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231号〜240号


231号 逆境からの学び
 大間々駅のトイレ掃除は、平成9年7月25日から始まり、一週も途切れず10月10日で900回を迎えました。星野物産渇長だった故星野精助さんが「郷土を美しくする会」と命名し、発会式には「日本を美しくする会」の相談役でイエローハット創業者の鍵山秀三郎さんも参加していただきました。
 10月15日、鍵山さんは、8月4日に99歳でお亡くなりになった星野精助さんのお墓参りに大間々へお越しになり、星野物産の葛葉茶寮で「郷土を美しくする会」の仲間17人と昼食懇親会を開きました。その時の講話の中で鍵山さんは、「常々、星野精助翁のような人になりたいと思い、大間々へ来るのが楽しみでした」と語り、共に逆境を乗り越えた人にしか到達できない人生の境地を話していただきました。鍵山さんは、自転車1台の行商からはじまったイエローハットの原点を「自転車創業」とユーモアを交えて話してくれましたが苦難の連続だったと想像できました。その頃に心の支えになったのが下村湖人の「私は不満のない人生を送りたいとは思わない。私の望む人生は、不満が創造への動機となるような人生である」という言葉だったそうです。そして、「いかなる教育も、逆境から学べるものには敵わない」(ベンジャミン・ディズレーリ)という言葉や、「人間は負けたら終わりなのではない。やめたら終わりなのだ」(リチャード・ニクソン)という言葉も教えていただきました。
 逆境をエネルギーに変え、自らの信念を貫いて実践し続ける鍵山さんの穏やかな一言一言が心に響き、勇気が湧いてきました。
 大間々駅の掃除は再来年の9月9日に千回を迎えます。続けられることの有り難さを実感しています。
232号 母の字は
 先日、大阪在住の詩人・里みちこさんから優しい筆字で書かれた「母の字は」という詩をいただきました。同封の手紙には、「足利屋の『あし』も入れました」という添え書きがあり、とても嬉しくなりました。

 母の字は  里みちこ

 母の字の二つの点は
 かあさんの足あと
 ゆっくり右足
 しっかり左足

 母の字の二つの点は
 かあさんの涙
 うれしいときの一滴
 かなしいときの一滴

 母の字の二つの点は
 かあさんとわたし
 かあさん…と呼ぶと
 いつでも隣に
 きてくれる

 今日は
 無性に会いたくて
 母という字を
 何度も何度も  
 書きました

 里さんから、「かなしむという漢字は3つあります」と教えていただきました。辞書で調べてみると「悲しむ・哀しむ・愛しむ」と書いてありました。愛(かな)しむの意味は、いとしいと思う、かわいがる、深く心を動かす、とあり、「親の身として子を愛しむ」という例が書かれていました。愛と悲哀は元々同じものだったのかもしれません。
 19歳の若さで不慮の事故で亡くなった画学生・奥井理さんに捧げた里さんの詩があります。
「生きていて死んでいるような人が多い中にあって、あなたは死んでもなお生き続けているんですね。死者はこんなにも素晴らしい贈りものを私たちにし続けてくれるのですね」

「この世は自分を探しに来たところ」という言葉があります。出会いや別れ、喜びや悲しみをすべて受け入れ、一日一日を大切に過ごしていきたいと思います。
233号 凡事徹底の意味
 12月9日に大泉町で、イエローハット創業者で日本を美しくする会相談役の鍵山秀三郎さんの講演を聴き、12月12日には大間々の致知の会で、前橋育英高校野球部の荒井直樹監督をお招きして講演会を開催しました。『掃除道』を極める鍵山さんと、去年夏の甲子園大会で優勝した荒井監督のお話の中で共通していたのは『凡事徹底』ということでした。
 鍵山さんは、本当に豊かな暮らしとはモノやお金ではなく、誰かを喜ばせるために手間や時間を惜しまず、丁寧に生きることだと言っていました。そして、吉田松陰の「永久の良図を捨てて目前の近効に従う。これ言葉に表せざることなり」(将来にわたる良い計画を捨てて、目先の効果ばかりを求めることは言葉に表せないほど危険なことである)という言葉を引用して今の世の中の風潮に警鐘を鳴らしていました。今の世の中は「今だけ、自分だけ、お金だけ」という『3だけ主義』に陥っています。それを止めるには、誰の仕事でもない仕事を自分から進んで行うこと、ゴミを一つ拾う実践をみんなで始めることが大事だと思いました。
 荒井監督の帽子の裏には「凡事徹底」という言葉が書いてあるそうです。「人間の脳は忘れるようにできています。だから私は同じことを表情を変えずに1000回繰り返せるコーチが優秀なコーチだと思います」と言い、基礎練習や守備を徹底的に指導し、同じ練習を繰り返すことによって変化を感じることの大切さを教えています。
 凡事徹底とは、@すべてに行き届いている A言っていることとやっていることが一致している Bすべてのものを活かし尽くすことだという鍵山さんの言葉と荒井監督の実践は見事に一致していると思いました。
「凡事徹底」をみんなで実践し、「やっておけばよかった」と後悔する人生ではなく、「やっておいてよかった」と思える人生を歩みたいと思いました。
234号 吉田松陰と楫取素彦
 NHK大河ドラマ『花燃ゆ』に登場する小田村伊之助は、吉田松陰より1年早く長州に生まれ、共に幕末の乱世を生きました。明治以降は日本の近代化に尽力し、道徳教育を基本に人材を育成した真の教育者でした。
 小田村伊之助は毛利の殿様からの信頼も厚く、「お前は将来、国の楫(かじ)を取る人間になれ」と言われ、楫取(かとり)素彦という名前を賜りました。
 楫取素彦は吉田松陰の妹を妻にしました。松陰が裁きを受けるために江戸に送られる時、「私なき後の松下村塾は万事楫取素彦に任せてある」と門人たちに伝えたそうです。
 楫取素彦は、明治9年、群馬県の初代県令(知事)となり、教育を普及させ、生糸業を新産業として発展させました。楫取素彦は県令に就任後すぐに豪農や豪商に協力を求めて次々に学校を建設し、教育環境を整えて全国トップレベルの教育県に育て上げ、「西の岡山、東の群馬」と称されるほどになりました。また、富岡製糸場が業績不振に陥り、閉場を決めた政府に対して存続の請願書を送り危機を回避させました。
 楫取素彦は、生糸の販路開拓でアメリカに渡ろうとした旧黒保根村水沼の青年実業家・新井領一郎を支援しました。21歳の新井領一郎が大きな志をもって渡米する際、楫取素彦の妻寿子は、「この刀は、兄、吉田松陰の形見で兄の魂が込められています。その魂は、兄の夢であった太平洋を渡ることによって安らかに眠ることができます」と言って新井に形見の短刀を手渡しました。新井は日本人として初の生糸の直輸出を実現させ、日米貿易の先駆者となりました。新井領一郎の孫の春子は元駐日アメリカ大使ライシャワーと結婚し、日米友好の架け橋になりました。
 孟子の「至誠にして動かざるは未だこれあらざるなり」という言葉は吉田松陰と楫取素彦が最も大切にしていた言葉でした。誠意を尽くして事にあたれば、どのようなことでも必ず動かすことができるという意味です。私たちもこの言葉を大切にしたいと思います。

235話 人生の中の四季
 国民教育の師父・森信三先生は「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早過ぎず一瞬遅すぎない時に」という言葉を遺しています。その言葉通り、興味を持ったり、この人に会いたいと強く願うと不思議とご縁が叶うものです。
 先日、友人から「森信三先生の『修身教授録』を吉田松陰先生と読む」(寺井一郎著)という本を頂きました。松陰先生に興味を持ち始めて一瞬早過ぎず、一瞬遅すぎない時でした。
 松陰先生は処刑される2日前に「留魂録」という遺書を書いています。「人はそれぞれ自分の人生の中に四季を持っている。その四季を作物にたとえると、種蒔きの春、苗植えの夏、収穫の秋、貯蔵の冬となる。作物は一年で四季を終えるが、人の場合は十歳で亡くなる者もいれば、百歳まで生きる人もいる。問題は長短ではなくて、その一生が如何なる四季であったかを考えなければならない。…
私は三十歳の命でこの世を去るが、果たしてその四季は如何なものであっただろうか。それは貯蔵されたる種モミによって、来年以降明らかにされるであろう」
「留魂録」は「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という辞世の歌に由来しています。松陰先生が遺した種モミという名の置土産によって魂を揺さぶられた人たちが日本の近代化を成し遂げました。
 森信三先生も、「人生というものは二度と繰り返すことのできないものです。私達も自分が去った後の置土産と言うものについても、常に心を用いるところがなくてはならないでしょう」と言っています。
 イエローハットの創業者で日本を美しくする会相談役の鍵山秀三郎さんは、この本の「推薦の言葉」の中で、「本書は、其々水源を異にする二つの川が合流して大河になる姿によく似ています。…(中略)…此の度寺井一郎先生が、日本人の心の基盤となる二大偉人の教えを、心の栄養として私達に注ぎ込んで下さいました」と書いています。
 足利屋ではこの本を貸出中です。ご希望の方にはお分け致します。800円
236話 カ行で生きる
 詩人の里みちこさんは、阪神大震災が起きた平成7年から毎朝、大阪城公園の石段で詩語りを続けてきました。体の不自由な男性とたった2人ではじめた朝の集いは少しずつ参加者が増え、30人も集まる日もあったそうです。冬はカイロを入れた座布団を用意してくれる女性がいたり、楽器を演奏してくれる人がいたり、ブルーシートのテントで暮らす男性がいたりと参加者の顔ぶれも様々。阪神大震災のボランティアを通して、「目に見える幸せだけでは人は満たされない、ということを教えてもらった」という里さんの詩の朗読や体験談を聞いているとスーッと肩の力が抜け、生きる喜びや勇気が湧いてきます。「カ行で生きる」という詩があります。

 かざらず かまえず
 かたよらず
 きばらず きどらず
 きめつけず
 くさらず くじけず
 くるしまず
 けろけろ いまの
 ここを 生きる
 カ行の日あり 苦行の日あり
 今年の1月17日、震災から20年目の日に里さんの朝の集いに幕が下りました。「様々な出会いが私を育ててくれました。みんなが生きる方向性を自分なりの方法で探せるよう、ペンライトくらいの光になりたい」という里さん。「終着駅」という詩も素敵です。

ここだと思った
やっとと思った
終着駅だと思った
降りてみると 
執着駅だと気がついた
またまた歩く 
まだまだ歩く
ただただ歩く
 去年の9月、里みちこさんを富弘美術館にご案内しました。
 里さんには「星野富弘さんに寄せて」という詩がありました。『結婚指輪はいらないといった…』という富弘さんの詩に感動した里さんが「ある日、私は指輪を外しました それはあなたのこんな詩に出会った日でした」という書き出しで始まる素敵な詩でした。
 目に見えないもの、一瞬にして消えるものこそが尊いと気づかされました。

237話 ひまわりの花畑

 東日本大震災の翌年、当時の笠懸小学校の金子淳二校長先生は被災地支援で訪れた南相馬市で2粒のひまわりの種をもらいました。金子先生と子ども達は、仙台市在住の詩人で重度の障害をもつ大越桂さんが震災1ヶ月後に作った『花の冠』(小さな小さな種だって/君と一緒に育てれば/大きな大きな花になる)という詩を読み、種を大切に育て、夏には美しい花が咲いて1250粒のタネを収穫しました。子どもたちは収穫したひまわりの種や手紙を大越桂さんに贈り、桂さんとの交流が始まりました。去年、桂さんは笠懸小学校の子ども達のために『ひまわりの花畑』という詩を作りました。 
 
 ひまわり畑の真ん中に
 両手を広げて寝ころべば
 広がる黄色の絨毯が
 私を空まで押し上げる

 ひまわり畑の真ん中に
 友達さそって寝ころべば
 元気が黄色に広がって
 つないだ手と手あったかい

 ひまわり畑の真ん中に
 みんなで一緒に寝ころべば
 花と笑顔が重なって
 町中きらきら光りだす

 つないた手と手
 かがやく笑顔
 青い空と花畑
 みんな仲良しいつまでも

 サカタのタネという会社では今年も被災地やボランティア団体にひまわりのタネ3万袋を無償配布しています。タネの袋には「花の冠」に替わり、今年から「ひまわりの花畑」の詩が載っています。
 笠懸小学校の清水直海校長先生は、この詩に曲をつけてみんなで歌い、子どもたちの心にも希望のタネをまいて大きく育てたいと願いました。
 優しい心と心がつながり、音楽ユニット・ポアゾン(早坂華織さん・岡田清光さん)のお2人が素敵な歌に仕上げました。
 桂さんから届いたメールには「かわいらしい曲で、みんなのことを想像しながら作った詩とピッタリですね。みなさんの笑顔がみえるようです」と書かれていました。(お母さん代筆)
 動くことも話すこともできない桂さんが指先でお母さんの掌に伝えて出来上った素敵な詩、多くに人に知ってほしいと思います。

238話 積善と陰徳のすすめ
 尊敬する方から『こどもたちへ・積善と陰徳のすすめ〜和語陰隲録(いんしつろく)意訳〜』(梓書院)という本を頂きました。陰隲録は中国の明の時代の袁了凡が書いた本で、子供達にも分るよう意訳されています。

 ある日、了凡は老僧から「そなたは都の学校に合格し、地方の役人になり、知事になり、高い位の官僚になるが子どもには恵まれず、53歳の8月14日の丑の刻に病死するであろう」と告げられます。彼の人生は全て老僧の言った通りになり、「人生というのは全て天命によって定められて変えられないものなのだ」と悟ります。
 ある時、古くからの友人の雲谷禅師というお坊さんと会い、自分に与えられた天命のことを告げました。雲谷禅師は「凡人は運命に縛られて一生を送るが、最善の人と最悪の人は、善悪の強さに引かれ、天が定めた運命と違う人生を歩む。小さな善行も、とるに足らない小さな悪い事も絶えず続けていると、人の人生は変わってくるものです」と教え諭しました。そして、「今からあなたはこの「功過格」という帳面に、日々善いことを行ったら記帳しなさい。善が3つ、悪が2つあれば、3つの善から2つを捨てて、1善を記帳するのです。それを続けていけば善行が3千回に満たないうちにあなたの願いは必ず成就するでしょう」と教えてもらいました。
 了凡は早速、雲谷禅師の教えを実行しました。すると、予言では3番目と言われていた都の試験に1番で合格し、3千回の善行を達成した翌年には長男を授かり「天啓」と名付けました。その後も1万回の善行を繰り返し、74歳まで生きて活躍しました。
 陰隲録は今から4百年前に袁了凡が息子の天啓のために書いた本です。人は善いことを行うことで、自分ばかりではなく他人をも幸せにします。「積善の家に必ず余慶あり」の言葉通り、家が栄え、子孫に福が訪れます。
「陰徳は耳鳴るが如し」と言われています。耳鳴りは自分には聞こえるが他人には聞こえない。積善も陰徳も世間の評判や名誉を離れて行うから価値があると書かれていました。「地道にコツコツ」が大事ですね。

239話 一人の百歩より百人の一歩
 ネパール大地震から2カ月が経ちました。首都カトマンズを中心に死者1万人、全壊した家屋29万戸、被災者41万人という大災害の復旧・復興までには長い時間がかかりそうです。
 21年前からネパールの寒村で支援活動を続けているOKバジこと垣見一雅さんが一時帰国し、今年も桐生で報告会が開かれました。OKバジは報告の中で、今回の大地震のあと、アメリカやイギリスなど海外に出ていた留学生たちが急遽ネパールに帰国し、ボランティアとして大活躍をしている話をマザーテレサの言葉を引用して紹介してくれました。
Do not wait for leaders; do it alone, person to person.
「リーダーを待っていてはいけません、ひとりで行動を起こしなさい、それを人から人へとつなげなさい」という意味。今回の災害を機に、ネパールでもボランティアの輪が広がりはじめたそうです。
 OKバジが活動しているパルパ郡スケコット村では55世帯のうち42世帯の家が全壊。OKバジはその場で10万ルピー(12万5千円)の小切手を切り、食糧や毛布、テントの手配をしました。
 OKバジを支援する会(OKSS)では、ネパール大地震発生後すぐに義捐金募集を開始しました。掃除を通して心や社会の荒みをなくすことを目指し活動している「日本を美しくする会」も義捐金をOKバジに託すことに決め、全国の支部や会員さんからは104件、400万円を超す義捐金が届きました。大間々の朝市会では、朝市の会場に「ネパール地震義捐金箱」を設置し、13666円の義捐金を集め、大間々地区老人クラブ連合会芸能発表会の会場でもネパール大地震の支援を呼び掛け、20200円の義捐金を足利屋に届けてくれました。「ひとりの百歩より、百人の一歩」、東日本大震災やネパール大地震の教訓を生かし、痛みを分かち合う心を忘れず、自分にできることをすぐに実践する習慣を身につけたいと思います。
 現在、ネパールは雨季のため、復旧復興活動はあまり進んでいないようですがOKバジに託す義捐金は引き続き募集しております。

240話 表彰状を受け取るのは誰?
 神奈川県で中学校の校長先生をされている中野敏治先生とは10数年前からのお付き合いになります。その中野先生が『ココロの架け橋』という本を出版して話題になっています。中野先生は平成17年から個人通信『かけはし』を発行。その中の『私が出会った子どもたち』という感動的な実話42編がこの本に収められています。
『表彰状を受け取るのは誰?』という子ども達の話にとても感動し、目頭が熱くなりました。
 中野先生が卓球部の顧問になったことがありました。入部してくる生徒も新人、顧問の中野先生も卓球の経験はありませんでしたが大人たちや高校生と合同練習や練習試合を続けていくうちに少しずつ力をつけていきました。新人戦の団体戦では選手に選ばれた部員も選ばれなかった部員も心を一つにして勝ち進み、学校創設以来、初めて女子団体戦で優勝しました。そしていよいよ表彰式。「優勝○○中学校」と呼ばれたとき、前に出てきた部員は、その日の試合に出られなかった2人でした。優勝した選手たちは中野先生に、「さっき試合に勝って嬉しかったけど、私たちの力だけで勝ったのではないんです。いつも試合になると、私たちのために、ボールを拾ってくれて、応援してくれている仲間がいたから…」と言い、表彰状を受け取る役目を試合に出られなかった仲間の部員に託したのでした。
照れくさそうに表彰状と優勝カップを受け取る二人の様子を見ていた選手たちも応援に来ていた先輩たちも大きな拍手を送っていたそうです。
 中野先生が実践している教育は、『中野マジック』と言われ、イマドキの子、やんちゃな子も大きく変わっていきます。中野先生は「子どもを思う気持ちを誰よりも強く持つことで新しいマジックが生まれ、奇跡が起きるのです。全ては子どもたちのために、という思いです。大人がどう子どもたちに関わるかで世の中の未来が変わります。子どもたちをしっかりと見ていくことは大人の責務でもあるのです」と言っています。