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「小耳にはさんだいい話」へ


141号〜150号


141号 泥かぶら
  安中市の教育長や助役を歴任した三輪真純先生は今年92才。全国各地に招かれて講演された回数は何と2600回にもなるそうで、大間々へも何度もお越しいただいています。
 先日、三輪先生の『いつも笑顔でありがとう』という本が出版され、その中に「泥かぶら」のお話が載っていました。これは劇団・新制作座が40年間上演を続けている有名な話です。
「泥かぶら」というのは醜い顔の少女のあだ名。近所の悪ガキたちに馬鹿にされ、いじめられて彼女の心は荒み、ますます醜くなって行きました。そこに白髪の老人が現れ「お前は美人になりたいのか」と尋ねます。「美人になれば泥かぶらといじめられないから美人になりたい」と答えると「じゃーね、私が美人にしてあげる。だけど約束が三つある。それを守らなければ美人になれないよ。第一は自分の顔を恥じないこと。第二はいつでもニコニコ笑うこと。第三は思いやりの心を持つこと」と言いました。美人になりたい一心で約束を守り続けた泥かぶらは素敵な美人になり、村の人気者になりました。ある時、自分と同じ年頃の少女が人買いに連れて行かれるのを知った泥かぶらはその少女の身代わりになりました。連れて行かれる途中でも楽しそうに村の様子を話す泥かぶらの優しい心に触れた人買いは置き手紙を残して姿を消しました。そこには、「有難う。仏のように美しい子よ」と書かれていました。
『いつも笑顔でありがとう』の本の中には、両手両足を失い、苦難の日々の中で報恩感謝の人生を貫いた中村久子さんのお話も紹介されています。

 手足なき身にしあれども 生かさるる いまの命は 貴かりけり

という短歌や手足がなくても「ある、ある、ある」という前向きで感動的な詩を読むと、物質的経済的には充分満たされているのに「ない、ない」と無いもの探しのように不満を持って生きている自分たちが恥かしくなります。

 

142号 人生生涯小僧のこころ

 仙台市に住む友人の渡辺祥子さんから『大峯千日回峰行』(春秋社)という本を頂きました。渡辺さんはアナウンサー、言の葉アーティストとして、大峯千日回峰行を極めた塩沼亮潤さんとも対談しています。
 塩沼さんは1968年、仙台生まれ。修験道の荒行の中でも最も過酷と言われる大峯千日回峰行(1日で往復48キロの険しい山道を千日歩く)や、断食、断水、不眠、不臥で9日間、真言を唱え続ける四無行を極めた大阿闍梨さんです。
 塩沼さんは貧しい中にも信心深いお母さんとお祖母さんに育てられ「世の中の人のためになるような人間にならないかんのやで」と言われ続けました。小学5年の時に比叡山千日回峰行のテレビを観て、自分も行者になろうと思いました。
「高校を卒業後、行者になるために奈良に旅立つ朝、味噌汁を飲み終わると母は悲しみをこらえて私の茶碗や箸を全部ゴミ箱に捨て、『お前の帰ってくる場所はない、しっかりと行じてきなさい』と言い、祖母は縁側で涙をこらえていた」といいます。
 塩沼さんは「山を蹴って歩くと膝や腰を痛める。地面を優しく右足は謙虚、左足は素直。謙虚、素直、謙虚、素直の一歩一歩が大切と気づきました」といいます。そして、大自然の営みからも多くを学び「例えば、傘に雨が落ちます。自分が昨日まで流した涙が雲になり雨となり、それがまた傘に落ちる雨音となる。それが頑張れ頑張れと聞こえました」と。
 塩沼さんは現在、仙台市郊外の慈眼寺(じげんじ)住職として権現堂や護摩堂を建立されました。昨年は百日間の五穀断ち・塩断ち。そして八千枚大護摩供を修法。そんな荒行の中でも塩沼さんは今一緒に住んでいるお母様の看病をし、三度三度の食事も作ってあげていたそうです。
 荒行を通して辿りついた「人生生涯小僧の心」。穏やかな表情の中に力強い目の輝きを持つ塩沼亮潤さんに限りない尊敬の念を抱きました。

143号 花のかあさん

シルバーボランティアとしてスリランカやネパールで支援活動をしてきた元・知的障害児施設園長の桜井ひろ子さんとお会いして興味深いお話を聞きました。
 桜井さんはネパールのカトマンズからバスで10時間、さらに徒歩で6時間のドリマラ村から山道を4時間歩いたサチコール村という寒村のヘルスポスト(診療所)で活動をしてきました。そのヘルスポストは、険しい山道を病院に急ぐ母の背で息絶えた幼児への哀惜の思いが心ある人達に伝わり、日本の民間団体によって建設されました。
 電気も水道もない縄文時代を思わせるサチコール村では出産の際に草刈り鎌でへその緒を切ることもあったほど物が不足している村でした。何人もの子供を産み、最後の子を産んで力尽きて亡くなる命も多い村には障害を持った子や母親のいない子供たちもたくさんいました。桜井さんは保育士としての経験から「とうさんもかあさんもいないこの子にとっては歩けないことが障害ではなく、連れ出してくれる人がいないことが障害」と思い、子どもたちと共に過ごす毎日を送ったといいます。
 サチコール村は猫の額のような段々畑の中の貧しい村でしたがダウラギリ、アンナプルナなどのヒマラヤ連峰が一望できる豊かな自然があり、その雄大な大自然が村人の心を豊かに潤していました。
 桜井さんとすっかり仲良しになった子供たちは山奥の崖から白いランの花を採ってきて花の首飾りを作って桜井さんに贈りました。「こんなに採ってきてしまって大丈夫?」と心配する桜井さんに子供たちは「大丈夫だよ、来年も咲くよ。おれたち、花のかあさんはちゃんと残してきたから」と答えたそうです。花のかあさんとは花の根っこのこと。かあさんのいない子供たちの優しさに桜井さんは熱い涙を流したといいます。
「人は、人と人とのぬくもりの中で人となり、お互い育ち合っていく」という桜井さんの言葉に深く共感しました。

144号 忙しい人の前に花は咲かない
 義手の詩画家・大野勝彦さんが「はい、わかりました」という詩画集と「よし、かかってこい」という手記の2冊を同時出版(サンマーク出版)しました。
 大野さんは45歳の時に農業機械で両手を切断。以来、義手で感動的な詩や絵を描き、7月1日には北海道の美瑛に3つ目の大野勝彦美術館を開館しました。
 手記の中で大野さんは「人間とは、失ってみないと、本当のありがたさがわからない生き物なのかもしれません。私も両手をなくしてみて、はじめて手のありがたさが身にしみた人間です。もしも、多くの人たちが、身の回りのいろいろなものへのありがたさに気づき、しあわせを感じてくれたなら、世の中はもっとほほえみにみちて、今よりも何倍も明るくなることでしょう」と書いています。
 大野さんが書いた「お返し」という詩があります。
  「お返し」
 あの人は
 腕を取り上げた
 でも私に
 大事な大事な時間をくれた  
 あの人は
 私になくてはならない
 両手を取り上げた
 でも お返しに
 私に弱い人の心と
 ありがとうを
 教えてくれた

 大野さんは両手を失うまで仕事一筋、時間に追われる生活の中で草花を見た記憶がなかったといいます。今、時間さえあれば美術館の敷地に咲く花と対話しながら絵を描く大野さんは「忙しい人の前に花は咲かない」という言葉を絵に添えています。両手を失ってはじめて本当の幸せに気づいたという大野さんは「はい、わかりました」と全てを受け止め、「よし、かかってこい」という気持ちで困難にも立ち向っています。
「頂いている出会いに引き算はありません。あなたの笑顔がふえれば、それだけ素敵な人に会えるようになっていくものです」という大野さんの言葉にも深く共感します。

145号 子思う親と親思う子
 数年前からご縁を頂いている神奈川県の中野敏治先生が今年の2月から毎月1回、「かけはし」という個人通信を発行しています。その中に『私が出会った子どもたち』というコーナーがあり、中学の先生をしていた時(現在は指導主事)の話が連載されています。「子思う親と親思う子」という話に感動しました。
 中野先生は修学旅行の前にはいつも保護者に「子どもたちに内緒でお願いがあります。旅行先で子供たちが家族に手紙を書きます。その時に、保護者からの手紙をそっと用意しておきたいのです。皆さんが我が子に書いた手紙は封をして、そっと私に届けてください」とお願いしました。
修学旅行当日の朝、中野先生のカバンの中には保護者からの宝物が入っています。生徒たちは新幹線の中でも見学先でも元気一杯。一日目の活動を終えた後、中野先生は生徒一人ひとりに便箋と封筒を配り、家族宛てに旅の便りを書かせました。
…「みんな目を瞑って。今日一日を振り返ってみよう。みんなの親が見送りをしてくれたこと、旅行へ向けていろいろと準備をしてくれたこと、みんなと一緒に旅行へ行けるようにお金を積み立ててくれたこと、一つ一つを思い出してみよう。」と静かに話しながら生徒一人ひとりの席を回り、保護者からの手紙をテーブルに置いて行きました。
「目を開けてごらん」、生徒は自分の目の前にある名前の書かれた封筒を見て驚きました。どこからとなくすすり泣く声が聞こえてきます。そのすすり泣く声は徐々にひろがり、部屋のあちらこちらから聞こえてきます。流れる涙を友達に見られないように、顔を伏せ、返信を書いている子もいます。私には保護者が何を書き、子どもたちが何を返信しようとしているのかわかりません。ただ、そこには「子思う親と親思う子」の姿が確かにありました。…
 あらゆる愛情の基本は親子の絆と無償の愛、その一番大切なことを教える中野先生こそ真の教育者だと思います。

146 号 本当に好きなら
 10月3日、ながめ余興場でチャリティ・イベント「星野富弘詩の世界&渡り鳥・雁のゴーマーの物語」が開催されます。詩を朗読する言の葉アーティストの渡辺祥子さんは富弘さんの詩の心をより深く伝えるためにたくさんの情報を集め、富弘美術館にも足を運んで当日のプログラムの構成を検討しています。そんな時、「本当に好きなら」という星野富弘さんのエッセーがあることを教えてもらいました。それは星野富弘さんの友人であるTさんの心やさしいお話でした。
 Tさんの車のトランクには、いつもスコップが積んであって交通事故に遭った動物の死骸に出くわすと道路そばの空き地に穴を掘り、葬ってあげていたそうです。山が好きで動物や植物を愛するTさんの話を聞いた富弘さんは「私は普段山が好き、自然の生き物が好き、と公言してきたことを恥ずかしく思った。本当に好きならば、あの小さな生き物の死からも目をそらすことなく、Tさんのように労(いたわ)りの心がもてなければならないと思った」と書いています。
 つい先日、修行僧の塩沼亮潤さんの講演会でも似たようなお話を聞きました。塩沼亮潤さんは修験道の荒行の中でも最も過酷と言われる大峯千日回峰行(1日で往復48キロの険しい山道を千日歩く)や、断食、断水、不眠、不臥で真言を唱え続ける四無行を極めた大阿闍梨さんです。険しい山道を毎日歩いていると、夏にはミミズが半分干からびて苦しんでいる姿をよく目にしたそうです。そんな時は道端に指で少し穴を掘って腰に提げた水筒から水を垂らし、半分干からびたミミズを助けてあげていたそうです。
 常に自分の死と向き合う過酷な荒行を続ける中で塩沼亮潤さんが道端の小さな動植物の命に深い共感と愛情を注いでいたことに感動しました。 
 Tさんと塩沼さんの話を聞いて、大事なのはどう思うかではなく、どう行動するかだと思いました。黙々と行動する人は本当に尊敬します。

147号 死して朽ちず 


掃除の会の友人である東京のNさんから「非効率な会社がうまくいく理由」(中島セイジ著・フォレスト出版)という本をいただきました。その中で紹介されていた「シャボン玉石けん」の話に感動しました。
シャボン玉石けんの森田光徳社長は1960年代に合成洗剤で大成功を収め、業績を伸ばしていました。あるとき、旧国鉄の資材部から「機関車を洗う洗剤を合成洗剤にしたらサビが出て困る。無添加石鹸に変えたい」という依頼を受けました。試行錯誤の結果、無添加石鹸の開発に成功し、無事に納品しました。森田社長は余った石鹸を自宅へ持ち帰り、自分で使ったところ10年来苦しみ続けた発疹が消えたそうです。自分の体質のせいだと思っていた発疹の犯人が自社で扱っていた合成洗剤だったと気づいた森田社長は主力商品の合成洗剤の取扱いをやめ、無添加石鹸だけを作って売る会社にする、と決断しました。しかし、通常の石鹸が添加物を加えて5時間足らずで製品化できるのに、無添加石鹸は何日も釜を焚き、じっくりと熟成させなければならず、価格も高くなってしまいます。売り上げは百分の一に落ち込み、17年間赤字が続きましたが森田社長は人間の体や環境に悪い商品は売れない、という信念を貫きました。その後、徐々に口コミで商品の良さが広がり「友の会」が出来るほどになりました。
今年のシャボン玉友の会便りの新年号で森田社長は「少にして学べば、すなわち壮にして為すことあり。壮にして学べば、すなわち老いて衰えず。老いて学べば、すなわち死して朽ちず」という「言志四録」の言葉を引用し、学び続けることの大切さと「雨漏りは上にあり、これを知るは下にあり」、「魚は頭から腐る」と、上に立つ者の心得を残して社長の座を退きました。
無添加石鹸に切り替えて33年、自らの決断の正しさを見届けた森田光徳さんは9月17日、76歳で永眠されました。心からご冥福をお祈りいたします。

148号 道を楽しむ 

仙台の友人で元障害児施設園長の桜井ひろ子さんが『道を楽しむ』という本を出版しました。「OKバジと歩いた10日間」というサブタイトルの本は感動的で興味深い内容でした。
 OKバジ(ネパール語でOKおじいさん)こと垣見一雅さんは14年前から単身でネパールの寒村に住み支援活動を続けています。近年、首都のカトマンズには、各国のNGOやNPOの立派な事務所が林立していますがOKバジはリュックひとつ、日本の心ある人たちの支援を背負って村々を歩いています。行く先々の民家が事務所になり、村に水が欲しい、学校に机や椅子が欲しい、子どもが病気で病院で診てもらいたい、といった切実な願いを即断即決で叶え、神様のように慕われています。
「ミッテルという村では、バジが村に来るという情報を得た心臓病の少年が険しい山道を2時間かけてやってきました。少年の胸にバジが耳を寄せ『よく歩いてきたね〜、大変だったね〜』と声をかけ、すぐに大きな病院のドクター宛に手紙を書き、小切手を切る。複写するわけでもない単なる紙片に託す命、こんな山奥の中で会計責任者の判断を仰ぐ時間を待つことの出来ない命、もしも組織であったら、救えない命がたくさんあるだろうと胸が痛んだ。」と桜井さんの本には記されていました。
 バジの行く先々では陳情ばかりではなく、支援を受けた人たちが何時間も歩いて報告やお礼にやって来ます。
 毎年、一時帰国して支援者への報告や講演で日本中を回るときもOKバジはネパールのことを考えています。「電車を一区間歩いて、その分をつもり貯金するんです。去年はそれで400キロのお米を支援できたんです」と。
「死ぬ前に図書館を作りたいと思うんですよね。でも、水のことを考えると、そんなことが罪なことにも思えます」と語るOKバジは68歳。足利屋では引き続きOKバジへの支援金を受付けています。
 

149号 みんなの力 

神奈川県に住む中野敏治先生とは「まごころ塾」という勉強会やお掃除の会で年に数回お会いする機会があります。中野先生から聞く子どもたちお話はいつも涙と感動に溢れています。
 卓球の経験のない中野先生が中学校の卓球部顧問になったことがありました。熱心な卓球部員の影響を受け、中野先生も卓球のルールや練習方法をいろいろなところへ出かけて学んだそうです。高校生との合同練習などの成果も出て、それまで勝てなかった卓球部が練習試合で少しずつ勝てるようになってきました。
そして、いよいよ新人戦の団体戦当日。中野先生は、みんなの心がひとつになっていることを試合前の練習で感じていたそうです。
 中野先生は、「選手が練習を始めると、その周りに選手以外の部員がついて、飛んできたボールを拾っているのです。『ありがとう』『がんばってね』という言葉が、そこにはありました」と、その時の様子を振り返ります。
 そして決勝戦。最後のポイントが決まったとき、勝利の女神は中野先生の部員たちに微笑みました。学校創立以来、初の女子団体戦優勝でした。優勝した喜びに、選手はみな、涙を流していました。
 表彰式の前に選手達は中野先生にこう聞いたそうです。「先生、表彰式で賞状をもらうのは、私たち選手でなければいけないのですか」と。
 いよいよ表彰式。「優勝○○中学校」と呼ばれたとき、前に出てきた部員は、今日の試合に出られなかった部員二人でした。
二人は表彰状と優勝カップを照れくさそうに受け取りました。その様子を見ていた選手たちは大きな拍手を送っていました。応援に来ていた先輩たちも、新入部員も、みな大きな拍手を送っていました。
 書家で詩人の相田みつをさんの有名な言葉に「花を支える枝 枝を支える幹 幹を支える根 根は見えねんだなあ」というのがあります。中野先生はいつも子ども達に何が一番大切かを教えています。


150号 幸齢者さま 
島根県隠岐の離島・知夫里島で、看取りの家「なごみの里」という施設を運営している柴田久美子さんからメールを頂きました。
「『メイコのいきいきモーニング』というラジオ番組で『なごみの里』が紹介されますので聴いて下さい」とのことでした。この番組は中村メイコさんと神津カンナさんのトーク番組で、高齢者・障害者の福祉や生きがい・健康づくりなどをテーマにした番組です。
 看取りの家「なごみの里」は島のお年寄りが「本土の病院ではなく、生まれ育ったこの島で最期を迎えたい」との願いを叶えるために2002年に開設されました。柴田さんは高齢者のことを「幸齢者さま」と呼び、何よりもお年寄りの「尊厳」を守ることを大切に考えています。「永い間ご苦労されてきた幸齢者さまの最期を安らかに迎えるお手伝いをさせていただけることに感謝しています」と優しい声で話す柴田さん。柴田さんの話を聞いていると、死は怖いものでも悲しいものでもなく、送る人と送られる人が手を握り合い、体をさすりながら抱きしめて命のバトンを引き継いで行く神聖な時間なのだとわかりました。
 わずかな介護報酬で24時間介護を維持するために、そして「なごみの里」の理念を伝えるために柴田さんは全国各地で講演活動を行っています。柴田さんの話に共鳴し、柴田さんの本を読んで感動した人たちの中には「なごみの里」にボランティアに来る人も多いそうです。柴田さんはボランティアの人たちにまず、幸齢者さまへの尊敬の気持ちを持ってもらうことからはじめ、幸齢者さまの手足として働けることに喜びを感じられるようになるまで待ちます。そして「1本の注射よりも衛生的な空間」と、お掃除などの基本も徹底しています。
 昨年11月、柴田久美子さんはその献身的な活動が認められ、社会貢献者表彰を受賞されました。柴田さんの素敵な笑顔を見るたびにマザー・テレサを思い出します。