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「小耳にはさんだいい話」へ


171号〜180号


171号 世界で一番のお父さん
毎年10月に、ながめ余興場で婦人会主催の父の日大会が開かれ、小・中学生の優秀作文の表彰式が行われます。
 今年、みどり市の小学6年生の部で最優秀賞に選ばれたのは大間々北小学校の須永沙弥香さんの「世界で一番のお父さん」という作文でした。
 沙弥香さんの家は江戸時代から続く老舗でお父さんの須永豊さんは本業のかたわら、先代から引き継いだ「清寧館道場」で長年、子供達に剣道を指導しています。
 沙弥香さんは作文の中でお父さんのことをこんなふうに書いています。「まゆ毛がこい、耳が大きい、くせっ毛、後ろから見るとカッコイイ、でも、前から見るとお腹が出ていて格好悪い、やさしい、変な所で几帳面、つまらないオヤジギャグを言う、声が大きい、面をかぶるとこわい。私にも、お父さんと似た所があります。たとえば声が大きい、耳が大きい、くせっ毛、などです。時々、知り合いの人に会うと、『お父さんによく似ているね。』と言われます。そんな時、私はチョッとうれしいです。(中略)
 お父さんは剣道の先生をしています。もちろん私も教わっています。お父さんは面をかぶると、ふだんのお父さんとはまったく正反対のとてもこわい先生に変身します。大きな声でどなられて、しごかれると涙が出そうになります。でも、面をはずしたら、いつものやさしいお父さんにもどります。家に帰ると、けいこのアドバイスをしてくれるので、そういう時のお父さんは、尊敬できる先生です。こんなお父さんは、私がみんなに自まんできる世界で一番大好きなお父さんです。これからもずっと元気で、私の大好きなお父さんでいてほしいです。お父さん、ありがとう」

 沙弥香さんの祖父にあたる須永善十郎さんから生前「剣道は勝ち負けだけじゃないんですよ。稽古を通して子供達に礼儀や正しい生き方を教えて、幸せな人生を築いてほしいと願っているんです」と聞いたことを思い出しました。
 親から子へ、子から孫へ、伝えなければならないことをしっかりと伝えていることを沙弥香さんの作文を読んで、はっきりとわかりました。
172号 いのちをいただく
「武蔵嵐山・志帥塾」という勉強会に参加してきました。2日間の勉強会の最初の挨拶の中で、主催者の頼経健治さんが「みやざき中央新聞」に掲載された記事を朗読してくれました。それは、食肉加工センターで働く坂本さんという方の感動的なお話でした。
 坂本さんの職場では毎日毎日たくさんの牛が殺され、その牛の肉が市場に卸されています。牛を殺す時、牛と目が合うたびに坂本さんは「いつかこの仕事をやめよう」と思っていたそうです。
 ある日の夕方、牛を荷台に乗せたトラックがやってきました。しかし、いつまで経っても牛が降りてきません。不思議に思って覗いてみると、10歳くらいの女の子が、牛のおなかをさすりながら「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ…」という声が聞こえてきました。
女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げ、「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、みいちゃんば売らんと、お正月が来んとです。明日はよろしくお願いします…」
「もうできん。この仕事はやめよう」。坂本さんは明日の仕事を休むことにしました。
 家に帰り、小学生の息子のしのぶ君にそのことを話しました。一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言いました。「やっぱりお父さんがしてやってよ。心の無か人がしたら牛が苦しむけん」
 翌日、坂本さんが牛舎に入ると、他の牛と同じようにみいちゃんも角を下げて威嚇するポーズをとりました。
「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。ごめんよう」と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきました。殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しみます。「じっとしとけよ、じっとしとけよ」と言うと動かなくなりました。次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちました。牛の涙を坂本さんは初めて見ました。
 私たちは自分で手を汚すこともなく、多くの悲しみや苦しみも気づかずに「いのち」をいただいて生きています。「いただきます」にもっと心を込めなければいけません。
173号 人生の作法
 ここ数ヶ月「人生の作法」(PHP研究所)という本を何度も読み返しています。
第一章の「お金の作法」から「人間関係の作法」、「時間の作法」、「話し方の作法」「家庭の作法」、「健康の作法」、「教養の作法」、そして、第八章の「社会生活の作法」まで著者の鍵山秀三郎さんが日々実践されていることが書かれており、「心を磨く生き方のバイブル」というサブタイトル通り、生き方のお手本を示してくれる本です。
「賞味期限の短い商品から買う」という話からも大切なことを学ばせてもらいました。
「…私たち消費者が賞味期限にこだわるあまり、まだ十分に食べられる食品が大量に廃棄されているのも事実です。たとえば食料品を買う場合、たいていの人は賞味期限の長いほうを選びます。今晩口にする食べ物であるにもかかわらず、です。その結果、賞味期限の短い商品は売れ残り、自動的に廃棄処分されます。もったいないことだと思います。もちろん、そのツケは回り回って私たち消費者に返ってきます。はたして、自宅の冷蔵庫を開けたとき、賞味期限の長いほうから手にする人がいるでしょうか。たぶん誰もが例外なく、賞味期限の短いほうを選んで食べるはずです。ところが、一歩「自分」を離れると、不必要なまでに賞味期限の長い商品を選ぶのは、私たち人間の身勝手な行動だと思います。せめて自宅の冷蔵庫から取り出すときのようにお店でもできるだけ賞味期限の短いほうを選ぶ。そういう買い方をする人が一人でも多くなれば、どんなに食料の無駄がなくなることでしょう。」
この本を読んでから、我家でも、この小さな実践を続けています。
 今から12年前、大間々で鍵山さんの講演会を開きました。終了後、花束を渡す車椅子の小林久人くんと増田千恵子さんに対し、鍵山さんは床に両膝をついて笑顔で受け取られました。鍵山さんのモットーは「誰にでもできることを誰もできないくらい徹底して行う」ということです。
相手を思いやり、小さなことを疎かにしない生き方が今、求められていると思います。
174号 ことばのご馳走
「ことばのご馳走」シリーズや「ひと言」の大切さを伝えるエッセイ集で多くの読者を持っていた金平敬之助さん。金平さんからの年賀状はお正月の楽しみのひとつでした。去年の年賀状に「松アさん、今年もたくさんのことをいっぱい教えて下さい」という自筆の添え書きとともに、こんなことが書かれていました。

 謹賀新年
 〈高校生の息子が学校から帰って来た。台所にいる母親に、弁当箱を渡しながら言った。「かあさん、今日の弁当、おいしかったよ」
「おいしかった」という言葉は、母親にとって最高の「ことばのご馳走」になった〉
 これは私が書いた、もっともお気に入りの文章です。親が子に、先生が生徒に、上司が部下に、夫が妻に、そして仲間知人同士がそれぞれ、この「ことばのご馳走の名人」になれば…という思いで書いたものです。皆様も、ますます「ことばのご馳走の名人」になられて、幸せ多い明るい新年をお過ごしのことをお祈りしています。
    金平敬之助・みどり

 その金平さんが昨年の夏に亡くなりました。77歳でした。10年以上前からご縁をいただき、「虹の架橋」を郵送すると、決まって2日後には心のこもったハガキが届きました。昨年5月30日の日付のハガキが最後になってしまいました。「松アさんのネパール写真展、見に行きたいのですが、まだ一寸ムリなので残念です。16キロ減ると体力が戻りません。プーちゃんの朝の散歩、羨ましいです」と書かれていました。
闘病中に出版した「ひと言の思いやり」という本に金平さんと私のメール交換の話が書かれています。
〈昨年末、私自身が病気になった。知人にメールした。「自分の力八分、医師の力二分で治します」
返信メールが優しかった。
「自分の力八分、医師の力二分、それに私たちの祈りが二分で十二分になりますよ」〉

 足利屋の従業員も全員が金平ファンでした。ことばのご馳走の名人になることが金平さんへの恩返しになります。
175号 花さき山
 大間々南小学校の40周年記念と大間々東中学校の立志式で仙台の渡辺祥子さんの朗読コンサートを開きました。ピアノやギターなどの生演奏をバックに感動の物語をたくさん聞かせてもらいました。その中でも「花さき山」の話が特に印象に残りました。  「花さき山」(斎藤隆介・作滝平二郎・絵)は岩崎書店から出版されている絵本の話。内容の深さと絵の美しさに惹かれて何度も読んでいます。
 昔、あやという少女が山で道に迷い、山姥(やまんば)に出会います。そこには今まで見たこともない美しい花が一面に咲いていました。山姥は「この花は、ふもとの村の人間が、やさしいことを一つすると一つ咲く。あやの足元に咲いている赤い花は昨日、おまえが咲かせた花だ」と教えてくれます。昨日、あやの妹が祭りの着物が欲しいと言っておっかあを困らせたとき、あやは自分はいらないから妹に買ってやってと言ったのです。山姥は「この花さき山一面の花は、みんなこうして咲いたんだ。つらいのを辛抱して、自分のことより人のことを思って、涙をいっぱいためて辛抱すると、そのやさしさとけなげさがこうして花になって咲き出すのだ」と。
 
 渡辺祥子さんの朗読を聞きながら、足利屋で展示中の吹野凱斗(かいと)くんの赤い花の絵を思い出しました。
先日、4歳になったばかりの凱斗くんが去年のクリスマスの日に描いた花の絵は、花と花が楽しそうにおしゃべりをしているようにも見えてホッと心が和みます。
 凱斗くんは生まれたときから耳が不自由でしたが家族や周囲の人たちの優しい愛情に囲まれて、とても元気に絵を描いています。凱斗くんの絵を展示しているコーナーに置いた色紙には、凱斗くんへの温かいメッセージが書かれていて、凱斗くんの絵がみんなの心の中にも美しい花を咲かせてくれていることがわかります。
 凱斗くんの絵は予定を延長して、3月14日まで足利屋で展示いたします。
176号 誠実なる生活
 四国南海放送ラジオの「くめさんの空」という人気番組の収録テープを小倉くめさんから送ってもらっています。
今回届いたテープに、詩人の藤川幸之助著「満月の夜、母を施設に置いて」(中央法規出版)という本の中の『領収
証』という詩が紹介されていました。藤川さんのお母さんは認知症。お母さんの面倒を見ていたお父さんが亡くなり
、今は藤川さんがお母さんの面倒を見ているそうです。
「領収証」
父は
おしめ一つ買うにも
弁当を二つ買うにも
領収証をもらった
そして、帰ってからノートに明細を書いた
「二人でためたお金だもの 母さんが理解できなくても 母さんに見せないといけないから」と領収証をノートの終
わりに貼る父 そのノートの始まりには墨で「誠実なる生活」と父は書いていた

私も領収証をもらう
そして母のノートの終わりに貼る
母には理解できないだろうけれど 
母へ見せるために
死んでしまったけれど
父へ見せるために
アルツハイマーの薬ができたら
母に飲ませるんだと
父が誠実な生活をして貯めたわずかばかりのお金を母の代わりに預かる
母が死んで父に出会ったとき
「二人のお金はこんな風に使いましたよ」
と母がきちんと言えるように
領収証を切ってもらう
私はノートの始めに
「母を幸せにするために」
と書いている
 この本の表紙の帯には「認知症は、どうしてこんなに腹立たしくて愛おしいのだろう」「母は、どうしてこんなに
小さくて大きいのだろう」と書かれています。

 この本に収録されている感動的な詩やエッセーを読んでいるうちに、星野富弘さんの「…よろこびが集ったよりも
悲しみが集った方がしあわせに近いような気がする。
強いものが集ったよりも弱いものが集った方が真実に近いような気がする…」という詩の一節を思い出しました。
177号 縁を生かす
 親友から『心に響く小さな5つの物語』(致知出版社)という本をいただきました。致知出版社社長の藤尾秀昭さんの文章に片岡鶴太郎さんの挿絵が添えられた5つの感動的な実話に5回涙しました。
その中の「縁を生かす」という素敵な話をご紹介します。
 ある小学校の先生が五年生の担任になった時、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいました。ある時、その少年の一年生の時の記録を読むと「朗らかで、人にも親切。勉強も良く出来、将来が楽しみ」と書いてありました。先生は、何かの間違いだと思いました。二年生の記録には「母親が病気で世話をしなければならず時々遅刻する」。三年生では「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、四年生では「父はアルコール依存症となり、子供に暴力を振るう」と。先生の胸は激しく痛みました。ダメと決め付けていた子が愛おしく見えてきました。先生は少年に優しく声をかけ、放課後には勉強を教え、少年は笑顔をみせるようになりました。クリスマスの日、少年が小さな包みを先生に渡しました。香水の瓶でした。亡くなったお母さんの物に違いないと思い、先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねました。独りで本を読んでいた少年は、先生の胸に顔を埋め「ああ、お母さんの匂い!今日は素敵なクリスマスだ」と叫びました。
 卒業の時、少年は「先生は僕のお母さんのようです。そして今まで出会った中で一番素晴しい先生でした」という手紙を送りました。6年後には、「明日は高校の卒業式です。奨学金をもらって医学部に進学することが出来ます」と。それから10年後の手紙には「あのまま駄目になってしまう僕を救って下さった先生を神様のように感じます。医者になった僕にとって最高の先生は五年生の時に担任して下さった先生です」。その一年後に届いた結婚式の招待状には「母の席に座って下さい」と添えられていたそうです。

『縁ありて花ひらき、恩ありて実を結ぶ』という言葉があります。ご縁やご恩への感謝を忘れてはいけませんね。
178号 いちばん大切にしたい会社
 『日本でいちばん大切にしたい会社』(坂本光司著・あさ出版)という本を2冊読みました。2冊の本に紹介されている8つの会社に共通しているものは「人を幸
せにする優しさ」だと思いました。
 日本理化学工業鰍ニいう会社は社員50名のうち7割が知的障害を持った人たちで、粉の飛ばないチョークを作っている会社だそうです。
 50年前、養護学校の先生が生徒の就職をこの会社に何度も頼みに来ました。「就職が無理ならせめて働く体験だけでもさせてくれませんか。そうでないとこの子
たちは、働く喜び、働く幸せを知らないまま施設で死ぬまで暮らすことになってしまいます」と、頭を地面にこすり付けるようにお願いする先生の姿に「1週間だけ
」ということで2人の少女に就業体験をさせてあげることになりました。仕事は簡単なラベル貼りでしたが幸せそうな顔で一所懸命に仕事をしていたそうです。
 1週間後、十数人の社員全員が大山泰弘社長(当時は専務)に「あの子たちを正規の社員として採用してあげてください。あの子たちにできないことがあれば私た
ちがみんなでカバーします」と頼みました。「人間として、本当の幸せは、のんびり暮らすことではなく、人に必要とされて働き、自立することなんだ」と気づいた
大山社長は、それ以来50年間、積極的に障害者を雇用し続けることになったのだそうです。
 あるとき、この本の著者の坂本光司さんがこの会社を訪ね、応接室で大山社長と話をしていると、腰の曲がった白髪の女性が「よくいらっしゃいました。どうぞコ
ーヒーをお飲み下さい」と小声で言って、また、お盆を持って帰っていきました。「彼女です。彼女がいつかお話した最初の社員なんです」と大山社長がぽつりと言
いました。
50年間、彼女をあたたかく見守り続けてきた大山社長、50年前の養護学校の先生や当時の社員の方たちの思いが一瞬のうちに想像され、坂本さんは涙をこらえる
ことができなくなったそうです。
 日本には人を幸せにする会社がまだたくさんあります。
179号 初めて買ったポロシャツ
 17年前からネパールの山奥の村々を歩き、単身で支援活動を続けるOKバジこと垣見一雅さんと再会しました。
 今、全国各地でOKバジの支援団体がつくられていますが、その原点は桐生の富澤繁司さんが作った支援の会でした。3日間の桐生滞在中は、報告会や懇親会が開かれ、笠懸東小学校での講演会では全校児童にネパールの子どもたちの生活ぶりを伝え、FM桐生の生番組にも出演するなど多忙な日程を過ごしました。
 今、海外支援という名で巨額の資金が海外に送られていますがその多くが人件費や事務所費用などに充てられ、実際に困っている人のために使われるお金はわずかになっているのが実情のようです。  
 OKバジの活動に共鳴し、自らもネパールに絵本図書館を作る活動を続けている桜井ひろ子さんは、「事務所を持たず、貧しい村々を訪れ『声なき声』に耳を傾けて行われるOKバジの支援は実際のお金の何倍もの喜びと幸せを現地の人たちに与えています。村人たちの喜ぶ姿を見ることがOKバジの一番の喜びなんです」と話してくれました。
 ネパールが雨季の時期に日本に帰り、息子さんや娘さんの家に泊り、全国各地で報告会や講演会を続けるOKバジは「日本では電車に乗る時、2駅歩くことにしています。すると140円節約できて、ネパールでは5キロのお米が買えるんです。それが毎年1万円ちょっとになり、ネパールでは400キロのお米を買うことができます。100円のお金が活かせる世界に自分がいられることが有難いですね」と話してくれました。
 OKバジが移住17年目にして初めて買ったというポロシャツを見せてもらいました。去年、体調を崩し、入院していたOKバジが退院の喜びの記念に買った明るい水色のポロシャツでした。日本から送られた衣類も村人に与え、色あせたTシャツで村々を歩くOKバジ。現地で500円ほどのポロシャツを嬉しそうに説明するOKバジだからこそ、私たちの支援金が有効に使ってもらえるのです。7月いっぱい、足利屋でもOKバジへの支援金を受け付けております。
180号 「かおりちゃんのこと」
「1/4の奇跡」(山元加津子・マキノ出版)という本を読みました。特別支援学校教諭の「かっこちゃん」こと山元加津子先生と、障害を持つ 子どもたちとの素敵な交流がたくさん紹介されています。
「かおりちゃんのこと」という感動のお話を紹介します。
 山元先生が、かおりちゃんの学校へ異動してきた時、かおりちゃんは言葉を話すことができませんでした。「かおりちゃん、『あー』って言って、『いー』って言って」と言っても困った顔をして、ただ口を開けて、息を漏らすだけで声になりませんでした。お母さんは「かおりに障害が
あるとわかったときから、この子が私のことをひと言「ママ」と呼んでくれさえすればそれでいい、と思ってきました。でも、どの本を見ても中
学生になっても話さない子供はもう無理だと書かれています。期待するだけ苦しくなりますから、お話の練習はやめて下さい」と言いました。山元先生もお母さんの辛い気持ちがよくわかりました。
 山元先生は、かおりちゃんが大好きになり、かおりちゃんも山元先生のしぐさや癖を真似するようになりました。
 ある日のこと、山元先生の机の上から、本がバタバタと落ちたことがありました。山元先生が「あーあ…」とつぶやきました。その時、かおりちゃんも「あーあ」と言ったのです。あっ、かおりちゃんがしゃべった。山元先生は息をのみました。心を落ち着かせ、かおりちゃんに向き直って今度は「マーマ」といいました。すると、かおりちゃんは、ゆっくりと「マ・マ」と言ったのです。
その夜、山元先生はかおりちゃんの家に行きました。お母さんの前で「かおりちゃんママって呼んでみて」と言うと、かおりちゃんは、お母さんの顔をじっと見て、ゆっくりと、「マ・マ」と言ったのです。お母さんの目は、みるみるうちに涙でいっぱいになり「かおり、ありがとう」と声を上げて泣いていたそうです。
 ゆったりとした語り口で、優しい魔法使いのように誰の心も開いてくれる山元先生の感動の講演会と「1/4の奇跡」上映会が9月4日、ながめ余興場で開催されます