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靖ちゃん日記へ


令和2年1月〜令和2年12月


   令和二年十二月十六日(水)

 先日、みどり市役所でもらった「わたしのきぼう」というエンディングノートを夫婦で書いた。延命治療についての希望や介護の際の希望、葬式やお墓のことなどの質問に対して自分が希望する項目にチェックを入れる形式のノートだった。「誰に介護してほしいですか?」という質問に迷わず「配偶者」にチェックを入れたが、和子に「どっちが先に介護が必要になるか分らない」と言われてハッとした。介護も葬式もお墓も皆、いつか誰かの世話になる時がくる。一人遺される時のことも想像して怖くなった。エンディングノートを書きながら夫婦で話すこの時間の幸せを感じた。

「遺影を撮っておきましょう」の項目は自信があった。毎年、年賀状に使う顔写真を撮って遺影のために保存してある。
昔の顔写真は好青年だったが近年は「コーセーネンキン」をもらう顔になっている。

 

令和二年十一月二十日(金)

 四時半起床、十四度。異常な暖かさ。昔のえびす講は寒かった。あの頃は閉店後、家族揃って桐生の西宮神社へ行き、御札とお宝を買い、帰りに鯛焼きを買って第一山本で鍋焼きうどんを食べるのが我家の恒例で何より楽しみだった。

あれから六十年。今年は新型コロナの影響で露店も出ず、交通規制もなかった。例年20万人が訪れるといわれる関東一のえびす講だが参道に行列はなく、銀杏の黄色い絨毯だけがいつもと同じだった

 桐生の西宮神社は直系分社・関東一社の証しとして、兵庫の西宮本社で御祈祷された御神札(おふだ)と御神影札(おみえふだ)を直接頒布している。今年は密を避けるために臨時配札所として足利屋でも御札を扱ってほしいと頼まれた。

「福を振る舞う」御札を「服を売る店」で扱うのに不服はなかった。

服は売れなかったが福の御札を買うお客さんで密になった。


令和二年十月二十日(火)
 四時起床、九度。朝は冷えたが日中は穏やかな秋晴れになった。
孫の琉馬の七五三。神明宮で祈祷してもらう。琉馬が袴姿で神前に向かって神妙に玉串を奉納した。五年前のお宮参りは産着姿の赤ん坊だったが今は逞しく成長した。
 夕方、みんなで『鬼滅の刃』の映画を観に行った。車の中で琉馬から、登場人物や必殺技を予習させられた。炭次郎とねず子と水の呼吸しか覚えられなかったが映画を観たら感動して涙があふれた。
 琉馬の七五三の写真は刀を持ち、鬼滅の刃の壱ノ型水面斬りのポーズだった。
 六十年前、近所の鰻屋のテレビで観ていた赤胴鈴之助を思い出した。子役の吉永小百合が大好きだった。六十年経った今も「剣をとっては日本一に夢は大きな少年剣士」という主題歌は全部歌える。真空斬りも十文字斬りも覚えている。でも、さっき薬を飲んだかどうか覚えていない。

 令和二年九月十七日(木)
 ネパールで支援活動を続けているOKバジこと垣見一雅さんから携帯に電話が入った。
元気そうな声を聞いてお互いに喜び合った。コロナ騒動以来、日本とネパールとの郵便物は双方とも受付停止、虹の架橋も半年間送っていない。OKバジが支援活動をしている村々では貧困がさらに深刻化し、貧しい家々にコメを支援しているという。日本の千円で二十五キロのコメを支援できるというので友人達から預かっていた寄付をコメ支援のためにOKバジの口座に送金した。「苦しい時こそ、他者を助けると自分が救われる」という言葉を思い出した。日本からネパールまでは五二〇〇キロ途中にヒマラヤ山脈も聳えているので電波の感度が悪く声が途切れ途切れだった。電話を終え、急いでトイレに駆け込みチャックを下した。昔は感度が自慢で勢いもあったがこっちの方も途切れ途切れだった。
 令和二年八月十九日(水)
 四時起床。虹の架橋三百号記念誌の編集作業七日目。読者の人たちからのお祝いのファックスや感想のメールや手紙やハガキが百人を超えた。それを一字一句間違えないように、相手の顔を思い浮かべながらパソコンに打ち込む作業は至福の時間だ。Kさんは虹の架橋のことを原稿用紙に十四枚も書いてわざわざ足利屋に届けてくれた。虹の架橋をこれほどまでに楽しみにしてくれている人がたくさんいることに改めて感激した。
 にんべんに夢と書いて儚い(はかない)と読む。虹の架橋の「虹」は一瞬で消える儚さの象徴でもあるが儚さゆえに印象に残る虹の架橋を続けてきてよかった。
 一日が終わり、ゆっくりと湯船につかり、今日出会った人のことを思い出す。風呂から出て、パンツもはかずに腰に手を当て、「赤城山」の冷えた甘酒をグッと飲む。はかないひと時の何と心地よいことか
     令和二年七月十九日(日)
 毎日新聞のインターネット版ニュースで、足利屋が製造販売している、みどモスとぐんまちゃんのマスクが紹介されて以来、全国各地から注文が入ってきている。十一日以降はネットでの注文が更に増えて不思議に思っていたが、桐生市出身の競艇選手・毒島誠さんがツイッターで、ぐんまちゃんのTシャツを着て、足利屋製のみどモスのマスクをした写真を公開し、足利屋の通販サイトのアドレスまで紹介してくれていた。イケメンの毒島選手には熱烈な若い女性ファンや中高年のファンがたくさんいた。
 マスクを発送する時に、みどモスの一筆箋に手書きで、注文してくれたお礼とゆるキャラグランプリの投票をお願いしている。マスクを送った若そうな名前の女性から「とても素敵」というお礼のメールが届き年甲斐もなく喜んだ。でも素敵なのはオジサンじゃなくみどモスだった。
 
 令和二年六月二十一日(日)
 五月に出来上がったばかりの娘夫婦の新居の軒下にツバメの若夫婦が巣を作り、五個の卵を産み、今日そのうちの一個が雛になったツバメは遠い南の国から三千キロ〜五千キロも海を渡って日本に飛来。ツバメは人間のことがよくわかっていて、巣をつくる時はそこに住む人を観察し、子育てに協力してくれそうな家を選んで巣を作るという。娘夫婦はカラス除けの黄色いプレートを買ってきて巣の近くに取り付け、孫の琉馬と一緒に毎日ツバメの子育てを観察している。昔から「ツバメが巣をつくる家は火事にならず繁栄する」と言われている。 
 年上の女性とつき合っている愛人の若い男のことを「若いツバメ」と言う。
でもツバメ社会では、独身の「若いツバメ」より経験豊富で実績のあるツバメの方が人気があるのだという。熟年ツバメになって若いそばめ(側女)を囲ってみたい。
 令和二年五月十三日(水)
 我家の敷地内に娘夫婦が家を建てて引っ越してきた。孫の琉馬は今年二葉保育園の年長組。親子孫と三世代続けて同じ保育園。
今朝は琉馬と一緒に庭を耕し、ナスとピーマンときゅうりとトマトと枝豆を植えた。仙台の大越桂さんや大阪の東晴美さんや高崎の宮本成人さんにもらったひまわりの種も植えた。 
 野菜の苗は「接木苗」を買ってきた。接木苗とは、味は良いが病気などに弱い苗と、味は悪いが病気には強い野生種といわれる苗を接ぎ木したものだという。 
 接木苗は家族のようなもので、別々に育った者同士が、長所と欠点を補い合い周囲の恩恵を受けて子孫を育てて行く。今、「孫育て」を勉強中。躾は一つから九つまで「つ」のつくうちが大事だという。「琉馬がんばれ」と言ったら、クレヨンしんちゃんの真似をして「うん、オラなんとなく頑張る」と答えた。
ダメだこりゃ。
  令和二年四月十三日(月)
 みどり市から依頼を受けていた布マスクが全て出来上がり、今日完納した。「マスク不足で困っている高齢者施設などに配るための布マスクが作れませんか」という打診があってから晒やガーゼを扱う問屋さんを何軒も当たり、無理を承知でお願いし、裁断屋さんにも協力してもらった。みどり市周辺の十五人の内職さんが頑張ってくれて、立体型布マスク五千八百枚を三週間で縫い上げた。
途中で晒やガーゼが無くなるのでは、と不安になったが問屋さんに助けられた。出来上がってきたマスクを検品し、スペアガーゼとメッセージカードを袋に入れる作業が追いつかず手伝った。買物に来ていたお客さんが「あら、忙しそうね。ネコの手も借りたいものね」と言った。「オレはネコの手か?」と思わず笑ってしまった。借りてきた猫のように目をそらせて「はいっ」と猫なで声で答えた。
 令和二年三月十六日(月)
 先日、桐生歴史文化資料館で開催中の企画展「桐生、大間々の銭湯」を見てきた。「三方良し」の会の賛助会員でもある八染和弘さんが地元の銭湯を地道に調べ、現地の写真や資料を展示していた。昔、桐生には五十軒以上の銭湯があり、大間々にも、寿湯、千代の湯、松の湯、高砂湯、梅の湯があり、ながめには泳げるほど大きい小判型の風呂があったという。はね瀧橋下の道了様には滝の湯があったが昭和二十二年のキャスリン台風で流されてしまったと萩原康次郎先生の「間々はゆりかご」に書いてある。
 夜、大間々で一軒残っている千代の湯へ行った。百二十年前の地図にも載っている千代の湯は子供の頃と変わらない。ご主人の中村夫妻と昔話で盛り上がり、二度も風呂に入った。帰りに番台越しに見る気もなく女湯を覗いた。若い女の人の声がしてドキッとした。テレビの声だった。
令和二年二月月十三日(木)
 今から約百年前、大間々駅の周辺には四軒の劇場や映画館があったと言われている。三丁目の天王通りに共楽館、四丁目の駅前には電気館、五丁目に新声座、六丁目に大間々座があり、昭和になって五軒目のながめ余興場ができた。 
 明治四十四年開業の共楽館の看板が大間々博物館にあるらしいと聞いて今日、収蔵庫を探してもらった。幅一メートルくらいのずっしりと重い木に墨で共楽館と書かれた百年前の看板が出てきた。
 今年九十六歳のIさんが足利屋に買物に来た時、無声映画を観た時の話や新声座が火事で焼けた日のことを聞いた。大間々には前田さんと関口のおじさんという二人の活弁士が五丁目にいたという。前田さんは本職の活弁士だったが関口のおじさんはこの辺の方言で映画と関係ないセリフで笑わせていたという。カツベンではなく上州ベンだったのかもしれない。
 1月18日(土)
足利屋でもキャッシュレス消費者還元事業の効果でクレジットカードやペイペイ(PayPay)やオリガミペイなどのスマホ決済を使いたいというお客さんが増えてきた。
自分でもコンビニの買物でペイペイやオリガミペイなどを使ううちにスマホ決済の便利さがわかってきた。
今日も「慣れてないので教えて」とお客さんに頼まれていっしょに操作をした。使い方がわからないお客さんの立場で勉強するのも店の大事な役目だと思った。 
 スマホ決済はいつ、どこでいくら買ったかという買い物履歴も残り、6月までは5%のポイントが還元されるのもお客さんにとっては有難い。でも、知ってるつもりで思わぬ失敗をすることもある。
 コンビニのレジでペイペイのことを、「パイパイでお願いします」と言った女性がいたという。
パイパイはキャッシュレスじゃなくて「トップレス」だろう。