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平成14年〜平成20年


平成20年 

12月17日(水)
 今年の健康管理目標は、1日平均1万歩以上歩くことと、1月1日に77キロあった体重を年末までに69キロ台に落とすことに決めて、毎日2つの数字を年間カレンダーに書き込んできた。
今日、1月1日からの累計歩数が365万歩を超えた。あと2週間残っているので、風邪でもひかない限り380万歩くらいになりそうだ。
万歩計機能のついた携帯電話は1日の歩数や歩行距離、消費カロリー、脂肪燃焼量などの記録が1ヶ月間保存され確認できるスグレモノ。
1日に何度も歩数を確認し、それを励みに楽しんで歩くことができた。 <BR>
 減量目標の数字も毎朝、顔を洗ってから体重計に乗って記録し続けた。3月に74キロ台、8月に72キロ台、10月には71キロ台と順調に減量できたが最後の1キロが難しかった。
今朝もパンツ1枚で体重計に乗った。70.0キロだった。パンツも脱いで両手で前を隠し、息を吐いて、頭も空っぽにしてそっと計り直した。69.8キロだった。
寒さで縮み上がり、「おもり」が200グラム軽くなっただけかも知れないと思った。



11月14日
群大医学部教授で認知症の権威でもある山口晴保先生の講演を聴いた。山口先生はNHKの「ためしてガッテン」でも認知症予防をわかりやすく解説していたユーモアたっぷりの先生。
12月20日夜のNHK教育テレビにも出演するらしい。最近発刊された山口先生の「認知症予防」(協同医書出版社)は上州弁で書かれたユニークで分りやすい解説書。
ベータータンパクが蓄積されるとアルツハイマー病になりやすくなり、それを防ぐためにはカレーを食べて赤ワインを飲んで笑って感謝していればいいと書いてあった。
カレーはさくらもーるのカレー屋で週に2回は食べている。夜は赤ワインを飲むことにした。「飲み過ぎるとアルツハイマーにはならないが違う病気になりますよ」と言われた。
山口先生が言った通りだった。ロレツが回らなくなり、アルチューハイマーになりそうになった。


10月11日(土)
夕方、白倉先生ご夫妻が青森から車でひょっこり訪ねてきてくれた。店を閉めた後、一緒に食事に行った。
山梨で病院長をしていた頃には大間々にもよく来ていたが、青森の病院長になってからは本当に久しぶりで再会が嬉しかった。地酒の赤城山で乾杯した。
9時過ぎに和子も来て、いっそう話が盛り上がった。酔った勢いで奥さんののぶ子さんに虹の架橋の題字を書いてもらった。温厚な院長と天真爛漫な奥さん。
とても仲のいい夫婦で一緒にるだけで心がなごんだ。
 白倉先生たちを見送った後、十三夜の月を見ながら和子と二人で暗い裏道を歩いて帰ってきた。チョッとしたデート気分だった。そこで一句
「ほろ酔ひの影が重なる十三夜」
歩いているうちにすっかり酔いが回った。誰が誰だか分らなくなった。そこでまた一首
「泥酔の影が重なる十三夜財布ひろげてチップ手渡す」
アチャ!

9月26日(金)
熊本県阿蘇の義手の詩画家・大野勝彦さんが訪ねてきてくれた。大野さんは平成元年に農業機械で両手を切断。入院中に星野富弘さんの本に出会い、「俺も絵や詩を書いて美術館を作る」と決心した人。
今、大野さんは阿蘇の他に大分や北海道美瑛にも美術館を作った。大野さんのかわいいお地蔵様の絵に「やさしさをありがとう」といった言葉を添えたTシャツやハンカチを足利屋で製作し、美術館で販売している。
「今度は越中ふんどしを作って美術館で売りたいと思うとります」と大野さんが笑いながら言った。ふんどしの絵柄や言葉を思い浮かべた。
大野さんの来年のカレンダーにはユーモラスなエビの絵に「やる気満まんピンピンしている私がいます」という言葉の作品があった。
下ネタ大好き人間の大野さん。越中ふんどしに「ピンピンしている私がいます」などと書くつもりでいるのだろうか。

8月18日(月)
今年で3年目を迎えるワタラセ・アート・プロジェクト。「わ鐵」沿線の各所で美大生の作品が展示されている。
近所の「千代の湯」では『お風呂プロジェクト・混浴』というテーマで東京芸大大学院生の皆川俊平君が銭湯の絵を2枚描き上げたと聞いて行ってみた。
偶然にも皆川君が一人で入っていた。絵は銀色を基調とした現代感覚の山水画の大作にも見えた。「窓から夕日が入ると色調が微妙に変化するんです」という。
湯舟につかりながら皆川君の生い立ちや夢を聞いた。将来、日本を代表する画家になってほしいと思った。風呂に入つて彼の絵を観て360円は安い。
壁の向こうで女子美大生の明るい声が聞こえた。着替えてから女湯の絵も見せてもらった。芸術家の卵達と混浴の湯上り気分を楽しんだ。
人間には3つの欲があるという。食欲、睡眠欲、そして混浴?混浴は大衆欲情(浴場)だ。


4月16日(水)<BR>
大間々街路灯組合のバス旅行で三陸、松島へ行ってきた。天気は最高。伊達政宗ゆかりの瑞宝殿や塩釜神社の桜が満開だった。夕方5時に松島の大観荘に着いた。
去年の秋、ながめ余興場で「星野富弘詩の世界&渡り鳥雁のゴーマーの物語」の朗読をした仙台の渡辺祥子さんがホテルまで訪ねてきてくれた。松島湾を一望できる広々としたロビーで親密?に話をした。
読みたいと思っていた本を貰った。嬉しかった。街路灯組合の美女軍団が風呂へ行く途中にロビーを通り、チラッとこちらを見た。見てはいけないものを見てしまったと思ったのだろうか。
「私達は尻は軽いけど口は堅いから大丈夫よ」といった顔つきで通り過ぎていった。
 2日目も快晴。鮎川港から船で金華山へ渡った。牡鹿半島というだけあって鹿がたくさんいた。鹿煎餅を買った。鹿に包囲された。尻をなめられ股間を突つかれた。
「俺はシリは軽いがツノは堅いぞ」と腰を突き出してやった。


3月5日(水)
東京の相田みつを美術館で開催されていた『星野富弘・相田みつを展』が3日前に終った。
相田美術館の高森さんから「相田館長とスタッフ3人で富弘さんのお宅と富弘美術館にお礼のご挨拶に伺います」というメールが届いた。
喜んで運転手を引き受けた。赤城駅に出迎え。富弘さんのお宅で1時間歓談。富弘さんもお元気そうだった。特別展は記録的な入館者数を数え、感動的なエピソードもあって話が尽きなかった。
その後、富弘美術館へ。閉館間近かの静かな美術館でゆったりと作品を鑑賞した。
 啓蟄とはいえ、周りには雪が残っていた。女房の言うことを聞いて股引を穿いて行けばよかった。3回続けて咳が出た。風邪か花粉か誰かが噂か。風邪をひいたら始末が悪い。
しつこい風邪とかけて熟年離婚の危機と解く。その心は「熱は冷めても咳(籍)が抜けない」を思い出した。




1月18日(金)
今日は1日で15400歩歩いた。万歩計付き携帯に替えてから歩くのが楽しくなり、去年の暮れから毎日1万歩をクリアしている。ガソリン代とCO2と体重の削減効果があり、一石三鳥になる。
 夜は商工会の新年互礼会があった。足利屋から会場まで、覚えたての般若心経を唱えながら歩いた。般若心経は262文字、10回唱えて2620歩になる。
会場の「鮮魚・鈴木」まで約25分。2700歩で着いた。「…色即是空、空即是色…」と唱えながら歩いていると寒さも忘れた。
般若心経の経典の折本をくれた商工会最高顧問の星野精助さんも参加していた。参加者60名。親しい人たちばかりで賑やかな互礼会だった。
地酒の「赤城山」が冷えた体を温めてくれた。料理も旨かった。色気より喰い気。でも喰いすぎると、減量のために歩いてきたのが無駄になると思って控えた。
色即是喰、喰即贅肉だ

平成19年

12月24日(月)
 西の空の赤城山の方角に大きな満月がくっきりと浮かんでいた。東の空の渡良瀬川の方角は茜色のグラデーションに染まっていた。5時55分今朝の気温は2度だった。冬至を過ぎても1月第1週までは日の出の時刻が遅くなる。起きるまでは辛いが起きてしまえば朝の空気は気持ちがいい。
 携帯電話を中高年向きのラクラクフォンに変えた。文字が大きく、おまけに万歩計まで付いている。毎日の歩数の記録が残り、歩くのがいっそう楽しくなった。和子も同じ携帯の色違いを持っている。万歩計が正確かどうか比べてみた。同じ距離を同じ時間で歩いたのに和子より百歩も足りなかった。面白くなかった。ズボンの前ポケットに入れていたので「つっかえ棒」が邪魔をして万歩計が動かなかったのかと思ったが歩幅が違った。愉快になった。和子より足が長いということだ。「つっかえ棒」の長さは関係なかった。


11月13日(火)
 今日は28回目の結婚記念日。偶然にも社会貢献者表彰の授賞式と重なった。全国で43人が選ばれた。授賞式では一人ひとり名前が呼ばれ、美人司会者が授賞理由を読み上げ、ステージの上の大画面に顔写真と活動の様子が映し出された。朝のリハーサル通りに壇上に上がり、3歩進んで右手の常陸宮様ご夫妻に向って深々と一礼、賞状を頂いてから、会場に向って一礼して右手から降りる。本番はコチコチに緊張、手が震えて足がもつれた。
主催者の計らいで昨夜はホテルに夫婦で泊った。結婚式以来初めてだった。夕食は「清水の舞台」から飛び降りたつもりで最上階の高級レストランで…、と思ったが入口のメニューを見て目玉が飛び出しそうになった。37階は清水の舞台よりずっと高かった。下の階のレストラン街をブラブラして分相応の店で食べて飲んだ。
28年前の夜はラブラブだったが…、昨日の夜はブラブラで終った。




10月4日(木)
 仏画家の武田仁さんから「一日一仏」(佼成出版社)という新刊本を頂いた。表紙の裏には「感謝 松ア靖様・和子様 仁」と力強いサインが入っていた。どのページも片側には今年百歳になった名僧・松原泰道さんのわかりやすい「今日のことば」が記されており、もう一方のページには仁さんの繊細な仏画が描かれている。海外でも仏画が高い評価を受けている仁さんとは毎年、武蔵嵐山志帥塾という勉強会でお会いする。先週、その勉強会があった。夕食後、ビールを飲みながら美女2人を交えた4人で話をしているうちにだんだん仲間が加わり、車座になって話が盛り上がった。京都の醍醐寺で修行をしているTさんとも知り合いになった。Tさんは人気者で別のグループに呼ばれて行ってはまたこちらのグループに顔を出した。「破れたパンツとお寺の窓は時々坊主が顔を出す」という都々逸(どどいつ)を思い出した。



9月17日(月)
今日は敬老の日。四区恒例の区民敬老会が開かれた。
婦人会が総出で食事を作り、区の役員が手分けしてお年寄りの送迎をし、子供会も家族ぐるみで大勢参加。幼児から90歳以上のお年寄りまで80人以上が集まって賑やかな会になった。食事をしている間に体育振興会のメンバーがグランドゴルフのコースを作って準備をした。「みんながひとりのために、ひとりがみんなのために」それぞれの役割分担を楽しんでいるように見えた。お金をかけなくてもこんな良い会ができる。人生の三大不安は孤独と病気とお金だという。高齢者の不安を解消するには地域の力が何よりも大切だと思った。参加者はお爺さんが少なくてお婆さんばかりだった。耳の遠い者同士が入れ歯をガクガクいわせながら、かみ合わない話を楽しそうにしていた。おおらかと言うか、おおまかと言うか、おおままと言うか。「老婆の休日」だった。




8月3日(金)
今年の大間々祇園祭りも今日で終った。今年は我が4区が7年に1度の当番町だった。祭り提灯を全部新しくし、太鼓を叩く女の子達の浴衣やお囃子保存会の大人のハッピも新調した。仮宮が設置され、祭りの伝統行事は全て4区から出発した。当番町の山車には毎年、一対の獅子頭が乗せられる。178年前に大間々が江戸幕府から町として認められたのを記念して氏子が寄進した獅子頭は白檀製と言われる。
1.7キロの本町通りを神輿を担ぎ、山車を引き、時には山車に乗って太鼓を叩き…痩せる思いで何往復もした。
7ヶ所の祭典事務所の前を通るたびに呼び止められてビールや酒を勧められた。痩せるはずが3日でまた太った。1区のNさんに「タンクが大きいんだから大丈夫よ」と太っ腹を指さされて言われた。「タンクはでっけえけど蛇口はちっちぇんだよ」と本当のことを言ってしまった。あとのまつりだった。



7月21日(土)
仕事が終って、夜8時半から山車小屋で太鼓の練習をした。
今年から大間々まつりの仮装大会が中止になりガッカリ。ストレス発散で仮装仲間も太鼓を叩くことになった。
 以前、群馬県教育委員会が作成した『群馬の祇園囃子』というCDには県内の祇園囃子が19曲収録されており、その中の13曲までが大間々のお囃子だった。
伝統あるお囃子を覚えることは郷土の歴史や文化を体感することにもなる。さんてこ、きり、たま、にんばの4曲だけを完全に覚えることにした。
山車に乗って「ててんてんてんてんツク」としめ太鼓(小太鼓)を叩き始める。鉦(かね)と横笛が入るといっそう調子が出る。大太鼓も初めて叩いてみた。
 練習のあと、みんなで飲むビールは最高。膨らんだ太鼓腹で大太鼓のおさらいをした。家に帰ったら女房は寝ていた。
腹がしめ太鼓に見えた。おさらいをしたくなた。
これって「セク腹!」か?




6月16日(土)
足利屋隣の裏手にある岡商店さんの古い大谷石造りの蔵で多摩美術大学生の男女数人が楽しそうに掃除をしていた。わたらせ渓谷鐵道沿線を舞台に東京の芸大・美大生ら46人が参加する「わたらせアートプロジェクト」の会場のひとつにここが選ばれ、8月12日から半月間「美術表現の場」として使うことになった。昔、塩蔵として使っていた重厚な石蔵にはツタがからまり、赤銅色の大きなアーチ型の扉が4つ並んでいてレトロな雰囲気。喫茶店やギャラリーとして使うには良い建物だと前々から思っていた。若い人達がこの建物に目をつけてくれたことが嬉しかった。ハナタレ小僧の頃、格好の遊び場だった場所が数十年の眠りから覚める。この美大生たちは美術界のハンカチオージやハニカミオージョとして注目されるかもしれない。女子大生というだけで鼻の下が伸び鼻水がたれた。ハナカミオジーになってしまった。




5月25日(金)
大間々駅トイレ掃除のあと、掃除仲間のヒゲのやっちゃんと吾妻山に登った。先週に続いて朝めし前の山登り。
吾妻山は標高481メートル。
先週は往復1時間半かかったが今日は15分短縮した。トンビ岩から第二男坂が苦しい。ヒゲのやっちゃんに「女坂にしますか」と聞かれた。「男坂を登るべー」と強がってみせた。途中から雨になった。最後の急斜面では心臓が飛び出しそうだった。山頂のベンチに仰向けに寝て、口を大きく開けて雨を待った。カラカラの喉に天の恵みが届いた。
下りは「大峰千日回峰行」の本に書いてあったように、謙虚、素直、謙虚、素直と心で唱えながら一歩一歩歩いた。呼吸も穏やかになった。鳥が歌っていた。山帽子の白い花がきれいだった。男坂か女坂か迷った末、今度は女坂を下りた。謙虚、素直のはずが気がついたら女、男、女、男と唱えていた。煩悩は簡単には消えない。



4月18日(水)
 大間々街路灯組合恒例のバス旅行で南房総小湊へ行った。バスの中でも夜の宴会でもオバサンパワーに圧倒された。
 鯛の浦を眼下に望む吉夢(きちむ)というホテル。玄関の前が日蓮上人ゆかりの誕生寺だった。毎朝お坊さんの法話があるというので6時前に着替えて聴きに行った。荘厳な仁王門を入ると新緑が美しかった。法話は「五節句」の意味や節目の日を大切にしましょうという話で心が洗われた。
 ホテルに戻って朝風呂に入った。部屋のベランダに檜の露天風呂があった。朝の清々しい空気と磯の香りが体の疲れを癒してくれた。目の前の海に向って、素っ裸で両手両足を「大」の字にひろげて深呼吸をした。最高の気分だった。遠くの堤防で釣りをしている人がこちらをジッと見ていた。女だと思ったのだろうか。手を振る代わりに腰をブラブラ振って「大」の字ではなく「太」の字であることを見せてやった




 3月7日(水)
10年ぶりに一泊の人間ドックを受けた。パジャマ姿で外来の診察室や検査室を行ったり来たり。入院と間違われて何人もの知り合いに声をかけられた。結果は脳も心臓も胃も腸も異常なしだった。身長171cm、体重74キロ。身長は昔と全く変わらないのに体重は10年で15キロ増えた。
 大腸の検査が一番イヤだった。診察室のベッドに寝かされ、膝までパンツを下ろして、両手で両膝を抱えるように言われた。「お尻をつきだして下さい」と言われ、ググッと尻に指を入れられた。強姦された気分だった。終った後、急いでパンツをあげようとしたら、勢い余って幅の狭いベッドから転がり落ちた。パンツとパジャマのズボンが膝にからまって動きがとれず、右手は床に付き、左手で前を隠そうか後ろを押さえようか、おろおろした。
先生と看護師さんはきっと「ケツの穴のちいせえ野郎だ」と思ったに違いない。





 2月24日(土)
 東京の四谷区民ホールで、義手の詩画家・大野勝彦さんとフリーアナウンサーで朗読アーティストの渡辺祥子さんのトークショーがあった。
女房と娘、東京へ嫁いでいる姉と姪も誘って聴きに行った。いっぱいのお客さんだった。大野さんが両手を切断してしまってから、阿蘇に美術館をつくるまでの人生は何度聞いても涙が出る。祥子さんの「渡り鳥・雁のゴーマーの物語」からも、人は一人だけでは生きられない、信じあい、助け合い、感謝し合うことが大切、というメッセージが伝わってきた。ピアノとフルートの演奏、「両手への賛歌」の独唱もとても良かった。
終了後、打ち上げパーティーにも参加した。四谷区民ホール前の出版社の地下が会場だった。大野さんも祥子さんも大きな仕事を成し遂げた後の達成感に満ちた笑顔だった。愉快なひとときだった。「四谷快談」だった



1月16日(火)
形山睡峰さんに会うために茨城県霞ヶ浦の菩提禅堂を訪ねた。往復6時間半かかった。形山さんはカスミのチラシに「生活」というコラムを書き「日本伝統文化村を創る会」を創設して東洋の「道」の文化の再発見を提唱している。禅堂でカスミ創業者の神林照雄さんの話や形山さんの宗教家としての考えを聞いて共感した。禅堂の洗面所に「水を大切にすることは即自分の命を尊ぶこと也」と書いてあった。日頃の自分を反省した。 
 靖ちゃん日記が好き、という形山さんの奥さんから、かんそう芋をおみやげにもらった。親父も大好物だった。仏壇に供える前に途中で車を止めてひとつ食べた。うまかった。2種類もらったのでそっちも開けた。もっとうまかった。続けてふたつ食べて喉に詰まらせた。
おみやげでもらったかんそう芋が「冥土のみやげ」になるところだった。 

平成18年

12月24日(日)
 今年最後のわたらせ真向会体操教室へ行った。6時から7時までの朝教室に通うようになって一年だが100回を越えた。真向法体操は四つの基本動作を繰り返すことで筋肉を柔軟にし、体の歪みを矯正する。「体の中にも医者がいる」と言われる。この体操を続けていると自然治癒力が高まり、気息が整い、腰骨が立ち、生きる姿勢まで良くなるらしい。
 今朝は6時20分頃に東の空があかね色に染まり、6時40分頃、山の頂からお天道様が顔を出した。神々しさと清々しさを味わった。
 先々月、初めて段級試験を受け、今朝、真藤先生から?真向法協会の免状をもらった。三級だった。「貴殿は真向法体操を熱心に自修され心技の向上明瞭と認めます」と免状を読み上げてくれた。たかが三級、されど三級。来年は二級を目指す。仲間が祝福の拍手をしてくれた。サンキュウ!


11月11日(土)
 5丁目の集会所でグループきずな主催の講演会があり、講師として招かれた。演題は「虹の架橋・地域を生かす実践活動」。
松崎センセーと言われて赤面した。参加者は62人とのこと、半分くらいは顔見知りの人たちだった。
虹の架橋編集の裏話や靖ちゃん日記、小耳にはさんだいい話のエピソードなどを話した。「…いい話」の中で特に印象深い話をいくつか紹介した。読みながら自分でも感動してしまい声が詰まった。
「人生は出会い」であり「人との出会いは未知の自分との出会い」であることを実感。虹の架橋のお蔭で多くの人と出会えたことに感謝した。 
講演会のあと、昔なじみのAさんが「松崎さんの話を聴いて胸がジーンとしちゃった」と言ってくれた。「どれどれ」と言いながら彼女の胸の前に手を出そうとしたら「ばーか」と言われた。
ばかは死ななきゃ治らない。



10月22日(日)
 大間々図書館で山本一力さんの講演会が開かれた。直木賞作家の講演会とあって、予約受付けの朝は1時間で締切られるほどの人気だった。
山本さんは赤城駅で奥さんと自転車を借り、講演前に二人で渡良瀬川周辺を散策してきたという。「この町は山や川や緑が身近にあるのがいい」と褒めてくれた。講演で「私が書いている江戸時代というのは年長者を大事にする社会でした。それによって秩序が保たれてきました。でも今は…」と言っていた。「あかね空」「大川わたり」等の登場人物の温かい家族愛や師弟愛を思い出して納得した。
 講演会の後、ポケットからデジカメを取り出し、山本一力さんと二人で満面の笑顔で記念写真を撮った。
家に帰ってパソコンで見たら、何と1枚も写っていなかった。「家宝」になるはずの大笑いが「アホウ」の苦笑いに変わった。ドジカメだった。



9月23日(土)
 今日は父の祥月命日。光栄寺で7回忌の法要を営んだ。おじいちゃん、おばあちゃんの33回忌も一緒に行った。
お墓の土手の彼岸花が今日に合わせたように見事に咲いていた。父の兄弟、子供、孫たち合わせて20人。法要後、全員でサンレイク草木へ。昼食後の富弘美術館見学も好評だった。叔父さんたちと一緒に露天風呂に入り、夜は一つの部屋に集まって昔話に花を咲かせた。昭和18年○月○日、弘平叔父は学徒出陣で宇品港から祖父に見送られてフィリピンのセブ島へ行き、豊作叔父は特攻隊に志願して霞ヶ浦へ、子供だった佳三叔父は裏庭に防空壕を掘ったという。長男だった父は戦後シベリヤに抑留。家族の関心事は父の安否だったという。今のことは忘れても、60年も昔のことをみんな日付入りで覚えているのには驚いた。
語り継ぐべき家族の歴史に賞味期限切れはない。


8月25日(金)
 サンレイク草木で仮装大会の祝勝会があった。0歳から69歳まで27人集まった。
勝てば祝勝会、負ければ残念会。毎年のことながら気心の知れた町内の隣近所、家族ぐるみの集まりは楽しかった。
子供達を中心に宴会は盛り上がった。ビール3杯で真っ赤になった。途中でトイレに立った。廊下に虫の死骸が潰れていたので避けて通ろうかとも思った。ちょうど向こうから来たエッちゃんがしゃがんで、その虫をティッシュに包んで片付けて行った。その姿に感動た。この母親に育てられる子も立派な人になると思った。優しかったエッちゃんのお母さんの顔を思い出した。
最年長のHさんは「俺が死んだら棺桶に仮装の衣装を入れて、祭壇には仮装の写真を飾る」と言った。はげ頭に金髪のおさげ髪の姿を思い出して笑った。「仮装で火葬」もHさんらしい。



7月26日(水)
今年で16回目となる祇園まつりの仮装大会本番まであと8日。6月のはじめから毎週土曜日に四区の集会所に集まって準備、7月後半からは毎晩集まって準備。と言いながらビールを飲んでワイワイ、ガヤガヤ。でも、これが祭の準備の楽しみ。四区町内の仲間意識が一段と深くなる。
テレビで旭山動物園のペンギンを見て「今年の仮装はこれだ」と思った。Mちゃん親子が岡公園まで行ってペンギンの写真を撮ってきた。Nさんが黒と白の生地で衣装を縫う。Hちゃんが音響を担当し、S君が踊りの振付け。知恵袋のM兄弟が全体の流れを考える。みんながそれぞれの役割の主役だ。クライマックスをどうするか明日までの宿題にした。
タイトルは「夏のソナタ」にした。
13人の四区のヨン様たちのペンギン姿。本番のペン・ヨン様が楽しみだ。



6月1日(木)
 神明宮で年に一度のタイムカプセルの会があった。
神明宮は6年前に遷座400年を迎え社殿を建て替えた。その際、100年後に伝えたい資料やメッセージを社殿の地下室に収め、タイムカプセルとして封印した。その日を記念して、発起人7人が毎年6月1日に夫婦同伴で集まり、飲み会をすることにしている。この会を孫、曾孫の代まで続け、2099年にこのタイムカプセルを公開する。
 神明宮は代々の血統を引き継ぎ、今の齋藤巌宮司は16代目になるという。町の歴史に詳しい齋藤さんの話は実に興味深い。長い町の歴史の中の今の時代を我々が担っていると思うと「男のロマン」を感じた。
「男のロマンは女のフマン」と言われるが奥方たちもみんな楽しそうによく喋り、良く食べた。そのうち「女のヒマンが男のフマン」になりそうだ。



5月25日(木)
心を磨く勉強会「致知の会」が「希望の家」で開かれた。
去年の7月からはじまった勉強会は8回目。今回は自分が話をする番になった。「出会いを活かす」というテーマで話をした。原稿を書きながら改めて出会いの有難さを実感した。一時帰国中のワシントン大学の客員教授・若林茂先生がシアトルに帰る前にもう一度会いましょう、と大間々へ来てくれた。致知の会にも参加して、少し話もしてもらった。勉強会の後、ビールを一杯だけ飲むことにした。一杯では収まらずいっぱい飲んだ。2軒ハシゴをして「赤城山」の冷酒とビールとワインを飲んだ。「朋有り遠方より来たる、亦楽しからずや」だ。話が弾んで飲みすぎた。帰ったら午前様だった。気を遣ってソーッと暗闇の中で着替えて寝た。気がついたら女房の横縞のパジャマを着て寝ていた。



4月19日(水)
大間々街路灯組合の旅行で新潟へ行った。阿賀野川舟下りの船頭さんの素朴な人柄に感動した。岩室温泉に泊まり、5時に起きて朝風呂に入り、散歩へ出た。ゴミだしをしていたオバサンが付近の名所を案内してくれた。オバサンのお蔭で新潟が一層好きになった。
弥彦神社をお参りし、良寛さんが住んでいた五合庵を見た。質素の庵の横に「焚くほどは風がもてくる落ち葉かな」という良寛さんの句碑があった。殿様からのお召しかかえの誘いに対し、「暮らしていくには自然の恵みだけで充分です」という意味の返事を俳句に託したものだいう。桜が満開だった。「散る桜残る桜も散る桜」という句を思い出した。
帰りの六日町あたりは一面の雪景色だった。バスの中では「残る桜」の元気なオバサンたちと賑やかに酒を飲んで、はしゃいだ。花見ざけ、雪見ざけ、わるふざけ、の三拍子揃った楽しい旅だった。


3月19日(日)
 「ながめ余興場」で、朝日さわやか寄席があった。桂歌丸、三笑亭夢之助、林家たい平といった豪華な顔ぶれで、定員650人の客席が超満員になった。開演前、舞台の隅から客席を見回している歌丸さんは口数の少ない、控え目なおじさん、という雰囲気だったが、羽織を着て高座に上がった姿はまるで別人のように溌剌としていた。
歌丸さんの演目は1週間前、パリで落語公演をした時と同じ「尻餅」だった。
正月を前に餅も買えない貧乏人の夫婦が餅つきの真似をしようと、女房の着物をまくって、尻を出させ、手で叩いてペッタン、ペッタン餅つきの音をさせるという話。オナラが出て「クサ餅」になったり、最後のオチの亭主の「チン餅」では大笑いしてしまった。
ズボンのポケットに手を入れて自分のチン餅を触ってみた。
つきたての餅のようにフニャフニャだった。



2月15日(水)
商業界ゼミナールに参加した。今年も全国から1200名の商業者が集まって真の商人の精神と技術を学んだ。『商売は商品を売るのではなく幸せを売る仕事』と教えられ勇気が湧いた。「また、あなたから買いたい」と言ってもらえる感動のサービスや接客がいかに大切か、ということも学んだ。夜10時半に初日の講座が終った。久々に再会した仲間とロビーで缶ビールで乾杯した。酔った勢いで商業界社長の結城さんの部屋へ行き、3時まで5人で語り合った。充実した時間だった。そこでもビールを2本飲んだ。ビールにも一人一人の話にも酔った。何事も地道にコツコツと、まめにチョコチョコが大きな成果につながると思った。今日は福島県のSさんと新潟県のMさんからバレンタインチョコをもらった。嬉しかった。義理チョコも『チョコチョコと義理も積もれば山となる』


1月23日(月)
さくらもーるテナント会の新年会があった。3月の改装オープンに向け、さくらもーるで働く人達の気持ちを一つにするためにも大切な時間だと思った。「乾杯の数だけ人生が楽しくなる」という。各テーブルを回って乾杯を繰り返した。今まで挨拶程度の付合いの人達とも打ち解けて話ができた。  
 大間々まつりの仮装大会で演じた「白鳥の湖」を3人で再演した。百円ショップでお揃いの水玉のパンティと白いタイツを買った。パンティが小さすぎて横からはみ出してしまうのが心配だった。上着、ワイシャツ、下着を全部脱いで純白のキャミソールとスカートをはいた。すっかり白鳥になりきった。肌まで鳥肌になった。「白鳥の湖」の曲に合わせて手をゆっくりと羽ばたかせながら会場に入った。大爆笑だった。踊りもうまくいった。すっかり酔いが回った。白鳥の足が千鳥足になっていた。

 


平成17年

12月16日(金)
シアトル在住の若林茂さんが来てくれた。若林さんはワシントン大学の客員教授で日本の文化や経済を教えている。
アメリカで虹の架橋のホームページを見てくれたのがきっかけで3年前からメール交換が始った。「日本人の心をアメリカの人に理解してもらうのに最適」と、「小耳にはさんだいい話」を抜粋してワシントン大学の日本語教材のテキストにしてくれた。 
 今回の帰国の目的でもある富弘美術館を時間をかけてじっくりと観た。
サンレイク草木に泊った。露天風呂が大好きという若林さんと何度も風呂に入った。亀の湯という露天風呂には亀の石像があり、そこからお湯が湧き出ていた。明るい月に照らされた亀さんはうらやましいほど元気に空を見上げていた。湯船の中でそっと下の方に手を当てた。情けないほど丸く縮んでいた。湯舟に映る丸い月の下で、それはまさに「月とスッポン」だった。



11月18日(金)
 仕事で大失敗をした。先代からのお得意さんのKさんに前回、大量納品した商品と金額が違っていた。指摘されるまで全く気づかなかった。「所長は夜にならないと戻らないからもう一度来て下さい」とのこと。一度、店に帰って以前のデータを全部調べた。コンピュータの打ち違いで前々回の納品も間違っていた。二度の間違いは弁明の余地がない。取引中止を覚悟で正直に詫びた。K所長は「そこまでは気がつかなかった」とあっさり許してくれて注文も増やしてくれた。「失敗」と書いて「けいけん」と読むそうだ。Kさんには悪かったが良い「けいけん」をした。「二度と失敗しない」と心に決めた。夕食後にまた失敗した。以前から薦められていた黒酢を初めて飲んだ。薄めずに一気に飲んだ。あまりの酸っぱさに喉チンコがヒリヒリして咳が止らなくなってしまった。「失敗」と書いて「スッパイ」と読むことを身をもって体験した。



10月25日(火)
 今日からながめ公園で「第48回関東菊花大会」が始った。赤城山の全景が一望でき、眼下に渡良瀬川が流れる「ながめ公園」に、これから1ヶ月間、県内外から多くのお客様が訪れる。広い園内には1,300鉢もの菊が飾られ、『義経』の名場面をテーマにした菊人形の前では記念写真を撮っている家族連れがたくさんいた。何ヶ月も前から黙々と菊人形づくりの準備を続け、背景画も一人で描き上げた菊人形師の松崎福治さんがこの様子を見たらさぞ喜ぶだろうと思った。スピーカーからは威勢のいい民謡が流れていた。上州名物・焼きまんじゅうのいい匂いも漂ってきた。菊を見るのを忘れて、民謡のテンポに合わせてパクパクと焼きまんじゅうを食べた。抜けた差し歯の間にまんじゅうが挟まり、飛び上がるほど痛かった。スピーカーから流れる民謡の合いの手が「歯ぁ〜 どしたぁ〜」と聞こえた。



9月24日(土)
大間々神梅小学校の運動会に招かれた。神梅小は児童数38名の小さな学校だが地域総出の運動会は和やかで活気があった。校庭には子ども達と婦人会の人たちが一緒に作ったプランターが並び、色とりどりの美しい花を咲かせていた。小雨が降っていた。開会式での挨拶はひと言で済ませた。スプーン競争に参加した。一緒に招かれていた制服姿の若い駐在さんも一緒に走った。ラケットにボールを乗せて、落とさないように夢中で走る。駐在さんが前を走っていた。抜くとお巡りさんに追いかけられる悪者に見られそうなのでそのまま2着でゴールした。
特製のデカパンを二人で一緒にはいてずり落ちないように走るデカパン競争も面白かった。パン食い競争にも参加した。弁当とパンをもらって帰ろうとしたら「虹の架橋に運動会のことも書いて下さいね」と頼まれた。「一宿一パン」の恩義は忘れちゃならない。



8月20日(土)
 夜、Kさんの赤城の別荘で仮装大会の祝勝会を開いた。仕事を終えた仲間も次々と集まり、23人の大パーティになった。仮装大会の1週間前にベビーが誕生したヒデちゃん夫婦、ミツオくん夫婦にプレゼントが用意されていた。みんなが自分の家族のことのように赤ちゃん誕生を喜んだ。まさに「4区ファミリー」。これぞ地域付き合いのお手本だと思った。仮装大会のビデオをみんなで観た。大爆笑で大いに盛り上った。ひとり禁酒を守るのは辛かったが我慢した。
昼間の疲れが出てきて眠くなった。寝ることにかけては「いつでも、どこでも、誰とでも」がモットーだが、この大人数では無理がある。「マクラが変わると寝られねぇ」と言い訳をして泊まらずに帰ってきた。11時に帰宅。うちの美人マクラ?は気持ち良さそうな顔で寝息をたてていた。



7月23日(土)
 大間々まつり仮装大会の準備も大詰めを迎えた。今年で15回目を迎える仮装大会には十一チームが参加。優勝賞金30万円を目指して最終日の8月3日に行われる。
 今夜も仕事を終えた仲間が次々と集会場に集まった。今年の四区は「白鳥の湖」で9回目の優勝をねらう。毎年の仮装大会のお蔭で皿回しを覚えたり、タンゴやフラメンコが踊れるようになった。今年はT先生から本格的なバレエのレッスンを受けて特訓中。衣装も全て手づくりというのが4区の伝統だ。いい歳をした男12人がレオタード、股モッコリの白タイツ姿でプリマドンナになる。頭の飾りをどう作るか迷った。白鳥らしくなるかどうかがこれで決まる。Yちゃんが「白いパンティを頭にかぶるか」と言った。「冗談とパンティは、またにしてくれ」と心の中でつぶやいた。
 


6月23日(木)
 大間々と姉妹都市・鳩ヶ谷の冨田栄子さんと上田眞由美さんが訪ねてきてくれた。
2人は17年前から『おしゃべりじゃーなる』という新聞を2ヶ月に1度発行。女性の目で見た地域情報紙としてユニークで楽しい話題を提供し、鳩ヶ谷には無くてはならない存在になった。8月には100号を迎えるという。虹の架橋も8月で丸10年。続けることの楽しさや苦労を体験している者同士、お昼を食べながら楽しい話に花が咲いた。
虹の架橋をいつまで続けるか、という話になった。感性や気力が鈍ってボケてきたらこの新聞は作れなくなる。でも、ボケが逆にユーモアを生むこともある。「カップヌードル」を「ヌードカップル」と間違え、「おばあちゃんの知恵袋」を「おじいちゃんの玉袋」と言った人がいるという。ボケも一種の才能かもしれない。



 5月12日(木)
商業界の勉強会で出会った十日町市の松村ひろみさんと宮沢敬子さんが訪ねてきてくれた。松村さんのお店・レストランオガワヤは新潟県中越地震で大被害を受けたが一週間後に店を復旧オープン。被災した街に元気と明るさをもたらした尊敬する親友。両手に花で富弘美術館を案内した。平日でも多くの人で賑わっていた。美術館のスタッフやカフェの制服は足利屋で納めたものなのでその姿を見るのも嬉しい。夜は家内の和子も加わって四人で食事。松村さんは自称『歩く虹の架橋』と言うほど、虹の架橋の内容を詳しく知っていた。「靖ちゃん日記」の下ネタのオチも次から次と思い出させてくれた。まるで重ねばきしたパンツを一枚一枚脱がされていくような恥かしさと快感だった。
女房以外の女性にパンツの中まで見透かされている気がしてソッと両手で前を隠した。



 4月20日(水)
大間々街路灯組合のバス旅行で会津へ行った。気心の知れた商店街仲間の旅行は気軽に冗談が言い合えて楽しい。『安達ヶ原鬼ばば伝説の里』へ行って民話の人形劇を観た。愛する我が子を助けたい一心で、髪を振り乱し、恐ろしい鬼になっていく姿の中に母親の深い愛情を感じ、親しみも湧いてきて、最後は胸が熱くなった。
 一度観たいと思っていた『三春の滝桜』も観た。樹齢千年といわれる風雪に耐えた紅枝垂桜は繊細で初々しい色香をただよわせていた。梅、桃、桜が一緒に咲くので三春という地名がついたという。磐梯熱海の大きなホテルに着いた。三度目の春が真っ盛りのオバちゃん軍団は肩からバッグをタスキ掛けに背負い、ワイワイ騒ぎながら玄関に向った。入口の大きなドアのガラスに髪を振り乱したオバちゃん軍団の姿が映った。『鬼ばばの宿』に来てしまったかと思った。




 3月17日(木)
大間々駅トイレ清掃400回などの記事が上毛新聞や桐生タイムスや日刊きりゅうで紹介され、皆から祝福された。今日は中学3年の時の担任だった田中文夫先生から便箋4枚の嬉しい手紙が届いた。美術の先生でユーモアのある大好きな先生だった。もう、81歳になったという。あれから37年も経っているのに不義理な教え子のことをちゃんと見守ってくれていたことに感激した。小学校6年の時の担任の木暮久子先生からも新聞を読ませてもらったよと電話をもらい、商売の見習修行をさせてもらった高崎の高橋英三会長からも心のこもった手紙をもらい嬉しかった。
いつも冗談を言い合う年上のA子ちゃんから「やっちゃん、男を上げたね」と言われた。お返しのつもりで「A子ちゃんだって、更年期が過ぎて女が上がっちゃったんべ」と口を滑らせてしまった。



  二月八日(火)
 足利屋の名刺がビジネス名刺コンテストの優秀賞に選ばれ前橋で表彰式があった。「貴社の作品は地域に根ざした商店主の人柄が伝わってくる心に残る優れた名刺ですのでこれを賞します。群馬県知事・小寺弘之」という賞状だった。
夕方の群馬テレビのニュースで放映すると聞いていたのでテレビの前で待った。ニュースがはじまった。最優秀賞の伊香保の旅館『おかべ』の美人女将が映った。「…見ただけで泊まりに行ってみたくなるような温かみのある名刺」と評されていたが名刺を見なくても、あの美人女将を見れば誰でも泊まりに行ってみたくなる。次はいよいよ優秀賞の番だ。でも名刺だけチョッと紹介されただけであとは全部カットされてしまった。カットされてカッとなるようでは「地域に根ざした商店主の人柄」が聞いて呆れる。



一月二十一日(金)
 入院生活十日目。インターフェロンの副作用の発熱も落ち着いた。今日も二冊本を読んだ。『病気とは、静かに自分を振り返り、今まで気づかなかった価値に出会う絶好の機会である』というヒルティの言葉が印象に残った。午後二時を過ぎると廊下の足音に耳を澄ます。毎日、和子が着替えと郵便物を持って来てくれる。デート気分で一階の喫茶店でココアを飲んだ。
消灯は九時。六人部屋は昼間は良いが夜は熟睡できない。Aさんは真夜中に煎餅をボリボリかじり、まだらボケのBさんは一時間おきにナースコールを押してワガママを言い、Cさんはイビキとオナラ。寝たと思うと目が覚める。枕に和子と名前をつけて両手でギュッと抱きしめたら安心して寝られた。又、Aさんが煎餅の袋をむき始めた。今度は枕を誰の名前にしようかと考えたら余計、寝られなくなった。






平成16年


十二月一日(木)
 毎朝十分間続けている真向法体操が今日でちょうど二百日目になった。真向法を続けると体が柔らかくなり、背筋が伸び、腰骨の立った良い姿勢になる。これが生きる姿勢にもつながり『健やかな体、康らかな心』になるという。でも、二百日ではまだまだ。何年もずっと続けることが必要だ。
 真向法体操は四つの基本動作を十回づつ繰り返す、というシンプルな体操。第一から第三の体操は柔軟体操に似ている。床に座って両足を前に伸ばしたり、開脚をして、大きく息を吐きながら上体を前に曲げる。
まだ体が硬くてよく曲がらない。
第四の体操は正座の姿勢から上体を後ろに反らし、仰向けに寝てバンザイをして大きく腹式呼吸をする。 一から三の体操は上達しないが、なぜか四の体操だけは上手に出来るようになった。真向法の四(ヨン)様と呼ばれてみたい。



十一月十六日(火)
 母と姉弟全員揃って念願の京都へ行った。金閣寺も三千院も良かったが『もみじの永観堂』が最高だった。見たいと思っていた『みかえり阿弥陀如来』を拝んだ。顔だけ左を向いて合掌する立像。説明文に『自分よりおくれる者たちを待つ姿勢。正面にまわれない人びとのことを案じて、見返えらずにはいられない阿弥陀仏のみ心』と書かれていた。優しく穏やかで慈愛に満ちた表情に感動した。
夜は従兄の憲ちゃんの店『旬眞庵』で食事。『一日一組、こだわりの京料理の店』と雑誌にも紹介されていた。手入れの行き届いた庭、打ち水、一組の客の為に予約三十分前から和服美人が門の前でお出迎え…。どの料理にももてなしの心が伝わってきた。『くもこ豆腐』というのを初めて食べた。雲の子と書くそうだ。雲子豆腐を『ウン○豆腐』と読む人はいないか心配した。



十月十二日(火)
大宮で商業界ゼミナールがあった。五百人の商業者が集まった。友人も大勢いた。「損得より先きに善悪を考えよう」「正しく生きる商人に誇りを持て」という商売十訓を唱和した。昼食中も研修ビデオを観ながら夜七時まで六人の先生から『商いの心』を学んだ。一生懸命は一笑懸命とも書くそうだ。笑顔が大事とメモした。
 最後の講師は商業界社長の結城義晴さんだった。結城さんとは同い年。去年の一泊ゼミで同じ部屋だったのですっかり親しくなりメール交換もしている。結城さんの講演で『元気を出そうよ。それがあなたの仕事です。元気をふりまこうよ。それがあなたの役目です』と教えられた。「よしっ」と心に誓った。夜十時に家に帰った。売上げを見た。売れていなかった。鏡を見たら眉間にシワがよっていた。一笑懸命と元気をもう忘れていた。



九月二十五日(土)
「うちの学校の運動会もとてもいいから観にきませんか」と大間々神梅小の松島校長先生から誘われていたのでチョッと行ってみた。児童数四十五名という小さな小学校。小さいからこそできる活動をしたいという言葉通り運動会も児童や父兄だけでなく地域の人も大勢参加していて、楽しい雰囲気のイベントになっていた。
足利屋のお得意さんや色々な活動で顔見知りの人達が親しく声をかけてくれて嬉しかった。「これからパン食い競争があるからいっしょに出ませんか」と誘われた。ネクタイをはずして列に並んだ。たかがパン食い競争といっても出番が近づくと緊張した。ピストルの合図でスタート。久しぶりに思いっきり走った。一番大きいパンをくわえて一着でゴールインした。アテネの野口みずきの心境だった。足が速いですねと言われた。口が早いねという人もいた。手が早いと言われなくて良かった。



八月二十六日(木)
「峠の釜めし」の考案者で元おぎのや副社長の田中トモミ先生から真向法体操を勧められ四ヶ月前から始めた。毎朝五分間続けているが自己流では進歩がないので今日、「わたらせ真向会」の真藤敦巳先生に教えてもらった。四つの動作の健康体操を繰り返すことで血液の循環を良くして細胞を活性化させる効果があるという。「身体が柔軟になると心も柔軟になる。続けることが大事ですよ」と教えられた。教室は和やかな中にも生気がみなぎっていた。「真向」という言葉は物事に真っ向から取り組むという意味もあるという。中年太り解消に真っ向から取り組み、せめて七十五キロ級から一階級は落としたい。仰向けになった自分の姿が壁面の鏡に映っていた。腹がピョコンと出ていた。海岸に打ち上げられたマッコウクジラみたいだった。



七月二十二日(木)
東村のNPO法人・沢入国際サーカス村協会主催の『夏のフェスティバル』が開かれた。サーカス村協会は平成九年設立、十三年には廃校となった沢入小学校を利用して沢入国際サーカス学校を開校した。校長の西田敬一さんは「サーカスを通して国際交流をし、次世代へサーカス文化を継承したい」という夢に向かって頑張っている。西田さんとのご縁で「さくらもーる」でも五日連続で大道芸を開催しお客様を喜ばせてくれた。童謡ふるさと館での公演ではサーカス学校生徒のひろみちゃんが五脚の椅子を積み上げそれを頭に乗せて手を離すという新しい技を披露した。黙々と練習を続け、晴れ舞台を迎えた姿に胸がジーンとなった。最後に何度も宙返りをしていた。四十年前には自分でも宙返りができたが今は寝返りくらいしかできない。
 


六月二十五日(金)
県庁でで「群馬ふるさとづくり賞」の授賞式があり、郷土を美しくする会・副会長の羽鳥さんと一緒に出席した。会場には各市町村の地域づくりの担当者や団体が百数十人も集まり、群馬テレビや報道関係の人達もたくさん来ていて緊張した。
表彰状には『永年にわたり地道な活動を継続し、ふるさとづくりに貢献した』と書いてあった。賞をもらいたくて続けている活動ではないが駅のトイレ掃除という目立たない活動が評価されたことが嬉しい。いつも誰かが見えないところで汗を流し、支えてくれていることに気づき合える世の中になったらいいと思う。
金一封はなかったが副賞として「活動する人の輪が広がるように」と右手を上げた招き猫をもらった。招き猫は右手が人招き、左手が金招きだという。左の猫の手も借りたいと思った。



五月十五日(土)
 ながめ余興場で映画「折り梅」の上映会があった。「折り梅」は痴呆症の患者を持つ家族の戸惑いや苦悩、それを克服して深まる家族の絆が描かれた作品。吉行和子と原田美枝子の名演技に後半は涙が止まらなかった。映画を観ながら亡くなった親父のことを思い出した。その時は大変だったが今にして思えば親父がボケたお蔭で一緒に枕を並べて寝たり、手をつないで散歩をすることもできた。家族の絆を感じ、親父が好きになった。
 映画から帰ってインターネットでボケの事を調べた。「週刊ボケ老人」というホームページがあり、自己診断テストがあった。哺乳動物(四本足で歩く動物)の名前を一分間にいくつ言えるか(十五種類以上言えれば大丈夫)というテストに夫婦で挑戦した。
和子に二つ負けた。
でも、負けるが勝ち。
歳をとったらボケるが勝ちだ。




 四月二十日(火)
大間々街路灯組合の親睦旅行で修善寺温泉へ行った。街路灯組合は今年で五十年目を迎え、十七年ぶりで街路灯も建て替えた。街の中で色々なつながりのある仲間同士の旅行なのでバスの中でも和気あいあい、朝から宴会のようだった。
バスガイドさんは二十二歳のとても愛想のいいコだった。話をしているうちに、娘と二葉保育園からの幼馴染のアッちゃんだとわかった。今日は下ネタ話は控えよう、と思ったとたん、バスの後ろの方で「やっちゃんも私のオッパイを飲んだのよ」と言われて下ネタ話に火がついた。幼馴染みのコウちゃんのお母さんだった。誕生日が近かったので小さい頃は仲良くおばちゃんのオッパイを飲んだのだろう。もうすっかりしぼんでいた。吸い過ぎには注意しなければいけない。


三月十三日(土)
 ながめ余興場で『朝日さわやか寄席』が開かれた。ケーシー高峰、三遊亭小遊三、三遊亭好楽といった人気芸人の出演とあって定員六百五十人の芝居小屋が超満員になった。寒い中を三時間以上も待っていた人もいた。申し訳ない気持ちと有難い気持ちでいっぱいだった。
 舞台の袖で出番を待つケーシーさんが宙を見上げて何か喋りながら黒板に書くマネをしていた。その真剣さに感動した。舞台では一転、自らの闘病生活を下ネタの連発で笑いに変えた。最後に「健康の有難さを本当に知っているのは病気になった人」という一言に重みがあった。鮨国で慰労会。ケーシーさんに「立ちくらみ」する程効くというバイアグラの効能を聞き直そうと思ったがやめた。誰でも時には「立ち往生」することもある



二月十七日(火)
 今年も商業界ゼミナールに参加した。全国から千人もの商業者が集まり二泊三日の勉強会。今年のテーマは「貫け・真っ正直商法」だった。十一時半に勉強会が終わり、小さな部屋で九州の壽崎肇さんの話を聴いた。実直で優しい目をした人だった。家族三人で始めた店を九州一大きな店にした壽崎さんは真っ正直商法を貫いた人だった。「八十年生きてきて無駄な事は何ひとつなかった」と夜中の一時まで熱く話してくれた。「一流の人物とは国の為に血を流し、家族の為に汗を流し、友の為に涙を流せる人。愛するものから愛される。まず相手を愛すことです」と教わった。さくらもーるの新年会で酔って相手構わず女の人に「愛してるよ」と言ったのを思い出した。真っ正直に受け取られると罪になる。



 一月二十五日(日)
 夜、店を閉めてから映画を観に行った。結婚して二十四年、二人で一緒に映画を観に行く機会がなかった。昔のデートを思い出した。これからの人生で今日が一番最初の日、時間を有効に使わないと勿体ない。
今、話題のラストサムライを観た。映画館で見ると迫力がスゴイ。明治維新、アメリカから来た主人公が日本の武士道の精神に触れ、自らその道を選ぶというストーリー。「武士道とは死ぬことと見つけたり」の本当の意味は、どう生きるかを究めることなのかも知れない。自らに厳しく、敵に対しても礼節を欠かなかった武士の生き方に日本人として大きな誇りを感じた。
 映画を観ながら靖ちゃん日記のオチを探した。今の日本、武士道が地にオチている。ひとつ拾えばひとつだけきれいになるかもしれない。





平成15年

十二月十三日(土)
ながめ余興場で「おもちゃ図書館・もみの木」のクリスマス会があった。心身にハンデを持った子ども達とそうでない子供達がおもちゃで一緒に遊び、楽しいひとときを過ごした。地域のお年寄りやボランティアの中学生も参加して総勢百三十人の大きな会になった。数人で始めた小さな活動も十年という地道な積み重ねで大きな力になった。まさに「継続は力なり」だ。
 沢入の国際サーカス学校の生徒三人も来てくれた。一輪車のひろみちゃんの演技にみんなが目を輝かせた。ひろみちゃんの芸は見るたびに進歩している。毎日、厳しい練習を続けているに違いない。これも「継続は力なり」だ。一輪車で股ズレにならないかと低俗なことを考えた。靖ちゃん日記はそれもまたよし。「テイゾクも力なり」だ。


十一月十九日(水)
桐生のえびす講へ行った。参拝者は二日間で三十万人、参道から商店街まで七百軒もの露天商が出るという。今年も大変な賑わいだった。参道を歩いているうちに子供の頃を思い出した。昔は家族揃ってえびす講へ行った。昔の方がずっと寒かった。姉弟四人がかわるがわる親父のオーバーのポケットに手を入れて歩いた。親父のポケットは大きくて暖かかった。お宝を買い、必ずタイ焼きを買った。親父の大好物だった。そして、第一山本で鍋焼きうどんを食べるのが一年に一度のぜいたくだった。
 長蛇の列に並んでタイ焼きを買って帰った。仏壇に供えた。親父の写真がえびす様に見えた。ネズミに食われるのが心配だった。えびす講のタイ焼きをネズミが食うとネズミ講になる。 


 十月十九日(日)
 今年も埼玉県武蔵嵐山で行われた志帥塾に参加した。
いい生き方をしている人達との出会いを通して自分を磨くこの集まりに七年前から参加したお蔭でいいご縁が次々に生まれた。一日目の夜、押し花絵作家の庄村昌子さんと話した。庄村さんの作品はトイレ美術館でも二度飾らせてもらったが本人に会うのは初めて。庄村さんは花に「あなたを最高に輝かせるからね」と語りかけながら花を育て、作品を作っているという。年月がたっても色褪せるどころか益々色鮮やかになると評判の作品はルーブル美術館にも展示されると聞いた。
謙虚に押し花を語る庄村さんの一言一言に深く感動した。夢中で話を聞いていたら夜中の二時になっていた。ベッドに入っても興奮してなかなか寝付けなかった。寝返りをうち、うつ伏せに寝たら鼻が押し鼻になった。



   九月二十三日(火)
 彼岸の中日。親父の三回目の命日でもあった。店の朝礼で全員で一分間の黙祷を捧げた。元気な頃は融通のきかないクソ親父だと思っていたが、いつも店のこと、家族のことを思い続けていたいい親父だった。
昼過ぎ、姉弟家族揃って墓参りに行った。今年は光栄寺開山四百年でタイムカプセルに入れるメッセージを募集している。松ア家の墓の前で皆で記念写真を撮った。曼珠沙華がきれいだった。
五十年後、タイムカプセルが開けられる時には裕子姉の孫の千佑李ちゃん以外は皆、墓の中だろう。
 夜、決算書のチェックをした。親父が会社組織にして五十三期目。おじいちゃんが商売をはじめて九十年を超える。お墓に足を向けて寝られない。足を曲げて斜めに寝たら今度は墓にケツを向けていた。



  八月三日
 大間々まつり最終日、仮装大会があった。毎晩のように町内の仲間とビールを飲みながら準備を続けてきた。新しい仲間も加わった。都合で本番に出られない仲間も準備を手伝ってくれた。この仲間が町内の色々な行事の核になってきているのが嬉しい。孔雀の羽根をつくり、女物のパンティを水色に染めた。昨日は夜中の十二時過ぎまで十五人全員で何度もリハーサルをした。本番ではTシャツの下にウレタンを入れて胸を膨らませ、網タイツをはいた。八度目の優勝で三十万円を獲得した。
町内に戻り、婦人会のビジョ軍団の歓迎を受けたのも嬉しかった。 
 最高に楽しいお祭りだったが、仮装で穿いた網タイツが股間にくいこみ赤くすりむけて痛かった。これだけが「タマに傷」だった。


七月二十二日
 東京出張の帰りに相田みつを美術館へ立寄った。相田みつをさんの長男でもある相田一人館長にも久しぶりに会って話をした。「親子で見るこころの詩」という企画展を開催中だった。若い親子連  れも多かった。売店には書家で詩人だった相田さんの色紙やハガキが販売されている。母親が小学生の男の子に「何か好きなのを買ってあげる」と言った。その子が迷った末に選んだのは「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」という色紙だった。この少年もこの言葉に励まされて生きてゆくのかと思うとなぜか嬉しくなった。日本中の親子が相田さんの作品に触れたらきっと良い世の中になる。以前、PTAで相田さんの話をしたら若い母親が「あら、お笑いだけじゃないのね」と言ったのを思い出した。彼女は「せんだみつお」と間違っていた。


六月二十日(金)
郷土を美しくする会の主催で中牟田真甫さんの講演会を開いた。『笑顔の人生〜出逢いに導かれて生きる〜』というテーマだった。多くの人との出会いのお陰で今の自分があるという中牟田さんの話に感動した。耳が聞こえなくなった福井県のお父さんに毎日ハガキを書き続け、すでに千二百通以上にもなっているということを聞いて驚いた。「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる」という言葉にも深く共感した。
笑顔の大切さを多くの人に広め、「ほほえみ天使」を自称する中牟田さんの笑顔は天使そのものだった。中牟田さんの真似をしてトイレの鏡の前で作り笑顔をしてみた。不自然だった。てんしの笑顔というよりぺてんしの笑顔だった。


五月二十三日(金)
夜、サンレイク草木でロンダリア・オン・ホイールズ(フィリピンの車椅子楽団)のコンサートを聴いた。体に障害を持つ十人の若い男女が素晴らしい演奏をした。「世界に一つだけの花」や「翼をください」の曲に震えるほど感動した。数え切れないほど辛い思いをしてきたはずなのに彼等の笑顔はみな明るかった。熊本から来た大野勝彦さんが義手で彼等の笑顔をスケッチした。二次会でフィリピンの若き演奏家達と一緒に飲んだ。一時過ぎまで飲んだ。リチャードとローリーの間に可愛い女性が座っていた。両目でウインクをしてロレツの回らない英語でファット・ユア・ネーム?と聞いたら笑われた。ボランティアで来ていた東京の女子大生だった。


四月十三日(日)
小山市に住む谷口ようこさんがご主人と一緒に訪ねてきてくれた。谷口さんは手漉き和紙の人形作家。日本的な母と子の温かい情愛を和紙人形で表現している。足利屋とアスクで飾らせてもらい大好評だった。「観てくださる方にほほえんで頂ける人形を作りたい」という谷口さんの陽香人形は見ているだけで安らぎを感じる。和服姿の母子が向かい合って手をつないでいる「だっこ」と名付けられた人形がパリのルーブル美術館に飾られることになったそうだ。谷口さんの作品が世界的に認められたことに拍手した。うちで飾っていた人形が世界一の美術館に飾られる。いつかルーブルへ行ってみたいものだ。体がチューブルにならないうちに。


三月二十三日(日)
シアトルに住む若林茂さんからアメリカのビールとビーフジャーキーが届いている。若林さんはワシントン大学で日本経済や文化を教えている同年代の先生。インターネットで「虹の架橋」を読んでくれて、七十回以上もメール交換をしている。若林さんが北米報知に連載の「私の読書案内」も送信してもらっている。一度も会ってはいないが心の交流ができるのが何より嬉しい。
 お彼岸で子供達が帰ってきたので若林さんからもらったビールで乾杯した。テキサスビールとカリフォルニアビールと一番絞りを飲み比べているうちにすっかり酔っていい気持ちになった。お酌をしてくれる娘にチップをやりそうになってしまった。


二月三日(月)
昼間、お神明さまで豆まきをして夜は家でも豆をまいた。神棚、えびす様、玄関、トイレ、台所、お稲荷さん、井戸で「福は〜内」をした。昔は隣近所どこの家からも豆まきの大きな声が聞こえたが今では聞かれなくなった。子供のころ豆まきのたびに「もっとでっけー声を出さなきゃダメだ」と親父に叱られたのを思い出した。「鬼は〜外」と言っている親父が鬼に見えたがそんな親父も三年前に仏になった。天に向かって「福司は〜内」と親父の名前を呼んで豆を撒いたら仏の親父の顔が浮かんできた。来年もでっけー声で豆まきをやろうと心に誓った。   
昔から、歳の数だけ豆を食うと病気にならないと言われているが五十を越すと腹をこわす。




一月二日(木)
何度も立小便をする夢を見て目が覚めた。縁起のいい初夢を見たいと願っていたのにガッカリした。昨夜、ビールを飲み過ぎたのがヘンな夢の原因だったかもしれない。
元日の夜、東京から娘が帰ってきたので久々に家族全員が顔を揃えた。ビールで乾杯した。息子もファッション関係の学校へ行っているので共通の話題があるのが嬉しい。娘も十二月三十一日まで仕事で二日から初売りだと言う。朝、五時十一分の始発で東京へ戻って行った。赤城駅で「頑張ってな」と言って送り出した。一面の銀世界だった。裏庭で散歩を待つプーがはしゃいでいた。子供の頃のように雪の上に小便で書初めをしたら気持ちがいいだろうと思ったがやめた。昔は筆に勢いがあったが今は見る影もない。




平成14年



十二月十六日(月)
開店前に「さくらもーる」のトイレ磨きをした。1階2階の3箇所、合わせて30の便器を社長以下役員全員と事務局職員ら15名で2日間かけてピカピカに磨いた。普段は清掃のおばさんが1日に何回もトイレ掃除をしているがひとつの便器を1時間も磨くことは不可能。時には店を預かる我々が自らの手で丹念に掃除をすることも必要だ。お客様への感謝の念もわき、小さなことにも気づくようになる。「さくらもーる」もオープン以来10年目を迎えることになった。あらためて良い仲間と一緒に仕事をしていることを実感した。
夜は同じ仲間と薮塚温泉へ行って大いに盛り上がった。朝は掃除で換気扇のハネをはずし、夜は忘年会でハメをはずした。
何事もアソコまでやるとキモチがよくなる。



十一月十五日(金)
横川「峠の釜めし」の発案者である田中トモミさんの講演会を開いた。田中さんは大正十二年生まれと聞いて驚いた。背筋がピンと伸びていて声の張りもあり一時間半マイクも使わずにエネルギッシュに話した。「何事にも本気で取り組むこと、与えられた場所で一所懸命やっていれば必ず道は開ける」と、自らの体験を通して教えてくれた。懇親会では参加者ひとりひとりと言葉を交わし、皆と「一期一会」の喜びを味わった。田中さんの健康の秘訣は規則正しい生活と真向法(まっこうほう)体操。これを続ければ「ピンピンころり」いつも元気で死ぬ時はコロリと死ねるそうだ。今晩から体操を始めて下さいと言われた。よしっ、今晩からやるぞと決心した。
でも二次会から帰ったら明日になっていた。



十月十九日(土)
 大間々北地区の親善ソフトボール大会二日目。八地区なので三試合勝てば優勝する。我が四区は不戦勝があったので一試合勝っただけで決勝に進出した。仕事を終えて夜八時に試合開始。雨の中のナイターも悪くなかった。何より町内の仲間との和気あいあいの雰囲気が楽しい。試合前にチョッとだけ練習をした。「練習は不可能を可能にする」という名言があった。四十年前の野球小僧の勘が戻った。打てる予感がした。案の定、二打席連続でレフトオーバーのホームランを打った。あてにされていなかった下位打線の活躍で久々に四区が優勝した。缶ビールを二ケースもらった。何度も乾杯した。「乾杯の数だけ人生が楽しくなる」という言葉がある。人生が楽しくなりすぎて肝臓が心配になってきた。



九月十九日(木)
遅い夏休みをとって内堀先生と夜行バスで広島へ行った。広島市立日浦中学校を訪問した。修学旅行での心温まる美談を「千羽鶴に祈りを込めて」と題して虹の架橋に紹介した学校だ。三年生が中心となってアルミ缶を回収していた。車椅子を寄贈するためだという。庭に赤紫の和也君の朝顔も咲いていた。
三年生百十一人が体育館に集まって歓迎会をしてくれた。全員の寄せ書きをもらった。「信じる心があれば通い合えることを学びました」…と担任の先生の添え書きにも感動した。女生徒や保護者から素敵な絵や彫刻や花束やラブレター?やもみじまんじゅうをもらった。芸能人になった気分だ。そういえば「爆笑問題の太田にそっくり」と言われた。鏡を見たらニヤニヤしている太田がいた。


八月三日(土)

大間々まつり最終日。今年も婦人会に作ってもらったカレーを皆で食べて仮装大会に出場した。キリンの衣装で七丁目から一丁目まで八ヶ所で演技をした。一番スタートだったので最後の会場で他のチームの演技を全部見られた。どのチームも面白かった。
「希望の家療育病院」の美女達が楽しい魚に扮して踊った。ビールを飲みながら見とれていたら突然、チョンマゲのカツラをかぶらされ浦島太郎にされた。魚達の輪の中に連れて行かれ、美しい乙姫様に唇にキスされ、ポラロイドカメラで写真を撮られた。天にも昇る心地だった。「ば〜かが、男にキスされて…」と笑われて目の前が急に真っ暗になった。仮装で三連覇を逃した事よりショックだった。


七月二十五日(木)
今夜も九時から十一時まで四区の山車(だし)小屋で仮装大会の準備だった。六月から始まった準備もいよいよ大詰め、皆も気合が入ってきた。
下着を黄色に染めた。いらなくなった黄色い生地をもらってきてミシンで縫って長い首を作った。耳をつけて、角をつけて、目をつけて…大人十八人、子供六人分の衣装を作った。見事な出来栄えに惚れぼれした。ビールを飲みながらパフォーマンスをどうしようか、BGMは何にしようかとワイワイ、ガヤガヤ。町内の仲間と過ごすこんな時間が一番楽しい。
今年のタイトルは「キリンファンタジー」タイトルにふさわしく可愛く、きれいに決めてみたい。
股間に大きな金の鈴を二つ付けてみた。踊るとチンチンという音がした。でも肥満キリンの鈴チンチンはファンタジーではないかもしれない。


六月十八日(火)

今日は東京出張。大雨だった。仕事が終わり、時間があったので、いろいろな店を見てみようと錦糸町へ行った。本当は、長女の恭子の仕事ぶりをソッと覗いてみたかった。丸井の二階の女性水着の売場で働いていると聞いていた。もし顔を合わせたら何と言おうか、上司がいたらどう挨拶をしようかと考えながらエスカレーターを上った。鏡があった。雨と風でボサボサになった髪を整え、父の日に貰ったネクタイを締め直した。左手に水着の売場があった。恭子がいた。接客をしていた。ビキニの水着の陰に隠れて様子をみた。笑顔、よーし。しぐさ、よーし。お客様も説明に納得している様子だった。水着の売場でニヤニヤしながらよーし、よーしとつぶやきながら覗いている中年オヤジを隣の売場の人が不審そうに見ていた。


五月二十四日(金)

 明日「ながめ」で講演をする大野勝彦さんが赤城駅へ着いた。わざわざ義手をはずして握手をしてくれた。富弘美術館へ行った。詩画を観ながら大野さんは「俺達ゃ、怠けとる」と自分に言い聞かすように言った。「富弘さんがこの葉っぱの中の細い線を一本描くのにどれだけ神経を集中して、体力を使って描いてるかを思ったら俺達ゃ、まだまだ怠けとる」と。
 サンレイク草木でビールを飲みながら食事をした。大野さんの下ネタの連発にみんなが大爆笑だった。「大野さんはいつも忙しいですね」と言うと「いゃ〜同い年のムスコはブラブラしとります」?満月を見ながら一緒に露天風呂へ入った。最高の気分だった。本当にムスコはブラブラしていた。


四月二十三日(火)
 作家の神渡良平先生の講演会があった。樹徳中学校の校歌を作詞した先生でもある。
「人は何によって輝くのか」というテーマだった。『人生には登り坂もあれば下り坂もある。時には思いもかけない「まさか」という坂もある。しかし、自分の前に現れる事は全て意味がある。それを謙虚に受けとめ、出会いの不思議に感謝しながらコツコツと努力を続けた時、人は輝く存在になる』という話だった。脳梗塞で半身不随の危機をリハビリで克服した先生の話に心が震えるほど感動した。
 夜、虹の架橋をパソコンで打った。保存する前に突然止まってしまい全部消えてしまった。思いもかけない「まさか」だった。感謝などできなかった。


 三月十八日(月)

今日からお彼岸。
朝、お墓掃除へ行った。両手にバケツを持って三十二段の石段を三往復したら息が切れた。普段、体を鍛えていない証拠だ。
要害山から昇る日の出が美しく、思わず手を合わせてしまった。
 光栄寺の入口には「心のおくすり」という掲示板があり、いつもいい言葉が書いてある。「口が濁ればぐちになり徳が濁ればどくになる」「受けて忘れず、施して語らず」…なるほどその通り、と感心させられる。心のおくすりのせいか最近、心に「カゼ」をひくことも少なくなった。そういえば今年は花粉症もひどくならない。年のせいで花粉も感じなくなってしまったのだろうか。「かふん症」より「ふかん症」の方が心配だ。


二月九日(土)

大間々の厚生会館でおもちゃ図書館「もみの木」のイベントが開かれた。心身にハンデを持った子供達とそうでない子供達が一緒におもちゃで遊ぶことでお互いを理解し合い、成長していくことを応援するボランティア活動も今年で十年目を迎える。大間々北小のふれあい広場でわずか数人ではじめた活動がこんな大きな輪になって嬉しい。「遊び心」はどんな時でも活動の大きなエネルギーになる。今回もミスターガーリックさんのマジックショーや皿回しに人気が集まった。コミカルな動きで皿を回している姿をみて、大間々まつりの仮装大会を思い出した。ガーリックさんからは去年も仮装大会のヒントをもらった。今年の大間々まつりまであと半年。眠っていた「遊び心」に火がついた。大人の火遊びは燃えると消えない。


平成十四年 一月十三日(日)
 
環境美化に関心をもつ人達の自主活動として、今年も成人式会場となる「ながめ余興場」の周辺清掃を行った。朝七時、五十人以上の人たちが手に手にゴミ袋を持って空き缶やゴミを拾い集めた。参加人数は去年より大幅に増え、ゴミは去年より減った。「このまちの子供達はこのまちの大人達を見て育つ」。小さなことでも永く続けていればもっといい町になる。
 長女の恭子も今年、成人式を迎えた。着物姿がチョッとまぶしくみえた。我が家の愛犬プーちゃんは大喜びた。
「この家の犬はこの家の主人を見て育つ」?プーちゃんはなぜか女の人が大好きだ。










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