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「小耳にはさんだいい話」へ


211号〜220号


211号 よし(葦)とあし(葦)
「伊勢の父」と慕われている修養団・元伊勢道場長の中山靖雄先生の初の著作『すべては今のためにあったこと』(海竜社・税込1200円)が刊行されました。本の帯には、「つらかった過去もすべて、今を喜んで生きるための根になっているのです」と書かれています。ページをめくるたびに中山先生の優しい声が聞こえるようで、心が穏やかになってきます。
 本の中に「良し悪し」のことが書かれていて共感しました。
「私たちは、ついつい事柄を良し悪しにしてしまうものです。健康は良くて、病気が悪い。若い方が良くて、年をとることが悪い。生きていることは良くて、死ぬことは悪いなど、二者択一にしてしまいます。よく考えてみれば、病気がなければ、健康もないのです。年を取らなければ、若さというのもありません。死ぬという世界がなければ、生きるという世界は成り立ちません。ところが私たちは、どうしてもこれが良くてこれが悪いという二極の世界を生きてしまうわけです。本来、「良し」「悪し」というのは一対の岸であり、その両岸の間をどう流れるかということが大事なのです」と言っています。
「よしあしの中を流れて
清水かな」という句があります。これは、「よし(葦)・あし(葦)」と「良し・悪し」を掛けています。よし(良し)あし(悪し)にぶつかり、その中を流れながら清められていくということです。すべて良し悪しにしてしまう心を修めて、目に見えない世界を大切に生きると、自分や人を良し悪しの世界で「責め裁く」世界から、「許しいたわる」世界へと変わります。そして、喜び多い人生にすることができます、と書かれています。

「死ぬるべき覚悟を決めて産む子なりその日のつとめなし終えておく」という歌にも感動しました。
お産の前に家中の障子を全部張り替え、煮物を作って用意し、お産の直後に息を引き取った母のことが思い浮かびました。辛かった過去も、今を喜んで生きるための根になっています。

212号 卒業していく君たちへ

 神奈川県で中学校の校長をしている友人の中野敏治先生とは10年以上のおつき合いになります。中野先生は「かけはし」という個人通信を毎月発行しています。先日届いた第74号には、中野先生が卒業式で卒業生に送ったメッセージが紹介されていて、とても感動しました。
 中野先生は卒業証書に書かれた生徒の名前、生年月日、卒業の日付、一番最後に校長の名前が書いてある意味や、そこに込められた思いを話しています。 
『…卒業証書の名前をじっと見て下さい。その名前を中学校生活で何回呼ばれてきたでしょうか。学級担任が中学生としての皆さんの名前を呼ぶのは今日が最後です。もう中学生としての皆さんの名を呼ぶことはできないのです。…
 次には、あなたの誕生日が書かれています。家族や親戚の人たちはあなたが生まれたことをどれほど喜んでくれたことでしょう。今日までのことを振り返ってみて下さい。あなたの命が生まれた日から、たくさんの方々があなたを見守っていてくれました。あなたはどれほどのことをしてもらい、どれだけのことを返してきたでしょうか。あなたにとって一番大切な人は、一番身近にいるのです。…
 最後にもう一つ、お伝えします。忘れてないでほしい最後の最後のメッセージです。
 手のひらを広げ、薬指・中指・人差し指を曲げてください。小指と親指が残りました。小指はみなさんです。親指は、みなさんの親や担任、親せきの方など、みなさんの周りにいる人たちです。そっと小指と親指を近づけてください。親指は自然と小指の方を向きます。あなたがどこを見ているときでも、あなたの親や担任、多くの人たちがあなたを見守っているのです。
これから、辛いこと、寂しいこと、苦しいことがあった時、歯をくいしばり、手を握りしめ、そしてそっと小指と親指を立ててみてください。どんなときでもあなたは一人ではないのです。必ず誰かがあなたを温かく見守っています。
 すばらしい生徒に出会えて、幸せでした。』

213号 天職と出合う
 人間学を学ぶ月刊誌『致知』に高崎の友人・宮本成人さんの生き方が紹介されていました。 
 宮本さんは4年前、44歳の時に「椛垂゙しり」を立ち上げました。周囲からは「なんで草むしり?」「そんなことで生計が成り立つのか?」と反対されたそうです。しかし、「これこそ自分の天職」と信じた宮本さんの決意は変りませんでした。
 宮本さんはこれまでに8回も転職を繰り返し、20年以上悶々とした辛い時期を過ごしてきました。大学卒業後、地元大企業に就職したものの没個性に陥ってしまうことが耐えられず2年で退職。その後、大学時代に日本拳法で全国一位になった経験から、日本拳法協会海外指導普及員としてカナダに勤務したり、長野オリンピックの招致の仕事にも携わりました。26歳の時、ケンタッキーフライトチキンのフランチャイズに入社。数年後には宮本さんが店長を務める店の売り上げが日本一になりました。自信をもった宮本さんは独立を決意。貯金をはたき、勇んで店舗の物件探しをはじめたものの世間の荒波にもまれて挫折。「売上日本一になれたのは自分の力ではなく、ブランド力や周囲の人のお陰だった」と気づかされました。そんな頃、植木屋さんのアルバイトを頼まれて作業をしていると、庭はきれいになる、お客様からは感謝していただける、自分は汗をかいて清々しい、これこそが自分の天職だ!と感動が込み上げてきました。
「何でもないようなことをコツコツ続けていくことで道は拓けてくる」という鍵山秀三郎先生の言葉に励まされ、自宅のプリンターでチラシを作り1軒1軒回りはじめました。「50軒に1件の確率で受注がある」と気づいた宮本さんは、努力した分だけ結果がついてくることを確信しました。現在では従業員も6人、顧客登録数も5百件を越え、草むしりマイスターとして活躍しています。
 今から8年前、大間々駅のトイレ掃除を体験した宮本さんは、翌月から仲間と高崎の公園のトイレ掃除を始め、今も続いています。

214号 ティッシュケース1万個
 去年の秋、上毛新聞の「つぶやき」というコーナーに大間々の五十嵐さち子さんの「ティッシュのケースを縫う喜び」という投稿が紹介されていました。

『今私は、双子の孫の子守りの合間を見つけてティッシュケースを縫っています。ここ2年で4千個縫いあげました。
 私がティッシュケースを縫おうと思ったのは、今から10年くらい前に町のラーメン屋さんに入ったとき、手作りのティッシュケースをいただいたことがきっかけです。あの時は本当に嬉しくて幸福な気分になりました。私も3年前までミシン仕事をしていましたが、今は仕事はしていません。でも、ミシンが大好きな私からミシンを取ったら何も残りません。そんなとき、10年前のことを思い出し、今度は自分で作ろうと思いました。
娘に「そんなに作ってどうするの、スーパーの店先でお客さんに配ればいいのに」と言われ、それがヒントになり、町の洋品屋さんやショッピングセンターの中にある店の方に届け、そこのお客さんに配ってもらっています。ティッシュケースを作っているときの自分がとても幸福に思えます。今は1万個を目標にして頑張ってみようと思っています。』
 
 去年、私の2度目の母が亡くなったときも、タンスの中にあった母の洋服の生地で五十嵐さんがティッシュケースを作って下さり、縁ある方に差し上げて喜ばれました。
 6年前に五十嵐さんが出版した詩集『母ちゃん』に収められた28編の詩の中には貧しい中で豆腐の行商をして6人の子供を育てた五十嵐さんのお母さんのことが綴られています。詩の中の「働き者の母はいつ幸せを感じていたのか」という言葉に考えさせられました。
 先日、五十嵐さんが「お陰様で1万個になりました」と言って、たくさんのティッシュケースを届けてくれました。遊ぶことやラクをすることではなく、人を喜ばせることが一番の幸せであることを五十嵐さんから教えてもらいました。

215号 おいしい思い出
 足利屋創業100年に際し、昔、足利屋で働いてくれていた人たちに創業100年の報告とお礼の気持ちを伝えています。(60年以上前 の人は分らないのでご存知の方は教えて下さい)
 先日、50数年前に足利屋で働いていた「きよみちゃん」からきれいな字の手紙と御祝いが届きました。「私にまで記念の品を頂戴し、心よりお礼申し上げます。これからもますます皆様に愛され、親しんで頂ける足利屋でありますよう千葉から応援致しています」という手紙を読んで嬉しくなりました。
 きよみちゃんは栃木県足尾町生まれ。中学卒業と同時に足利屋で住み込み店員として10年間働いてくれました。お父さんとお兄さんは足尾銅山で働いていたそうです。今思えば、辛いことや寂しいことばかりの青春時代だったでしょうが笑顔のきよみちゃんの印象だけが残っています。
「50年以上経った今でも忘れない思い出があります」と手紙に書かれていました。「…それは、やっちゃんのお母さんの実家の和菓子です。おいしくて、とてもきれいな和菓子です。おいしい、おいしい思い出です」と。母の実家は、前橋市の「松屋」という和菓子屋で、時々、お土産にもらった和菓子を店員さんたちにもおすそ分けしていました。昭和30年代は日本中がまだ貧しい時代でしたが、貧しさの中だからこそ小さな幸せに感動できる心があったのかもしれません。
 きよみちゃんからの手紙の中に、50数年前に足利屋の裏庭で撮ったセピア色の小さな写真が同封されていました。昔の写真を大切に持っていてくれたことに感激しました。 
 ロシアの文豪トルストイの『戦争と平和』という本の中に、「一切の不幸せは、貧しさや不足から生ずるのではない。あり余るところから生ずるのだ」という言葉があります。全ての幸せは感謝することからはじまることをきよみちゃんから教えてもらいました。

216号 倖せは気づいたときから
 熊本の大野勝彦さんとは15年来のおつき合いになります。
 大野さんは平成元年7月22日、農作業中に機械に手をはさまれ、両手を切断してしまいました。入院中、星野富弘さんの『愛、深き淵より』 を読んで感動した大野さんは、切断した手にペンを巻きつけ、詩や絵を描きはじめました。今、大野さんの作品は阿蘇の麓と大分県飯田高原と北海道美瑛の3つの「大野勝彦美術館」に展示され、来館者に感動を与えています。
 手記の中で大野勝彦さんは、『…私は自分の意志で両手を切った。トラクタに両手を巻き込まれ「死か」「手を切って助かるか」2つの選択肢しか残されていなかった。突然の試練に、良く考える時間はなかった。手が切れてくれたお陰で命拾いしたが、果たしてこれでよかったのか。私に切られた手のことを思うと心が痛む。これまでつくしてくれたのに。心の中で詫びながら、自分の骨に誓った。お前の分まで生きてくから見ててくれ。その思いがこの欠けた体で堂々と生きることであり、声がかかると「はい、分かりました。喜んで」と講演会に出かけた。何も出来ないと思っていた私を必要としてくれている。それがうれしくて、にこにこと舞台に上った。…』 
 11年前、ながめ余興場で大野さんの講演会を開き、家族のぬくもり、人のやさしさ、命ある喜びを教えられました。その時、大野さんが壇上で書いた詩が足利屋隣りの「いきいきセンター」に今でも飾ってあります。『倖せは気づいた時から始まる ほんとうは幸せなんだけど さよならのあとに気づくの』
 9月21日(土)午後2時から、ながめ余興場で大野勝彦さんの講演会を開催します。(チケット千円)

217号 シベリアからのハガキ
 足利屋には、昔使っていた大金庫が残っています。中扉には金文字で「足利屋商店」と書かれ、金庫内の棚や引出しには、戦前からの書類が入っていました。その中に、思いがけない宝物を発見しました。それは、父・松ア福司がシベリア抑留中に家族に宛てた「俘虜用郵便葉書」でした。そのハガキは全てカタカナで書かれていました。

『チチウエ ハハウエ チヨ ソシテ オトウトタチ ミンナ オゲンキデスカ。マタ コウヘイハ ソノゴ ナニカタヨリガアリマシタカ。ジブンモ オカゲデ アイカワラズ ゲンキデ ミナサマニ アヘルヒヲ ナニヨリノ タノシミニ マイニチ マイニチヲ オクッテオリマス。
 マッタク コノタビハ スクナカラズ ゴシンパイヲ オカケシマシタガ トニカク ナニヒトツ ナスコトナク マタ ナニモ カンズルコトナク メイレイニヨッテ コウシテイル
ワケデスカラ ケッシテ ヘンナ ゴソウゾウヲナサルニハ オヨビマセン。 モウ タカツドノアタリモ コウヨウデキレイデセウ。「ナガメ」ハ アイカワラズ ヤッテイマスカ(中略) コバヤシサンニ ヨロシク』

「父上、母上、ちよ、そして弟たち、みんなお元気ですか」という書き出しを読んだだけで目頭が熱くなってきました。
私の祖父母や、結婚したばかりの夫を戦地に送り出した妻(母)「ちよ」はどんな思いでこのハガキを読んだことか。きっと何度も何度もを読み返したに違いありません。
「ナニヒトツ ナスコトナク…」とは裏腹に、この頃は過酷な強制労働に明け暮れていたようです。
 今も残る「ながめ余興場」では、戦時中、出征兵士送るための家族慰安会で芝居も行われていました。
 遠い異国の地で、家族や従業員を思い、故郷の美しい景色や「ながめ」の思い出が父に生きる勇気と希望を与えていたのでした。
 家族の絆や郷土の宝を改めて考えさせられました。


218号 同じ重さ
 みどり市東町の富弘美術館で開催中の企画展『同じ重さ』を観ました。感動の連続でした。
 1970年6月、中学校の体育の先生になったばかりの星野富弘さんは、クラブ活動の指導中に頸椎を損傷して手足の自由を失ってしまいました。富弘さんは、多くの苦しみや悲しみを通して、「生きる」とは何かを深く考えるようになり、マイナスと思われることも長い人生の中では意味のあることだということに気づいたそうです。悲しみの中には喜びが必ずあり、与えられることと失うこと、絶望と希望、弱さと強さ、どちらも同じ大切なものであることを多くの作品を通して私たちに気づかせてくれます。
 今回の企画展のチラシには『与えられることと失うことは同じ重さらしい 散る花があって咲く花がある』という詩が紹介されています。そして、展示作品の中には『同じ大切』という詩画もありました。
 暗いより明るい方を
 遅いより速い方を
 静けさよりにぎわいを
 いつから片方ばかり
 求めるようになって
 しまったのか
 どちらも同じ大切
 (花の詩画集・花よりも
  小さく・マンサクより)

 星野富弘さんの『愛、深き淵より』という本の最後にある、「故郷を出て、故郷が見え、失って初めてその価値に気づく。苦しみによって苦しみから救われ、かなしみの穴をほじくっていたら喜びが出てきた。生きているっておもしろいと思う。いいなあ、と思う』という文章は何度も読み返しても共感します。
 富弘さんが今年描いた『苺』という詩画作品も展示されています。
 苺という文字の中に母という字を入れた遠い昔の人よ。あなたにも優しいお母さんがいたのでしょうね。
 時代は変わりましたが今の子供達も皆苺が大好きです。お母さんが大好きですよ。

 『同じ重さ』は、12月1日まで開催しています。
草木湖に映る紅葉の山々、これから美術館周辺は秋の最高の季節を迎えます。(足利屋に割引券あり)
219号 徘徊と笑うなかれ

 詩人・藤川幸之助さんの『徘徊と笑うなかれ』という本が出版され、すぐに読みました。
『手をつないで見上げた空は』や『満月の夜、母を施設に置いて』など、藤川さんの本は、認知症で24年間を過ごしたお母さんや、「母たのむ、墓たのむ」という遺書を残して逝ったお父さんとのことが感動的な詩で綴られていて、切なさや優しさに目頭が熱くなってきます。
 『徘徊と笑うなかれ』の本にこんなことが書かれています。
「…ある夏の暑い日、母の肌がかぶれないようにやさしく、膀胱炎にならないように丁寧に下を拭きながら、汗だくになって母のおむつを替えている時のことでした。母のことを思いやり、母の痛みを自分のこととして感じている自分自身にふと気がついたのです。母が私の中から人を思いやる愛や優しさを引き出してくれていると思いました。そして、その時この介護という経験を通して、母が私を育ててくれているのだという思いに至ったのでした。…」
 藤川さんは谷川俊太郎さんとの対談の本の中で「存在するだけで価値があるということを、私も母を通して学びました」と言っています。何もできなくても側にいてくれるだけでいいのですね。
新刊の中の「誕生日」という詩も印象的でした。
『…母が認知症になるまでは 母のことなんてどうでもよかった 母の誕生日なんてすっかり忘れていた 自分の好きなことだけ懸命にやった 自立してからも私の誕生日には 母は忘れず電報を送ってくれていた
 「オタンジョウビオメデトウ
ジブンノスキナコトヲ オモイッキリヤリナサイ」
 誕生日は生んでくれた母親に感謝する日だと父に叱られても お礼も言わないままだった 
ケーキを前にロウソクの火を消すのもこの私で 私の誕生日のようで 母が祝ってくれているようで 長い八本と短い数本の火を 母に感謝して一息で消した』
 この詩を読んで、11月1日が誕生日だった父・松ア福司に手を合せました。

 

220号 かぎりなくやさしい花々
 人間の生き方を学ぶ「致知の会」の第81回例会で、講師の富弘美術館学芸員・桑原みさ子さんから「星野富弘『かぎりなくやさしい花々』生き方とその制作風景」と題する興味深いお話を聴いて感動しました。
 星野富弘さんは、群馬大学を卒業し、体育教師になって2カ月目、部活の指導中に誤って頸椎を損傷、首から下が全く動かなくなってしまいました。9年間の入院生活中、富弘さんのお母様は一度も家に帰らず、病室で一緒に過ごしたそうです。
 入院中、富弘さんは看護学生に勧められ、口に筆をくわえて言葉や絵を描きはじめました。67歳の今も精力的に描き続け、詩画作品はすでに
600点近くなるそうです。代表的な作品を桑原さんが朗読し、説明してくれました。
「悲しみの意味」と題する作品は、サフランの絵に詩が添えられています。
 冬があり夏があり 昼と夜があり 晴れた日と雨の日があって ひとつの花が咲くように 悲しみも苦しみもあって 私が私になってゆく
 富弘さんが結婚し、お母様に代わって奥様の昌子さんが絵具の調合を手伝った最初の作品が「がくあじさい」でした。

結婚ゆび輪はいらないといった
朝 顔を洗うとき
私の顔をきずつけないように
体を持ち上げるとき
私が痛くないように
結婚ゆび輪はいらないといった
今 レースのカーテンを
つきぬけてくる
朝陽の中で
私の許に来たあなたが
洗面器から冷たい水を
すくっている
その十本の指先から
金よりも
 銀よりも
美しい雫が落ちている

 「この作品には赤と青のあじさいが描かれています。赤が昌子さんで、青が富弘さんでしょうか。葉っぱには金よりも銀よりも美しい雫が描かれています」という桑原さんの解説を聞き、改めてこの作品の人気の秘密がわかりました。
富弘美術館では12月3日から冬の展示も始ります。