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「小耳にはさんだいい話」へ


251号〜260号


251号 泥だらけの英雄たち
十数年前に『秘めだるま』という雑誌を読みはじめました。発行者の小倉くめさんは愛媛県在住で今年七十歳。先天性障害者に生まれ、社会から必要とされない存在と思っていたくめさんが『秘めだるま』を発刊したのは37歳の時でした。全ての人間の平等を願い、地球と人類の明るい未来を目指して年4回発行する雑誌は、くめさんの明るさと人情味に溢れています。 
 今回の「秘めだるま」第百三十号もいい話が満載でした。
『泥だらけの英雄たち』は、くめさんが中学生の頃の話。近所に住んでいた伯父さんが亡くなり、病身の伯母さんが子供三人を育てていました。
「…その年は伯母が入院した。村中が忙しく田植えをする中で、子供三人が残された従兄弟(いとこ)の家は田植えの準備もできてなかった。どの家にも余分の人出があるわけもなく、我が家とて、他家より仕事がはかどっているわけでもなかった。が、子供心に伯母の家の田植えが気になった。多分、伯母本人、我が家の両親にしても、私以上に気が気ではなかったろう。そんな状態で村中の田植えが終わった晩、言い継ぎの「緊急伝達」が回った。「明日、組の人が総出で、伯母の家の田植えをする」―という。
翌日は激しい雨が降りよった。いつもだと、雨の日に野良仕事に出掛ける両親が切なかった。が、その日、雨の中を伯母の家の田植えに行く母たちがどれほど頼もしかったことか。田植えを終わって帰ってきた母たちに、私は正義の味方みたいな感動と興奮を覚えた。組の大人が実にカッコ良く英雄のように思われた。(中略)もう何十年も昔、大した学歴もない『水のみ百姓』たちが、当然のこととして行っていた助け合い。あの日の、大雨の中の泥だらけの英雄たちこそが、ボランティアの何たるかなど学ばぬまま、本物のボランティアを実践していたような気がする。…」
「秘めだるま」は春夏秋冬号+送料で3600円。
くめさんは「七百名ほどの定期購読者を一千名に!」を目指しています。足利屋の休憩コーナーにも「秘めだるま」が置いてありますのでご覧下さい。定期購読のご紹介もいたします。


252号 少彦名(すくなさま)
 友人に勧められて『新訳古事記伝』(阿部國治著・全7集・致知出版社)という本を読んでいます。古事記という古い書物の名前は知っていても難しそうで読む気になれなかったのですが、この本を読んで古事記の魅力に惹き込まれました。第3集の「少彦名(すくなさま)」というお話に特に感動しました。
 須佐能男命(すさのおのみこと)の元で厳しい修業をした大国主命(おおくにぬしのみこと・大黒様)はたくさんのお供を連れて国造りの仕事を進めますが行き詰まりを感じていました。出雲の浜辺で思い悩んでいると、海の彼方から木の実に乗った小人が浜辺に近づいて来るのが見えました。それが少名毘古那神(すくなびこなのかみ・少彦名・すくなさま)という神様で、大国主命は「すくなさま」の弟分となり、国造りを成し遂げるという示唆に富んだ話です。
 大国主命は大名持神、葦原色許男神、八千矛神など多くの名前も持っていました。「すくなさま」はまず大国主命にこう諭します。「国造りの仕事を固めるためにはまず、その名を全部捨ててしまわなければいけません。一人でそんな良い名を持って、仕事の功績を自分のところに集めてしまい、お供を連れて堂々と歩いていては、あなた自身がどんなに親切を尽くしたつもりでも、その親切が的外れになってしまいます。私は身体も有るか無きかのちびっこです。形は見えないほど小さいし、名もないのですが、これが大事なことなのです。お陰さまで私のする仕事は誰も気がつかないし、名無し坊ですから、たとい良いことをしても、感謝のしようもないし、称賛のしようもありません。こうしてやった仕事こそ本当に良い実を結びます。感謝する人もなく、褒める人もなく、自然のこととして、みんなが喜んでいるのを見るのが、私の楽しみなのです。」
 一寸法師のモデルとも言われる「すくなさま」のお話を読んで、日本民族が大切にしてきた心が少し解ったような気がしました。

253号 茗荷(ミョウガ)を食べると…
  虹の架橋は平成7年9月に創刊し、21年目に入りました。創刊のきっかけは、平成5年に「さくらもーる」が開店したことでした。新しい店から商店街の店を見た時「古い店ならではの商いの心や方法もあるのだ」と気づきました。また、当時のさくらもーるカスミのチラシに『生活』という「いい話」が連載されていたのも虹の架橋をつくるきっかけになりました。
 カスミの創業者・神林照雄さんは徳の高い経営者で、「商売は単なる金儲け主義だけではだめだ。人のためになることを優先する心が経営を健全にする」と言って、心に響く話の執筆を禅僧の形山睡峰さんに頼みました。「広告は見なくても『生活』は読む」と評判だったカスミのチラシを真似て書きはじめたのが「小耳にはさんだいい話」でした。
 形山睡峰著「幸せに生きるためのヒント」はカスミのチラシの『生活』から珠玉の話を抜粋した本です。その中の「『チリを払い、垢を除かん』と掃除一筋に努める」という話も深い話でした。
 茗荷を食べると物忘れがひどくなる、と言わるようになった理由は、お釈迦様の弟子のシュリハンドクが弟子の中で一番頭の悪い人だったからだそうです。彼は自分でも「こんなに愚かでは仏様の弟子にはなれない」と落ち込んでいました。お釈迦様は「シュリハンドクよ、愚かなくせに自分の愚かさを知らぬ者こそが本当の愚者なのだ」と諭して1本のホウキを与えました。そして「チリを払い、垢を除かん」と唱えなさいと教えました。お釈迦様は大衆を前に「悟りを開くのに多くのことを覚える必要はない。どんな小さなことでも真剣に一筋であればよいのだ。シュリハンドクはホウキ1本に徹してついに悟りを開いたではないか」と言われました。
 シュリハンドクの死後、その墓の上に生えた草が茗荷だったのだそうです。
 金閣寺を再建した慈海和尚は禅とは何かと問われた時に「わしは禅のことはよく知らんが、掃除の仕方なら知っているから、それでよければ教えてあげよう」と答えたそうです。
 みんな形山睡峰さんから教えてもらった話です。

254号 幸せは感じるもの
  千葉県の友人からスマイルニュースというメールが転送されてきます。元々の発行人は原廣至さんという方で毎号、心に響くお話が紹介されています。19年前からはじめたスマイルニュースは百号を迎えました。その中に「幸せは感じるもの」というお話がありました。

 あるお婆さんが何十年も肌身離さずもっているものがありました。それは、我が子が小学生のときにくれた、数枚の「肩たたき券」でした。夫を早く亡くしたその女性は、女手一つで一人息子を育てました。二人で食べていくのがやっとの生活、息子に小遣いをあげる余裕などありませんでした。母の日、息子は母のために「肩たたき券」を作りました。仕事から帰ってきた母は、毎日、一枚の「肩たたき券」を息子に渡します。息子は小さな手で一生懸命に母の肩をもみます。息子の手のぬくもりを感じながら、彼女は心からの幸せを感じたそうです。
 やがて息子は立派な大人になり、大手メーカーの部長にまでなりました。毎年、母の日には実家を訪れ、高級な装飾品や洋服などをプレゼントするそうです。しかし、どんな高級なプレゼントより、彼女にとっての最高のプレゼントは「肩たたき券」でした。
あるとき、息子が「肩たたき券」を目にしました。「こんなもの、まだもっていたの?」と聞くと母は「だって、私の一生で一番嬉しかった贈り物だもの」と。息子は微笑んで頷いたそうです。
 幸せというものは少し探す努力をするだけで必ず見つかるものです。もしも「自分は不幸だ」と嘆いている人がいるとすれば、それは幸せを見つけることをしていないだけです。小さな幸せをたくさん感じながら生きてください。その積み重ねこそが、幸福な人生への道筋になっていくのです。

 スマイルニュース発行人の原廣至さんは来年80歳になるそうです。4月に体調を崩し、百号でやめるつもりでしたが読者の方から「手伝うから続けて…」という言葉をもらい、続けることにしたそうです。
 原さんもきっと読者からの申し出に最高の幸せを感じたことと思います。

255号 許す力
『君がここにいるということ』(緒方高司著・草思社)という本を読みました。著者の緒方高司さんは小児科の先生。生きるとはどういうことかを十八の実話を通して学びました。『許す力』という話が印象的でした。
 緒方先生が研修医の頃、宮崎さんという七十六歳の女性が入院していました。宮崎さんは十九歳で結婚し、二十歳で出産、予定より二カ月早く生れた子は未熟児で、病院で下された診断は「重度の脳性マヒで一生寝たきりだろう」というものでした。それ以来、夫の両親の態度が一変、孫の世話を一切しなくなり、夫も宮崎さんに育児を任せっきりにしました。ある夜、宮崎さんは三歳になる我が子を背負い、村はずれの橋から川に飛び込もうとしました。その時、背中の我が子が突然泣き出しました。「この子のために生き抜かねば」と思い直した宮崎さんは、また一人で我が子を介護する日が続きました。しかし、その子も十五歳で肺炎で亡くなってしまいました。我が子を亡くした悲しみの中、今度は義父母が相次いで寝たきりになり、また十年近く介護に明け暮れることになりました。そんな義父母が亡くなり、夫と二人だけの穏やかな日々が訪れたと思った矢先、夫が脳溢血で倒れてしまいました。夫を介護する生活が更に五年続きました。宮崎さんは、結婚後、ほとんど全ての時間を家族の介護に費やしていました。
 ある日、死期が近いことを悟った夫は、宮崎さんに机の中の箱を開けるように目で合図しました。箱の中に入っていたのは結婚する前に宮崎さんが夫に宛てた恋文でした。夫はその手紙を慈しむように読み、声にならない声で宮崎さんに語りかけました。宮崎さんは、唇の動きで「すまなかった。ありがとう」と言っているのがわかりました。その二日後に夫は亡くなりました。
 宮崎さんは「私は夫が最後に言ってくれた言葉だけで、それまでの全ての恨みや苦しみを許しました。人生ってそういうものなのよ。だから私は自分の人生を幸せだったと思えるの」
 足利屋では、この本の貸し出しもしています。是非読んでみて下さい。

256号 両陛下からのお言葉
 東日本大震災がきっかけで知り合った岩手県大槌町の赤崎幾哉さんと毎月欠かさず文通を続けています。先日届いたお便りの中に「天皇・皇后両陛下をお迎えして」と題する赤崎さんの手記が入っていました。手記には、国民体育大会にご出席のために岩手県入りした両陛下が「避難民をお見舞いしたい」との思いから大槌町を訪れた時のことが綴られています。

『先導車の後、日の丸がはためき、菊のご紋の付いた黒塗りのお車が役場正門から見えた。町長のお迎えを受けられ、天皇皇后両陛下が降りられた。何と表現したらいいのか、歓迎の声が沸き上がる。私も胸にグッとくるものを感じながら自然に声が出ていた。お待ちする町民の前にゆっくりと進まれ、穏やかなお顔で一人一人に話しかけられている。傘をさされた両陛下が私たちの前にいらした。天皇陛下と目が合う。「如何ですか?」と陛下。「はい!仮設住宅で五年半過ごしております」と自分。「そォっ!頑張っておりますか?」と陛下。「仮設の住民は半分になりましたがお陰さまでみんな元気でおります」と自分。「そォっ!頑張っているのですねっ。これからも健康に気をつけて下さいねっ」と陛下。「はいッ!ありがとうございます!がんばります!」と上ずった声の自分。ただただ感動する。
 続いて、隣りの家内は皇后さまと、「大変でしたネェ!」と美智子さま。「はい!築六年の自宅が流されました」と家内。「それは不便でしたネェ!」と美智子さま。「はい、でも何とか命だけは助かりました」と家内。「それは何よりでしたネ。これからもお元気でねっ!」と美智子さま。「美智子さまもお元気で」と家内。
 お帰りは車の中から、おそろいで参加者に手を振られ役場を後にする。改めて、両陛下のご健勝を心からお祈りした。』

 津波から三週間後、さくらもーるの仲間と野菜や洗濯機をトラックに積んで大槌へ二度、足を運んだ時のことを思い出しました。
 赤崎さんご夫妻のこれまでのご苦労を想像して目頭が熱くなりました。

257号 二十歳の祝詩(はたちのいわいうた)
 中学校教師の新井国彦先生とは二十年来のお付き合いです。
 新井先生は、自分が受け持ったり担当した生徒が成人を迎える時、その一人一人に『二十歳の祝詩』という詩が書かれたハガキに添え書きをして送っているそうです。学級担任であった時は四十枚ほど、学年主任の時には学年全員の百五十枚〜二百三十枚も書いています。そのハガキには、大阪の詩人・里みちこさんの詩がご自身の筆文字で記されています。

「二十歳の祝詩」 里みちこ
親子で出会ったあなたと私
ふしぎなふしぎなめぐりあい
よろこび かなしみ共にして
今日まできました二十年
あなたの道は この橋渡ったところから 大きく続いているのです 
橋の上からみたでしょう 川の流れを人の世を
わたしは かけはし
いずれ朽ちゆく木橋です
ここであなたをみています
ここでじっと 祈っています
おめでとう二十歳
ありがとう二十歳

 新井先生が初めて里さんにこのハガキを注文した時、里さんから何に使うのかと問われました。「成人を迎える教え子たちへのお祝いとして送りたい」と伝えると里さんは、「新井さんの心意気に感じ、私からハガキをプレゼントさせてほしい」と申し出たそうです。そんな里さんの思いも添え書きに載せ、教え子たちが成人を迎えるたびに新井先生は一人一人の顔を思い浮かべながら祝いと激励の言葉を添えて投函しています。
「教育は尊い。それは、自分が教え育てていただいた恩を直接親や師に返しきれない分、後の世をつくる子らへと送っていく営みと言えます。『君は宝だ!』という応援歌をこれからも送り続けていきたいと思っています」という新井先生の思いと実践し続ける努力に感動しました。
 新井先生は「凛」と題する学年だよりを日刊で発行しています。それを読むと、新井先生と生徒、保護者、地域の人たちとの絆の深さがわかり、出会いの大切さを教えられます。


258号 母からの贈りもの
 ながめ余興場で、松崎運之助(みちのすけ)先生の講演を聴きました。松崎先生は、山田洋次監督の映画「学校」の原作者であり主人公のモデルでした。
 松崎先生は昼間は働きながら長崎の夜間高校を卒業。夜間大学で教職課程を履修して東京の夜間中学の先生になりました。
 夜間中学には十代から八十代まで、不登校の子から路上生活を続けるおじさん、ひらがなが書けない外国籍の人たちなど、国籍も職業も境遇もさまざまな人たちが通っていました。
 松崎先生は「夜間中学に通ってくる人たちはみんな苦しみや悩みを抱えています。でも、バネが縮んだ分だけ高く跳ね上がるように、人も辛い経験をした分だけプラスの力をため込んでいます。マイナスの中に前進への力があるのです」と言っていました。
 授業で黒板に書いた「母」という漢字をじっと見ていた人が「字の中の点々は涙に見える」と言い、まわりの人も大きくうなずいて、苦労の多かった母のことをみんなが次々に話しだしたそうです。
 講演を聴いて感動し、松崎先生にお礼の手紙を書きました。すぐにご丁寧なお返事と、「母からの贈りもの」という松崎先生のサイン入りの著書を頂きました。その本を読んで、松崎先生の優しさや強さ、温かさの原点はお母さんにあることを知りました。
 本の中で松崎先生は、「私が小学校の三年生のころ、母と私と弟妹の四人は、長崎の繁華街を流れるどぶ川沿いのバラック小屋に住んでいた。母は日銭を稼ぐために、朝早くから日雇いの仕事に出かけていった。…社会の底辺で時代の制約を受けながらも、子どもと共に自分自身も大切に生き、努力してきた人だった。… 
 この本を書きながら気づいたことがある。それは母からの最大の贈りものは、私自身であり、母とともに過ごした時間であるということである。私はこの本を敬愛する我が母と、母と同じく戦後の混乱と貧困の時代を生き抜いてきた世の母親たちに捧げたい」とと締めくくっています。
 松崎先生の著書「母からの贈りもの」と「路地のあかり」は足利屋の休憩コーナーでもご覧になれます。

259号 小栗上野介
 高崎の学校の先生方が中心になって活動を続けている「まごころ塾」の主催で白駒妃登美さんの講演会を開きました。
「美しい日本に住む私たち」というテーマのお話を聴いているうちに、日本人に生まれてよかった、と改めて思いました。 
 白駒さんのお話の中で特に印象に残ったのは、群馬に馴染みの深い小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)のお話でした。
 幕末の徳川家を支えた重臣の小栗は日米修好通商条約批准のための使節団の主要メンバーとして太平洋を渡りました。使節団の上品で優雅な身のこなし、毅然とした態度に圧倒された詩人・ホイットマンは「考え深げな黙想と真摯な魂と輝く目に感動した」という詩を書き残しています。
 アメリカから大西洋、インド洋を経て日本に戻ってきた小栗は日本を近代国家にするためには世界的なレベルの造船所をつくることが必要と考え、幕臣の反対を押し切って横須賀ドック建設に着手しました。小栗は、「あのドックが出来上ったうえは、たとえ幕府が滅んでも、『土蔵付き売家』という名誉を残すだろう」と語りました。徳川幕府の終焉が近いことを見抜いていた小栗は死の瞬間まで、その滅びゆく幕府のために身を捧げました。小栗が求めていたのは得ではなく、徳だったのです。小栗は、「両親が病気で死のうとしているとき、もうだめだと思っても、看病の限りを尽くすではないか。自分がやっているのはそれだ。幕府の運命には限りがあるとも、日本の運命には限りがない」と語っています。
 小栗は慶応四年、官軍に捕えられ、翌日、旧倉渕村の烏川の河原で斬首されました。
 横須賀造船所は明治政府に引き継がれ、日露戦争の日本海海戦の勝利に貢献しました。
 明治四十五年夏、元帥だった東郷平八郎は小栗の子孫を自宅に招き、「小栗さんが横須賀造船所を造っておいてくれたことが、どれほど役立ったか知れません」と、厚く礼を述べ、「仁義禮智信」という書を贈りました。その額は高崎市倉渕町の小栗の菩提寺・東善寺に残されています。
 司馬遼太郎が、明治の父と讃えた小栗上野介忠順から大切な事を学びました。


260号 穴のあいた桶
 三月十九日(日)
四時起床。六度。満天の星と下弦の月が頭上に輝いている。一週間前の満月の朝はマイナス一度。月は西の空にいた。これから数日後には同じ時刻に刀のような鋭い月が東の空に見えてくる。暖かくなり夜明けが早くなるのも嬉しいが「有明の月」を見るのも好きだ。
 昔は二十三夜講が全国各地にあった。
大間々にも二百年前に造られた二十三夜塔がある。二十三夜の月は真夜中に出て明け方まで夜空を照らす。二十三夜は女人講中で女性たちが持ち寄った料理を食べながら語り明かせる女子会のルーツのような日でもあったらしい。二十三夜様は三夜待ち、産夜とも呼ばれ、夫婦がその夜にお参りすると子宝に恵まれるとも言われていた。夏目漱石はアイラブユーを「月がきれいですね」と訳したという。月には愛とロマンがある。愛妻に「月がきれいだね」と言ってみた。「そうね」と月並な答えだった。