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令和4年1月〜令和4年12月


 令和四年十二月十日(土)

 ながめ余興場で「百年後まで語り継がれる創生落語会」を開き、みどり市内の小・中学生に呼びかけて、親子で落語を楽しんでもらった。

今年六年目となる「みどり市創生落語」は、郷土の偉人や歴史を落語にして後世に語り継ごうというもの。三遊亭萬橘さんは「大間々あきんど物語」を熱演。明治二十八年四月二十六日に大間々で起こった大火の際、四丁目の岡商店の醤油八十五石を蔵から出して火を消し止めたという史実を身振り手振りを交えて語っていた。百三十年も昔の話を百年後まで語り継げたら嬉しくなる。

 落語の中では醤油で火を消す前に町内の連中が寄り集まって相談、「男たちが火の前に横一列に並んで、一斉に自分のホースを出して火を消そうじゃねえか」「そんなホースじゃとても無理」という珍(チン)問答に大笑いした。

自分のホースも昔の勢いがなくなってることに気づいた。

   令和四年十一月十三日(日)

 富弘美術館主催の「鈴の鳴る道」の散策に参加した。わ鐵の神戸駅に集合して約一時間半、富弘さんの生家や富弘さんの作品に登場する場所を歩き、サポーターさんがその場所場所で詩を朗読してくれた。「鈴の鳴る道」は、でこぼこ道を車椅子で通るのが苦手だった富弘さんが「銀色の小さな鈴を車椅子にぶらさげて、でこぼこ道を通ると『チリーン』と心にしみるような澄んだ音が聞こえた。その日から道のでこぼこを通るのが楽しみになった。人も皆この鈴のようなものを心の中に授かっているのではないだろうか」というエッセイ。聴くたびに深く感動する

 今日は美術館の女性サポーターのSさんとOさんの案内で二人の女性が参加していた。女性四人の年齢の合計は250歳くらいかもしれない。でも、25歳の可愛い「鈴ちゃん」が10人一緒にいると思ったら鈴の鳴る道を歩くのが楽しかった。

 

令和四年十月十四日(木)

 宮城県多賀城市の親友・小畑貞雄さんが訪ねて来てくれた。ピカピカに磨かれた真っ赤な愛車を5時間運転してきた小畑さんは「みどり市」のピンクの刺繍入ポロシャツを着てきた。小畑さんは東日本大震災の津波で家が流されたが、避難所の汚れたトイレを一日も欠かさず磨き続けていたスゴイ人。虹の架橋でOKバジを知った小畑さんはネパールへの支援も続け十月九日にはネパールの村に「小畑子ども図書館」が誕生した。今日、小畑さんから「本を揃えるためにOKバジに送ってほしい」と、また現金を預かった。六十歳から多賀城市役所で市長の運転手をしている小畑さんは人を喜ばせるためにお金と時間を使うのが好きな人だと思った。小畑さんが丹精込めて作ったサツマイモをもらったので掃除仲間にも配ることにした。

小畑さんのイモは、有り難すぎて軽々しく「ヘ」もできない。

 

 令和四年九月十日(土)

三年ぶりにながめ余興場で開催の『おわら風の盆』。朝九時集合。前・黒子頭の松島弘平君が作った風の盆の舞台背景、八尾諏訪町の風景を組み立てた。舞台に赤や青や緑のスポットライトを当てると風の盆の街並みが浮かび上った。

「聞名寺風の盆講中」の庵代表が運転するマイクロバスは朝七時に富山を出発、午後一時前に余興場に着いた。三年ぶりに庵ご夫妻と再会できて嬉しかった。

開演一時間前から余興場の周りは長蛇の列。そして開演。三味線と胡弓とおわら節の唄が始まり、花道と桟敷席から女踊り、男踊りが入場、舞台の幕が開くと八尾の街並みが浮かび上り鳥肌が立った。

終演後には出演者全員が外に出て「見送りおわら」を披露、十五夜の満月の下での「ながめ風の盆」は大感動だった。

編笠を深くかぶった女踊りの人達は月明りの下で四十歳は若く見えた。本当の年は知らない。

 

令和四年八月十六日(火)

 三時半に目が覚めたら天井がぐるぐる回っていた。ベッドから立とうとして転びそうになり、吐き気もした。熱中症か?コロナか?と心配になった。毎朝四時から観る『暴れん坊将軍』もボーっとして内容が分らなかった。一年間毎日一万歩の記録をこんなことで途切れさせたくないと思い、無理して三千歩歩いてきた。「何でこんな時に歩くの?」と愛妻に怒られた。朝飯も昼飯も食べず寝ていた。愛妻が何度も水や薬を持ってきてくれたお陰で午後は体調が回復した。
 送り盆でお墓まで往復二千五百歩。「まだ一万歩に全然足りない」と思った瞬間、一日一万歩を始めたのが去年の八月十二日で目標を達成していたことに気づいた。お寺の帰りに焼きまんじゅうを買って帰った。一気に三本食べた。普段は暴れん坊将軍に憧れ、具合が悪いと甘えん坊将軍、元気になったら食いしん坊将軍になっていた。
 

 令和四年七月十六日(土)

 四区のお囃子保存会の練習日だった。平日は子供たちで土曜は大人の練習日。三年ぶりに山車の上で叩いた。笛と大太鼓の音を聞くと自然に手が動くのが嬉しい。さんてこ、きり、たま、にんば、おうま、きりん、神田囃子、稲荷囃子、しょうでん、四丁目の十曲を通しで叩いた。曲と曲の間で三回間違ったが本番までには完璧にできると思った。

太鼓の後、山車小屋でビールを飲んだ。みどり市に合併前の十五年間、祗園祭の仮装大会があり、四区は十回優勝した。お囃子保存会の指導者たちが仮装の主要メンバーだった。毎晩、山車小屋に集まり、衣装を作り、皿回しを覚え、フラメンコを習って、ハンドベルを練習した。

白鳥の湖の年はレオタードに網タイツ、頭の飾りはレースのパンティをかぶった

天使になった年は長髪のカツラをかぶり胸に風船を入れた。

天使と言うよりペ天使だった。

令和四年六月十六日(木)

 大間々中学校の二年生を対象に「三方良しの町大間々」というテーマで講演をした。去年と同様に、職場体験の代わりに、地域の大人たちから職業観や人生観を学ぼうという取り組み。三億年前は大間々が海の底で「コノドント」が生息していたことや、三万五千年前は「みどモス」が住んでいたかもしれないという話から始まり、三百年前頃から大間々は「あなたよし私よし世間よし」の「三方良し」の町だったことを話した。この中学生たちが三十年後、三方良しの実践者になってくれることを願った。 

 講演後に校長室で糸井校長先生や大間々高校の高橋校長先生と歓談した。壁には歴代PTAの写真が飾ってあった。平成八・九年の本部役員仲間で「八・九(破竹)の会」を作り、二十五年も懇親会を続けてきたがコロナで破竹の勢いも衰えた。二年後にはハチク七十二歳になる。

 令和四年五月二十一日(土)

 富弘美術館で開館三十周年記念式典が開催された。星野富弘さんは「まさかこんなに長く続くとは思っていませんでした。支えてくれた多くの人たちのお陰です」と若々しい声でお礼を言っていた。

 その後、サンレイク草木で、富弘美術館を囲む会の支部長会議が三年ぶりに開かれ、ロサンゼルス支部を含めて十七支部の支部長が集まった。同窓会のような明るくて和やかな雰囲気だった。

「放課後」と題する富弘さんの作品に「私の一生懸命は放課後から始まった 放課後に汗を流し 放課後に笑い 放課後に悩み 放課後に友ができて 大切なことはみな 放課後に学んだ あれから何年すぎたのだろう 私は今 人生の放課後を生きている」という詩があった。

 支部長の多くが富弘さんと同世代。今、人生の放課後を楽しんでいるという解放感に溢れていた。もう「老化後」は考えない。

  令和四年四月十日(日)

 四国の南海放送ラジオで毎週日曜に放送している長寿番組『ラジオエッセーくめさんの空』をスマホのラジコという機能を使って欠かさず聴いている。小倉くめさんのことを知ったのは二十年前。『秘めだるま』という季刊誌を読んで感動して、どうしてもくめさんに会いたくて松山まで二回出かけて行った。『秘めだるま』と『くめさんの空』は日本人としての正しい生き方を温かい愛媛の久万弁でやさしく教えてくれている。

 今日は「追慕の日」というコーナーで虹の架橋四月号の「早逝の母に護られ古希の春」の句とそれにまつわるエピソードを全国のリスナーに紹介してくれた。スマホを仏壇に向けてもう一度聴き直した。ラジコは日本中の放送を聴きたい時に何度でも聴くことができる。何でもできるドラえもんのような存在。でもドラえもんはラジコではなくフジコ(藤子不二雄)だった

 

  令和四年三月十八日(金)

 戦国末期に大間々の町を開いた「大間々六人衆」の筆頭・高草木家の土蔵の調査を行った。嘉永三年九月と書かれた太い梁が百七十年の風雪を支えてきた。梁に駕篭が吊ってあった。江戸時代、黒保根の星野長太郎家から奥方が嫁入りした時のものだという。天保九年、前橋藩主・酒井石見守の一行三百人が大間々に来た際、殿様が高草木家に泊まったという古文書の記述を裏付けるように「御本陣」と墨書された木札もあった。参加した「三方良し」の会員たちは皆、江戸時代の大間々の街に思いを馳せた。

 毎朝四時に『暴れん坊将軍』を観ている。主人公は松平健扮する八代将軍徳川吉宗。その時代の老中は前橋藩主酒井忠恭だった。暴れん坊将軍が最後に悪人を断罪する時の決まり文句は「成敗ッ」。

夕方遅く愛妻と娘に任せっきりの店に帰ってきた。「商売ッ」と斬り捨てられるかと思った。

 

令和四年二月十九日(土)
 今日から大間々博物館コノドント館で始まった企画展『なつかしの昭和三十年代』を観に行った。あの当時のテレビや電気釜を見ているうちに昔の事が蘇ってきた。昭和三十年代は自分の年と重ね合わせると三歳から小学校卒業までの十年。我家には電話もテレビも車もなかった。電話は隣の東群運送で借り、テレビは近所の鰻屋で相撲や赤胴鈴之助を観た。父が仕入に行く時はスクーターの後ろに乗せてもらった。竈で炊いたご飯に味噌をつけたおばあちゃんのおにぎりがうまかった。庭で薪を割り、その薪を竈や風呂にくべて煮炊きをしたり風呂に入った。あれから六十年、薪割りも竈もなくなり、指先ひとつでスマホで電話もテレビも映画も観られ、買物もできる。今は「かまど」と言えば鬼滅の刃の竈門炭次郎だがあの頃は「てなもんや三度笠」の藤田まことの「あんかけの時次郎」だった。 

令和四年一月十六日(日)

 ながめ黒子の会で「シルクドゥながめ」のイベントを手伝った。日本人初のシルクドゥ・ソレイユ団員となった桐生出身の奥澤秀人さん、沢入国際サーカス学校出身の森田智博さんと油布直樹さん、世界的なバレエダンサー熊川哲也さんのKバレエカンパニーでプリンシパル(主役)だった白石あゆ美さんら世界的パフォーマーたちがながめに集結した

客席に7mの3本の柱を組み、奥澤さんと白石さんが「エアリアルストラップ」という天空パフォーマンスを披露。その力強さとしなやかさに魅了された。会場係の仕事を忘れ、白石あゆ美さんの指先から足のつま先までの動きに見惚れた。

終演後、舞台衣装のままの白石あゆ美さんに頼んでツーショットの写真を撮った。鼻の下がだら〜んと伸びていた。

愛妻の悪魔の囁きが聞こえた

「と〜ぉさん と〜ぉさん   お〜はなが長いのね〜」