟子は何と大間々の深澤新兵衛でした。新兵衛は真摯な人柄と狂歌の才能に恵まれ、初代浅草庵の市人や大田蜀山人も大間々に足を運び、大間々を中心に上州の地に狂歌の門人を増やしました。
 文政三年、初代浅草庵が亡くなると、新兵衛は二代目浅草庵を引継ぐことになり、江戸に出て、大垣守舎(もりや)の名で狂歌を更に広めて行きました。
 大間々の神明宮には『草庵五百人一首』(三巻)という本が残されています。天保四年に浅草庵三世黒川春村によって刊行された本には、一ページに狂歌が一首と歌人の肖像画が木版画で納められています。一枚一枚の絵は葛飾北斎の娘婿だった柳川重信によって描かれ、狂歌は歌人の自筆で書かれています。浅草庵二世大垣守舎(深澤新兵衛)、上山羽狩(上山喜兵衛)、権大僧都良賢(神明宮宮司で大泉院日記の著者)など、大間々や桐生の歌人が多く、女性歌人も多く含まれていて当時の大間々の文化レベルの高さが想像できます。
 数年前からご縁を頂いている東京在住の深澤直樹さんは浅草庵二世・深澤新兵衛の七代目の子孫です。北斎の一番弟子蹄斎北馬が描いた新兵衛の肖像画を直樹さんに見せて頂きました。
 今年は新兵衛が浅草庵二世を継いで二百年の節目。
 町の歴史や文化をもう一度見直したいと思います。

302号 「リト」が教えてくれたこと

 元特別支援学校の先生で作家の「かっこちゃん」こと、山元加津子さんが『リト』(モナ森出版)という本を書きました。
 今から21年前、虹の架橋で「きいちゃんの浴衣」という、きいちゃんとかっこちゃんとの感動的なお話を紹介し、ながめ余興場でかっこちゃんの『1/4の奇跡』という映画会や講演会を開き、この町にも、かっこちゃんのファンが大勢います。「リト」は生まれたばかりの子犬の名前です。リトは色々な人や猫や老犬と出会う中で様々な疑問を抱きます。「役に立つってどういうこと?役に立たないってどういうこと?」、「かけがえのないものって何?」。リトの質問に、「お金にならないものはいらない、お金になることが大切」と言っていた人たちが少しずつ自分達の間違いに気づいていくというお話です。
 リトが最後に出逢ったのは村はずれの小さな家に住むオリーという名の女の子で、パン職人のママと二人暮らしでした。 リトはオリーと出会ったお陰で自分の名前がなぜリトなのかを知りました。そしてパン職人のママの「私はお金儲けがしたくて、パンを焼いているわけじゃないの。食べた人が幸せだって言ってくれたら、それ以上に嬉しいことはないの。みんなが幸せだと自分も幸せ。だから、みんなの幸せを祈りながらパンを作っているの。お金よりも大切なものをいっぱいいただいているわ」という話を聞き、今まで出会ってきた人たちはお金があってもママほど幸せそうじゃなかったと思いました。
 リトがママとオリーと暮らし始めて一年後、街に流行り病が発生し、たくさんの人が死んでゆき、賑やかだった街は急に寂しくなってしまいました。
 10年前にもこの街に今と同じ流行り病が広がり、オリーのパパは目の前にいる人を助けるために病気がうつって亡くなったのでした。パパはどんなに困ったことが起きても、口癖のように『これも、いつかいい日のためにあるのだろう』と言っていました。

 この物語の結末に感動し「サムシング・グレート」の存在を確信しました。
 今、この時に多くの人に読んでもらいたい本です。

 

301号 感性を磨く生き方
人間学を学ぶ月刊誌『致知』9月号に「感性を磨く生き方」というテーマで行徳哲男先生、芳村思風先生、関ジャニ8の村上信五さんの三人の興味深い鼎談が載っていました。
 今から二十五年前、哲学者の芳村思風先生が書いた『人間の格』(コスモ教育出版)という本を読み、「考え方が人間を決めるのではなく、感じ方が人間を決める」という言葉に共感して繰り返し何度も読んだことを思い出しました。 
 鼎談の中で、感性についてのおもしろいエピソードが紹介されていました。ある小学校の先生が子供たちに「雪がとけたら何になる?」と質問した時に、ほとんどの子供たちが「水になる」と答えた中、たったひとりだけ「雪がとけたら春になる」と答えた子供がいたそうです。村上信五さんは「それこそ日本人の感性というか、四季という感性がなかったら出てこない発想であり、日本人の情緒が詰まっていて、この話に感銘を受けました」と語っています。
 「前後際断」という言葉があるそうです。行徳哲男先生は、「感性っていうのは言い方を変えると「点」ですね。知性とか理性というのは「線」です。線で物事を見るから、過去を引きづったり明日に怯えたりして、失敗してしまう。でも、感性は点ですから、点で生きるっていうのは、てんで楽なんですよ」と、ギャグを交えて説明しています。
 芳村思風先生は「新型コロナウィルスは人々の意識を転換させようという天意をもって、今の人類に与えられた問題だと思います。一般的に問題というのは、人間を苦しめるために出てくるのではなく、人間を成長させるために、社会を発展させるために出てくるんですよね。その問題を乗り越えていくことによってしか、次の新しい時代を生きる能力や人間性を獲得できない。これまでは競争して勝つことが成長の原理だった。これからは、助け合って、学び合って、そして「愛」に基づいて成長していく時代が来る。そのことを新型コロナウィルスは人類に教えてくれていると思います」と言っています。 
 今こそ感性を磨く生き方をしたいですね。