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「小耳にはさんだいい話」へ


271号〜280号


271号 世界記録よりすごいこと
 名古屋の志賀内泰弘さんから「眠る前5分で読める心がほっとするいい話」という著書を頂きました。本のタイトル通り、幸せな気持ちになれる四十の物語が収められています。その中で、滋賀県の学校で実際にあったというお話に感動しました。
 長浜市立浅井中学校の体育祭でギネス記録に挑戦することになりました。種目は、大勢で二人三脚をするという競技です。それまでのギネス記録は261人262脚。浅井中では270人で記録に挑むことになりました。ギネスには厳格な決まりがありました。距離は50メートル。止まったり、足首のヒモが切れたりした場合は失格。そして、挑戦はたった1回だけ。ギネス申請には、公職に就く13人が立ち会い、達成した瞬間の複数のビデオや写真や新聞記事を添えるなどの条件がありました。
 練習中に成功したのは1回だけでしたが遂にその当日がやってきました。3台のビデオを回し、新聞、テレビ等の報道機関、教育長や他校の校長先生が立ち会い、保護者たちが見守る中で「ヨーイ・ドン」。そして見事達成。グラウンドは歓声に沸きました。
 そんな中で中学2年の男子生徒が暗い表情をしていました。応援に来ていた母親が聞くと、「ゴール直前に結んでいた手ぬぐいがほどけた」とのこと。母親と男子生徒はギネス競技を指導した体育の先生に正直に報告しました。 
 新聞やニュースで「ギネス記録達成!」と大きく報じられる中、緊急会議が開かれました。手ぬぐいがほどけたことはビデオや立会人の証言では確認できませんでしたが、「真実はひとつ、生徒の勇気ある申し出を尊重し、ギネス申請をしない」と決めました。申し出た生徒はおとなしい性格なので先生方はその子を守ることを第一に考えました。彼と仲良しの3人を呼び「イジメられないように守ってやってくれ」と頼んでから事実を正式に発表しました。
 多くのマスメディアも彼の勇気ある行動を高く評価し、「ギネスに勝る生徒の勇気」、「真摯な態度こそギネス」などという見出しで再度報じたのでした。
 正直者が讃えられる世の中であり続けたいですね。



272号 綿毛にのって
先日、『綿毛にのって』と題する第三集卓上万年日めくりカレンダーが発売になりました。
『綿毛にのって』の第一集は、福島県双葉町出身で中学の教頭先生だった三本杉祐輝先生が悪性リンパ腫と向き合いながら綴った詩と福島市在住の矢口洋子さんの写真と大阪府枚方市在住の東晴美さんの筆文字をコラボした写真詩集でした。この写真詩集は、三本杉祐輝先生の詩に感動した兵庫県たつの市の木南一志さんが多くの人にこの詩を読んでほしいという願いと東日本大震災の被災地を応援したいという思いから作られました。第一集の収益金は百万円を超え、福島県内の五カ所の施設や団体に寄付されました。そして、第二集の日めくりカレンダーも昨年の三月に発刊して完売。第三集も多くの注文が入っています。
 三本杉先生は福島第一原発事故で何度も避難を繰り返しながら癌と闘ってきましたが平成二十六年十一月二十九日に逝去されました。三本杉先生の詩を読んでいると、一瞬一瞬をもっと大切に生きなければと反省させられます。

 今は奇跡の連続
 今日は今の連続
 人生は今日の連続
 だから 大切なことを
 今やらないでいつやるの?

 最期まで自分の人生諦めず
 どんなになっても思いやりを
 忘れずにいたい
 だって得たものは残らないけど
 与えたものは皆の心に残るもの

『綿毛にのって』第三集は千円(税・送料込)。利益は諸経費を除き、被災地、がん医療、福祉団体等にすべて寄付いたします。申込書は足利屋にも用意してあります。多くの方々のご協力をお待ちいたしております。
273号 幸せになる確実な方法
『OKバジ-ネパール・パルパの 村人になった日本人』という本が四月に出版されました。
 OKバジこと垣見一雅さんは二十八年前にヒマラヤ登山で雪崩に遭遇、荷物を運んでくれていた青年が行方不明になってしまいました。「自分だけが助かり、この国に借りができた」と考えた垣見さんは残りの人生をこの国に捧げようと決意、五十四歳で英語教師の職を辞し、亡くなった青年が住んでいた村に二十四年前に移住しました。
その村で垣見さんが見たものは、衣・食・住・医が満たされない貧困、教育が受けられないがゆえに貧しさから逃れれられない現実でした。垣見さんは村人と一緒に生活しながら支援活動を始めました。最初は言葉も解らず、何でもOK、OKと言っていたので「OKバジ(おじいさん)」と呼ばれるようになりました。
 現在、日本でOKバジを支援する団体は五十以上。支援者も三千人を超えています。「私は日本の支援者とパルパの人々をつなぐパイプです」と謙虚に語るOKバジは支援者に対し、写真を添えた手書きの手紙で、村人たちがどんなに喜んでいるかを報告してくれます。その誠実さが日本の支援者の輪を更に広げる大きな要因になっています。
 この本の第一章は、「アマコパニかあさんの水」と題した絵物語。毎日、何時間もかけて水を汲むことが日課だった村人と一緒にOKバジが水源からパイプで水道を引く様子を桜井ひろ子さんが綴っています。そして、第二章ではOKバジが村人と一緒に二百校以上の学校をつくり、飲料用水を百五十基以上整備し、多くの灌漑用水や医療支援を行っていることが記されています。
 OKバジは「つらいことだったら長く続けてこられなかったと思う。毎日、小さなことの喜びを与えたり与えられたりしながら二十四年間過ぎたんじゃないかって気がします」と語っています。
「幸せになる最も確実な方法は人々を幸せにすること」というOKバジの生き方が伝わってくるこの本はアマゾンやヤフーなどでも購入できます。六月三日、OKバジが桐生に来ます。
274号 難が有るから有り難い
中学校の先生だった腰塚勇人さんは二〇〇二年、スキーで転倒して首の骨を折り、医師から「一生、寝たきりか、よくて車イス」と宣告されました。しかし、必死のリハビリで「奇跡の復活」を遂げた腰塚さんは「命の尊さ」や「生きていることの素晴らしさ」を伝える講演活動をはじめました。「命の授業」の講演の様子はテレビや雑誌で何度も取り上げられています。 
 腰塚さんは毎月『幸縁』という新聞を発行しています。五月号には、腰塚さんを応援し続け、四月に癌で亡くなった岩手県の木村校長先生の『最期のブログ』が紹介されていました。ご一読ください。

 問題のない学校なんてないと思います。会社も人生も同じです。苦難、困難、災難があるのが当たり前、難がないのが「無難」ですが、無難な人生なんてないと思います。「難が有る」と書いて、「有り難い」で、有り難い学校、人生になるのだと思います。ですから、人生は、どの道を選ぶかではなく、選んだ道からでてくる問題をどう乗り越えるかで決まると思います。…皇后美智子様のいう「子どもを幸せにするのではなく、どんな状況でも幸せになるように育てる」という子育ての極意がそこにあります。…「決断」とは、その道を決めることだけではなく、選ばなかった道への未練を断ち切ることだと思います。…人生は決断と選択の繰り返しです。選んだ道には間違いも失敗もないのです。…さまざまな体験、人間関係は、いろいろな縁が重なって自分のところにきたものと思います。 苦しみ・悩みは人生を楽しませるためにでてくるものだと私は思っています。
 木村先生のブログを読んでいると、腰塚さんの生き方が重なって見えてきます。
 人とのご縁を大切にする腰塚勇人さんは「五つの誓い」をたてています。
@心は人の痛みがわかるために使おう 
A手足は人を助けるために使おう 
B耳は人の言葉を最後まで聴いてあげるために使おう 
C目は人のよいところを見るために使おう 
D口は人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう
 見習いたいと思います。

275号 雲の上はいつも青空

 東吾妻町の長徳寺ご住職の酒井大岳さんが「雲の上はいつも青空」(河出書房新社)というエッセー集を出版しました。「人生を励ます禅僧の五十話」というサブタイトル通り、笑いあり涙ありのお話は私達の心を優しく励ましてくれます。「もう一歩深いところを見る」というお話も笑えて深い話でした。

「女子高で国語の授業に出たとき、うしろの四、五人が騒いでいるので、そばに行ってみると、画用紙を裏返して「見ちゃダメ!」と言います。「そう言われると余計見たくなるんだよ」と言って無理に取り上げてみると、棒グラフが書いてあって、下のほうには男の先生の名前。一番長い線の隣りに「君が代先生」と書いてありました。聞いてみて驚きましたよ。同じ靴下を三日も四日も続けてはいてきたので「コケのむすまで」、それで君が代先生なのだそうです。教壇に戻って黒板に「深思遠慮」と大書しました。「読めるか?」と聞いたら「読めません」と言うんだね。そこで私はこんな話をしたのです。「これはね、じんしえんりょ、と読むんだよ。深きを思い、遠きを慮(おもんぱか)る、思いを深めて遠い先まで考えるという意味なんだね。同じ靴下を続けてはいてきたからコケのむすまで、君が代先生というのは、深い見かたではないんだね。あの先生は気に入った靴下があると、二足も三足も同じ色、同じ柄のものをいっぺんに買う先生なんだよ。ちょっと見ると、代り映えはしないけど、いつもきれいな靴下をはいてきているんだ。人間ってね、上辺だけで人を批判したりしてはいけないんだな。深いところに目をやらないといけない。みんなも、この学校を卒業して社会に出ていくと、周囲からいろいろな目で見られ、批判される。そんなとき、この言葉を思い出すといいよ。そして、自分はなるべく表面だけで人を語らないように心がけるんだね。分かってくれたかな?」…

 十数年前、大間々でも講演をしていただきました。懇親会でお酒を飲みながら「箸よく盤水を回す」という言葉を教えていただき、人生の道が開けました。
276号 「感謝」するより「恩」を返せ
執行草舟さんと清水克衛さんの対談集『魂の燃焼へ』という本の中に、「感謝」するより「恩」を返せ、という話が出てきてハッとさせられました。
「…いま、みんな感謝、感謝って言うじゃないですか。しかし、感謝というのは対象がないんですよ。だから、しっぱなしでいい。でも、恩っていうと対象がある。たとえば親とか、先生とか、親分とかね。だから、恩は必ずその対象に返さなくちゃいけない。それが現代人は大っ嫌いなんだ。親のおかげで成長して、大人になって、じゃあ親にどんな恩返しをするかってことですよ」
 日頃、感謝という言葉を安易に使っている自分が叱られているようで反省しました。
 先日、『人生で大切なことは、すべて厨房で学んだ』という本を読みました。著者の上神田梅雄先生は、新宿調理師専門学校の校長先生。本の中で上神田先生は、「父と母との間に生を受けたご縁、そして養育してくださった深いご恩に、計り知れない宿命を感じます」と書いています。
 上神田先生のお父様は大正四年生まれ。祖国のために二度も兵隊にとられました。戦後に兵隊恩給の受給請求期限が迫ってきた時、担当の方が何度も家に来て、「あなたは恩給をもらう権利が十分にあります。堂々と請求すべきですよ」と助言してくれたのに対し、「戦死した戦友もたくさんいる中、恥ずかしながら生きて帰ってきて、いまさら恩給をくれって、物乞いのようなことはできない。俺は印鑑を押さない」と答えた姿が強烈に残っているそうです。
 上神田先生のお母様は尋常小学校しか出ていませんでしたが「母の口から発せられる、躾のための教え・諭し・戒めに満ちた言霊は、どれもこれも私たち子供のその後の人生行路を照らしてくれる灯台の灯りとなりました。…私の生き方そのものが、母への報恩であり、母の歩んだ人生を意義深いものにできるかどうかが問われているようです」と書いています。
 去年、伊東で行われた勉強会で上神田先生と同じ部屋になり、じっくりと話を聴かせていただきました。その時も「人生はご恩返し」だと教えられました。
277号 熏習(くんじゅう)
 松崎運之助(みちのすけ)先生は夜間中学校の元教員で、山田洋次監督の映画『学校』の原作者で主人公のモデルでもあります。一昨年、ながめ余興場での松崎先生の講演会がきっかけで『路地裏通信』という心温まる新聞を毎号読ませて頂いています。
 鍵山秀三郎著『すぐに結果を求めない生き方』(PHP研究所)という本の中にも『路地裏通信』が紹介されています。
「…九州に一人の新聞配達少年がいました。近所の子どもが彼に石を投げていじめました。少年は石を投げた子どもに『おれが何か悪いことをしたか』と聞きました。『いったい何をやっているのかと思っただけだ』『新聞配達をしているのがわかるだろう』『なぜそんなことをしているんだ』『お前らの家と違っておれの家は貧乏だから、おれが親を助けなきゃ生きて行かれないんだ。今度、邪魔したら許さんぞ』。その気迫に負けて、石を投げた子どもは、『自分にも新聞配達をやらせてくれ』とお願いしました。少年は『いいかげんな気持ちでいったらおれが許さんぞ』といったそうです。話の中の少年は、子どもなりにも責任感を持って目標に向かって頑張っていたのでしょう。少年の親も、貧しくとも誠実に生きていたはず。だからこそ少年も『自分も自分のやるべきことをしなければならない』と思うようになった。これが健全な家庭というものです。親としての行いを実践していれば、よい感性は子どもに伝わります。そこで大切なことは、学びを得たら、それを生かす努力をすることです。
 いつもお香を焚いている部屋には、お香の匂いが染み渡り、焚いていなくてもよい匂いがするようになります。これを『熏習』(くんじゅう)と呼びます。意識の高い人たちがそれぞれ人に学び、感性を養い、更にその学びを実践し、周りに伝える。そうした努力があちこちで見られるようになれば日本の秩序ある社会はきっと維持されていくものと心から期待しています」

 九月二十九日午後二時、松崎運之助先生が主宰する「路地裏の会」が、ながめ余興場で「路地裏フェスティバル」を開催します。
278号 大間々町の民話
 桐生市の清水義男先生が「大間々町の民話」第三巻を発行しました。一巻から合せて七十六話が収録されています。清水先生のご尽力で大間々の民話が後世に残ることを嬉しく思いました。第三巻に「雑煮のいわれ」という面白い話があります。

「むかぁしのことだった。塩原の殿様は隣の国の殿様と意見が合わず、とうとう合戦をおっ始めちまった」と上州弁の語り口で綴られています。戦いが予想外に長引く中、敵軍は「虎」という猛獣を出して塩原軍を威嚇しはじめます。それに対して塩原の殿様は「敵が虎なら、わが軍は象を戦場に向かわせよ」と命じます。餅をついて、その餅で象のハリボテを作らせて戦場に送り込むと、塩原の軍勢は「オーッ、わが軍に、あんなにでっけえ象がおったのか。もう虎なんか怖くはないぞ」と勢いを盛り返します。合戦はさらに長引き、兵糧が底をつき始めた時、塩原の殿様は「象のハリボテの体の中の餅をえぐりとれ」と命じます。塩原軍はその餅を煮て空腹を満たしました。長い合戦は和睦という形で終結し、ようやく家族のもとへ帰ってきた塩原軍の将兵たちは「合戦はつらかったが戦場で食った餅汁はうまかったなぁ。わが家でも餅をついて、家族と一緒にあの味を楽しもうぞ」と、正月には餅汁を食べることが塩原領内の慣習になりました。そして「あんときの餅汁は象の体の中の餅だから、象を煮て食ったんとおんなじだ。だからこの餅汁は、これっから『ぞうに』
って呼ぼうじゃねえかい」と言い合って塩原領内に雑煮という新しい食べ物が生まれた、というお話でした。

「大間々町の民話」には、木之宮神社や菅原神社、正福寺や光栄寺なども登場します。どこの寺社にも象や虎などの見事な彫刻が残っています。江戸時代には日光東照宮の彫刻に関わった上州彫物師集団がこの地に住んでいたので、みどり市には東照宮に匹敵する彫刻が数多く残されています。民話を読みながら、みどり市内の寺社彫刻に目を向けることも郷土への愛着と誇りにつながります。
279号 役にたたないことが役にたつ
『路地のあかり』(松崎運之助著・東京シューレ出版)という本の中に「役に立たないものが役にたつ」という示唆に富んだお話がありました。

「…屋久島の自然のなかで、一番感動したのは樹齢二千年を超える屋久杉の巨木です。屋久杉は標高千メートル以上の栄養の乏しい花崗岩の山地に育ちます。そこは風速六十メートルの突風が吹き、一日に千ミリもの雨が降り、冬は雪に凍える厳しい自然環境です。そのため、屋久杉の成長は遅く、年輪が詰まって材質が緻密になり強度が強い。また樹脂も一般の杉の六倍以上も多く出して腐りにくくしているそうです。今に残る屋久杉の巨木には大王杉、紀元杉、弥生杉、縄文杉などの名前が親しみを込めて付けられています。
 屋久島観光バスのガイドさんが乗客に聞きました。「屋久杉の巨木は、なぜ今まで生き延びることができたのでしょうか?」誰もが答えに窮しました。ガイドさんの答えは意外でした。「それは役にたたない木だったからです」  
 屋久杉は五百年余り前から伐採されはじめ、幕末までに七割が伐採されたといわれています。今残っている巨木は、木材にするには形が悪い、曲っていると敬遠されたもの。つまり、木材として役にたたないから伐採されずに生き残ったというわけです。人間に見捨てられた巨木は、たくさんの植物たちの安住の場所にもなっていたのです。
厳しい環境を生き続けること数千年、今、世界遺産のスターとして名前を付けられ、人間に感動を与えています。不格好でも生き続けることによって命を輝かせ、たくさんのいのちを励ますことになっています。役にたたないものが役にたつ、そんな素晴らしい気づきをもらった屋久島でした。

 松崎運之助先生は元夜間中学校の先生で、山田洋次監督の映画『学校』の主人公のモデルでもあります。
 先日、松崎先生が主宰する「路地裏の会」の四十六名が大間々を散策し、ながめ余興場で「路地裏フェスティバル」を開きました。
優しさ、温かさ、いとおしさに溢れた人たちでした。
280号 心は天につながっている
 親友の日笠敏美さんから「生命尊重ニュース」という冊子を毎月送っていただいています。
今月の記事の中に、ダウン症の書家・金澤翔子さんのお母様の金澤泰子さんが「京都いのちの講演会」で講演をされた「心は天につながっている」というお話が紹介されていていました。
 
 金澤泰子さんは四十二歳の時に翔子さんを授かりましたが生後四十二日目に医師から「この子はダウン症で知能が低く、歩けないでしょう」と告げられ、絶望のどん底に突き落とされたそうです。翔子さんが書道を始めたのは小学三年の頃からでした。書道教室の先生でもあった泰子さんは翔子さんに般若心経を毎日十回書くことを課しました。翔子さんは叱られながらも書き続けた結果、楷書の基礎を身につけました。この時の涙の跡が残っている作品が翔子さんの書の中で一番人気の「涙の般若心経」という作品だそうです。
 二〇一三年の東京国体の開会式で翔子さんは天皇皇后両陛下と四万人の観客の前で、五メートル四方の紙に「夢」という字を書くことになりました。自分の背丈よりも高い二十キロの重さの筆を使って一気に書き上げた「夢」は、多くの人たちに生きる勇気と感動を与えてくれました。
 二〇一五年、ニューヨークの国連本部で開かれた「世界ダウン症の日記念会議」の席で翔子さんは日本代表として感動のスピーチをしました。
「私は書家です。十四歳の時お父様が急な病気で亡くなりました。私の胸の中にいます。『うまく書けますように』とお父様に祈って書いています。お母様と一緒にたくさんたくさん書きました。
 
 お母様へ お母様のお腹の中にいる時に、出たい出たいと足で蹴ったのを覚えていますか。痛かったかな。赤ちゃんの私を産んでくれてありがとう。お母様が大好きなのでお母様のところに生まれてきました」
 
 泰子さんは「三十年前、ダウン症の告知を受けた時の日記に『今日、私は世界で一番悲しい母親だろう』と書きました。今、翔子が国連で立派に講演する姿を見て『翔子、今日お母さまは世界一幸せ』と言えたのです」という言葉で感動の講演を締めくくりました。