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「小耳にはさんだいい話」へ


181号〜190号


181号 戦慄の思ひで
 8月15日の夜、昔の書類の間から、偶然にも、父のシベリヤ抑留生活を記した「戦慄の思ひで」と題する、書きかけの手記を見つけました。終戦記念日や命日を迎えるたびに、父の戦争体験談を断片的に思い出し、「もっとしっかり聴いておけばよかった」と後悔していたときでした。戦友会の案内封筒の中に便箋10枚の手記と軍服姿の写真が入っていました。恐らく、戦友会の機関誌に載せるための原稿だったと思われます。
 手記にはシベリヤの過酷な抑留生活の様子が記されていました。昭和二十一年九月八日、強制労働へ行くために順番に小舟に乗せられ、アムール河支流の川を渡りました。その時、舟が激流に飲み込まれ、最初に乗った36人のうち24人が亡くなるという惨事に遭いました。父が生き残れたのは、数日前に戦友が川に飯盒を落としてしまい、その飯盒が左岸へ流れて行ったのを思い出し、元の岸へ戻るのではなく左岸へ向って泳いだお蔭でした。その時の情景がこう記されています。
…流れにまかせて左岸へ向った。瞼の中に家族の顔が次々に浮んでくる。「しっかりしろ」「頑張れ、頑張るんだ」「死んじゃ駄目だぞ」と励ましてくれる。故郷の山々、高津戸の峡谷も目に映る。そうだ、家族の者は毎日、俺の無事を祈っているのだ。絶対死んではならない」そう思うと急に元気が沸いてきた。…
元の岸では百数十人の仲間が無事を祈っていたそうです。
 極寒のシベリヤでの抑留生活に耐え抜いた父は、昭和二十二年六月二十六日に舞鶴港に着き、念願の故国の土を踏みました。その後、命を落とした戦友の家を一軒一軒訪ね、抑留生活の様子を伝え歩いたそうです。
 手記を何度も読み返して感動したのは、極限状況での仲間同士の助け合いや思いやりであり、それを支えたのは故国でひたすら無事を祈り続けていた家族の存在でした。
 毎年、靖国神社参拝と戦友会だけは欠かさなかった父。
 心から尊敬する父の10回目の命日が近づいています。
182号 本物の賞状
 秋田市在住の船越準蔵先生から『助け合う魂を心に吹き込む』という著書を頂きました。船越先生は元中学校の校長先生で秋田県中学校校長会長なども務められた尊敬する教育者です。本の中で、助け合うことや諦めないことの大切さを、船越先生の体験談や考え方を通して教えてくれています。その中に「本物の賞状」というお話があります。
 船越先生は小学校の頃、運動会が大嫌いでした。4年生の時、足が痛いと嘘を言ったのがバレて母親に物差しで叩かれたことがあるそうです。「運動会では早く走ることだけが立派なのではない。大事なのは全力を尽くすことだ。子どものときに全力を尽くせば大人になってから必ず役に立つ。みんなの見ているところでビリで走るのは辛いことだが、それを逃げては何も出来ぬ。ほかの人など気にせずに自分の全力で走れ!」と、ビシリと叩かれました。
 それから50年後、船越先生は山王中学校の校長先生として、運動会で1600人の生徒の前で挨拶をしました。
「運動会の目的は全力を尽くすことだ。運動が得意な者も不得意な者も、自分の全力を尽くして走れ。外からは順位しか見えぬ。だから速い者から順に賞を与える。全力を尽くしたかどうかを知るのは自分だけだ。だから、本物の賞状は自分で書くのだ。運動会が終って家に帰ったら、自分に与える賞状を書け。その賞状に素晴らしい言葉が書けるように、みんな悔いなく自分の全力を尽くせ」…と。
その時の風変わりな船越先生の挨拶を褒めてくれる人は誰もいませんでした。しかし、退職して何年もたってから「あの時の船越先生の挨拶は今でも忘れていません」と言われました。―やはり、走るのが遅い子だったそうです。
 
 みどり市内の小・中学校や幼稚園でも運動会が行われています。たとえビリでも、転んでも一所懸命に走っている姿を見ると感動し、こちらが大切なことを教えられているような気持ちになります。
 八木重吉の「花はなぜ美しいか ひとすじの気持ちで咲いているからだ」という有名な言葉を思い出しました。
183号 病気の正体
 静岡で「予約が3年待ち」という整体治療院を開業している徐桂琴先生は中国ハルピンの総合病院で内科の先生をされたあと、縁あって日本に来て16年が経ちました。
親しい仲間との懇親会の席で初めて徐先生とお会いしたとき、痛くて上がらない左腕を治してもらい、身体の弱い所も正確に言い当てられて驚きました。今年の5月、念願の徐先生の治療を受 けました。拷問と思えるほどの苦痛でしたが終った後は呼吸が深くなり、爽快感を味わいました。
 先日、徐先生が書いた『病気の正体』という本に興味深い話が書いてありました。
「人間と地球と自然界は全く同じ異変や問題が起こっています。日本は、経済成長でモノが豊かになり、それと同時にゴミが増えて環境問題が起こっています。そのゴミの毒素が回り回って、 空気や水や食べ物の形で体の中に入り、それが「燃えるゴミ」と「燃えないゴミ」として溜まり、この老廃物が病気の正体のひとつになっています。燃えるゴミは乳酸や脂肪やコレステロール、燃えないゴミは鉛や防腐剤や農薬など。これらが体の冷たい部分、弱い部分、疲れてる部分に集まり病気の原因になっています。病気の正体の住み着いている場所がわかればその場所を温めるのが最も効果的です。身体を温めると燃えるゴミと燃えないゴミが小さくなり、流れやすくなり、関節も柔らかくなって、痛みも軽減します。…人間の全身の血管の長さは9万キロもあり、地球を2周できるほどの長さです。血液は体の光であり、心の血液は愛なのです。血液は体の隅 々まで栄養を届け、酸素を届け、反対に汚れた老廃物を受け取って身体の外へ排出します。愛そのものの働きをしてると思います」と徐先生は人間の体や心の働きに感謝と深い愛情を注いでいます。
「病気になったら、それは神様からゆっくりしなさいというプレゼントとして感謝しましょう。病気になったときに一番良い薬は時間なのです。そして、心の愛を育てることなのです」と書いています。
 徐先生の本を読んでいるとそれだけで心の窓が開かれたような爽やかさを感じます。

184号 115年目の大発見
 明治28年4月26日に発生した大間々町の大火は、役場、警察署、銀行、小学校など300戸近い建物を消失した歴史に残る大火災でした。大間々町誌には被害の状況が克明に記されているものの、鎮火については「岡商店の醤油で消し止めたという言い伝えがある」という表現で記述されており、町誌編纂の時点では、醤油で火事を消したという確たる証拠はありませんでした。しかし、11月18日、岡商店の書類蔵整理の際に、115年前の大火災の直後に書かれた和綴じで7ページにわたる「大火災ノ顛末書」が発見されました。
 顛末書には、大火災当日の天候や風向き、町の半分が焼き尽くされた惨状、消防団員の勇敢な消火作業の様子などが克明に記載され「最早水源渇乏セントスルニ依リ蔵人ハ煮込七十弐三石 外ニ番醤油十弐三石位モ使用シ一時の危急を救ヒ、其レニテ鎮火ス」と書かれていました。「煮込」とは熱処理済みの仕上げ段階の醤油と思われ、番醤油とは赤黒色の下等の醤油のことのようです。その醤油を消火のために合計85〜86石使ったという事実が明らかになりました。85石は1升ビンで8500本分、約1万5千g。消防ポンプ車7〜8台分の醤油で消し止めたことが証明されました。
「…後年参考の為メ茲ニ記ス…」として、「…当店ヨリ金五十円篤志出金セリ 各焼失戸数毎ニ見舞ハ此外ナリ」とあり、非常時に際して岡商店が醤油だけではなく、多額の義捐金や罹災者へのお見舞いなどをしていたことも分りました。再びこのような惨事があった場合の対処法や世間への心遣いを指示する引継書でもあったようです。
 岡商店は天明7年創業。近江商人として大間々の地で商売をはじめて今年で223年になり、「売り手良し、買い手良し、世間良し」の『三方良し』の精神は今も脈々と受け継がれています。
「世間良し」とは、自分たちさえ良ければいいというのではなく、世間が良くなって、はじめて自分も良くなるという教えであり、岡商店の逸話は後世にしっかりと語り継いで行きたいと思います。
185号 意思伝達大作戦
 特別支援学校教諭の「かっこちゃん」こと山元加津子さんと同僚の宮田俊也さんの共著『満月をきれいと僕は言えるぞ』(三五館)という本が話題になっています。
「宮プー」こと宮田俊也さんは2009年2月に脳幹出血で倒れ、3時間の命、3日の命と宣告され、その山が越せても一生植物状態になりますと言わました。一命をとりとめ、8日目に目が開きましたが眼球すら動かすことができませんでした。かっこちゃんは特別支援学校の子どもたちと接する中で「重い障害があっても、誰もが気持ちを持っていて、思いを伝え合う方法はきっと見つかる」と信じ、宮プーのそばで歌を歌い、声をかけ続けました。数ヵ月後、宮プーは「まばたき」や眼球を上下できるようになりました。かっこちゃんは「あいうえお表」を用意しました。宮プーが目の動きとまばたきで言葉を選びます。最初に伝えた言葉は「か・こ」。かっこちゃんの名前でした。かっこちゃんは嬉しくて泣き続けました。やがて、宮プーは頭を少しだけ動かせるようになりました。頭の横にスイッチを置いて、「レッツチャット」という意思伝達装置を使い、文字で思いを伝えられるようになりました。宮プーは、「つたえられないかなしみとくるしみをぼくはしってる」と書きました。そして、窓の外の満月を見て「まんげつをきれいとぼくはいえるぞ」と書きました。
「ロックト・イン・シンドローム」という言葉があります。思いを持っていながら、自分の思いを伝える方法がなく、心が閉じ込められた状態をいいます。そんな人のためのレッツチャットが生産停止になると発表されました。かっこちゃんたちは意思伝達装置を多くの人に知ってもらい、生産を継続してもらうための署名運動をはじめました。桐生のひさかさんがチラシを作り、ネットで日本中に署名を呼びかけ、虹の架橋の読者の方にも署名を協力していただきました。半月で全国から10万1244名の署名が集り、レッツチャットの存続も決定したそうです。
 本を読んで、思いを伝え合えることの素晴らしさに感動し、涙があふれてきました。
186号 おばちゃん観音
 旧黒保根村の教育長をされていた川池三男さんが『黒保根の民話』という本を出版されました。この本には、地元に伝わる65話の心温まる民話が収録されています。その中の「おばちゃん観音」というお話もとても感動的です。
 
 水沼村の遠上に「嘉太平」と「お時」という実直なお百姓の夫婦がいました。とても働き者で村人からも好かれていましたが子宝に恵まれず、菩提寺の常鑑寺の観音さまにお願いしていました。すると13年目に男の子を授かり、覚坊と名づけられ、親子3人で幸せに暮らしていました。
 ある冬の日、嘉太平さんは熱を出し、いろいろな病気を背負い、起きることもできない体になってしまいました。お時さんは、夫の看病、覚坊の子育て、お百姓仕事、薪木とりなど一所懸命に働きました。ある日、畑の畦に覚坊を置いて仕事をしていると、女の人が近寄ってきて、「お時さんや、覚坊の世話は私が見てやるによって、何も心配しねえで働きなされ。」と言って覚坊を抱き上げました。それ以来、女の人は毎日、同じ時間に来て覚坊の世話をしてくれました。お時さんは、毎朝、常鑑寺に向かって手を合わせ、夫の病気が治るように願い、覚坊の世話をしてくれる女の人や近所の人たちに助けられていることに感謝しました。重い病気で苦しんでいた嘉太平さんは、やがて日一日と快方に向かいました。
ある夜、お時さんの枕元に女の人が現われ「お時さんや、嘉太平さんも元気になり、覚坊も大きくなって私の役目は終りました」と告げて静かに消えて行きました。すると今まで寝ていた覚坊が急に起き上がり「おばちゃん行っちゃやだ」と外へ駆け出しました。嘉太平さんとお時さんも覚坊のあとを追いました。着いた先は常鑑寺でした。お灯明に照らし出された観音さまのお姿を見た覚坊は「おばちゃんがいた」と駆け寄りました。
 それから5年。覚坊は、常鑑寺のお小僧として仏に仕える身となり、やがて涌丸の名刹・医光寺の中興の祖・四十四世覚雄となったそうです。

 群馬県指定重要文化財の常鑑寺の梵鐘を撞くと慈愛に満ちた音が心に響いてきます。
187号 黒保根の民話
 先月の虹の架橋で紹介した「黒保根の民話」(川池三男著)が大好評でした。今月もその本の中から心温まるお話をひとつご紹介いたします。

 昔、黒保根村川口の笹後という集落に「おせき」というお婆さんが小さな家に住み、小さな畑を耕して野菜を作っていました。おせき婆さんは、三太という6歳の子の病気を治してあげたり、貧しい妊婦のお君さんや夫婦で病気で寝込んでしまった八十吉さんとおたきさんに食事を届けたり、村で困っている人や貧しい人を助けていました。
 笹後の人々は、おせき婆さんが、裁縫仕事から少しの収入はあるだろうとは思っていましたが、どうしてこんなに人を助ける余裕があるのかと不思議に思っていました。
冷たい風の吹く師走の夕暮れに組頭の善四郎さんが「変わりはねえかえ」と、おせき婆さんを訪ねました。善四郎さんは、おせき婆さんが、随分と切り詰めた生活をしていることがすぐにわかりました。囲炉裏で燃える薪木の明かりに、おせき婆さんの影が照らし出されていました。善四郎さんが見たのは、おせき婆さんが、流し台の排水溝に結びつけた布袋から米や麦、粟の粒を拾っている後姿でした。善四郎さんは、おせき婆さんが、自分は食べなくても、困っている人々を助ける心の優しさに頭が下がりました。善四郎さんは笹後の人々にその話をし、笹後の人々はおせき婆さんをいっそう尊敬するようになりました。組頭や名主さんの計らいで、おせき婆さんは領主さまから一両のご褒美をいただきました。おせき婆さんはそれでも着物一枚買うこともなく、気の毒な人たちに分け与えました。おせき婆さんも年をとり、だんだん身が衰えてきました。ある夏の朝、陽が昇るとき、おせき婆さんは笹後の人々に見守られて亡くなりました。
 笹後の人たちはおせき婆さんの善行に感謝して、お稲荷さまを建立し「おせき稲荷」と呼んで、初午の日はお赤飯を炊いてお祭りをしました。

 先日、川池さんと「おせき稲荷」にお参りをしてきました。素朴な自然と川池さんたちのような人情味豊かな人達が住む民話の郷・黒保根がいっそう好きになりました。

188号 黒保根の民話に学ぶ
 先日、第8回上毛芸術文化賞4部門の受賞者が発表され、出版部門で『黒保根の民話』の著者の川池三男さん(大間々町)が受賞されました。
川池さんは旧黒保根村教育長や歴史民族資料館館長などを歴任し、黒保根村誌や群馬地名大辞典、ぐんま郷土史辞典の編纂などにも加わった温厚で誠実な人柄の方です。
 今月は『黒保根の民話』の中の「オロ天狗とヒナタ天狗」の話をご紹介します。

 周囲を山に囲まれた田沢村は田沢川をはさんで東と西に集落が分かれています。東側は陽の当らない所で「オロ」といい、陽あたりがよい西側は「ヒナタ」といいました。
東のオロ側は「陽が出るのを待っていては生活ができねえから東の衆は早くから働き出す。家族も気を揃えて働くのが東のいいところ」と自慢しました。西のヒナタ側は「朝早くから陽があたるんで、作物もよく実る。なにしろ西側の人は太陽のように心が温けえ」と自慢しました。そして、東側にも西側にも応援する天狗がいました。争いの場にはいつも天狗が出てきて知恵をつけるので、争いは深まり、ケンカは村人に代わって天狗同士になりました。石の多い東のオロ天狗は石を投げ、石のない西のヒナタ天狗はその石を投げ返しました。際限のない石の投げ合いに疲れた二人の天狗はついに和睦をしました。田沢村の人々がケンカする原因は相手の長所をねたみ、短所をさげすむ気持ちがあるからだと気がつきました。そしてケンカを煽った自分たちを反省しました。
天狗たちは、短所をなくして生活上の違いをなくすことが大切だと考え、朝から陽があたるようにと山をけずり始めました。そのためオロにも陽があたる時間が多くなり、ヒナタもいっそう陽あたりがよくなりました。東のオロ天狗は「西側は陽当たりがいいのでノンキ過ぎるのでねえか」と『日陰大尽と日向貧乏』の諺を教えました。西側のヒナタ天狗は「東側には宝の石がある。石を採って太陽の恵みの不足を埋めなされ」とマンガン鉱石の採掘を勧めました。東と西の村人たちは助け合い、長所を活かし合って豊かに暮らすようになりました。

189号 稲むらの火
 1854年(安政元年)に和歌山県を襲った大津波の被害から村人を救った濱口梧稜をモデルにラ
フカディオハーン(小泉八雲)が「生神様」という物語を書き、ヨーロッパで話題になりました。そ
の物語を当時、和歌山県湯浅町の小学校教員・中井常蔵が「稲むらの火」と題して翻訳し、戦前戦中
の国語の教科書に載りました。その話とは、

 村の高台に住む庄屋の五兵衛は地震の激しい揺れの後、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の襲
来を予測する。祭りの準備に心を奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田に
ある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々と松明で火をつけた。「大変だ。庄屋さんの家が火
事だ」と、消火のために駆け上ってきた村人たちの眼下で津波は猛威を振るい、村は跡形もなく消え
去った。稲むらの火で救われたことにはじめて気づいた村人たちは無言のまま五兵衛の前にひざまづ
いてしまった。

というお話です。五兵衛のモデルとなった濱口梧稜は庄屋ではなく、実業家(ヤマサ醤油・第7代目
当主)でした。
 津波が収まった後の惨状の中で梧稜は「一切の責任は自分が負うから」といって隣村の庄屋から米
50石を借り出すなど休む間もなく食糧確保に努めました。そして、将来も起こるであろう津波の対
策と災害で職を失った人たちの失業対策として大堤防建設に着手しました。「住民百世の安堵を図る
」と決意し、建設費の4665両のほとんどを梧稜の私財で賄い、3年余りの歳月を費やし、延べ5
万数千人の人員を使って遂に大堤防を完成させました。
その廣村堤防は88年後に発生した昭和南海地震津波のときに住民の命を救ったのでした。
 湯浅町の深専寺の入口の石碑には「大地震が起これば津波も来るものと心得、深専寺門前を東へ向
かい天神山へ逃げるべし」と刻まれており、岩手県宮古市にも「高き住居は児孫の和楽 想へ惨禍の
大津浪 此処より下に家を建てるな」という石碑があるそうです。先人の行動や戒めを心に刻み、私
たちも力を合わせて復興に協力しましょう。

190号 他者への配慮
 被災地・仙台の友人から河北新報という新聞を送っていただきました。その新聞には「被災者の心を明るく」という見出しで、多賀城市の小畑貞雄さんという方の活動が紹介されていました。小畑さんは、カー用品チェーン『イエローハット』の創業者・鍵山秀三郎さんの「掃除を通して心の荒みをなくそう」という生き方に感銘し、15年前からトイレ掃除を始めました。
今回の災害で小畑さんの家は全壊し、大切な手紙や本も全て失ってしまいました。震災から1週間後、鍵山さんからお見舞いの手紙が届き「何か必要なものはありますか」とあったので、小畑さんは「すぐにトイレ掃除を再開したいので掃除道具がほしい」と返事を書きました。数日後、鍵山さんから洗剤やたわし、ほうきなどが届きました。
小畑さんは今、避難所の体育館の8ケ所のトイレを、平日は仕事が終わってから毎日1〜2時間、土日は5〜6時間かけて掃除を続けています。
 今回の災害で知り合った、岩手県大槌町の赤崎幾哉さんも津波で家を流され、九死に一生を得て避難所生活を続けています。避難所の責任者でもある赤崎さんも当初は体育館のトイレを3時間おきに掃除をしていたといいます。
 先日、鍵山秀三郎さんの手書きの手記を頂きました。
『…他の人を思いやり、人の役に立とうとして生きている時ほど、美しい姿はありません。両親を失った幼児が、亡き母親に「おかあさん、いきていますか」と手紙を書いて眠る姿を新聞で見た時、涙が止まらなくなりました。日本の人たちは、東日本の方々から掛けがえのない大切なことを教わりました。このような惨状の中であれば、被災された方々は自分の身を守るだけで精一杯であるのに、秩序を失わず他者への配慮をし続ける美しい姿は、世界の人から賞賛されました。
…このたび、東日本の方々が、大きな犠牲を背負うことによって私たちは、言葉や文字では伝わらない大切なことを学ばせていただきました。この災害を東日本の方々と手を携えて克服し、助け合って生きるという道を拓いて参りましょう。』