ホームへ 
「小耳にはさんだいい話」へ


221号〜230号


221号 インプットとアウトプット
『この本読んで元気にならん人はおらんやろ』という本を読んで元気になりました。みやざき中央新聞の編集長・水谷もりひとさん監修のこの本には、人生のスイッチがONになるエピソードがたくさん紹介されています。中でも、「成績優秀な女の子」の話に感動しました。
 その子は学年でいつもトップの成績でした。先生や保護者の人たちが「お宅では何か特殊な教育をしているんですか?」と聞いたところ、お母さんは「特別なことは何もしていないですよ。」と答えました。お母さんたちは不思議がって、「ウソでしょ。うちら、こんなに手間も暇もお金も掛けて一生懸命勉強させているんですよ。何でお宅の娘さんだけそんなに勉強ができるの?」と聞くとそのお母さん、「そういえばあの日から娘は変わったなぁ」と言いました。それは娘さんが2年生の時のことでした。娘さんにこう言ったそうです。「あんたはいいわね、毎日学校に行けて。お母さんが子どもの時は弟や妹たちの世話をしないといけんかったし、親からは『学校なんか行かんと家の手伝いをせい!』って言われたの。お母さん、学校に行きたくても行けなかった。だから今でも団地の皆さんとお話していても知らないことがいっぱいあるの。時々「そんなことも知らないの?」ってバカにされることもあって、恥ずかしい思いをよくするから、あんた、たまには学校で習ってきたことをお母さんに教えてね」
 この時、娘さんの勉強に対するスイッチがONになった。お母さんに恥をかかせないためにです。それからというもの、娘さんは先生の授業を聞く時は、自分がお母さんに教えているところをイメージしながらノートを取ったそうです。そして、先生の言ったことをわかりやすく教えました。学校で勉強するのはインプット、人間が本当に学んだことを自分のものにするのはアウトプットです。
 教える事、伝える事がその人にとって一番の学びになることを学びました。


222号 凡事徹底で全国制覇
第77回「まごころ塾」の講師は、昨年夏の甲子園で初出場初優勝に輝いた前橋育英高校野球部の荒井直樹監督でした。
「凡事徹底」を合言葉に、愚直なまでに基本練習を繰り返し、守りの野球で日本一の栄冠を手にした荒井監督の話はとても心に沁みる内容で、「凡事徹底」の元祖・鍵山秀三郎さんと相通じることばかりでした。謙虚で穏やかな語り口の中にも熱い情熱が感じられ、荒井監督の大ファンになってしまいました。
荒井監督は前橋育英野球部を率いて13年目。選手を怒鳴ることが少ないため、「荒井は甘い」「勝つ気がないのか」と周囲から陰口を言われることも多かったようです。しかし、荒井監督は、「エラーは避けられない。大事なのはその後のプレー。仲間のミスをミスで終わらせず、次に一番いいプレーを考えろ」と常々指導してきました。
 甲子園決勝戦の延岡学園戦では味方のエラー等で3点を先取されましたが4点目はライトの好返球でホームでアウトにして阻止しました。荒井監督は、3点取られたことよりも、4点目を好プレーで阻止したことを褒めました。そして次の回ですぐ同点に追いつき、7回、キャプテンの荒井海斗選手は自らのミスを帳消しにするヒットを放ち初優勝を飾りました。
 味方のピンチの時に伝令としてマウンドに走る控え選手の井古田選手は最終回のピンチの時も監督の指示を伝えました。そして、いつものように帽子をとり、帽子のツバの裏に書いてある言葉を仲間に見せました。そこには「笑顔」と書いてありました。
レギュラーと控えの区別がなく、甲子園滞在中も毎朝、ゴミ拾いを続けていた監督と選手たち。
「小さな事でも続けることで、わずかな変化に気づけるようになる」、「野球で評価されるのは野球をしている時だけ。人生はこの先がずっと長い。ここだけで通用する人間にはしたくない」と言い、仲間を思う気持ちや周囲に感謝する心を教えている荒井監督。監督の帽子の裏には「凡事徹底」と書かれています。

223号 リンゴが教えてくれたこと
「日本を美しくする会」20周年記念大会が東京で開かれ、全国各地から800人もの掃除仲間の人たちが集まりました。 
 記念講演は、日本で初めて無農薬・無肥料でのリンゴの栽培に成功した青森県の木村秋則さんでした。愚直なまでに信念を貫き、家族やリンゴの木に感謝し、バクテリアや小さな虫や草にまで心を寄せ、「何を見てもありがたいなぁと思えるのね」と屈託のない笑顔で語る木村さんの生き方に感動しました。
 木村さんが無農薬栽培を目指したのは奥さんの農薬アレルギーがきっかけでした。「女房を安心して畑に行けるようにしてやりたいという気持ちが、結果的に家族全員を地獄へ落してしまいました」というほど、その道のりは壮絶な苦悩の連続でした。何年も収入がなく、「養子の分際で…」と近所からは村八分状態となり、家族やリンゴの木に申し訳ない気持ちでいっぱいだったと言っていました。
 木村さんはある時、自殺しようと思い、岩木山へ登って行きました。死に場所を探していた木村さんが見たものは大自然に根を下ろしたどんぐりの木でした。木村さんは最初、それがリンゴの木に見えたそうす。そこは芳しい土の匂いに満ち溢れ、クッションのような感触でした。「これだ!」と木村さんは直感しました。葉っぱや枝ばかりを見て、土を見ていなかったことに気づき、自然栽培成功の答えを見つけたのでした。
 無農薬無肥料自然栽培に取り組んで11年目、初めて畑一面に咲くリンゴの白い花を見た木村さんは奥さんと二人で涙を流して立ち尽くしたそうです。
「一つの道を歩くことは一人ではできません」と語る木村さん。婿養子だった木村さんの夢と信念を理解し、支えてくれたのは義理のお父さんでした。そして、「人に迷惑をかけるようなアホウを産んだ覚えはない」と言っていた実家のお母さんも、夜中に木村さんの家の入口に米の入った袋をそっと置いてくれてたそうです。
「みんなリンゴが教えてくれました」と語る木村さん の笑顔が印象的でした。
224号 OKバジとの村歩き
 OKバジこと垣見一雅さんは20年前にネパールに移住し、単身で貧しい村々の支援活動を続けています。バジとはおじいさんのことで、OK、OKと願いを聞いてくれるおじいさんという意味です。OKバジがネパールで支援活動を始めたのは、1990年にヒマラヤトレッキングをしていた時、荷物を持ってくれていたポーターが雪崩に遭って命を失い、「ネパールに借りができた」と思ったことがきっかけでした。
 2014年3月、OKバジネパール支援20周年記念式典がランプールという町で開かれました。険しい山や谷をいくつも越えて歩いて集まってきた人たちの数は数千人。280の村々の代表が長い列を作って並び、一人ひとりがOKバジに感謝の言葉を送っていました。日本各地から、OKバジの支援者が百数十人も式典に参加したのもOKバジの人柄と本物の支援の姿に共感したからだと思います。
 式典の後、OKバジと2日間、村々を歩きました。どの村へ行っても「バジラーハ(バジが来た)」と子供も大人も笑顔で迎え、OKバジも村人の名前をみんな覚えていて楽しそうに話をしていました。
 これまでOKバジは、村人たちと一緒に汗を流して多くの学校を建て、井戸や水路を作り、ヘルスポストを作り、トイレを作り、たくさんの病人の命を救ってきました。「僕はただ日本の支援者の善意ををネパールに届けているだけ」と謙遜して笑う姿に、いっそう尊敬の念を深くしました。
 私の重いリュックを背負ってくれた青年は、子どもの頃に左足に大けがをし、OKバジに命を助けられたそうです。ズボンのすそをまくるとその時の傷跡が生々しく残っていました。命の恩人であるOKバジの日本の友人のために喜んで重い荷物を背負い、黙々と歩く姿に感動しました。
 OKバジがはいているズボンは貧しい村人のズボンよりも安っぽそうでした。「これ125ルピー(130円位)。安いでしょ」と笑うOKバジの靴下には大きな穴が開いていました。
225号 『当たり前』の積み重ね
 去年夏の甲子園大会で初出場初優勝を飾った前橋育英高校野球部の荒井直樹監督から「…恥かしながら、本が出ましたので送らせていただきます」という手紙と共に、「『当たり前』の積み重ねが本物になる」という本をサイン入りで頂きました。サブタイトルには「凡事徹底―前橋育英が甲子園を制した理由」と書かれています。

 朝のゴミ拾いと1分間スピーチを日課にしている前橋育英野球部では、甲子園へ行ってもその習慣は変わりませんでした。小さなことを惜しまず、徹底的に極めることが人間力を高めることにつながるという荒井監督の考え方が選手たちにも伝わっていました。
 キャプテンの荒井海斗選手は1分間スピーチで「大阪で、どれだけゴミを拾っても、最初は全くなくなりませんでした。でも、毎日毎日、ゴミを拾い続けたら、どんどんゴミが減って、きれいになってきた。もっともっとこの町をきれいにするために、僕たちは勝ち進もうと思います」と話したそうです。
 優勝できたことについて、荒井監督は「胸を張って言える勝因が1つある」と言っています。それは、試合に出られない選手たちが、チームのためにと懸命にそれぞれの役割を果たしてくれたこと。2年生エースがベンチに戻ってくるたびに、氷で首筋や頭を冷やして「大丈夫か?頑張れよ」と声をかけながら、献身的にサポートする2人の3年生。その気持ちをしっかりと受けとめた2年生の高橋選手は、試合後のインタビューで「3年生のために勝ちたかった。3年生と、少しでも長く野球がやりたいと思って…」と答えました。
 荒井監督は「絶対に守るべきもの」として、周りの人を大事にしよう、人によって態度を変えるな、といつも言い続けています。

 荒井監督の奥様は、寮母として、毎朝暗いうちから大勢の選手たちの食事を用意し、試合の時は球場に応援に来てくれていました。
 優勝インタビューでの荒井海斗選手の「母を日本一の寮母にしたかった」という一言にシビレました。
226号 キミはひとりじゃない
 歌手の「カオリン」こと早坂華織さんとシンセサイザー奏者の「岡ちゃん」こと岡田清光さんでつくる音楽ユニット「POISON(ポアゾン)のコンサートはいつも優しく温かい雰囲気と感動に包まれています。
 3年前の3月、早坂さんが予定していたコンサートは東日本大震災のために中止になってしまいました。その空いた日程を使って受診した検査で左胸に乳がんが発見されました。早坂さんは患部切開手術を受けました。抗がん剤治療で自慢の長い髪も抜け落ちてしまいましたが今では健康を取り戻し、歌手活動も再開しています。
 多くの犠牲者を出した震災がきっかけで自分の癌が見つかり、命が助かった早坂さんは何か運命的なめぐり合わせを感じ、今の自分に何ができるかを考えました。そんな中で生まれたのが自作の『光の中へ』という曲のチャリティCDの制作でした。この曲は早坂さんが過去に経験した孤独感や苦しみを乗り越え、今ではそれが想い出にかわり、大切な宝物のになったという自分自身の想いが込められています。『光の中へ』の歌詞の中にこんな言葉があります。

…心の痛みに耐え ひとり闇の中 ひざを抱えじっとうずくまっていた あの日の私
 優しい声が囁いたの
『キミはひとりじゃない…』って
 手をとり 光の中へ
 明るい明日が見えたの

 カオリンのこの歌を聴くと涙が出てきます。
 ワンコイン(500円)のチャリティCD『光の中へ』の売上金の全額は、あしなが育英会を通して、津波で家族を失った遺児のケア施設「仙台レインボーハウス」の活動に寄付されることになっています。
 6月6日(金)午後7時から、桐生市民文化会館で開催のコンサートに一緒に行きませんか。足利屋、アスクでもチケットを販売中です。(3000円)
227号 ほっとけない心
『雑宝蔵経』という仏教経典の中に素敵な話があります。
 
 ヒマラヤの麓の森で山火事が起こりました。森に住んでいた虎や獅子が懸命に火を消そうとしましたが火は勢いを増すばかりでした。動物たちは身の危険を感じて岩の陰に隠れました。その時、小さなオウムが飛び立ち、池に飛んで行き、池の中にどっぷりと体を水に濡らして森に戻り、燃えさかる山火事の上からバタバタと一心に羽を振っては水の滴をたらしました。そしてまた池に飛んで行き、濡らした体で水を運んでは羽を振って山火事の上から滴を落としました。それを何十回、何百回と繰り返しました。息は切れ、体がフラフラに疲れ果ててもオウムはやめようとはしませんでした。
 その様子を見ていた仏さまが「お前さんの羽で運んできたくらいの水でこの山火事を消せると思うかね」と優しくお尋ねになりました。オウムは「消えるか消えないかはわかりません。でも、私たちの森が焼けるのを何もせずに見ていることはできません。できるかできないかではなく、わたしにできることはこれしかないのです」と答えました。仏さまは深く大きく頷かれると、黒い雲が急に現われて雨を降らし、それが大雨となって、やがて山の火事が消えました。

 この話を思い出すたびに、ヒマラヤの麓のネパールの寒村で20年前からひとりで支援活動を続けているOKバジこと垣見一雅さんの優しい笑顔が浮かんできます。
 6月21日、桐生でOKSS(OKバジを支援する会)の総会が開かれました。20年前、垣見さんがネパールに移住すると同時に桐生で産声を上げたOKSSのカンパの累計は4千万円近くに上っています。
 現在では日本全国にOKバジのひたむきな活動に共感した人たちが次々と支援の団体を結成しています。
「私は皆さんの善意を届けるパイプ役にすぎません」と謙遜する垣見さん。OKバジへの支援の輪が更に広がることを願っています。

228号 〈幸せの小さな粒〉が
 『満月の夜、母を施設に置いて』、『徘徊と笑うなかれ』、『手をつないで見上げた空は』などの感動的な詩集で知られる詩人の藤川幸之助さんのことを数年前に知り、メール交換をさせていただいています。
 先日、藤川さんの「〈幸せの小さな粒〉が」、という詩を読んでとても感動しました。
 藤川さんは十数年前にお父様を亡くし、介護していたお母様の認知症の病状が進む中、奥様の癌が悪化していきました。教師を辞めたばかりの藤川さんの精神は混乱の極みだったそうです。そんな時に書いた詩が、「〈幸せの小さな粒〉が」でした。

 どうやっても
自分の思い通りにならないことがある
誤解されたまま文句を言われ
非難されることもある
どれだけがんばっても
どうにもこうにもがんじがらめで進めない時もある
そんな時は
歯を食いしばり
しっかりと言葉を自分の中に閉じこめる
口を閉じ、ただただ歯を食いしばる
しっかりと歯をかみ合わせ自分自身を食いしばる
すると
プツンとつぶれる音がする
そして中から
ほんの小さな幸せが
ちょこっと広がるのだ
〈幸せの小さな粒〉が
プツンとはじけて広がる
かすかな音が聞こえるのだ
そんな時こそじっと歯を食いしばれと
かすかな音が聞こえてくるのだ
 
  『やわらかなまっすぐ』(PHP出版)
229号 起縁・随縁・結縁

  郷土の誇りであった星野精助翁がお亡くなりになりました。99歳でした。生前中は星野物産グループを大きく発展させ、群馬県教育委員や公安委員長、昭和聖徳記念財団、在家仏教協会など数えきれない社会貢献をされ、郷土を美しくする会の名付親で相談役でもありました。
 平成12年に自叙伝『起縁・随縁・結縁』という本を出版。その2年後に続編の『人生とはその日その日の名残りである』という本をいただいた時、「この本は私の葬式の時に配るつもりです」と言われていましたが、その日がついに来てしまいました。人と人とのご縁を大切にし、多くの人から人生のお手本として慕われており、尊敬されてきました。
 本の中に「毎朝の仏間での勤行で亡き父母に挨拶し、阿弥陀如来に手を合わせ、多くの恩人や師にご挨拶し、また多くの知人友人等に憶いを寄せることは私にとって最も貴重な時間です。この仏間の時間は一緒に働く社員や御世話になっている関係先への感謝の念を想う時でもあります」と書かれています。報恩・感謝こそ星野翁の人生観でもありました。
「…ありがたい人生というのは、楽しい人生ということともちょっと違うし、自分は幸福であったということとも、またちょっと違う感じがします。私もありがたい人生であったということで去りたいのですけれども、ありがたい人生であったと自分が言う前に、何か私などでは申しわけないのではないか、ありがたい人生であったというには、まだまだ私では修業が足りない、勉強が足りないと思っているわけでございます。でき得れば、「ありがたい人生であった」と言って、あの世に行けぬものかと思っているわけでございます。」(著書より)
 「ありがたい人生」を全うされた星野翁の教えを後世に伝えることが私たちの役目だと思います。合掌。
 惺煌院叡譽観翁道精居士
ありがたい人生というのは、楽しい人生ということともちょっと違うし、自分は幸福であったということとも、またちょっと違う感じがします。私もありがたい人生であったということで去りたいのですけれども、ありがたい人生であったと自分が言う前に、何か私などでは申しわけないのではないか、ありがたい人生であったというには、まだまだ私では修業が足りない、勉強が足りないと思っているわけでございます。でき得れば、「ありがたい人生であった」と言って、あの世に行けぬものかと思っているわけでございます。」(著書より)

教えを後世に伝えることが私たちの役目だと思います。合掌。

居士



 

230号 二宮金次郎の教え
「さくらもーる」テナント会の勉強会で二宮金次郎のお話を聴きました。講師は京都大学で教育学を教えている中桐万里子さん。中桐さんは二宮金次郎の7代目の子孫でもあり、興味深いお話を聞かせて頂きました。 
 昔はどこの小学校にもあった二宮金次郎の銅像から学ぶべきことは、本を読む勤勉さであり、背中に薪を背負って歩く勤労精神ですが、最も大事なのは足を一歩前に踏み出す勇気を学びましょうということでした。
 金次郎はある年、田植えが終わった初夏、茄子の漬物が秋茄子の味がしたり野菊が咲いていることから天候の異変に気付き、村人達に、植えた稲を全部抜き、稗や粟など寒さに強い苗に植え替えさせました。その年から始まった天保の大飢饉では日本中で多くの人々が餓死しましたが金次郎の村だけはひとりの餓死者も出なかったのだそうです。 
 金次郎は生涯に600もの農村を指導しました。大切なことは、ただ見るのではなく、よく見ること、そして行動する「積小為大」の大切さを教え続けました。 
 金次郎の教えは報徳思想と呼ばれています。報徳とは、「ギブ&テイク」(与えれば与えられる)という見返りを求める考え方ではなく、私達はすでに大自然や周囲の人達から「徳」をいただいていることに気づき、その徳に報いる生き方が大事だと教えています。
 報徳思想に学び、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助さんは、採用面接の際に「あなたは運がいいと思いますか?」と尋ね、「はい」と即答した人を採用したそうです。
幸之助さんは3つのことで自分は運が良かったと言っています。@貧乏だったから頑張れた、A病弱だったから周囲から助けられた、B学歴がなかったから素直に人の話に耳を傾けた。
 運がいいと思うことが感謝・報徳につながります。