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201号〜210号


201号 『花の冠』
『花の冠』
「虹の架橋200号達成」のお祝いに仙台在住の「言の葉アーティスト」渡辺祥子さんと、菅野孝則・久仁枝さんご夫妻から『花の冠』(朝日新
聞出版)と『海の石』(光文社)という2冊の詩集を頂きました。渡辺さんや菅野さんとも親しい著者の大越桂(おおごえ・かつら)さんは仙台
在住の詩人で、表題作の「花の冠」は、東日本大震災の1ヵ月後に書かれた詩です。一昨年、大間々東中学校の立志式でピアノを演奏してくれた
松浦真沙さんがこの詩に曲をつけ、復興支援チャリティコンサートの合唱曲として発表しました。桂さんの詩の中には「津波」や「地震」や「頑
張ろう」といった言葉は出てきませんが、みんなで心をひとつにして歩んでゆこうという優しい気持ちが伝わってきます。去年10月、野田佳彦
首相が、所信表明演説の結びに「花の冠」の一説を引用し、「希望の種をまきましょう」と語ったことでこの詩は更に注目を集めました。
  『花の冠』
嬉しいなという度に
私の言葉は花になる
だから
あったらいいなの種をまこう
小さな小さな種だって
君と一緒に育てれば
大きな大きな花になる

楽しいなという度に
私の言葉は花になる
だから
だったらいいなの種をまこう
小さな小さな種だって
君と一緒に育てれば
やさしい香りの花になる

花をつなげたかんむりを
あなたにそっとのせましょう
今は泣いてるあなたでも
笑顔の花になるように

 1989年生れの大越桂さんは819gの超未熟児で生れ、重度脳性まひ、未熟児網膜症による弱視など、重度重複障害児として過ごし、13
歳で気管切開により声を失い、筆談による言葉のコミュニケーション続けています。

 十数年前、シスターの渡辺和子さんから素敵な言葉を教わったのを思い出しました。
『天の父さま どんな不幸を吸っても 吐く息は感謝でありますように 全ては恵みの呼吸ですから』

202号 でんでん虫の悲しみ

 島根県の友人や出雲大社を訪れた友人達から偶然にも同じ冊子をいただいています。
『皇后陛下御話』という冊子は、国際児童図書評議会ニューデリー大会での皇后陛下の基調講演を収録したもので、読み返すたびに皇后陛下の穏やかなお顔が思い浮び、お優しい声が語りかけてくるように心に響いてきます。

 私がまだ小さな子供であった時、一匹のでんでん虫の本の話を聞かせてもらったことがありました。…そのでんでん虫は、ある日突然、自分の背中の殻に、悲しみが一杯つまっていることに気付き、友達を訪ね、もう生きていけない、と自分の背負っている不幸を話します。友達のでんでん虫は、それはあなただけではない、私の背中の殻にも、悲しみは一杯つまっている、と答えます。小さなでんでん虫は、別の友達、又別の友達と訪ねて行き、同じことを話すのですが、どの友達からも返って来る答は同じでした。
そして、でんでん虫はやっと、悲しみは誰でも持っているのだ、ということに気付きます。自分だけではないのだ。私は、私の悲しみをこらえていかなければならない。この話は、このでんでん虫が、もうなげくのをやめたところで終っています。
 読書は私に、悲しみや喜びにつき、思い巡らす機会を与えてくれました。本の中には、さまざまな悲しみが描かれており、私が、自分以外の人がどれほどに深くものを感じ、どれだけ多く傷ついているかを気づかされたのは本を読むことによってでした。…
 悲しみの多いこの世を子供が生き続けるためには、悲しみに耐える心が養われると共に、喜びを敏感に感じとる心、又、喜びに向かって伸びようとする心が養われることが大切だと思います。…

 『皇后陛下御話』を読むたびに、星野富弘さんの、れんぎょうの絵に添えられた『わたしは傷をもっている でもその傷のところから あなたのやさしさがしみてくる』という詩を思い出します。
『皇后陛下御話』は足利屋でお貸しいたします。
203号 おせっかいなオバチャン

 名古屋の知人・志賀内泰弘さんの最新刊『なぜ、あの人の周りに人が集まるのか?』(PHP研究所)という本を読んでとても感動しました。

 オープン半年で倒産の危機を迎えたコンビニに水野さんというエビス顔のオバチャンがアルバイトで入りました。早さが求められる店で、オバチャンは動作が遅く、マニュ アル通りに動かず、お客におせっかいをし、なぜか頻繁にトイレに行っていました。
 ある時、就職試験に失敗したサトルがイライラしながらコンビニに入りました。店に入ると一斉に「いらっしゃいませー」の声。でも、誰もサトルに目を向ける店員はいませんでした。好きなおにぎりは品切れ。レジではオバチャンがお客と親しげにおしゃべり。サトルは無視されていると思い腹が立ってきました。やっとサトルの番になると、
オバチャンが「あら変ね〜」
「何が変なんだよ〜、モタモタしやがって」
「ううん、あなたのことじゃないのよ。いつもなら、配送のトラックが来る時間なの。あと5分待ってくれない?」
サトルは(ボケてんのか、このババア)と思い、副店長は「なに言ってるの、水野さん。私がやるから、あっちへ行って」と怒鳴りました。
「はいはい、ごめんなさいね〜。あなたはいつも、シャケと昆布のおにぎりを買うでしょ。さっきも、おにぎりの棚で残念そうにため息ついてたでしょ。…ほら配送車が来た。今すぐ、シャケと昆布を出してあげるからねぇ〜」
 サトルは長野のお婆ちゃんが作ってくれたシャケと昆布のおにぎりのことを思い出していました。そして、「こういう寒い日は、冷たいお茶はお腹を壊すわよ。コーンスープなんてどう?温まってるわよ」というオバチャンの優しい言葉に肩を震わせて泣き出しました。

 オバチャンはなぜ、頻繁にトイレに行っていたのか?「仕事で一番大事なことは何か」を実践で教えてくれたオバチャンの正体は?この本を読み終えた後、感動で涙が止らなくなってしまいました。
 著者の志賀内泰弘さんからこの本の試読版を600冊も頂きました。足利屋、アスクで無料で差上げています。
204号 母の願い
 私たちの母・松アトシは7月20日19時12分、88歳の天寿を全うして私たちの元から旅立って行きました。 
 一昨年秋に大腿骨を骨折し、手術後は「のぞみの苑」でお世話になっていましたが、7月16日に体調が変化して病院に緊急入院し、肺炎のため、わずか5日で帰らぬ人になってしまいました。母が息を引きとる瞬間は私たち姉弟4人と嫁や孫達12人に看取られての大往生でした。
 私と2人の姉の生みの母親は私を産んで3時間後に亡くなりました。「3人目は男の子が欲しい」と願い、「今度は男の子ですよ」というお産婆さんの声に小さくうなずいて息を引きとったそうです。

 そんな松ア家に2度目の母・トシが嫁いできたのは私が2歳の時でした。商売屋で舅、姑、小舅、小さな子供が3人もいる大家族に嫁いできた母の苦労は並大抵のものではなかったと思います。
やがて、弟幸弘が生れ、私たちは4人姉弟になりました。
 母トシの生涯唯一の願いは「姉弟家族が仲良くしてほしい」ということであったと思います。母の願い通り、私たちは真の姉弟以上に、支え合い、助け合ってきました。
 母との最期の5日間、弟の幸弘はずっと母の枕元に寄り添い、私たちも母の体をさすりながら、「篠塚の親戚が来るまで頑張れ」、「孫の有香ももうすぐ会いに来るぞ」と必死に声をかけ、母もそれに答えるように精一杯頑張り続け、家族や親戚と最期の別れを交わすことができました。
「おかあちゃん、オレを産んでくれて有り難う」という弟の声と、まだ温もりの残る母の頬に落ちた弟の大粒の涙を忘れることができません。

 鳥取県「なごみの里」の友人・柴田久美子さんは、「人間は両親から『身体、良い心、魂』を頂いて産れてきます。そして、旅立ちの時、良い心と魂は『命のバトン』として縁ある人に渡されます。臨終は生涯で最も厳粛で尊い時間です」と言っています。
205号 我武者羅応援団
 『僕らの仕事は応援団』という本を読みました。表紙には、「こんな生き方があったのか!会社を辞めてまで作った日本で唯一のプロ応援団、実話にもとづく感動ストーリー」と書かれています。
 この本の主人公・我武者羅(がむしゃら)應援團団長の武藤貴宏さんは高校に入学したときに憧れの応援団に入部しましたがプレッシャーに押しつぶされて2週間でやめてしまいました。武藤さんは社会人になってからも、「あの時、逃げていなければ、もっと自分らしい生き方があったのではないか」という後悔が心の奥でくすぶっていました。「生きている手応えがほしい」という思いから会社を辞め、仲間と応援団を結成したのが5年前の2007年でした。最初は、「あいつらバカじゃないか」と言われましたが、相手に寄り添い、全身全霊を傾けてガムシャラに応援する姿が感動を呼び、テレビでも取り上げられ、感動の輪が大きく広がっています。
 武藤さんは、「応援をすると、その人が頑張っている瞬間を、一番間近で見ることができます。僕らはその姿に勇気をもらい、また応援をする力がわいてくるのです」と言います。そして、「僕らが目指す応援団は、イチローだ。イチローは僕らのために野球をやっているわけじゃない。でも、イチローが血のにじむような努力をして、必死にボールを打ち返す姿に、僕らは勇気づけられるんだよ。自分の人生を本気で生きることが、誰かへの応援になる。僕らはそんな存在になりたい」と本の中で語っています。
 我武者羅應援團が応援の内容を考える時に大切にしていることは、応援する相手と自分との接点。接点が見つかれば他人ではなくなる。全ては自分事にしたいから。自分事にできれば、相手の心に寄り添えるからです。
 9月9日、12時半から高崎市文化会館大ホールで、「あこがれ先生プロジェクトin群馬」というイベントが開かれ、そこに我武者羅応援団がゲスト出演いたします。
 相手のことを本気で応援するとはどういうことかを実感できるイベントです。一緒に高崎へ行ってみませんか。
206号 生涯現役を楽しむ
 今年106歳を迎えたf地(しょうち)三郎さんの著書『106歳を越えて、私がいま伝えたいこと』(こう書房)を読んで感動しました。
 明治39年生まれのf地さんは、「つらいときこそ、それを楽しむ余裕が大事です」と本の中で言っています。
 f地さんご夫妻の息子さんは二人とも脳性小児麻痺でした。あるとき、「障害児の母として、どんなことを感じていますか」と質問された奥様の露子さんは、「人様の知らない幸せを感じています」と答えられたそうです。
 f地さんの長男の有道さんは学校でいじめられ、中学校を中退せざるを得なくなり、次男の照彦さんは、学校へ通うことすら許されませんでした。2人はいつも障子に小さな穴を開け、通学する子どもたちをのぞき見ていました。あるとき長男が「学校というのは勉強をするところで、楽しいところなんだぞ」と次男に教えている姿を見て、f地さんは障害児のための学校を作ることを決意。30歳を過ぎて、広島文理大学(現・広島大学)で心理学を学び、九州大学で精神医学を学んだ後に、知的障害児施設「しいのみ学園」を創設しました。
 しいのみ学園ができた時、長男の有道さんが「僕を小使いさんにしてほしい」と言ったそうです。有道さんが一時期通っていた学校には、少し首の曲がった体の不自由な小使い(用務員)さんがいて、時おり有道さんに学校の鐘を叩かせてくれたそうです。本の中に「しいのみ学園小使・f地有道」という名刺と、笑顔で鐘を鳴らす有道さんの写真が載っていて、『小さきは小さきままに、折れたるは折れたるままに、コスモスの花咲く』というf地さんの短歌も紹介されています。
 f地さんは99歳から世界一周の講演旅行を続け、7回目の今年も南アフリカで開かれた「国際心理学会」で講演をし、「4年後の横浜大会でお待ちしています」と締めくくり、8カ国を歴訪して8月に帰国。「最高齢地球一周世界記録保持者」として、ギネスブックに登録されました。「生涯現役を楽しむ、人生に余りはない」というf地さんの生き方に感動しました。
207号 心を庭を耕す
 大間々で人間学を学ぶ「致知の会」の70回記念と大間々駅の掃除が800回を迎える節目を記念して、鍵山秀三郎さんをお迎えして、『心あるところに宝あり』と題する講演会を開催しました。
 鍵山さんは、カー用品のイエローハットの創業者で、掃除を通して世の中の荒みをなくそうという『日本を美しくする会』の精神的支柱でもあり、凡事徹底の実践者です。
 鍵山さんはまず、大間々駅の掃除が800回を迎えることについて、「何もしなければ楽(らく)ではあるけれども、楽(たの)しくはないですね。何もしなければ表面的な失敗はありませんが、人生最大の失敗は何もしないということです」と言い、「掃除の実践活動というのは一人ひとりの心の庭を耕し、柔らかく、謙虚にしてくれます。謙虚な人が集まると何をやってもうまく行きます」とも言っていました。国民教育の神様と言われた森信三先生が心の師として仰いでいた新井奥邃(あらいおうすい)という人が『謙を始めとし、また、謙を終りとす』という言葉を残しているそうです。人間は何よりも謙虚でなくてはいけないという教えです。トイレ掃除というのは人の嫌がる仕事ですが、それを率先して行い、床に膝をついて便器を磨いていると、傲慢な心が消え、小さなことにも氣づき、感謝ができるようになります。
 鍵山さんは戦争で疎開をしていた頃、両親と農業をしていた時期があったそうです。鍵山さんのご両親は、農家の人が見放した荒れ放題の畑を借り受けて、一言も愚痴をこぼさず、几帳面に草や石を取り除き、作物の育つ土壌に変えて行きました。鍵山さんは「あの時の経験から、人間の心も田畑と同じで、荒れた心には何も育たないことを知りました。大変な努力の割には得られた成果は少なかったけれども感謝の気持ちを決して忘れませんでした」と言っていました。大きな努力で小さな成果にも感謝できる生き方をしたいと思いました。

208号 きもちのこえ
 先日、仙台在住の詩人・大越桂(おおごえかつら)さんとお会いしました。桂さんは1989年、819グラムの超未熟児で生まれました。自分の力では体が動かせず、重度脳性まひ、未熟児網膜症による弱視、周期性嘔吐症などの重複障害を抱えています。13歳の時には、度重なる肺炎を予防するために気管切開の手術を行い、それによって声まで失ってしまいました。
 桂さんは気管切開をした頃の心境を『きもちのこえ』(大越桂著・毎日新聞社刊)の中でこう綴っています。
「…いのちが助かったとしても、物のようだった私が、もっと意味のない存在になるのではないか、意味がないどころか、存在そのものが苦悩そのものになるに違いない、そうなんだ。もう手足もなくなり、声もなくなり、ただ、そこにある石になるのだ。痛みを感じなくなるほど悩んで、狂いそうでした。」
 何かコミュニケーションの手段を見つけたいという桂さんやお母さんの紀子さんの悲痛な悩みに、訪問教育の織姫先生が、「少しだけ動く手で、字を書いてみたら」と提案しました。織姫先生が桂さんの腕を持ち、桂さんの意志を感じながら、桂の「か」という字を初めて書きました。桂さんは、「これで通じる人になれる。これで石でなくなる。これで物でなくなる。これで本当の人間になれる」と思ったそうです。「書いた文字を持って、母はナースセンターに飛んで行きました。仕事中の看護師長さんと抱き合って喜んでいました。看護師長さんは私を、未熟児で生まれたときから知っているのです。二人で泣いていました。はやく、はやく、人間になりたい!と思いました。」
 それから1年後、桂さんは全てのひらがなが書けるようになり、感動的な言葉や詩が次々と生まれています。
『嬉しいなという度に私の言葉は花になる…』ではじまる『花の冠』の詩は被災地の人たちの心を励ましています。
209号 復興のヒマワリ
 みどり市立笠懸小学校の金子淳二校長先生は、平成23年3月11日に起きた東日本大震災の後、東北へ支援物資を届けたり、ボランティアにも参加しました。金子先生は被災地でもらってきた2粒のヒマワリの種を「復興のひまわり」と名づけ、子どもたちと大切に育て、夏には大きな花を咲かせ、秋には1250粒の種が収穫できました。 
 11月5日の人権朝礼では1052人の全校児童にヒマワリの種を配りました。そして、先月の虹の架橋でも紹介した仙台在住の詩人・大越桂さんの「花の冠」という詩を紹介し、「来年は大きなヒマワリの花を咲かせて下さい」と伝えました。震災から1ヶ月後に桂さんが書いた詩は、こんな言葉で始まります。

 嬉しいなという度に 
 私の言葉は花になる 
 だから あったらいいなの
 種をまこう
 小さな小さな種だって
 君と一緒に育てれば
 大きな大きな花になる

 人権朝礼の後、20人の児童が大越桂さんに手紙を書きました。6年生の宮内錬君は「大越さんが書いた『花の冠』という詩を読みました。何度も何度も読みました。ぼくの嬉しいが、誰かの元気になったり、次の笑顔になったり、いろんな人とつながることで心の花が咲くのだと思います。大きな光の花を咲かせられるように、今を大切にして一生懸命頑張っていこうと思います」と自分の思いを書き、10粒のヒマワリの種と共に桂さんに届けました。
 桂さんからは『人は人を人にする かつら』と書かれた色紙が学校に贈られました。重度の障がいを抱える桂さんが、わずかに動く左手をお母さんに支えてもらいながら書いた色紙を見て感動しました。そして「…みどり市からのうれしいプレゼントでとても温かい気持ちになりました。…みどり市はとても美しいところと聞いたので、いつかおじゃましてみたいと思います」という返事が送られてきました。
 笠小の子どもたちと桂さんとの心の交流が広がり、「復興のヒマワリ」が今後も咲き続けることを願っています。


210号 白雪姫プロジェクト
「かっこちゃん」こと、山本加津子さんは、特別支援学校の先生です。今、かっこちゃんは「白雪姫プロジェクト」の活動を広めています。白雪姫が王子様や7人のこびとたちの愛によって目覚めたように、病気やケガで植物状態と宣告された人でも意識はあり、思いを伝える方法や回復の可能性を見つけられることを知らせる活動です。
 かっこちゃんが以前、病院の中の学校に勤務していた時に出会ったユリちゃんは、水の事故で心肺停止になり、脳のCTは真っ黒。音に対する脳波も痛みに対する検査も無反応で、「植物状態」で生きているといわれた少女でした。
 かっこちゃんは、チューブや機械が体中につながれているだけで全く動かないユリちゃんの体のいろんな所を祈るような気持ちで触りながら語りかけました。そして、まぶたの上から眼球に触れたときに、ユリちゃんの眼球が小さく震えるのを感じました。かっこちゃんはユリちゃんのお母さんに、眼球がユリちゃんの意志で反応することを告げました。お母さんの目から涙がポロっと落ちました。かっこちゃんは、「ここにお母さんがいることをユリちゃんは感じていると思います。ただ私たちにそれを伝える方法を今持っていないだけだと思うのです」と言うと、お母さんは「ここに毎日来るのが辛くてしかたがなかったのです。この子が私が来たと気付き、私を喜んでくれていると思える証がほしかったのです」と泣きながら話し、ユリちゃんの未来に希望を見つけました。
 それから10年以上たった後、ユリちゃんが車いすに乗り、お母さんの話しかけに反応し、大きな目をあけてお母さんと向き合っている姿に出会いました。
 お母さんの愛情と絶え間ない言葉かけが刺激となって、ユリちゃんの脳に新しい神経細胞の軸索が伸び、新しいネットワークが失った脳を補っていたのです。
 『僕のうしろに道はできる』(山本加津子編著・三五館)という本は、思いを伝え合えることの喜びを教えてくれる素敵な本です。