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靖ちゃん日記へ


令和5年1月〜令和5年12月


 令和五年十二月十日(日)
「イロトイロマーケット」のイベント当日。普段は人通りの少ない孫兵衛辻子という名の通りに人が溢れた。この通りは四百年前、大間々発祥の由来の地であり、この一角にスポットを当て、地域の「いろ」を生かし新しい「いろ」を創り出して彩り溢れる地域にしようという計画の第一弾。通りのあちこちにキッチンカーが出店し、空き家をリノベーションした店では子供縁日やワークショップが若い家族連れに人気だった。
 みどり市の職員がジビエ料理の鹿肉を無料提供していた。孫の琉馬と二人で初めて食べた。思っていたより柔らかくてうまかった。子供縁日で琉馬と射的やスマートボールで勝負した。六十歳も年下の孫に負けるわけがないと思っていたが五回やって全部負けた。敗因はサンタの衣装のかわいいオネエちゃんに気を奪われたことだった。
イロに魅せられた一日だった。
 令和五年十一月十二日(日)
 ながめ余興場で開催中の「菊華寄席」。菊を見る為の入園料四百円を払えば寄席がタダで観られるので毎週足を運んでくれるお客さんもいて落語談義に話が弾んだ。今日の出演者の中の春風亭一花さんは昨日行われた「NHK新人落語大賞」の決勝に残った五人のうち唯一の女性噺家。余興場の入口で入場を待つ人達に昨日の大会の動画をスマホで見せていた時に一花さんが来た。一花さんに動画を見せながら「昨日の演目の『四段目』をやって」と頼むと嬉しそうにハイと答えてくれた。一花さんにウインクをしたが気付かずに行ってしまった。
 四段目は歌舞伎の忠臣蔵の四段目が大好きな丁稚が仕事をサボって芝居見物。店に帰ると全てお見通しの主人にあれこれ言い訳するところが、仕事をサボって愛妻にあれこれ言い訳する自分と似ていた。ウインクしてもあきれ顔で無視される。
 令和五年十月十二日(木)
 先週、大間々北小の二年生が「町たんけん」で足利屋に来た。「服はどうやって作るのですか」「どうしてふくやをやろうと思ったのですか?」などの質問に分かりやすく答えるのが難しかった。子どもたちに買物ごっこをしてもらい、一人ずつレジ打ち体験させてあげて皆大喜びだった。今日、北小の先生方が子どもたちからのお礼の手紙を届けに来てくれた。色鉛筆やクレヨンで色を塗ったり絵を描いたり、可愛い手紙ばかりだった。質問の感想はほとんどなく、手紙に書かれていたのは「レジが打てて楽しかった」という感想ばかりだった。
 自分も子供の頃、学校から帰ると店の手伝いでレジを打つのが楽しみだった。
あれから六十余年、今はレジは打つのではなくバーコードで釣銭もインボイスも自動対応。頭がパーコードになっても間違える心配がなく 
脳はますます退化していく。
令和五年九月九日(土)
 ながめ余興場で今年も「おわら風の盆」特別公演が開催された。
総勢二十人が朝七時にバスで富山を出発、五時間かけて到着した。
そのまま昼と夜の部の二公演を熱演。出口では「見送りおわら」を踊って来場者を喜ばせてくれた。
 舞台設営に黒子の会の七人が朝九時に集った。音響、照明、舞台担当の松島弘平君が八尾の風情ある街並みを見事に再現。探し集めたススキも効果的だった。
 花道と桟敷と中央の三方から、越中おわら節と三味線、胡弓の演奏に合わせて男踊り、女踊りが登場すると万雷の拍手が沸き起こった。途中で踊りの講習があり、舞台に上って輪踊りに飛入り参加。 
男踊りは勇壮で、女踊りは指先まで優美だった。が、手を意識すれば足がもつれ足を意識すれば手が動かなくなった。
認知テストを受けているようだった。目だけがキョロキョロと泳ぐように踊っていた。
 令和5年8月3日(木)
 大間々祇園最終日。猛暑の中、暴風雨のハプニングもあったが、通常開催の祭が幕を下ろした。初日の夜宮、二日目の本祭、三日目の手打ち式、お礼参りの山車巡行まで、一丁目の仮宮から七丁目の赤城駅までの一・八`を浴衣や法被、慣れない草履で何往復も歩いた。
 最後のお礼参り巡行では、お囃子保存会のSちゃんの粋な計らいで松崎ファミリー三代が山車に乗って太鼓を叩いた。
一丁目から四丁目までお囃子九曲を娘と孫と三人並んで思いきり叩いた。皆が写真を撮ってくれた。自分の葬式の時にはスライドショーでこの動画を使うように「葬式用ファイル」に保存した。SちゃんことO島慎ちゃんが「やっちゃんが死んだらお囃子葬にする?」と言った。「おもしろ葬」だと思った。棺桶には三途の川を渡る杖ではなく太鼓のバチを入れ、閻魔大王の前で叩けばバチは当たらない。

令和5年7月16日(日)
『あいつ今何してる?』という番組
制作のためにテレビ朝日の取材がながめ余興場に来た。八月三十日放送予定の主役・梅沢富美男さんは六十数年前、両親の梅澤清・竹澤龍千代一座の子役としてながめの舞台に立ち、三十年前の八月の「梅沢富美男特別公演」では改修前の冷房もない芝居小屋の客席に氷柱を立て、超満員の観客を魅了した。梅澤さんは「あの時の黒子の会の人達は今何してる?」とテレビで呟いた。
元アイドルの村重杏奈ちゃんがながめに来た。梅澤さんを「梅っち」と呼んでいた。黒子の会の我々に「昔の梅っちを知ってる?」と聞いてきた。「昔のことなら松崎の松っちに聞きなさい」と、あの頃のことを話してやった。「えっ?梅っちってそんなスゴイ人だったんだ」と驚いていた。
アンナちゃんに「松っち」とか「やっちー」と呼んでもらいたかったがニヤニヤしてると「エッチー」と言われそうだった。

 令和五年六月四日(日)
『虹の架橋三百号感謝の集い』に四百人近い人たちが集まってくれた。掃除仲間の國方さんは四国から、池永さんや渡部さんは大阪から、小畑さんは宮城から、姉夫婦も東京からわざわざ来て祝福してくれた。虹の架橋を創刊した時にはまさかこんな日が来るとは夢にも思わなかった。感謝の集いの最後に夫婦揃ってステージに上り、きれいな花束をもらった。実行委員長の天川さんから和子がもらった花束の方が五倍も大きかった。仲間の粋な計らいが嬉しかった。マイクを渡され、お礼の言葉を述べた。ひとりひとりの仲間や出演者や客席の人たちを見ているうちに涙声になった。
「七十歳を過ぎると、頭の回転も運動神経も鈍くなリますが車に乗る時は衝突防止の「アイサイト」の機能に頼るだけではなく「愛妻と」いっしょに残りの人生、道を踏み外さないように楽しみたい思います」と、やっちゃん日記風の挨拶で締めくくった。
令和5年5月20日(土)
 桐生グランドホテルで「富弘美術館を囲む会」の支部長スタッフ会議が開かれた。全国から支部会員や関係者など総勢八十八名が集まった。
富弘さんご夫妻も元気で出席。富弘さんはいつもながらのジョークを交えた挨拶で会場を和ませてくれた。ご夫妻を囲んで支部ごとに記念写真撮影。皆の緊張を和らげるため笑わせ係になったが、自分が笑いすぎて皆から笑われた。
 夜はホテルに宿泊した囲む会会員と群馬県支部の仲間で夕食懇親会を開いた。ロサンゼルス支部のSさんやハワイのMさん、初参加で小学生からの富弘さんのファンだったという徳島県支部の若いHさんと話が弾んだ。宮崎県支部のIさんは丸一日かけて宮崎から一人で車を運転してきたと言っていた。全員の席を回って話をした。演歌のセリフ通り「飲めと言われて素直に飲んだ」料理も全部食べた。食べ過ぎ飲み過ぎで体重は重くなったが尻は軽いままだった。

 令和5年4月9日(日)
千葉県君津市で開催中の「星野富弘花の詩画展」の最終日。富弘美術館の聖生(せいりゅう)館長が記念講演をするので同行した。七時半に二人で大間々を出発、アクアラインの「海ほたる」で休憩して三時間半で君津に到着。会場は廃校となった旧亀山中学校。築二十年の校舎は地元木材を使った立派な造りだったが市内から遠く離れた山間部。人が集まらないのではと心配したが九日間で二千人以上が来場したという。スタッフの人たちの熱意と行動力に驚いた。富弘美術館を囲む会千葉県支部長の渡辺護さんは群馬大学の体操部出身で富弘さんとは五十年以上の親友。富弘さんは人望の厚い渡辺さんを評して貧乏暇なしではなく「人望暇なし」と言っていた。
足利屋が販売元の富弘さんのハンカチも会場で売れていた。今年、製造原価は上がったが値段も音(ね)も上げないことにした。『益はなくとも意味はある』「辛抱暇なし」?
令和5年3月8日(水)
 ながめ余興場で新宿調理師専門学校の卒業イベントが開かれた。東京から大型バス三台で卒業生百二十人が到着。校長の上神田梅雄先生とは静岡の掃除の会で出会って意気投合。初めて大間々に来た時、上神梅駅を「自分の名前のようだ」と喜び、余興場を一目見て「ここで卒業イベントを開きたい」と言った。 
 卒業生代表五人の弁論大会は親への感謝や社会の役に立ちたいという志が伝わってきた。クラス毎のコーラスやダンスも余興場の雰囲気にマッチしていた。最初から最後まで時間厳守、挨拶や片付けもしっかりして、忘れ物もなかった。
が、二階の来賓席に見覚えのないストールが落ちていた。調べてみたらうちの愛妻の物だった。おっちょこちょいの女房と女房の持ち物も分らぬ間抜けな亭主。でも最初からわかっていたふりをして愛妻に渡してやった。
間抜けなくせに抜け目はない。

 令和5年2月20日(月)

奈良県宇陀市にある「喜楽座」という芝居小屋で全国芝居小屋会議が開かれた。熊本の八千代座、愛媛の内子座、香川の金丸座、兵庫の永楽館、広島の翁座などから懐かしい仲間が集まった。大間々からはながめ黒子の会の四人が参加した。喜楽座はこれから活用していこうという未知の芝居小屋。三十年前に黒子の会を結成した時の熱い思いを思い出した。夜なべ談義も盛り上がり、初参加の人と交換した名刺は十枚以上になった。

 今朝は長谷寺の勤行に参加。十メートルの観音様の真下で三十人の僧侶と大太鼓に合わせ般若心経を唱えた。室生寺ではお土産に夫婦ペアのボケ封じのお守りを買った。そのすぐ後にレンタカーの中に水筒を忘れ、電車の中に大事な名刺入れを忘れた。水筒も名刺入れも間一髪のところで気付き無事に戻った。ボケ封じのお守りさえあれば、ボケても何とかしてくれる。

令和5年1月10日(火)

みどり市観光ガイドの会の仲間26人で、わ鐵のイルミネーション号に乗った。19回目の今年も17の全ての駅の駅舎やプラットホームの電飾を沿線の人たちがボランティアで取り付けた。点滅する光は「わ鐵」を愛する人たちの心の輝きのようにも見えた。

 大間々を17時4分に発車した列車は18時12分に終点の間藤駅に着いた。ホームは幻想的な雪景色だった。見上げるとイルミネーションの先に星と月が見え宮沢賢治の銀河鉄道の夜と重なった。 

 帰りの列車ではビールを飲みながら弁当を食べた。難所の坂東カーブでは渡良瀬川の河原もライトアップされていた。車内販売で「スベらない御守」を売っていた。レールのすべり止めの砂が入っている。口が軽い人にもスベらない効果があるという。尻が軽い人には「おまもり」ではなく「おもり」が必要かもしれない。