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「小耳にはさんだいい話」へ


101号〜110号


101号 あんころ餅より心もち
 先日、桐生市の小林定雄さんの家を訪ね、三年前に亡くなった定雄さんのお母さん・小林ハルさんの仏前に虹の架橋の百号記念誌を届けてきました。
 ハルさんは足利屋に四十年以上も勤め、みんなから「ばあちゃん」と呼ばれ家族同然のような人でした。「あんころ餅より心もち」「人の喜びは我が喜び」が口癖の人情深い人でした。大きな風呂敷包みを背負って行商に歩いていたハルさんの姿が忘れられません。今の足利屋やアスクがあるのもこの人のお蔭です。
 定雄さんとお嫁さんの静子さんが温かく迎えてくれました。玄関に入るなり「百号おめでとうございます」と言われました。十二月十七日付の桐生タイムス『手づくり新聞百号に』という記事を読んでくれていたのです。仏壇には桐生タイムスが供えてありました。「おばあちゃんにこの記事を読んであげたのよ。おばあちゃんも喜んでいますよ。タイムスを読んで足利屋さんに記念誌を買いに行こうと思っていたところだったのに、わざわざ持ってきてくれる気持ちがとても嬉しい」と静子さん。仏壇のハルさんに向かってやさしい声で新聞記事を読む静子さんの姿を想像して目頭が熱くなりました。帰り際には財布から大事そうに五百円玉を取り出し、「本の収益金は障害者の人のために使うと書いてあったので本のお金は出させてください」と静子さん。その優しい思いやりに感激してしまいました。生前、ハルさんは「うちの静子は世界一の嫁、私は本当に幸せ」と言っていました。
 先日、恩師から『幸せになったら感謝しようというのでは、一生幸せになることはないと思います。(感謝するから幸せになれるのです)』と教えていただきました。
 年の始めに当たり『あんころ餅より心もち』『人の喜びは我が喜び』の言葉を心に刻み、毎日を過ごしたいと思います。
『虹の架橋百号記念誌』は足利屋・アスクで販売中です。
102号 お父さんはお父さんだから
心を磨く勉強会「まごころ塾」は隔月一回、高崎で開かれています。通算十八回目となる今年最初の勉強会は『今思うこと…白血病からのメッセージ』と題して、まごころ塾仲間の春山晴司先生(中央高校教諭)がご自身の体験をお話になり、とても感動しました。
 春山先生は国体出場の経験もあるスポーツマン。陸上部の顧問としてインターハイや国体選手を育ててきました。二〇〇一年六月、宇都宮で開かれる関東大会に出場する生徒を連れて競技場へ向かう途中で携帯に電話が入りました。「三日前の検診で異常が出たので、すぐに近くの病院で検査を受けて下さい」という同僚の先生からの知らせでした。その時は大会に出場する子ども達のことの方が心配でしかたがなかったそうです。詳しい検査の結果、「慢性骨髄性白血病」と診断されました。テレビドラマに出てくるような場面の当事者に自分がなるとは夢にも思わなかったという春山先生。奥様、中学一年だった娘さん、小学四年だった息子さんに事実を伝えました。娘さんの「どんなふうになってもお父さんは私のお父さんだから…」の言葉に勇気づけられたそうです。「家族と一緒にいられること、学校へ行けることなど、当たり前のことが幸せなことだと気づきました」と淡々と語る春山先生。常々、子供達にも陸上部の生徒達にも「最後まで諦めずベストを尽くせ」と教え続けてきた春山先生は「自分の闘病も生きた教材、白血病の生存記録をつくろう」と心に決めました。
骨髄移植のビデオも観せて頂き、患者が骨髄提供者を待ち続ける思いを他人事でなく、共にこの世に生きる「自分事」として感じました。
 元・上毛新聞記者の作家、横山秀夫著『半落ち』(講談社・一七〇〇円)が話題となり、映画化されました。愛する我が子を白血病で亡くした主人公が骨髄移植のドナー登録をして「生きる意味」や「命の絆」を問う話でした。主人公の「あなたには守りたい人がいませんか」という言葉が春山先生の話と重なり、深く心に残りました。
103号 しじみの味噌汁
 STVラジオ北海道の「花束ダバダ」という番組で放送された話を聴かせていただきました。心温まるお便りにバラの花束をプレゼントするという番組です。北海道浦臼町に住む「いくよさん」からのお便りを聴いて本当に心が温かくなりました。
『…父が亡くなる一ヶ月ほど前、弟から「父さんが姉ちゃんに逢いたがっている」という電話をもらいました。これが最期との思いで雪の北海道から桐生の病院へ父のお見舞いに行きました。「しじみの味噌汁が食べたい」という父のために私はしじみのお味噌汁を作りました。しかし父はそれを一口飲んだところで「これじゃだめだ。英子に作ってもらってくれ」というのです。弟のお嫁さんの英子さんは大急ぎでしじみを買いに行き、お味噌汁を作って病院へ持っていってくれました。英子さんの作ったお味噌汁をおいしそうに食べた父は息子のお嫁さんにわがままを言い、甘え、そして大寒の明ける朝、遠くへ旅立って行きました。明治に生まれ、実直で頑固だった父。最後は娘の私よりお嫁さんの作ってくれた寒しじみのお味噌汁をおいしい、おいしいと言って食べていた姿を大寒の今頃になると思い出します。頑固だった父を最期までお世話してくださったお嫁さんにわたしは今まで「ありがとう」の感謝の気持ちを形にしたこともありませんでした。その後、弟も亡くなり、英子さんは今、近所の子供達にお習字を教えながら一人で静かに暮らしています。そんな彼女にバラの花束を贈っていただけたらありがたいです。…』
 話を聴いていて、いくよさんの優しさ、英子さんの優しさに目頭が熱くなりました。
 その窪塚英子さんから頂いた色紙が足利屋に飾ってあります。「人はその出合によってやさしさを膨らませ汚れた魂を浄化させる」と書かれています。
 ご主人を亡くした同じ年に実家のご両親も相次いで亡くし、どん底の苦しみ、悲しみを経験した英子さんから「人は苦しみの数だけやさしくなれるはず」と教えていただきました。

104号 希望の家
大間々町原の「希望の家療育病院」や「のぞみの苑」の理事長・矢野亨先生が「矢野亨随筆・論説集」を出版されました。その中で重症心身障害児施設を作るきっかけとなった話を読んでとても感動しました。
 矢野先生ご夫妻に長女が授かったのは昭和三十年一月でした。一八〇〇gの未熟児でした。その当時の様子がこう綴られています。
『…長女は群馬大小児科の木製のガラス箱で、電球で保温するという全く旧式の箱に入れられた。やがて風邪を引き重症肺炎となり、分泌物が気管に詰って窒息状態になった。カテーテルで吸引するが間に合わない。私と家内で人工呼吸を続けた。両手の掌に入る小さな胸、胸骨に拇指を当てて必死に人工呼吸を続けた。呼吸をしてくれ、助かってくれ。指に思わず力が入る。長女の胸骨の皮がペロリと剥がれた。真っ赤な真皮が現れた。私の心臓を鋭い刃物で抉るような衝撃が走った。「さぞ痛かったろう。しかし、どうか助かってくれ」家内も必死であった。…何とか一命を取りとめたが後日、「脳性麻痺」であることを告げられた。その日から私達夫婦の苦闘が始まった。…昭和五十一年、重症児施設「希望の家」を設立することができたが、「希望の家」の精神の原点こそ、長女を助けようとして胸骨の皮が剥けた時、私の心に走ったあの悲しい衝撃に他ならない。…』
また、こんな話も書かれていました。『…眠ったきりで強制栄養でやっと生きてるお子さんでも、お母さんが病院で頬ずりしながら抱き上げると普段は外界の刺激に殆ど反応しないこのお子さんが、この時だけ不思議と天使のような嬉しそうな笑みを浮かべるのを見て、私は思わず、この世に生まれてきてよかったね、と声をかけたくなる。医学・医療は確実に進歩している。必ずや、重症心身障害者の発生を限りなくゼロに近づける日が来ると信じている。』
 日本医師会常任理事をされ、現在も日本学校保健会会長の要職にある矢野亨先生。重症児医療の発展に使命感をもって臨んでいる矢野先生ご夫妻に益々、尊敬の念を抱きました。


105号 約束のゴール
太田市に住む塚田直樹さんは小学校の先生。二年ほど前からインターネットで情報交換を続けています。その塚田先生のホームページを通して、とてもいい話を見つけました。
 今から二年前、ワールドカップに出場したデンマークチームのキャンプ地は和歌山県でした。彼等は地元の人達との交流をとても大切にして、練習後には、いつも握手会やサイン会を行いました。デンマークの人気選手、トマソン選手の前にはいつも長蛇の列ができていました。その列に、お母さんと少年が並んでいました。少年は少しモジモジしながらもお母さんに促されてポケットから一枚の紙切れを出しました。それはこの日のために学校の英語の先生に書いてもらったものでした。その紙切れにはこう書いてありました。
「ボクは小さいころに、病気にかかって、口と耳が不自由です。でも、サッカーだけはずっと見てきて大好きです。デンマークのサンド選手とトマソン選手が好きです。頑張ってください」と。トマソン選手は後ろに並んでいる人たちに「この少年と話をするために少し時間を下さい」とお願いしてから、通訳を通して筆談で少年にこう語りました。「ボクにも君と同じ試練を持っている姉がいます。君の試練は辛いことですが、君の家族も、その試練を共有しています。それを乗り越える勇気を持ってください。ボクはキミのためにも今大会で1点は必ず取ります。その姿を見て、君がこれからの人生を頑張れるよう祈ります…」と。
トマソン選手はその時の試合でなんと4点も取りました。
 大会が終わり、帰国する前の送別会場にはその少年とお母さんの姿もありました。「点を取ってくれたからボクは嬉しかったです」という少年からのメッセージにトマソン選手は「神様は君にも必ずゴールを決めるチャンスをくれるはずです。そのチャンスを逃さず、人生でいいゴールを決めてください」と少年を励ましたそうです。


106号 花より根っこ
「富弘美術館を囲む会」という全国組織があります。現在、国内はもとよりハワイ、ロサンゼルス、ブラジルなどにも支部があり三千人もの会員がいます。会員にはクオータリーという季刊誌が年四回届きます。
 先日届いた二〇〇四年春号に黒田朔さんという方のエッセーが載っていました。黒田さんはホノルル・マキキ聖城キリスト教会の牧師さんでハワイで二度、開催された「星野富弘・花の詩画展」の実行委員長をされた方でした。
『…富弘さんにハワイの花を描いてもらいたいという願いからラン農園へと案内しました。ハワイに住む私達も初めて見るような珍しい蘭、きれいなカトレアを見た後「いかがでしたか」と聞くと「良い根っこですね。これがあるから良い花を咲かせることが出来るんですね」と答えました。きれいな花を前に誰が根っこに目を向けるでしょう。鮮やかな色や形、その香りに「わぁーすごい、こんなきれいなカトレアを見たことがない」と感動します。しかし、富弘さんは違いました。…富弘さんご夫妻を迎えてのインタビューの時に「富弘さん、もし神様が『あなたを怪我をする前の体に戻してあげよう』と言われたらどうしますか」という質問をしたところ、富弘さんは「お断りします。これが神様が私にくださった人生ですから、最高の人生なのです」と淡々とした返事がありました。ありのままを神からの最高のものとして喜ぶ富弘さんの生き方の真髄を聞かせていただき感動しました』…
 先日、富弘美術館は入館者四百五十万人を達成しました。来年四月十六日には新美術館がオープンします。富弘美術館は郷土の貴重な財産。みんなで応援したいですね。
「富弘美術館を囲む会」についてのお問い合わせは…
пZ二七七-五四-三六三二(群馬県支部長・山岸正雄さん)    
107号 答えはひとつではないのかも知れない
 先日、熊本から大野勝彦さんが訪ねてきてくれました。大野さんは平成元年、農業機械に両手を巻き込まれて切断してしまいました。
一瞬にして人生のドン底に落とされた大野さんは病室で何の気なしに「母ちゃんがすぐにスイッチを止めとったら俺は手ば、なくさんでも良かったかも知れん」と言ってしまったのです。スイッチの止め方を知らなかったお母さんの辛さを思うと大野さんは「自責の念」と「なんとかせねば」という思いでいっぱいになった、と言います。
大野勝彦さんの詩画集「そばにいた青い鳥」の中で
『…私は意を決して母のところへ行き「今良く考えてみたら、あれは母ちゃん止めんのが正解だった。あの時、止めとったら、俺あ、手を巻き込まれ血がだらだら流れて引き抜くこともできず、五分後には、出血多量で死んどった。自分一人の力では手は取れんだったけど、幸い機械が回転して、その両方の力で切れたんだよ。だから、止めんほうがよかったんだよ」と、一所懸命、身ぶり手ぶりを入れて説明する私に、少しづつ母の顔に明るさがさしてきて、そのうち笑顔になった。救命センターで母にあびせた言葉と、止めん方がよかったと言った言葉はどちらも正解。やさしさの尺度でみれば、答えはひとつではないのかも知れない。その日以来、私は迷うと必ず、このやさしさという物差しを思うのだ。』と書いています。
 この本を読んだ桐生市の小学五年生の伊藤有香ちゃんの感想文には『大野さんの気持ちやお母さんの気持ちを考えると涙が止まりませんでした。…そして、涙がたくさん出たのは有香の心が成長しているからだよ、とお母さんに言われました。』と書いてありました。その有香ちゃんと大野さんが感動の対面をしました。大野さんに似顔絵を描いてもらった有香ちゃんの笑顔が素敵でした。
108号 母の祈り
「心の風景」(熊本日日新聞情報文化センター・七百円)という本があります。著者は九州天草で「寺子屋荒木塾」を主宰する荒木忠夫さん。家族の絆の深さと温かさに気づかせてくれるこの本にとても感動し、荒木さんに手紙を出したのがきっかけで三年ほど前からご縁をいただいています。今月はこの本の中にある『母の祈り』という心温まる話をご紹介します。

『父は神様や仏様の力にはあまり頼らない人であった。しかし、その父がある年の父の日に、母親の不思議な祈りについて、しみじみと話してくれたことがある。父は第二次世界大戦の中でも最大の激戦といわれた、ガダルカナル戦の生き残りのひとりであった。昭和十八年、ガダルカナル戦は、すでに日本軍に勝ち目はなく、敵の一方的な戦いであった。食料の供給は断たれ、日本軍の敵はもはや敵軍の銃弾ではなく、空腹との戦いだったのである。数人集まると、話は食べ物の話ばかりであり、夢をみても食べ物の夢ばかりであった。ある夜、父は食べ物の夢ではなく、別の夢をみた。それは、天草の母親が薬師様の前にひざまづいて、必死で祈っている夢であった。その母親の祈る姿は、それから三夜続けて父の夢の中に現われたのであった。それで、あきらめかけていた父の心の中に、かすかな希望がよみがえったのであった。あきらめずに頑張れば、助かるかもしれないという気持ちが父の心によみがえったのである。そして、父は助かった。四十数名の小隊の中で、助かったのはわずか四名であった。天草に帰った時、母親は父にしがみついたまま、いつまでも離れようとはしなかったのである。そして言った。「私はお前の無事を祈って、毎日、裏の薬師様の前にひざまづいて一生懸命、お祈りをしていたんだよ。それが、薬師様に届いたんだね…」
母親の子供に対する思いは仏様をも動かすものらしい。』
「おかあさん」‐それは、実に偉大な存在なのである。
109号 ぬくい、最高
「ことばのご馳走」というロングセラーシリーズの著者・金平敬之助さんの十四冊目の本『鏡は先に笑いません』には心温まる話がたくさん載っています。その中の一つをご紹介します。

「これが夫婦です」という姿をテレビで見た。春広じいさん、八十三歳。四万十川で魚、山で猪をとって生活している。司会者が聞いた。「一番大事にしているものは?」「この四万十川と山とだな」このあと春広じいさんはニコニコして付け加えた。「あ、他にばあさんがいる」。そのばあさんはヤスコさんという。八十二歳。結婚して五十八年。幼なじみだ。最近足を悪くした。春広じいさんは心配で仕方ないらしい。道路から家までは緩やかな坂道。道の片側は石垣になっている。春広じいさんは、そこに杭を何本か打ち込んだ。それに太い綱を張って言った。「ほら、これにつかまって歩け」ヤスコばあさんはうれしそうにつかまって歩いて見せた。ヤスコばあさんの誕生日の映像も流れた。その日は春広じいさんはだまって町に下りた。猪を売ってヤスコばあさんの靴を買った。裏にしっかり滑りどめがしてある。半長靴で見るからに温かそうな靴だ。誕生祝いに一生懸命探してきたのだろう。ヤスコばあさんは縁側に座っている。縁側はちょっと高い。足はちょっと短い。ヤスコばあさんは足をブラブラさせている。春広じいさんはしゃがんで、靴を一生懸命履かせている。任せきっているヤスコばあさん。履かせ終わって春広じいさんが言った。「ほれ、立ってみろ」ヤスコばあさんは地面に下り立った。口から満足そうな若者言葉が出た。「ぬくい、最高!」その姿をいとおしそうに眺める春広じいさん。二人の周りには、春がそこまで来ていた。
 
 老夫婦の心情が伝わってきて心が温かくなりますね。
九月二十日は敬老の日です。

 
110号 信は力なり
 先日、スクールウォーズ・ヒーローという話題の映画を観てきました。この物語は伏見工業高校ラグビー部の山口良治先生の実話を元に映画化したもの。
山口先生とは昨年、熊本でお会いし、その情熱と人情の塊のような人柄にすっかり惹かれました。山口先生から直接聞いた話を思い出しながら映画を観ていて涙が止まらなくなりました。
 ラグビーの日本代表選手だった山口先生が縁あって監督を引き受けた伏見工業高校は当時、荒れた学校として京都でも有名でラグビー部の部室もタバコの吸殻が散乱してました。監督就任の春、ラグビーの名門・花園高校に一一二対〇で破れ、山口先生は悔し涙に身体を震わせました。「同じ高校生が同じルールで試合をしてこんな負け方をしてお前ら、悔しいないんか」という山口先生の怒声にそれまでふてくされていた選手達も初めて悔し涙を流し、グランドに這いつくばって「悔しい、どんなに苦しくても花園に勝ちたい」と発奮し、闘志を燃やしました。
山口先生は選手達に挨拶をきちんとすること、約束事を守ることを厳しく教えました。基本練習を徹底的に繰り返し、一人はみんなのために、みんなはひとりのためにというラグビーの精神と優しさを植え付けました。そして、優勝した時の感激のシーンを頭にイメージさせて『信じれば必ず実現する』ことを教え、「山口収容所」と呼ばれるほどの厳しい練習を続けたのでした。
それから五年後、伏見工業高校は京都府の大会であの花園高校を五五対〇で破り、全国大会でもベストエイトまで進出。翌年も京都府予選の決勝で花園高校を破り、全国大会決勝でも大阪工大高を死闘の末に下して遂に全国大会優勝という悲願を達成したのでした。
「泣き虫先生」と呼ばれるほど感激屋で厳しい中にも優しさに溢れた山口先生がモデルのこの映画。観る者に必ず熱い感動を与えてくれます。