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361号~370号


361号 我家の第2次世界大戦    
 今年は戦後80年の節目の年であり、我家でも父や叔父たちの戦争の体験を語り継ぎ、今、生きている有難さを家族全員で感謝したいと思っています。あ わ我家では、父・松﨑福司が昭和17年11月26日に二十七歳で出征。叔父の弘平は18年に20歳で学徒出陣で出征し、その下の叔父の豊作は19年に海軍飛行予科練習生(予科練)として16歳で入隊しました。その時の「御祝受納帳」には親戚や近所の人たちの名前が100人以上も記されています。3人の子供達が次々と出征した時の祖父母の心情や、前橋から大間々へ嫁いですぐに夫を送り出した私の母のことを思うと心が痛みました。幸いにも三人無事に生きて帰ってくれたので私たち姉弟や従兄弟が生まれ、今も皆、仲良く暮らしています。 t父は終戦後、捕虜となり、シベリヤに抑留されました。その時の様子を記した「戦慄の思ひで」と題する父の手記には、過酷な強制労働の様子などが記されていました。
 昭和21年9月8日、強制労働へ行くために小さな舟に大勢の捕虜が乗せられ、アムール河支流の川を渡りました。その時、舟が激流にのみ込まれ、36人のうち24人が亡くなるという大惨事に遭いました。父が生き残れたのは、数日前に戦友が川に飯盒を落としてしまい、その飯盒が左岸へ流れて行ったのを思い出し、元の岸へ戻るのではなく左岸へ向って泳いだお蔭でした。その時の情景が父の手記に記されています。
「…流れにまかせて左岸へ向かった。瞼に家族の顔が次々に浮んでくる。『しっかりしろ、死んじゃ駄目だぞ』と励ましてくれる。故郷の山々や高津戸の峡谷も目に映る。そうだ、家族は毎日俺の無事を祈っているのだ。絶対死んではならない」そう思うと急に元気が沸いてきた。…」 g極寒のシベリヤでの抑留生活に耐え抜いた父は昭和22年6月26日に舞鶴港に着き、念願の故国の土を踏みました。その後、命を落とした戦友の家を一軒一軒探し歩き、抑留生活の様子を伝えてきたと最後に記しています。Jj                            t父は死ぬまで毎年、4月29日に靖國神社に参拝し、亡くなった戦友に手を合わせていました。私の名前の「靖」は、靖國神社の「靖」だと父は生前よく言っていました。