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「小耳にはさんだいい話」へ


281号〜290号


 
 290話 てんびんの詩(うた)
 今年七月にPHP研究所から漫画版「てんびんの詩」が出版されました。この話は今から百年ほど前、滋賀県五個荘にある近江商人の近藤家の十代目の長男として生まれた大作少年が行商を体験する中で、商人として、人間として成長する姿を描いています。
 大作は小学校を卒業した日に父親から「今日から鍋の蓋を売ってみぃ」と鍋蓋三十枚を渡され、行商に出ることを命じられます。てんびん棒を担ぎ、粗末な服を着た大作はまず、近藤家の出入りの人や親戚なら恩や義理で買ってくれるだろうと思って回りますが誰も買ってくれません。皆が大作のことを思って心を鬼にして断ったのでした。三か月経っても鍋蓋は売れませんでした。売ることばかりを考えていた大作は使う人の気持ちも鍋蓋への愛情もありませんでした。ある時、大作は古い鍋や蓋が水辺にたくさん置いてあるのを見つけました。「この鍋や蓋が無くなったら困るやろな、困ったら買うてくれるかもしれん、壊して竹やぶに捨てたら・・・」という考えが頭をよぎりましたが「この蓋も誰かが心を込めて作り、誰かが大変な思いをして売り、誰かが大切に使っているものだ」と気づいて初めて鍋蓋がいとおしく思えてきました。大作が水辺で鍋と蓋をゴシゴシ洗っていると、「おい!人の鍋になにしとる!」という怒鳴り声が聞こえました。大作はそのおばさんに、最初は悪い考えを持ったが鍋蓋がいとおしく思えてきて洗ってやりたくなったことなどを正直に話しました。おばさんはそれを聞いて「おまえさん立派やなァ、買うてあげよう」と言い、近所の人にまで大作の鍋蓋を勧めてくれました。大作は何度も「おおきに」と言っておばちゃんに抱きつきました。
 大作はこの日の日付をてんびん棒に書き記しました。この日は大作が商いの素晴らしに気づき、真の商人への道を歩き出した日となりました。
 今から三十年前に「商業界ゼミナール」という勉強会で初めて「てんびんの詩」の映画を観て感動しました。「商売はてんびん棒と同じで売り手と買い手のどちらが重くてもうまくいかない」という言葉が今も心に残っています。
 289号 人間力とは智と情の総和
  掃除を通して、自分たちの「心の荒(すさ)み」と「社会の荒み」をなくすことを目的に活動しているNPO法人日本を美しくする会の機関誌「清風掃々」第三十三号の巻頭言に日本を美しくする会相談役の鍵山秀三郎さんのメッセージが載っていて深く共感しました。これは鍵山さんが第十六回鍵山教師塾で全国の先生方に向けた言葉です。

 半世紀前までの日本人は、「情」によって自分自身を制御していたために、穏やかな社会が保たれていました。「情」の力が「智」の劣っているところを補っていたのです。ですから、戦争によって国土が焼野原になるという未曽有の惨禍に見舞われたにもかかわらず世相は今よりも落ち着いていました。
 その後、経済的な国力が増加するにつれて、教育の場と機会が豊かになり、高学歴の人が多くなりました。しかし、「智」の面は向上しましたが、それに反比例して「情」の力が衰退していったのです。学歴は高くなり、「智」の分野は著しく向上したのに、総合力である人間力は低下したのです。
 人間力とは「智」と「情」の総和ですので、「情」の面が退化すれば人間力という総和力が低下します。「情」とは、周囲の人に氣を配り思いやることです。「智」の不足は「情」で補えますが、「情」の不足は「智」で補うことはできないのです。 
 先生方には、数値で表わすことができる「智」のみの教育ではなく、「情」を育み、豊かな人間力向上を果たす教育をどうか施していただきたいのです。 
 今の日本では人から望まれ求められる人が少なくなりました。自分が望むことや求めることよりも、望まれ求められる人の方が大切です。望まれる人になれれば、それは人間力が備わった証です。「求められ望まれる人」の育成をお願い申し上げます。
 鍵山さんの穏やかな語り口が聞こえてくるようなメッセージの中に、この国を何とかしたいという熱い思いが伝わってきます。小さなことでも自分にできることを実践し続けたいと思いました。

  288号 いっくん
 兵庫県の西村徹さんは小学校の先生。「さくら」というハガキ通信を発行しており、いつも感動的なお話や気づきや学びをいただいています。「さくら」三七二号には西村先生の家族五人が「しゃんらん」という中華の店に行った時のことが書かれています。
 家族で食べていると、テーブルに男の子がやってきました。私たちのテーブルの席に座り、スマホを見始めます。しばらくすると厨房の方へ行き、また来て席に座ります。その男の子は「しゃんらん」のお子さんで「いっくん」という小学二年の男の子。バスや電車が好きで、スマホでその動画を見ていました。次女がいっくんに手を向けると、いっくんがタッチ。初めて出会ったようには思えません。テーブルに一枚の紙が置いてあり、こう書いてあります。

「いっくんは言葉を話すことが出来ません。たまに、お手伝いをしたいのですが、汚れた手でお茶やおしぼりを出すこともあります。『きちんとする』ことができない いっくんなので、彼がもし指が浸かったままでお水を出しても、いちど『ありがとう』と受け取ってほしいのです。後からすぐに交換いたします。きちんとできない いっくんですが、少しずつ『できる』を積み重ねたいと思います。そのためにお客様のご協力が必要になります。どうぞあたたかい目でご協力をお願いいたします。当店は障害を持つ方やそのご家族を積極的に受け入れています。垣根を跳び越えて、みんなが楽しめる場所が増えるといいなというのが当店の願いでもあります」

 西村先生はこれを読んで、
「いっくんに対する深い愛を感じると共に『しゃんらん』が繁盛し『しゃんらん』のようなお店が増えることを願いました」という感想が綴られていました。
 西村先生が書いた「教師の作法・修養」という本には、「朝起きると私は必ず仏壇に手を合わせますが、これは、両親に、ご先祖様に今日という日をいただいたことを感謝するためです。教師としてというよりも、人間として、両親に、ご先祖様に常に感謝できるようにと思っています」と書かれています。「親思う心にまさる親心」という親子愛の一句を思い出しました。

 287号 続・凡事徹底
 『続・凡事徹底』(鍵山秀三郎・致知出版社)という本をいただいて拝読しました。
この本の表紙の帯には「自転車一台の行商からイエローハットを創業。道なき道を切り拓いた実践哲学。十万部を超えるベストセラー待望の続篇」と書かれています。
 最初の『凡事徹底』が出版されたのは今から二十五年前の平成六年でした。その本を読んだことが大きなきっかけとなって平成七年から「虹の架橋」を毎月発行するようになり、平成九年からは仲間と一緒に大間々駅のトイレ掃除を始めるようになりました。
『続・凡事徹底』の中に「百萬経典 日下之燈」という言葉が紹介されています。百万本の経典を読むほどの知識を頭に置いても、実践しなければ太陽の下のロウソクの火と同じで何の意味もない、ということです。鍵山さんは「小さなことを大事にしないと、どんなに有能な人でも躓きを起こすんです。大きい躓きはいきなり起きるのではなく、小さい躓きから起きるんです」と言っています。
 今、鍵山さんは病気で療養中ですが以前は毎年大間々へ来ていただき、大間々駅や地元の小学校のトイレ掃除の指導をしていただきました。
 鍵山さんが大間々駅前トイレの前の雑草を一本一本、実に丁寧に抜いているのを見て驚いたことがありました。
 鍵山さんは「私がただの草取りだと考えていい加減にやったら、本当に何の意義も価値もない仕事をしていることになってしまいます。世の中には自分の仕事をただ漫然と、何の意義も価値も感じずにやっている人がなんと多いことでしょうか。そうではなしに、自分がやるからにはそこにしっかり意義と価値を感じ取ってやっていただきたいのです。その積み重ねは、ちょうど薄い紙を重ねていくようなものです。一枚が二枚、三枚になっても大したことはありませんが、一万枚積み重ねたら大変な厚みになります。どうか皆さん方も人生に対して遠き慮りを持ち、薄紙を重ねるように、些細なことを疎かにしないで積み上げていっていただきたいと心から願っております」
 この本を読んで改めて自分の日常を深く反省しました。

 286号 OKバジ・歩き続けた四半世紀
 仙台の波入仁一さんが『OKバジ・歩き続けた四半世紀』というドキュメンタリービデオを制作しました。波入さんは「テレビ番組などでは伝えきれなかったOKバジの真の姿を記録したい」との思いから二度ネパールを訪問。神々しいヒマラヤの山々を背景に険しい山間の村々を歩きながら、本当に必要な人に必要な支援を続けているOKバジの姿を映像に収めた貴重なDVDです。(DVDをご覧になりたい方は足利屋にご連絡下さい)
 OKバジこと垣見一雅さんは二十五年前、単身でネパールへ渡り貧しい村々の支援活動をはじめました。バジとはおじいさんの意味。最初はネパール語が話せずOK、OKと言っていたのでOKバジと呼ばれるようになりました。
 垣見さんのひたむきな活動と温かい人柄を知った多くの人たちからの浄財でネパールの寒村に二百以上の学校が建ち、病人を助け、水道をひき、橋を架け、OKバジは村人と一緒に汗を流しながら支援の活動を続けています。
 今年の三月十四日にタンセンという町で開かれたOKバジ二十五周年式典には周辺の村々や日本からの支援団体など百七十以上の団体が集まり、OKバジへの感謝が述べれれ功績が讃えられました。
 垣見さんは「二十五年間も続けて来られた一番大きな理由は、日本の人たちの善意。
資金的なこと、励ましの言葉や手紙が支えてくれました。そして村人たちの善意や心の優しさです。それと何より自分が健康に恵まれていたという幸運」と話しています。
 映像の中で垣見さんが日本の支援者たちからの手紙を感慨深そうに読んでいる場面がありました。そして、暗い部屋のかすかなライトを頼りに一文字一文字丁寧に返事を書いている様子が映し出されました。
垣見さんも「虹の架橋」の読者でいつも心温かい感想の手紙が届きます。その手紙がこのように書かれていることを知り目頭が熱くなりました。
 今年も六月に日本に帰国し全国で報告会が開かれます。六月八日から十日は桐生で報告会や講演会も行われます。
 六月八日は垣見さんの八十歳の誕生日。笑顔溢れる垣見さんとの再会が楽しみです。


 
 
 285号 論語と算盤

 五年後をメドに新紙幣ができるというニュースを聞き、本棚にあった『現代語訳・論語と算盤』(ちくま新書 渋沢栄一著 守屋淳訳)を読み返しました。
 この本の「はじめに」にこんなことが書いてあります。


「会社に出勤するため、いつも通りJRに乗って日経新聞をひらいた。ふと目をやると、車内吊り広告にサッポロビールのうまそうな新製品の宣伝がある。帰りに買って帰ろうと思いながら、お金を下すのを忘れていたことに気づき、会社近くのみずほ銀行のATMに寄る。そういえばもう年末、クリスマスは帝国ホテルで過ごして、初詣は明治神宮にでも行くかなあ。その前に聖路加病院に入院している祖父のお見舞いにも行かなくちゃ」 どこにでも転がっていそうな日常の心象風景のひとコマだが、驚くなかれ、ここに出てくる固有名詞すべての設立に関わった人物が渋沢栄一なのだ。


 渋沢栄一が設立に関わった会社は約四百七十社、それ以外に五百以上の慈善事業にも関わり、ノーベル平和賞の候補にもなっていたそうです。
 渋沢栄一は、資本主義は利益を増やしたいという欲望をエンジンとして前に進んでいくという面があるのでそのエンジンはしばしば暴走する。だからこそ、その暴走を止める枠組みとして、人の生き方の指針となる「論語」が必要なのだと言っています。
 三菱財閥の創始者岩崎弥太郎との「屋形船会合事件」という話も紹介されています。ある時、岩崎弥太郎が渋沢栄一を向島の料亭に誘い「君と僕が手を握れば、日本の実業界を思い通りに動かせる。これから二人で大いにやろう」という提案に対して渋沢栄一は、「富というものは分散させるべきものだ。自分一人が金儲けする気は毛頭ない。いろいろな事業を起こして大勢の人が利益を受けると同時に国全体を富まして行くことが私の念願だ」と腹を立てて席を立って帰ったそうです。
 古川市兵衛と共に足尾銅山開発にも関わった渋沢栄一は大間々から一時間足らずの深谷市出身。渋沢栄一記念館には渋沢の人柄を知る資料が数多くあります。新一万円札が楽しみです


284号 悲しみを超える時
   高崎の宮本成人さんから『君がここにいるということ』(草思社)という本を頂きました。著者の緒方高司さんは小児科の先生。表紙に「生きることの本質が詰まった一冊」と書いてある通り、十八の物語から大切なことを学びました。
 
「悲しみを超えるとき」というお話を読んで涙が止まらなくなりました。健太君が白血病で緒方先生の病院に入院してきたのは彼が九歳の時でした。彼は病室の友達と毎晩野球のテレビゲームを楽しんでいましたが腕前は際立っていて緒方先生は健太君を「師匠」と呼んでいました。その後、先生は他の病院に異動になりましたが健太君との手紙のやり取りは続いていました。十二歳になった健太君からの手紙には「退院して家族と過ごしています。近々、運動会があるので見に来てください」と書かれていました。緒方先生は「師匠、見に行きます」と返事をしました。彼はケガの危険性のある種目には出られませんでしたが、クラスの仲間は学校に掛け合って綱引きを競技に入れてもらいました。綱引きは健太君のクラスが勝ち進み、優勝しました。みんなの喜びが爆発して健太君を何度も胴上げしました。「落ちたら大変」と緒方先生が止めに入ろうとしたとき、最前列で健太君のお母さんがひときわ大きな拍手をしながら涙を流していました。綱引きの後、緒方先生は一人の少年に声をかけられました。裕吾と名乗る少年は「健太は治るんですか、死ぬんですか」と率直に聞きました。答えに窮している先生を見て裕吾君は悟りました。その四か月後、健太君は天国に旅立ちました。告別式の日、裕吾君は緒方先生に「健太を大切にしてくれて有難うございました」と言いました。出棺の時、裕吾君の「健太ー、行くなー」という叫びが耳から離れないそうです。その後、十年たった頃、健太君のお母さんから届いた年賀状で裕吾君が医学部へ入学したことを知りました。
「健太君の魂によって導かれた裕吾君は医師になり、きっと多くの命を救うことだろう。死者の魂は残された者の心に宿り、忘れられることなく生き続けていくだろう」と結んでいます。
 
283号 手が二本あるのは
「抜萃のつゞり」という冊子が毎年、潟Nマヒラさんから贈られてきます。創業者の熊平源蔵さんが社会貢献の一環で、珠玉のエッセイや文章を冊子にして、昭和六年から無償配布を始め、今年も四十五万部を全国の団体や個人に寄贈しました。その中に「表彰ということ」と題する感動的な話がありました。

 毎月、福祉施設に五〇〇〇円のおカネを三十五年間も送り続けた女性がいました。彼女は二歳の時に母親が病死。施設に預けられ、中学を卒業して紡績工場で働き、結婚して三人の女の子を授かりましたが三十歳の時に夫が結核で死亡。彼女は夫の少額の退職金でリヤカー買ってネクタイを売りはじめましたが一日に一本くらいしか売れませんでした。
 ある日、中年の女性から、「これ、子どもさんに」とタイ焼きを差し出され涙が溢れました。冬の雪の日、初老の紳士がネクタイを二本買ってくれました。彼女が売る安物のネクタイを身につける人とは思えない紳士は釣銭も取らずに去って行ったそうです。
やがて彼女は過労で倒れ、市役所に医療費助成を頼みましたが認められませんでした。でも窓口の職員は「力不足でごめん」と自分の牛乳を一本差し出してくれました。
 その後、彼女は新聞配達を始めました。ある日、新聞で親のない子の施設が経営難と知り、名前を伏せて五〇〇〇円を送りました。以来善意の送金は三十五年続きました。 
 それを知った市が表彰したいと言ってきたとき彼女は「私は昔、タイ焼きを頂いたとき決心したんです。一つの手は自分と家族のために、もう一つの手は人様のために使おうと。表彰するなら私に牛乳をくれた人やネクタイを買ってくれた人を表彰してください」と表彰を辞退したそうです。
 小倉くめさんの「手が二本あるのは」という詩に、「手が二本あり、足が二本あり、目も耳も二つずつついているのは、もうひとりの誰かのお手伝いをするためです。(中略)人間同士が本気で助け合えばみんなが幸せに生きられて、どんなことでも解決できるように、神様は二本の手と二本の足と二つずつの目と耳を与えてくださったんです」という一節がありました。
282号 びんぼう神様さま
『びんぼう神様さま』という本を読みました。貧しいながらも愚直に生きる松吉の家に入り込んだびんぼう神の物語です。
びんぼう神は、入り込んだ家が貧乏になり、争いや愚痴や不平不満を聞くのが大好きでした。
しかし、松吉は古材で神棚をつくり、貧しい食事の中からびんぼう神にお供えをし、妻のおとよと息子のうし松の三人で毎日神棚に手を合せるのでした。
びんぼう神は「おるだけで不幸になることしかしてやれんわしが、なんで神さんてよばれるんじゃろうか?」と悩み、憂鬱になってきました。
 びんぼう神は長者の家の福の神に相談に行きました。その時、福の神は大きな袋を担いで門を出るところでした。
 福の神は「どうもこのごろどこの家に行っても、願いを叶えれば叶えるほど人間の顔が妙にギラギラして、人相まで悪くなるような気がして、すっきりせんのじゃ。いっそわしらを作りなすった大神様のところへ聞きに行ったらどうじゃろか」と言います。
 びんぼう神は大神様の前で「大神様、何でわしみたいなもんを神さんとして作りなさったんじゃ?なんで人が苦しんだり悲しんだりするようなことしかできんわしが鬼じゃのうて神さんなんじゃ」
 大神様は「びんぼう神どんよ、やっとわたしが人間界にお前さんを送り込んだわけを考えてくれるほどに成長してくれたのお。お前さんは私と同じ神なんじゃ。下っ端も上も無い、よい神も悪い神も無いのじゃ。今までどおりあの家を貧乏にし続ければ良い」
 びんぼう神が松吉の家の神棚に戻ると、いつものように松吉親子が神棚に向かってパンパンと手を打ち「今日も一日よろしくお願いします」と拝まれました。
 びんぼう神は「貧乏になっても幸せな人間がいるもんじゃ」と素直に夫婦の感謝の言葉を聞くことができました。
 それから松吉の家には厄病神や死神まで来て松吉たち親子を更に苦しめます。最後はお薬師さんや閻魔大王まで登場、涙が溢れて読めないほどの感動でした。
 この世には良いことも悪いこともなく、ただ有り難いことだけがあると気づかせてもらえるお話でした。
281号 想いは空をこえて
今から十一年前、ながめ余興場で『星野富弘・詩の世界&渡り鳥・雁のゴーマーの物語』という語りと音楽のコラボイベントを開催しました。その時に出演した新日本フィルハーモニー交響楽団・フルート奏者の荒川洋さんはこの町が大好きになり、何度も来てくれています。
 みどり市では平成二十八年度から「MIDORIジュニアアカデミー事業」が始まり、国際的にも活躍できる人材の育成を目指し、市内中学校の吹奏楽部の指導や音楽祭の監修を荒川さんにお願いしています。
 平成三十年春に行われた「MIDORIジュニア音楽祭」では、市内の幼稚園や保育園、小中学校、高校など十三団体五百人が参加し、荒川さんとチェロ奏者の植木昭雄さん、ピアノ奏者の佐藤勝重さんによる「東京パリアンサンブル」との合同合奏も行われ、喝さいを浴びました。
 荒川さんは、大間々の「ながめ余興場」や渡良瀬川、富弘美術館などをイメージした『想いは空をこえて』という曲を作詞作曲しました。
 
『想いは空をこえて』

 私のふるさとは
 花が咲き誇り
 素敵な眺めと賑わう人たち
 川をめぐりゆき
 あの人の絵に会う
 花への思いが私を包む
 冬の寒さも
 心は温かく
 あなたがくれた
 歌声を忘れない
 想いは空をこえて
 輝く太陽と
 神様宿る森へと歩き続けよ
 想いは空をこえて
 心が歌いだす
 ありがとう育ててくれた
 みどりのふるさと
 この歌を聴いていると、みどり市の美しい自然や穏やかな人々の暮らしや豊かな歴史や文化までもが浮かんできます。
 平成三十一年二月三日には笠懸野文化ホールパルで「MIDORIジュニア音楽祭」を開催します。今回も荒川さんのほか、劇団四季の「オペラ座の怪人」の怪人役の大山大輔さん、ピアノの佐藤勝重さんが出演し音楽祭を盛り上げます。 
 ネットで『想いは空をこえて・荒川洋』と検索して歌を聴いてみて下さい。