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「小耳にはさんだいい話」へ


191号〜200号


191号 奉仕こそ人生の喜び
 人間学を学ぶ「致知の会」という勉強会があります。みどり市や桐生市の会員を中心に毎月、20〜30名が集まり、心を磨き合っています。6月の講師は、桐生の明照学園樹徳中学・高等学校理事長の野口秀樹先生でした。樹徳は仏教の心を教育に取り入れた学校です。30年も前から市街地清掃を行い、年に1度は生徒3人が1組になって独居老人宅の掃除や手伝いボランティアを続けています。
 3月11日、桐生でも震度6の揺れを観測しました。中高一貫校の4年男子生徒は、数日前にボランティアで訪問した一人暮らしのおじいさんのことが心配になりました。走ってその家に向かい「おじいちゃん、大丈夫?」と声をかけ、家の片付けや話し相手になってあげました。その行動に感激したおじいさんは「本当に嬉しかった」と学校に電話をしてきたそうです。
 また、震災の日の夕方、桐生駅を通過する列車は全線不通になっていました。駅の中は電車を待つ人たちで溢れていました。復旧の見通しがつかず皆が苛立ちはじめ、時間が経つにつれて気温もどんどん下がってきました。電車を待つ人たちの中に疲れきった老夫婦の姿がありました。みんなが自分のことを考えるだけで精一杯のとき、一人の男子高校生が自分の学生服を脱ぎ、寒さに耐えているおじいさんにそっとかけてあげました。その光景を見た人たちの周囲に温かい空気が流れはじめました。おじいさんは1週間前に心臓の手術をしたばかりだったそうです。学生服の裏に「樹徳高校1年○○」と書かれた名札を見たおばあさんから数日後、学校に丁寧な御礼状が届いたそうです。
 樹徳では震災後、生徒たちが自主的に街頭募金を行い、292万円余りの義援金を集め、参加費2千円で募集した岩沼市への泥かきツアーには376名の生徒が申し込み、貴重な体験をしてきました。
 樹徳中学校・高等学校では毎朝、「…互いに生かされているをおもい、ほどこして報いを求めず、奉仕こそ人生の喜びであることを充分に体験し…」という『信条』を全員で唱和しているそうです。

192号 平和カンナ プロジェクト
 一昨年の夏、小さなご縁がきっかけで「平和カンナ・プロジェクト」を主宰している橘凛保(たちばな・りほ)さんがみどり市へお越しになり、交流が始まりました。「平和カンナプロジェクト」は凛保さんが広島の原爆資料館で1枚のカンナの写真を見たことから始まりました。
 今から66年前の昭和20年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下され、14万人が亡くなりました。市内は焼け野原となり、75年間は草木も生えないと言われました。しかし、原爆からわずか1カ月半後に爆心地から820メートルのところに
真っ赤なカンナが咲き、人々に生きる勇気と希望を与えたのでした。カンナの花言葉が『堅実な未来』ということを知った凛保さんはこのカンナを主人公にした物語を書き、世界中の人の心に平和の花を咲かせたいと願ってカンナを植える活動を続けています。
 今年の3月11日の東日本大震災から1カ月半後、天皇皇后両陛下が宮城野体育館の避難所を訪問されました。そのとき、津波で全壊した自分の家の庭に咲いた水仙の花を被災者の方が美智子皇后様に手渡す場面がテレビで放映されました。それを観た凛保さんは、広島のカンナと共に、水仙の花も復興のシンボルとして広めたいと考えました。「宮城野体育館と水仙」という手がかりを頼りに仙台へ出向き、美智子皇后様に水仙の花を手渡した佐藤さんというご婦人と出会い、広島のカンナの話を伝えました。その話に感動した佐藤さんご夫妻は庭に残った水仙の球根を凛保さんに託し、凛保さんも佐藤さんご夫妻の思いをしっかりと受け止めたのでした。
 笑顔が素敵な凛保さんは「恕」(じょ)という言葉を大切にしています。恕とは思いやりや許す心という意味。孔子の教えの中核をなす言葉でもあります。「相手の気持ちを思い、1歩踏み出す勇気が無限の可能性に繋がります」と凛保さんは言います。現在、平和カンナ大使は全国で140名。みどり市でも『堅実な未来』を担う子供たちと共に復興のシンボルとしてカンナや水仙の花を植えたいと願っています。
193号 5つの誓い
先日、桐生で腰塚勇人(こしづかはやと)さんの講演を聴き、とても感動しました。
1965年生まれの腰塚さんは大学卒業後、「天職」と思えた中学校の体育教師になり、バスケット部の顧問として熱血指導の日々を送っていました。そんな腰塚さんの人生を大きく変える事故が起きたのは2002年のことでした。スキーで転倒し、首の骨を折り、命は取り止めたものの、首から下が全く動かなくなってしまいました。医師からは「一生、寝たきりか、車椅子」と宣告されました。
絶望し、自殺未遂までした腰塚さんを救ったのは、「何があっても、ずーっと一緒にいるから」という奥さんの言葉や、「代われるものなら代わってあげたい」というお母さんの言葉や、「先生、待っているから」という生徒たちの手紙でした。腰塚さんは、今の全てを受け入れて、いつも「笑顔」でいると決め、どんなことにも「ありがとう」を言おうと決めました。
 事故から10日後、全く動かなかった手足が少しずつ動くようになりました。主治医から、「首の骨を折って、ここまで回復したのは腰塚さんがはじめてです」と言われるほどの奇跡的な回復でした。
 ケガから4ヵ月後、下半身と右半身麻痺の障害を残しながらも、腰塚さんは再び「先生」として学校へ復帰しました。そのとき腰塚さんは「5つの誓い」を決めました。
1「口」は…、人を励ます言葉や感謝の言葉を言うために使おう
2「耳」は…、人の言葉を最後まで聴いてあげるために使おう 
3「目」は…、人のよいところを見るために使おう
4「手足」は…、人を助けるために使おう
5「心」は…、人の痛みがわかるために使おう

 今年5月、腰塚さんが石巻で瓦礫撤去のボランティアをしている写真を、同行した私の親友からいただきました。「手足」は人を助けるために、「心」は人の痛みがわかるために使おう、を実践する姿に感動しました。腰塚さんのお父様は、旧東村花輪のご出身。地元でも腰塚さんの講演会を開きたいものですね。

194号 ココロの授業
 先日、『私が一番受けたいココロの授業』(ごま書房)という本を読み返しました。
その中で、フランス料理の第一人者・三國清三さんの若い頃のお話に感動しました。
 三國さんは昭和29年生れ。15歳で札幌グランドホテルの厨房に入り、わずか数年で花形シェフになります。その後、札幌のホテルの料理長の紹介で帝国ホテルへ移り、料理の頂点を目指します。当時の帝国ホテルの総料理長は村上信夫さんでした。
三國さんは最初の日に、村上さんから「鍋でも洗ってもらおうか」と言われました。三國さんは「札幌の人気シェフ」のプライドを捨て、徹夜で鍋の取っ手のネジまではずして、きれいに磨き上げたそうです。翌朝、村上さんは三國さんに「キレイに洗えていたね」と言いました。三國さんが「今日は何をさせてもらいましょう?」と聞いたところ、村上さんは「そうだなぁ、鍋でも洗ってもらおうか」と言ったそうです。それから2年間、三國さんの仕事は、来る日も来る日も鍋をピカピカに磨くことでした。2年後、三國さんは「このままここにいても料理の腕は上がらない」と思い、ついに辞める決心をしました。そんな時、三國さんは村上さんに呼ばれました。そして、「来月から、スイスの日本大使館公邸の料理長をやってもらう」と告げられたそうです。当時、帝国ホテルには600人の料理人がいたそうです。「鍋洗いしかできない三國よりも、もっと優秀な料理人がたくさんいるじゃないですか!」という周囲の声に対して村上さんは「鍋の洗い方や塩のふり方一つを見れば、その人の人格やセンスがわかる。技術は人格の上に成り立つものだ。三國なら間違いない」と言いきったそうです。
 以前、イエローハットの創業者・鍵山秀三郎さんが大間々へ来て下さった時に「雑巾の絞り方一つでその人の全人格がわかります」と言われたことを思い出しました。
 『私が一番受けたいココロの授業』の著者・比田井和孝さんと中村文昭さんの講演会が12月24日に高崎で開かれます。詳しくは足利屋へ。
195号 いい話は人に伝える
 本棚にあった「お金でなく、人のご縁ででっかく生きろ!」(中村文昭著・サンマーク出版)という本を読み返しました。この本に「いい話は3日以内に5人にしゃべる」と書かれていました。本を読んだり、人の話を聞いて感動してもすぐに忘れてしまいます。「いい話は誰かに伝えて広める」ということがとても大事だと思いました。この話に関連して、心温まる話が紹介されていました。
「学年一成績の良い女の子がいました。塾にも通わず、家庭教師の世話にもなっていないのに、なぜ成績がいいのですかと、先生がその子のお母さんに尋ねました。そのお母さんは、子供の頃から家が貧しく、無学なまま育ったのだそうです。『近所のお母さんたちと話をしたりする時に、何も知らなくてとても恥ずかしい思いをするのよ』と何気なく子供に話したそうです。すると、それを聞いた女の子が、次の日から『私、今日こんなことを習ってきたのよ』と、それはそれは一所懸命に学校の授業の内容を教えてくれるようになったというのです。『お母さんが勉強できなかったぶん、私が一所懸命聞いてきて教えてあげる。もうお母さんに恥ずかしい思いなんかさせないから』という気持ちから女の子は熱心に授業を聞いたのです。誰かから押し付けられて勉強をするのではなく、お母さんに教えてあげたいというひたむきで能動的な気持ちが、結果として抜群の成績をもたらすことになったわけです。自分だけよければという向上心ではなく、人も自分も一緒に向上していける道があるという素晴らしい証拠だと思うのです」と書いてありました。「かき込めば、脇に出ていく風呂のお湯。押し出せば、脇から入る風呂のお湯」という言葉も本の中にありました。
 中村文昭さんの本やCDには、「頼まれ事は試され事」「頼まれたら損得を考えずに0.2秒でハイかイエス」など、ご縁を大切にして生きるヒントがたくさんあります。
 12月24日に高崎で、中村文昭さんと比田井和孝さん(先月の虹の架橋で紹介)の講演会があります。(千円)足利屋に入場券があります。
196号 与える者は与えられる
『私が一番受けたいココロの授業・講演編』(比田井和孝・比田井美恵著・ごま書房新社)という本には「与える者は、与えられる」というサブタイトルが付いています。
 この本の中に、島根県益田市にあるMランド(益田ドライビングスクール)の話が紹介されていました。Mランドは、全国でも有数の集客数を誇る、合宿制の自動車教習所です。この教習所では、車の運転だけではなく、挨拶の大切さをを教えています。Mランドの入口には、「この国のルールはひとつ。それは挨拶。挨拶は自分を変える。世界が変わる」と書かれています。最初は挨拶ができない人も、2週間、免許を取る間に気持ちのいい挨拶ができるようになって帰って行くそうです。さらには、教習所のトイレの掃除や車の洗車も生徒たちが行っているそうです。Mランド会長の小河二郎さんは「この教習所に来た人に幸せになってほしい。免許を取った人の一番の不幸は、事故を起こして命を落としたり、人の命を奪ってしまうこと。だから、卒業した人達にはとにかく安全運転をしてほしい。そのために一番大切なものは、コミュニケーション能力です」と言っています。コミュニケーション能力とは、単に言葉を交わす能力ではなく、周囲や相手の立場に立って考え、相手の気持ちを察して、運転ができるかどうかです。そして、その一番の基本が挨拶だと言っています。「卒業してからも安全運転をしてほしい。良い運転手になって、良い人生を送ってほしい」という小河さんの切なる願いが生徒たちに伝わり、実践されているのだと思います。 
 7年ほど前から、小さなご縁がきっかけで、小河さんに虹の架橋を送らせていただいています。そして、小河さんからは、お心のこもったお便りをいただき、生きていく上で大切なことを学ばせていただいています。
 この本の著者・比田井和孝さんと、先月の虹の架橋で紹介した中村文昭さんの講演会が12月24日、13時から、高崎の群馬音楽センターが開催されます。チケットは足利屋にもあります。
197号 スノー・ドロップ
 群馬フラワーパークに勤める友人・會所敦さんから、スノードロップという花の写真をいただきました。スノードロップは別名・マツユキソウ(待つ雪草)という純白の花で、雪の積もる頃に花を咲かせ、静かに美しく輝き合うといわれている清楚な花です。  
 花を愛している同い年の會所さんが少年のようにはにかんだ表情で、スノードロップの話を聞かせくれました。
その話をご紹介いたします。
「昔、花には色がついていなかったそうです。神様が花たちに『好きな色を付けてあげましょう』と言いました。大きなパレットを持った神様は花たちが望む通りに赤や黄色やブルーなどの色を付けてあげました。すべての花たちに色がついたとき、神様のパレットは空っぽになりました。そのとき、『私にも色をつけて下さい』とお願いしたのは、まだ何の色もついていない透明な『雪』でした。
神様は雪に、『花たちに頼んで色を分けてもらいなさい』と言いました。雪は花たちのところへ行き、『私にも色を分けてくれませんか』とお願いしました。しかし、誰も色を分けてくれませんでした。
雪は悲しくて泣いてしまいました。悲しんでいる雪に、そっと話しかけてきたのが野原の片隅でひっそりと咲いていたスノードロップでした。雫の形をした花は清らかな白い色をしていました。スノードロップは雪に寄り添い、『私の色でよかったら、分けてあげましょう』と言いました。雪は喜んで、清らかな白い色を分けてもらいました。そのときから雪は真っ白な色になったのでした。雪はとても喜んで、スノードロップに、春一番の花を咲かせることを約束しました。」
 スノードロップには、もうひとつの伝説があります。
「アダムとイブが楽園を追い出されて困っていたときに、天使が降ってきた雪をスノードロップの花に変えて、『必ず春が来る』という希望を与えた」というお話です。
スノードロップの花言葉は「希望・慰め」だそうです。
 平成24年の幕開けです。
喜びも苦しみも皆で分け合って、良い年にしたいですね。
198号 なでしこ力
 サッカー日本女子代表の佐々木則夫監督が書いた『なでしこ力』(講談社)という本を読んで感動しました。
 日本代表の選手たちは、なでしこのイメージにあやかり、ひたむき、芯が強い、明るい、礼儀正しいという4つの心を大切にしてきました。
 佐々木監督が選手たちに求めたものは、サッカーの能力だけではなく、きちんとした振る舞いや習慣を身につけてほしいということでした。あるとき、宿泊施設でミーティングを行うために選手たちを呼びました。その声に気づかなかった二人の選手が後から慌てて会議室に入ってきました。佐々木監督はその二人を叱らず、会議室にいる全選手にこう言ったそうです。「なあみんな、自分は気づいたのに、どうしてあの二人に教えてあげなかったんだ」と。なでしこのサッカーは、互いが協調しあってこそ実現する。選手たちはその日を境に、ピッチの外でも互いに声を掛け合うような習慣が身についたのだそうです。
 また、キプロスに遠征中、隣のコートで練習していたスコットランドのチームから練習試合を申し込まれたことがありました。試合終了後、相手の監督は「いやあ、日本人は素晴らしい」と感心したそうです。ロッカールームのないグランドで、スコットランドの選手は脱いだ上着をピッチ脇に脱ぎ捨て、スタッフに拾わせていたのに、なでしこの選手たちは全員が上着をたたんで並べて置いた。「礼儀正しさ、心配り、道具への愛着。日本人が世界で信頼される理由は、ここにあるんですね」と笑顔でウインクしたそうです。
 佐々木監督は「成功の反対は失敗ではなく、やらないことだ」と言っています。ある試合で、ゴール前の混戦でなでしこの選手が体ごとボールに向かって得点しました。試合後、「体のどこに当てた?」と聞かれた選手は「体じゃなくて、心」と答えたそうです。この本は去年1月に出版されました。本のサブタイトルに「さあ、一緒に世界一になろう」と書いてあった通り、出版から7ヵ月後のワールドカップで見事に優勝を果たしました。

199号 無償の愛
毎月4回、心温まる話を掲載して発行している「みやざき中央新聞」の2月13日号に、作家・下村湖人の短編小説『心窓をひらく』の話が紹介されていました。それを読んでとても感動しました。

 進君という少年が、学校へ出かける時、前夜書きつけた紙片を二つに折って、お母さんの机の上にそっと置いて、学校へ出かけて行きました。その紙片には次のように書かれてありました。

 「かんじょう書き」
市場にお使いに行き賃10円
お母さんのあんま賃 10円
お庭のはき賃    10円
妹を教会に連れて行き賃10円婦人会の時の留守番賃10円
合計50円 進 お母さんへ

 進君のお母さんはこれを見てニッコリなさいました。そして、その日の夕食の時、今朝のかんじょう書きと50円が机の上に乗っていました。進君は大喜びで、お金を貯金箱に入れました。
 その翌日、進君がご飯を食べようとすると、テーブルの上に一枚の紙がありました。
開いてみると、それはお母さんのかんじょう書きでした。
そのかんじょう書きには
「高い熱が出てハシカにかかった時の看病代 ただ。学校の本代、ノート代、エンピツ代 みんなただ。まいにちのお弁当代 ただ。さむい日に着るオーバー代 ただ。進 君が生まれてから、今日までのおせわ代 みんなただ。
合計ただ。 進君へ お母さん 」
と書かれていました。進君はこれを見た時、胸がいっぱいになって、大粒の涙がこぼれそうになりました。そして、これからはお金をもらわず、どんなお手伝いでも引き 受けてお母さんを助けようと思いました。
お母さんは進君の求めに快く応じながら、さらに「見返りを求めないで助けあう世界」のあることを進君に教えたのでした。
 下村湖人著『青年の思索のために』という本の中に『人間の弱味と強味』のことが書かれています。『おたがいに助けあわないと生きてゆけないところに、人間の最大 の弱味があり、その弱味のゆえにおたがいに助けあうところに、人間の最大の強味があるのである』 いつも心に刻んでおきたい深い言葉ですね。
200号 20年ぶりの授業参観
 インターネットで配信している『20年ぶりの授業参観』という動画が地域の話題になっています。この動画は、20年前、みどり市立福岡西小学校で教鞭をとっていた針谷先生が当時の教え子達に「20年ぶりの授業参観」を呼びかけ、2月に福岡西小で実際に行われた授業参観の様子が紹介されています。
針谷先生が教え子達に送ったお知らせには「お母さんやお父さんの思いやりに、あの頃は言えなかった『ありがとう』を作文で伝えませんか」と記されており、追伸には「授業の前日は実家に泊り、お父さんやお母さんの思いやりをたくさん見つけてきて下さい」と書かれていました。
 授業参観の前日、福西小の卒業生たちは、自分の子供達を連れて実家に帰り、家族の温もりや絆を実感しました。
 授業参観当日、大人になってはじめて訪れる教室で幼馴染との再会。そして、両親や幼いわが子の前で、一人ひとりが「宿題」の作文を発表。
「…母は毎日朝早くから洗濯を干し、仕事に行き、家に帰ってきても休む暇なく家事全部をこなしていました…」
「…私は生まれたとき、低体重児で右の肺が開かず、自分で呼吸することができない状態で生まれました。『ごめんね、こんなに小さく産んでしまって』、と謝りながら… (涙、涙、涙)…大人になった今でも、お父さん、お母さんの書き残してくれた日記は私の宝物です」
「…お父さん、お母さん、ありがとう。なかなか言う機会もないので、たくさん言っておきます。ありがとう、ありがとう、ありがとう。私は今、とても幸せです…」

 みどり市立福岡西小学校は137年の長い歴史に幕を閉じ、3月25日、44名の児童と多くの地域の人たちや関係者が集まり、感動的な閉校記念式典が行われました。
 式典の最後に、在校生が4月から通う大間々北小の金管バンド部員40名が福西小の校歌を演奏し、全員で合唱。最後は涙、涙になりました。
「みどりの大地、青い空、笑顔輝く福岡西小学校」が卒業生や多くの人たちの心の中で生き続けてくれることを祈りました。