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291号〜300号


 
300号 1引き 2運 3力
 社会教育家の田中真澄先生が『幸せな人生を歩むための8つの法則』という本を出版されました。この本の中で田中先生は「人生を左右する三大要素は、一引き、二運、三力」と言っています。人様とのご縁を大切にし、ご縁をいただいたご恩に感謝し、ご恩に報いる努力を続けていると、また次なるご縁に繋がっていくと説明しています。 
 田中真澄先生と初めて出会ったのは、虹の架橋を発行して間もない平成8年のことでした。
平成8年2月20日消印の、田中先生から初めて頂戴したおハガキは、虹の架橋を続ける原動力となり、私にとって人生の大切な宝物になっています。
 田中先生からのお便りには「先般の講演会では最前列で終始ご熱心に聴いて下さり、私の名刺を差上げるご縁ができましたことを大変嬉しく存じております。 
 ところで「虹の架橋」を早速拝読いたしました。大間々のことがよく理解でき、とても参考になりました。豊富な情報収集のご努力に感服しております。きっとこの新聞は号を重ねるごとに読者を作っていかれ、将来は大間々町における貴重な情報源になっていくのではないかと存じます。松崎社長様の益々のご発展をお祈りいたします」と綴られていました。
 虹の架橋が百号になった節目に読者の板谷愛子さんからいただいた短歌の色紙や二百号を迎えた際に尊敬する鍵山秀三郎さんからいただいた色紙など、号を重ねるごとに多くの方々とのご縁が深まってきました。
改めで「引き」の有り難さを実感しています。
299号 大間々祇園祭の歴史
寛永六年(1629)、神明宮の初代・大楽院勝尊は五穀豊穣と悪疫退散を願って京都の八坂神社から牛頭天王(ごずてんのう)のご分霊を大間々三丁目(今の三丁目集会場)に祀り、旧暦の六月二十四日(現在の八月二日)にご神霊の渡御を行いました。これが大間々祇園祭りの始まりであり、それ以来、三百九十一年の歴史を誇る大間々祇園祭りは自然災害や戦争、社会情勢の変化などの危機を乗り越えて今日まで続いています。
 大間々祇園祭りが始まって六十年後の寛政2年(1790)12月に発生した大間々の大火では、それまでの神輿が焼失しましたが、氏子たちはすぐに江戸で新しい神輿を注文し、翌年の神輿渡御も例年通り挙行されたと古文書に記されています。
 明治十九年はコレラが大流行していたために大間々祇園祭りは二カ月延期されました。コレラの研究をしていた北里柴三郎がドイツに留学したのもこの年であり、新型コロナウイルが発生した今年と似たような社会情勢だったのかもしれません。
 明治四十五年の大間々祇園祭りは本番直前の七月三十日に明治天皇が崩御されるという事態になり、学校は休校になり、家々には弔旗が掲げられて哀悼の意を表しましたがこのような大喪の中でも八坂祭典は歌舞音曲を控えて挙行されました。
 昭和二十年の大間々祗園は半月後に終戦を迎えるという時期でした山車や神輿を出して八坂祭典が執り行われました。その年の八月二日、三丁目の山本うどんやさんの前から撮った写真には大勢の人ごみの中を山車や神輿が行列している様子が写っています。
 今年の大間々祇園祭は新型コロナウイルスの感染防止のために残念ながら中止になりますが悪疫退散と世界の平和を願って八坂祭典の神事は粛々と執り行われることになるようです。
 私たちの願いと祈りが届くことを信じています。


298号 コロナウィルス〜人類への手紙
『コロナウイルスから人類への手紙』という文章がネット上で広がっています。ヴィヴィアン・リーチという女性がフェイスブックに投稿した詩です。

 地球は囁きました。でもあなたは耳を貸さなかった。地球は話しました。でもあなたは聞かなかった。地球は叫びました。
でもあなたは耳を塞いだ。
そして、私は生まれました。
 私はあなたを罰するために生まれたのではありません。私はあなたの目を覚ますために生まれたのです。

 地球は助けを求めて叫びました。大洪水、山火事、猛烈な台風。汚染された水で海の生物が死に、氷山は溶けて行く。地球がどれほど悲観的な危機にさらされていてもあなたは聞こうとしなかった。終わりのない戦争、終わりのない貪欲さ。
そこで私は世界の動きを一気にストップさせ、あなたに耳を傾けさせました。今、あなたは地球のようになっています。
私はあなたに呼吸器障害を与えました。地球の大気汚染のように。私はあなたに弱さを与え、あなたから快適さを奪い、世界の動きを止めました。

 そして今、中国の空気はきれいになり、工場が地球を汚さなくなり、空が澄み切った青色になりました。ベニスの水が透明になり、イルカを見ることができます。水を汚していたゴンドラを使っていないから。
 あなたには自分の人生で大切なものは何かを考える時間ができました。

もう一度言います。私はあなたを罰しているのではありません。私はあなたを目覚めさせるためにここにいるのです。
 これが全て終わったら私は去ります。どうか今の瞬間を忘れないで下さい。地球の声を聞いて下さい。あなたの魂の声を聞いて下さい。地球を汚さないで下さい。争うことをやめて下さい。物質的なことに気をとられないで下さい。そして、あなたの隣人を愛しはじめて下さい。地球とその生き物たちを大切にしはじめて下さい。
なぜなら、この次、私はもっと強くなって帰ってくるかもしれないから・・・
   コロナウィルスより
297号 感謝力は掛け算
2001年に始めた「まごころ塾」という勉強会が114回をもって最終回となりました。 
「出会いは心の花を咲かせる」を名刺にも刷り込んでいた高崎市の故・内堀一夫先生が塾長だったまごころ塾のお陰で貴重な出会いと学びを頂きました。
 第1回の講師はカー用品のイエローハットの創業者の鍵山秀三郎さんでテーマは「小さく始めて大きく育てる」でした。そして、大きく育ったまごころ塾の最終回は、伊勢修養団の寺岡賢先生の「大和心に親しむ」というお話で、最終回にふさわしい深い内容の講演でした。
 寺岡先生は「出逢いを通して自分に出逢う」、「今日一日をよろこんで生きていこう」、「苦をよろこぼう」などの言葉を紹介し、「物事を成就させるには法則がある。能力や才能や運や努力は全て足し算だが、それを最後にひっくるめて掛け算にするものがある、それが感謝力です。だから、どんなに才能があって努力をしても感謝力が70パーセントであれば値は0.7になり、逆に能力や才能に多少恵まれなくても感謝する力が人の1.5倍あればいきなり値は大きくなる。だから、苦しいことや辛いことがあってもそれは自分にとって意味のあることだと受け止めた時に感謝力は強くなるような気がします」と言って会場から共感の拍手が沸き起こりました。
 先日、「大きな努力で小さな成果を」という本をいただいて読みました。著者の鍵山秀三郎さんの「凡事徹底」や「益はなくとも意味はある」という生き方を集大成した本で、一つ一つの話に共感しました。鍵山さんは、「なるべく手間暇かけずに、また人手をかけずに大きな利益を得ようとして滅びていった大きな組織がたくさんあります。一方で、人の後塵を拝しながら地を這うように努力を重ね、そしてわずかな成果でもそれを感謝して受け取る、こういう人たちが長い目で見た時に頭角を現わしてきます」と書いていました。
 まごころと感謝の心を大切にしたいと思います。

296号 常夜灯のゆくえ
 今から十年前の三月二十五日に、三、四、五丁目の常夜灯が里帰りし、百三十三年ぶりに本町通りに火が灯りました。
 江戸時代、大間々の本町通りの中央には堀が流れていました。そして、文化・文政時代には商人たちが寄進して、丁目の境に常夜灯が設置されました。本来、常夜灯はお寺や神社の参道に奉納されるものですが、江戸時代の大間々の商人たちが本町通りに設置した常夜灯は、現在の街路灯や防犯灯の役目を果たしていたのかもしれません。
 明治十年三月二十五日に本町通りから撤去された常夜灯は、金毘羅宮や神明宮の入口に移築されましたが、三丁目の常夜灯だけは、大間々町原の広場に放置され、台座と笠石が離れ、火袋は無残に壊れていました。 
 郷土の歌人・萩原康次郎先生が昭和五十七年から十年間、「広報おおまま」に連載した文章をまとめた随筆集「間々はゆりかご」の本の中に、「常夜灯のゆくえ」という文章が残されています。歴史のロマンに溢れる話を三十年前に読み、この常夜灯に深く興味を持ちました。
「常夜灯、それは単なる明かり取りという物理的な作用だけでなく、古代から火を敬い火を怖れてきた私たちにとって、もっと精神的な意味で親しさ近しさを覚えさせるものである。(中略)大間々町が生まれ育ったこの三百年をじっと見守り続けてきた常夜灯をおろそかに扱うことは許されまい。私たちの祖先の生活に最も密着してきたこの文化財を大切にせねばと思うことしきりである。」
 
 三基の常夜灯の除幕式の朝、萩原康次郎先生のお宅に伺い、常夜灯里帰りの報告をしました。「こんな体なので除幕式に行けずに申し訳ないが本当に嬉しい」と涙を流されていたことを忘れることができません。
 大間々を愛し、多くの人々から慕われた康次郎先生は、この年の大間々祇園祭りの後に八十四年の生涯を閉じました。康次郎先生のあの温かい眼差しは、今も天国からこの町を見守ってくれていると思います。
 
父・相田みつをを語る
 第十四回みどり市生涯学習大会で『つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの 〜父 相田みつをを語る』という記念講演会が開かれました。講師は書家・詩人の相田みつをさんの長男で東京の相田みつを美術館館長の相田一人さんでした。
 相田みつをさんの「いのちのバトン」や「一生勉強 一生青春」等の作品が生まれた背景や感動的なエピソードなどをユーモアも交えて紹介して頂き、あっという間の九十分でした。

 相田みつをさんは、旧制足利中学校時代は剣道部で活躍したそうです。その後、生涯の師となる禅僧の武井哲應老師と出会い、坐禅や仏法を学び、書道の世界でも頭角を現わしました。しかし、「感心されるより感動させる作品を書きたい」という思いから、相田みつをさん独特の世界を作りあげました。
 「道」と「ぐち」という有名な作品があります。

   道

長い人生にはなあ
どんなに避けようとしても
どうしても通らなければ
ならぬ道
というものがあるんだな

そんなときはその道を
黙って歩くことだな
愚痴や弱音を吐かないでな

黙って歩くんだよ
ただ黙って
涙なんか見せちゃダメだぜ

そしてなあ その時なんだよ
人間としての いのちの根が
ふかくなるのは  みつを
「しあわせはいつも」(文化出版局)より

   ぐち

ぐちをこぼしたっていいがな
弱音を吐いたっていいがな
人間だもの
たまには涙をみせたっていいがな
生きているんだもの  みつを
「にんげんだもの」(文化出版局)より

 講演の中で相田一人さんは、「この二つの作品は全く逆のことを言っていますがどちらも正しいと思います。それが「父・相田みつをの世界」です、と言っていました。

 今年六月二十二日から十月五日まで、オリンピックのため相田みつを美術館は休館になります。是非その前にお出かけ下さい。足利屋で招待券を差上げます。

294号 虹の足
 今から二十五年前に「虹の足」という詩を読み、同じ頃に『虹の架橋』を創刊しました。

「虹の足」  吉野 弘

雨があがって 雲間から
乾麺みたいに真直な 陽射しが
たくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、 虹の足を。

眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!   
     ・・・(中略)・・

その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽり抱かれて染められていたのだ。

それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。

ーおーい、君の家が虹の中に
あるぞオ
乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた

多分、あれはバスの中の僕らには見えて村の人々には見えないのだ。

そんなこともあるのだろう
他人には見えて、自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることがー


 この詩と出会って以来、「自分には見えない幸福の中で、格別驚きもせず、幸福に生きている」ことをありがたく思うようになり、「虹の架橋」発刊のきっかけのひとつになりました。
 今年みどり市では五七四人の新成人が誕生しました。成人式の「中学時代の恩師からのメッセージ」の中で、新成人に向けて「虹の足」の詩を朗読した先生がいて嬉しくなりました。
 詩人の吉野弘さんが姪の結婚式の時に贈った『祝婚歌』という詩の中に

「正しいことを言うときは少しひかえめにするほうがいい。
正しいことを言うときは相手を傷つけやすいものだと気づいているほうがいい」

という一節がありました。言葉は人に大切なことを気づかせてくれることも、傷つけることもありますね。
 虹の架橋は今年八月には三百号を迎えます。続けられる幸福を感じています。
293号 井蛙(せいあ)のつぶやき
 旧黒保根村で教育長や黒保根民俗資料館館長などを歴任し、「黒保根の民話」で上毛文化賞を受賞された川池三男さんが「井蛙のつぶやき」という随筆集を出版しました。 
 本のタイトルは、「井の中の蛙大海を知らず」のことわざからとり、川池さんの謙虚で穏やかな人柄が伝わってくる八十五編の随筆の内容は読者の心に深く沁みてきます。
 平成元年一月の黒保根小PTA広報『やまびこ』に寄稿した「うすれゆく『感謝』の心」という文章があります。

「今は物が溢れ、たやすく手に入ることができるので、少しも喜びを感じず、気に入らなければ安易に捨ててしまうなど、「有り難い」という、「感謝」の気持ちを忘れ、失ってしまった人間となりつつあるのではないかと思えてなりません。日本人初めての宇宙飛行を経験したTBSの秋山さんは、地球に帰還した時の第一声に「空気がこれどのうまいものとは思わなかった」と言っています。空気のあることがあたり前と思っている私たちは、もちろんのこと、その大切さ、有り難さを一度として意識したことなどあるはずがないと言い切ってよいでしょう。「あたり前」という感覚に浸り、豊かな生活に慣れてしまい「有り難さ」の観念を忘れ失った人間社会は物に対する感情ばかりでなく、人と人との信頼、互助の意識欠損という大きな問題に発展していることに気付かなくてはなりません」

 川池さんが警鐘を鳴らした平成元年一月から時は移り、令和初めてのお正月を迎えました。先日、大間々のトイレ掃除仲間六人と一緒に掃除の体験をした長岡市立中之島中央小学校六年生の四十五人の子供たちからお礼の手紙が届きました。
「私が今回のトイレ掃除で学んだことは「感謝」だと思います。トイレに限らず家や学校がきれいでいられるのは掃除をしている人のお陰なので感謝を忘れてはいけないと思います」、「トイレがきれいなのは当たり前と思っていたけど、そうじゃなくて、家族が大変な思いをしてやってくれているんだと思った」などの感想文を読むと、どんなに時代が変わっても、一番大切なことは、感謝の心を持つこと、気づくことだと実感しました。

292号 恩頼(みたまのふゆ)
数年前から交流を続けている長崎県の寺井一郎先生は徳塾「修身館」を主宰され、未来を担う子どもたちや私たちに、正しい日本の歴史や文化を教えてくれています。  
 寺井先生の著書「恩頼」(みたまのふゆ)を読むと、日本人としての誇りが蘇ってきます。
「恩頼」とは、日本書紀に出てくる言葉で「神様や天皇陛下の御恩、恩徳のおかげ」という意味で、深い感謝の念が込められた素敵な言葉です。「天皇のお仕事の中心は、天照大神を祀る「賢所」、歴代天皇を祀る「皇霊殿」と、日本中の神々を祀る「神殿」の宮中三殿に日本国民を代表して、朝な夕な国家の安泰と国民の幸福を祈る最高の神官なのです」と「恩頼」に書かれています。そして、三年前、天皇陛下が仰せられたお言葉が掲載されていました。
『私が天皇の位についてからほぼ二十八年、この間私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、想いに寄り添うことも大切なことと考えてきました』
 今年四月三十日の「退位礼正殿の儀」、五月一日の「即位後朝見の儀」、十月二十二日の「即位礼正殿の儀」、十一月十四日〜十五日の「大嘗祭」などの行事を通して、私たちは改めて日本の歴史を学ぶ機会が与えられました。
 第百二十六代の天皇陛下に即位された徳仁陛下が皇太子殿下時代に世界各地でご講演をされた内容をまとめた『水運史から世界の水へ』という本を読むと、水の恵み、水災害の歴史、世界の水問題の現状と課題を研究されてきた徳仁陛下だからこそ、被災地や被災者への思いを深くされているのだと思いました。
「被災地の復興には時間がかかると思います。私も、雅子と共に、被災された方々と被災地にこれからも心を寄せ、その復興を見守っていきたいと思っております」というお言葉の中にも、深い祈りの御心が伝わってきました。
 寺井一郎先生の一首です。
  御一代一度の重儀大嘗祭
   神饌捧げ~生りませる


291号 つまらないものですけど
 十年ほど前から「みやざき中央新聞」という新聞を愛読しています。毎週月曜に発行される新聞には、政治・経済や事件、事故などの記事は一切なく、感動的な話や大切なことに気づかせてくれる記事ばかりが紹介されています。
 みやざき中央新聞の二八〇七号の中に、僧侶で通訳、翻訳家でもある大來(おおぎ)尚順さんという方の「仏教から普段の日本語を振り返る」という話が載っていました。
 大來さんは通訳や翻訳をする中で、日本語の本来の意味を英語にすることは難しく、特に、仏教に由来する日本語は、その意味を正確に捉えないと、英語に訳すことができないと語っています。

 「つまらないものですけど」という言葉があります。この日本語、本当につまらないものだと誤解されるから使わないという方がいらっしゃるそうです。でも、皆さんは本当に「つまらないもの」をあげているわけではありませんよね。「つまらないものですけど」とは、「日頃、私があなたから受け取っている優しさ、親切心に比べたらこれは微々たるものですよ」ということを意味するのです。
「つまらないものですけど」、この日本語の根底にあるのが「共生」という考え方です。「共生」は仏教の理念でもあります。渡す側が一方的にお世話になっているわけではなくて、受け取る側も「いやいや、そうは言っても私もあなたからいろんなものを受け取っているのですよ」とお世話になっている、双方向の関係。このような、お互いがお互いを支え合って、共に生かされている状況、これが「共生」ですね。この共生をお互いが知っていたら「つまらないものですけど」という言葉と共に、自然とお互い頭も下がりますね。
 
「おかげさま」という言葉も英語に訳すのが難しい言葉ですが、人から受けた恩恵、神仏の加護という意味。それに気づき、自分の驕りを解消させる日本語が「おかげさま」なのだと書いてありました。

「みやざき中央新聞」は、毎週本当にいい記事ばかりが紹介されていて、ホーントにいいからお薦めいたします。