ホームへ 
「小耳にはさんだいい話」へ


241号〜250号


241号 人類の幸福とは何か
『世界でいちばん貧しい大統領のスピーチ』という絵本を読んで感動しました。この絵本は、2012年、環境が悪化した地球の未来について話し合うブラジルでの国際会議で、南米の国ウルグアイのムヒカ大統領が演説した内容をわかりやすく絵本にしたものです。ウルグアイは人口300万人強の小さな国ですが1300万頭の牛と800万頭の羊が住む自然の資源に恵まれた国です。ムヒカ大統領は給料の大半を貧しい人たちのために寄付し、大統領公邸には住まず、町から離れた農場で奥さんと暮らしています。花や野菜を作り、古びた愛車を運転して仕事に向かうムヒカ大統領は「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれています。
 ムヒカ大統領は国際会議の演説の中で、「私たちはもっと便利でよいものを手に入れようと様々なものを作ってきたおかげで世の中は驚くほど発展しました。しかしそれによって、ものをたくさん作って売ってお金を儲け、儲けたお金で欲しいものを買い、さらにもっとたくさん欲しくなってもっと手に入れようとする、そんな社会を生み出しました。私たちはできるだけ安くつくって、できるだけ高く売るために、どの国のどこの人々を利用したらいいだろうかと、世界をながめるようになりました。人より豊かになるために、情け容赦のない競争を繰り広げる世界にいながら、『心を一つに、みんないっしょに』などという話ができるでしょうか。誰もが持っているはずの、家族や友人や他人を思いやる気持ちはどこに行ってしまったのでしょう。私たちが挑戦しなくてはならない壁は、とてつもなく巨大です。目の前にある危機は地球環境の危機ではなく、私たちの生き方の危機です。人間は、今や自分たちが生きるために作った仕組みをうまく使いこなすことができず、むしろその仕組みによって危機に陥ったのです」と言っています。
『貧乏とは、少ししかもっていないことではなく、限りなく多くを必要とし、もっともっとと欲しがることである』という言葉に深く共感し反省しました。
 この本は足利屋でもお貸しします。お読み下さい。

242号 与えられた縁を生かす
「みやざき中央新聞」は心温まる社説や感動の話ばかりを紹介する新聞です。先日、作家の鈴木秀子先生がスタンフォード大学で教えていた時に同僚から聞いた話が紹介されていました。

 ある先生が4年生の担任になった時、クラスにどうしても好きになれない子がいました。いつも汚い格好で、授業中は居眠りをしていて反応がなく、疲れ果てた顔をしていました。
「この子さえクラスにいなければ」と思いながら過去の学籍簿を見ると、1年生の時には、「優秀で素直な子。この学校の誇りです」と書いてありました。2年生になると「お母さんが病気になり毎日が大変らしい。それでもめげず、よく勉強しています」とありました。3年生になると「母親死亡。父親がアルコール依存症となり、子どもに暴力をふるう…」と。ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている少年とわかり先生は胸が痛みました。
 長期休暇に入る日、先生は少年に「家にいるのが大変だったらここで勉強する?」と誘い、彼の眼が輝きました。少年は休みの間中、学校で先生の横で勉強しました。ある時「今日は僕の誕生日なんだ」と少年が言いました。
夕方、先生は花束とケーキを持って少年を訪ねました。暗い部屋にぽつんと座っていた少年が笑顔になりました。帰りがけに少年は小さな瓶を先生に手渡しました。お母さんが使っていた香水でした。
 以来、少年の成績はどんどん伸びてゆきました。
 数年後、「先生のお陰で高校に入学できました」という手紙が届きました。そしてまた3年後、「高校を無事卒業し、○○大学の医学部に進みます」という手紙が届きました。それから10年近い歳月が流れた頃、きれいな封筒が届きました。「先生のお陰で僕は医師になり、素敵な人と結婚します。ぜひ結婚式に来て下さい」と書かれていたそうです。
 先生は、少年からもらった香水をつけて結婚式に出席しました。式場に着くと立派に成長したあの少年が先生を抱きしめ、「あぁ、お母さんの匂いだ」と。先生は、彼のお母さんが生きていたら座るはずの新郎の隣の席に座ったそうです。

243号 ぼくのお父さん
 10月17日、みどり市連合婦人会主催の父の日大会が開かれ、「父の日作文」の表彰式が行われました。小学4年生の部の最優秀賞は大間々北小学校の高瀬響太くん。「ぼくのお父さん」と題する作文を読んでホッと心が温かくなりました。

「ぼくのお父さんの仕事は、薬ざいしです。病院で診察を受けた人が薬の処方せんを持ってきます。(中略)薬の種類は千五百い上あります。一つの薬でもミリ数がちがう物がたくさんあったり、名前がすごく似ているものもあったりして、まちがったら命にかかわることもあるのでお父さんは大変だろうなと思います。(中略)
 やっと仕事が終わって帰ってきてご飯を食べている時に電話がなるとぼくは、ドキッとします。なぜかというと、食べ始めたばかりなのにまた薬局へ行って仕事になってしまうからです。すぐに帰ってくる時はほっとするけど、おそい時は『大じょうぶかな』と心配になります。(中略)
 お父さんはよくぼくに、「生れて来ただけでもうけもの」と言います。それは、十三年まってやっとぼくが生れたからです。赤ちゃんだったぼくのオムツをかえたり、おふろに入れたり、ごはんを食べさせたり、お母さんみたいにぼくのことを一生けん命してくれたんだよとお母さんが話してくれました。(中略)
弟も大きくなってお父さんは男三人でいろいろなことにちょうせんさせてくれます。スポーツばかりでなく、たまには東京の美じゅつ館やはく物館にもつれて行ってくれて日曜日が楽しみです。ぼくはお父さんみたいに、字が上手になりたいし、子どもにやさしい人になりたいです。」

 響太くん一家は足利屋の3軒隣に住んでいます。とても素敵なファミリーです。
 響太くんが生れた翌年に高瀬ファミリーから頂いた年賀状には、お父さんとお母さんと響太くんの3人の手が重ねられた写真に、「結婚十三年目にして嬉しい奇跡がおき、三人家族になりました。今年もよろしくお願いします」という言葉が添えられていました。
 生れてくれて有り難う、生んでくれて有り難うを感じ合えるって素敵ですね。
244号 益はなくても意味はある
 人間学を学ぶ月刊誌『致知』十一月号に尊敬する鍵山秀三郎さんの特別講話が9ページにわたって掲載されていました。
 鍵山さんは昭和8年生まれ。自転車1台で始めた商売から、カー用品の「イエローハット」を全国に展開した創業者です。今、鍵山さんは創業時から続けてきた「掃除を通して心の荒みと社会の荒みをなくそう」という運動に心血を注ぎ、国内はもとより、海外でも「鍵山掃除道」の輪が広がっています。
 鍵山さんの人生の一大転機は十一歳の時の疎開だったそうです。講話の中で、「私はもともと怠惰で、無気力で、ただ遊ぶしか能のない少年でしたが初めて親の元を離れたことで、それまで自分がいかに親に世話になってきたか、親というものがいかにありがたいものかということを実感しました」と言っています。
 人間は気づかなければ感謝をすることも恩返しをすることもできません。親に愛され、守られてきたことに気づくかどうかでその人の人生が変わるのだと思いました。
 鍵山さんは、「私は今朝も五時十五分から八時まで、三時間近く近所の公園の掃除と草刈りをしてまいりました。誰に頼まれたわけでもなく、自分の意思でやっていることです。別にそれをしたからといって、私には何の得にもなりません。それでもなぜやるのかと申しますと、人間は自分の得にならないことをやらなければ成長できないからです」とも言っています。
 以前、鍵山さんをお迎えして大間々駅のトイレ掃除の指導をしていただいた時、鍵山さんはトイレ前の花壇で咲き終えて萎(しお)れたサツキの花をひとつひとつ丁寧に取りながら、「こうすれば来年はまたきれいな花が咲くのですよ」と教えてくださいました。その時、自分の得にはならないが誰かを喜ばせることができる人になりたいと強く思いました。
 鍵山さんから学んだ「益はなくても意味はある」と「大きな努力で小さな成果に感謝できる生き方」を実践したいと思っています。

245号 先生、日本ってすごいね
『先生、日本ってすごいね』(高木書房)という本を読みました。著者は公立中学校教諭の服部剛先生。服部先生は未来を担う中学生に日本の良さや日本に生まれた喜びを知ってもらおうと道徳の授業で心温まる話を生徒に教えています。本の中の「絆の物語〜アーレイ・バーク」と題する話にも感動しました。
 昭和25年、アーレイ・バーク大将が占領軍の海軍副長として来日しました。ソロモン海戦で駆逐艦に乗り、日本軍の脅威となったバークは筋金入りの日本人嫌いで有名でした。
 バークはある日、殺風景なホテルの部屋に一輪の花を買ってきてコップに差しました。翌日、バークが夜勤から戻ると、コップに差した花が花瓶に移されていました。数日後、花瓶には新しい花が生けられ、その後も花は増え続け、部屋を華やかにしていきました。花を飾っていたのはバークの部屋を担当していた女性従業員でした。バークが「なぜだ」と問い詰めると彼女は「花がお好きだと思いまして」と答えました。このあと、彼女の身の上を聞いたバークは驚きました。彼女の夫は日本海軍の駆逐艦の艦長でソロモン海戦で戦死していたのです。バークは「自分は日本人を毛嫌いしていたのに彼女はできる限りのもてなしをしている。彼女の行動から日本人の心と礼儀を知った」と語っています。各国から多くの勲章を授与されたバークは96歳で亡くなりました。葬儀の時に胸に付けられた勲章は、本人の遺言で日本の勲一等旭日大綬章だけでした。
 平成23年、3月11日、東日本大震災が発生した時、真っ先に救援活動に駆けつけたのはアメリカ海軍の空母・ロナルドレーガンでした。艦長の名はトム・バーク大佐。あのアーレイ・バーク大将の孫でした。彼は自ら救援物資を積んだヘリコプターを操縦して避難所を飛び回ったそうです。世界各地で救援活動をした経験のあるバーク大佐は「日本では、1件の略奪も殺し合いもなかった。ヘリが着陸すると被災した住民が荷降ろしを手伝い、終わると全員がお礼を言って見送ってくれた」と日本人の行動を讃えています。 
 この本を読んで日本人ってすごいと思いました。
246号 先生、日本ってすごいねA
 先月、このコーナーで紹介した『先生、日本ってすごいね』(服部剛著・高木書房)の本の中には日本人ならば知っておきたい18の実話が収められています。「ペリリュー島の戦い・崇高な精神」というお話も心に深く沁み入り感動しました。
 パラオ諸島南端のペリリュー島は太平洋戦争での激戦の島でした。アメリカ太平洋艦隊のペリリュー島攻略がはじまるとき、島には900人の住民が住んでいました。白人統治の時代と日本統治の時代の両方を経験している住民たちは、日本軍に協力して米軍と戦うことに決めました。いつも優しく住民の面倒を見てくれていたペリリュー島守備隊長の中川州男大佐に住民の意向を伝えると、中川隊長は驚くような大声で「大日本帝国の軍人が貴様ら土人と一緒に戦えるかっ」と一喝しました。住民たちは、日本人に裏切られた思いで悔し涙を流し、全住民がパラオ本島に避難することになりました。ペリリュー島を去る日、港には日本兵の姿はなく、出港の合図が鳴り、船が岸辺を離れました。すると次の瞬間、ペリリュー島に残る日本兵たちがジャングルの中から浜に走り出てきました。そして、住民たちと一緒に歌った日本の歌を大声で歌いながらちぎれるほど手を振って見送りました。先頭に立って笑顔で手を振る中川隊長の姿を見た住民はその時初めて全てを理解しました。
 1944年9月12日、ペリリュー島の戦いが始まりました。日本軍1万人対米軍4万8千人。米軍が3日で占領する予定だった戦いは70日にも及ぶ激戦になりました。
しかし、「サクラサクラ」という電報を最後に、中川隊長以下全員が桜花のごとく散り、11月27日、島は米軍に占領されました。
日本軍の戦死者1万695人、米軍の死傷者は1万786人。島民の死傷者は0人でした。
 戦後、アメリカに統治されたパラオは1993年に独立しました。その時に制定された国旗は青い海と黄色い月、日本との友好関係を物語るかのようなデザインが選ばれたのでした。
 そして昨年、天皇皇后両陛下が訪問された日を州の祝日に制定したそうです。
247号 1%の生き方
 第10回みどり市生涯学習大会で諏訪中央病院名誉院長の鎌田實先生の講演を聴きました。『命を支えるということ〜がんばらないけどあきらめない〜』というテーマのお話はユーモアと感動に溢れていました。
 鎌田先生は患者本位の医療を実践し、地域一体となった健康づくり運動を進めてきました。健康のために減塩運動を広め、野菜の摂取量を増やし、ヨーグルト、チーズ、納豆などの発酵食品を多く食べ、質のよい油をとることなどによって長野県が長寿日本一になりました。しかし、鎌田先生は長寿日本一になった一番の原因は高齢者就業率が高く、生きがいや目標を持って生きている人が多いからと言っていました。「母親が赤ちゃんにおっぱいをあげたり、愛情や思いやりを感じた時にオキシトシンというホルモンが分泌されます。オキシトシンは人を幸せにするホルモン。相手を思いやる気持ちを持ち、助け合うことで人は健康に生きることができます」という鎌田先生の言葉に深く共感しました。
 鎌田先生は日本チェルノブイリ連帯基金理事長、日本イラクメディカルネット代表、東北の被災者支援などにもいち早く取組んできました。
講演の中で『1%の力』という本の紹介をしていました。
この本の中で鎌田先生は、「僕は健康づくり運動を40年間やってきました。住民の人たちによく言った言葉は、『1%だけ生活習慣を変えてみませんか』。身につけた生き方を変えるのは大変です。でも1%なら変われると思えたのでしょう。1%で地域が大きく変わり、長野県が長寿日本一になりました。同じように、人生も1%で変わり始めることに気づきました。みんなが1%生き方を変えれば僕たちの社会も変わっていく。世界だって変えられるはずです」と書いています。
 この本の印税は全額イラク難民支援活動に寄付されるということで講演会後の書籍販売コーナーは長蛇の列でした。鎌田先生にサインをしていただきました。サインを見ながら、「まあるい心で生き方を1%変えてみよう」と思いました。
248号 さくら地蔵
 重松清著『季節風・春』(文春文庫)の中に『さくら地蔵』という感動的な短編があります。

 そのお地蔵さまは、子どもたちの通学路にぽつんとたたずんでいました。3月中旬、今年小学校に上がる美奈ちゃんがお母さんと一緒に通学路の下見をしている時にお地蔵さまを見つけました。お母さんは「学校へ行く時と帰る時、お地蔵さまに挨拶をするのよ。そうすれば交通事故から守ってくれるから」と美奈ちゃんに教えていました。
 お地蔵さまの足元にはきれいな桜の花びらが敷きつめられていますが周りには桜の木は1本もありませんでした。
20年以上前から長距離便のドライバーの間で、桜の花びらをお供えすると事故に遭わないという噂が広がり、小さい子供を持つドライバーは仕事先で開花した桜の花びらを拾い集め、「事故を起こさないように、子どもたちを悲しませないように」と願い、さくら地蔵にお供えしました。 
 このお地蔵さまを建立したナベさんは30年前に息子の隆太くんを交通事故で亡くしました。小学校に入る直前の3月、脇見運転でスピード違反の車にはねられたのでした。路線バスの運転手だったナベさんは息子の死後、長距離トラックの運転手に転職しました。夜中の高速道路を走っていれば、子どもを交通事故に巻き込むことはないと考えたからでした。
 毎年2月になると那覇のヒカンザクラがフェリー便に乗って運ばれてきます。やがて広島の桜がお地蔵さまを飾り、静岡の桜がその上に降り積もり、山梨、群馬、東北と北上し、春の終わりには旭川の山桜が3台のトラックのリレーで運ばれてきました。
 今年、定年を迎えるナベさんが大切な報告をするためにさくら地蔵にお参りに行くと、小学校へ入ったばかりの奈美ちゃんとお母さんに出会いました。美奈ちゃんは色紙でつくったピンクの花びらをお地蔵さまの足元に敷いてあげていました。
 クライマックスは、人の心の温かさ、やさしさに涙が止まらなくなりました。
 20数ページのお話ですので是非読んでみて下さい。足利屋の休憩コーナーにも置いてあります。

249号 おもてなし日和
 高野登著『おもてなし日和』(文屋・サンクチュアリ出版)という本を読みました。著者の高野登さんは、前リッツ・カールトンホテルの日本支社長。以前、高野さんの講演会で聴いた「おもてなしとは相手の心に自分を寄り添わせること」という言葉が心に残っていました。
 この本の最初に、もてなすとは「以って為す」こと。何を以って何を為すかを明確にすることから「おもてなし」は始まる、と書かれています。
 高野さんがアメリカでのホテル修業時代に教えられたという言葉に感動しました。
『あなたの食生活を見れば、あなたの健康状態がわかり、あなたの周りの友達を見れば、あなたの人間性がわかるものだ。あなたが食べるものが、あなたの身体をつくる。あなたが読む本が、あなたの思考を深くする。あなたが出会う人が、あなたの情緒を豊かにする。あなたが立ち向かう艱難が、あなたの強さをつくる。あなたが向き合う悲しみが、あなたの優しさを育む。あなたが置かれた環境と、あなたが選ぶ環境の両方のなかで、あなたという人間ができていく。』
 赤ん坊は1日に400回、心から笑うそうです。それが高校生になると1回か2回になり、大人になると1度も心から笑うことがなくなってしまう人もいます。今の私達の不幸は心から笑うことができなくなったことから生じているのかも知れません。
「目の輝きはどこから生まれるのか?それは幸せを感じる心ではないだろうか。かつて日本人は、日々の暮らしの中で家族や仕事、世間、自然、神仏に感謝していた。感謝することで幸せになり、笑顔が生まれることを知っていたのだ」と高野さんは教えてくれています。 
 この本は出版社の小布施の文屋さんに直接メールで注文しました。翌日届いた本を開いて驚きました。
「松崎靖様 お役に立てていただきますことを幸せに存じます。春の風が快い季節となりました。ご自愛ください。」という自筆の手紙が添えられていました。
 本の内容と共に、この本を出版した文屋さんの「おもてなしの心」に感動し、見習いたいと思いました。
250号 ウズベキスタンの桜
 『ウズベキスタンの桜』(KCC中央出版)という本を読みました。著者の中山恭子さんは北朝鮮の拉致問題担当大臣をされた方ですが、1999年から3年間、ウズベキスタン共和国の大使も務められていました。
 第二次世界大戦終戦の直前、ソ連は50万人の日本兵を捕虜にしてシベリアをはじめ各地で強制労働に従事させました。
 当時はソ連の一部だったウズベキスタンでも2万5千人の日本兵捕虜が運河や発電所建設、首都タシケントのナヴォイ・オペラ劇場の建設などを命じられました。1966年に発生した震度8の大地震でもこの劇場だけは倒壊せず、市民の避難所になったそうです。
 アングレン市の市史には、「この地にやってきた日本人戦争捕虜は、町の建築、整備に大きな貢献をした。彼らと一緒に働いた者達はその勤勉さと几帳面さを未だに覚えている」と記されています。
 1991年にウズベキスタンはソ連から独立しました。ソ連時代、日本人墓地をつぶして更地にするようにという指令が出ていたにも関わらず、ウズベキスタンの人たちは日本人墓地を大切に守ってくれました。整備こそ出来ないまでも、草刈りや掃除をしてくれていたそうです。中山大使は、日本人墓地の整備は大使館の仕事と位置付けて準備を進めることにしました。
しかし、スルタノフ首相は「ウズベキスタンで亡くなった日本人の墓地の整備はウズベキスタン政府が責任を持って行う。これまで出来なかったことが大変恥ずかしい」と言って日本人墓地の整備が本格的に始まりました。
 元抑留者から「抑留されていた頃、日本に戻って桜の花を見ようと励まし合った」という話を聞いた中山大使は「ここに桜の木を植えたい」と強く思いました。中山大使の思いが叶い、日本人墓地だけでなく大統領官邸、中央公園、ナヴォイ劇場に1300本の桜が植えられることになりました。 
 2002年に行われた植樹祭で中山大使は「15年から20年で桜は美しくなります。その頃に一緒に花見をしましょう」と挨拶しました。あれから14年。ウズベキスタンの桜は見事な花を咲かせたそうです。