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「小耳にはさんだいい話」へ


31号〜40号


31号 気づきは感動
 先日、ある話を聞いて、「気づき」とは感動だ!ということを教えられました。
立山裕二さんは1歳半のときに小児マヒにかかり、何でボクだけが、と悔しい思いをし続けました。ところが、11歳の時、「神様がボクならこの病気を我慢できると思ったのかも知れない」とふと考えました。
「ああ、神様が選んでくれたのだ」と気づいた瞬間、立山さんは人や自然に優しくできるようになったそうです。そして、15歳の時、「他人が足の心配をしてくれましたが苦労とは思ってはいませんでした。しかし、ある日突然『そうだ、本当に悔しくて苦労しているのはボクではなく両親だ』と気づいた時、両親への感謝が芽生え、親孝行がしたいと思えたのが嬉しかった」と語っています。立山さんは小児マヒのお陰でいろいろなことに気づき、感謝の心が芽生え、行動が変わってきたのだそうです。
こんな話も聞きました。結婚して、赤ちゃんが欲しいと願い続けながらどうしてもできなかった夫婦に、なんと13年目にして赤ちゃんが授かりました。「ねえ、あなた。早く、早く私の赤ちゃんを見せて」とせき立てる奥さんに、ご主人は動けなくなってしまいました。赤ちゃんは奇形で生まれてきてしまったのです。ご主人は、言葉を探すことができないまま奥さんに赤ちゃんを見せました。奥さんは一瞬顔がくもったと思ったら、すぐに微笑みを取り戻して、こう言いました。
「ねえ、あなた。神様がこの赤ちゃんを、どの家庭に預けようかと、何年も何年も世界中をお巡りになったので、こんなに年月を要されたんですね。そして、この夫婦なら大丈夫と、そう思われて私たちに託されたんですもの。ねえ、あなた、しっかり育てましょうよ」まさに気づきは感動ですね。

32号 やるきとほうき
 3月2日、「大間々の21世紀を考えるシンポジウム」が開催されました。感心する意見が多い中でも特に6丁目の「ハルモニア」さんの鏡裕史さんの意見はとても具体的でわかりやすい内容でした。「街おこしとか活性化とか難しいことはわかりませんが、まず自分が住んでいる町を知ることが第一だと思います。ながめ余興場の建物は、ここにあるだけで人をひきつける魅力がある不思議な建物ですね。イベントの時には余興場へ足を運んでみるとか遊歩道を誰かと一緒に歩いてみるとか、小平で焼き物を焼いてみるとか…とにかく街との接点を多く作ることが大切だと思います。そして、活性化の議論よりもまずできることから具体的に行動してみること、例えば、毎月決まった日にみんなが一緒になって大間々駅のトイレ掃除をしたり、ゴミ拾いをしたり、そういったことの方がずっとわかりやすいし街への愛着が深まるのではないかと思っています。」
聞いていてなるほど鏡さんならではの素晴らしい提案だと思いました。
鏡さんは半年以上前から毎週金曜日、朝6時から大間々駅のトイレ掃除とゴミ拾いを仲間と一緒に続けています。去る1月9日、記録的な大雪が降った翌朝の金曜日、大間々駅の方から長靴をはいて、トイレ掃除の道具の入ったバケツを持って帰ってくる鏡さんに会いました。「今日はボクひとりだったのでチョコチョコッとやってきました」と白い息を弾ませながら笑顔で話す鏡さんがまぶしく見えました。
 街おこしの議論がにぎやかに繰り広げられている昨今、鏡さんの提案する掃除こそが町を美しく活性化する第一歩だと思います。只今、掃除仲間を募集中です。持参するものは「やるきとほうき」です。

33号 子供達からの卒業証書
 大間々中学校のK先生は37年間の教員生活を終えて今春、定年を迎えました。
「教師という職業はたくさんの人と出会って別れて、また出会って別れて、その繰り返しの中で一期一会に胸ときめかせて続けてこられた仕事です。…」という素敵なお手紙をいただきました。子供達から見たK先生は「厳しいけど、いいことをするととっても褒めてくれる」「授業は脱線するけど、いい話を聞かせてくれる」「自分達のことをしっかりと見ていてくれる」…。
 子供達が中心になって「K先生を送る会」が開かれたそうです。2学期の合唱コンクールを聴けなかったK先生のために130名の生徒が素晴らしい歌声をプレゼントしました。そして、「あなたは37年間教師として…」という書き出しではじまる心のこもった手づくりの卒業証書まで作り、成績表には男らしさ…5、忍耐力…5、包容力…5。「子供の頃にはこんな良い成績表をもらったことなかったなあ」と嬉しそうでした。
 4月からは嘱託として、ある中学校の生徒相談の仕事をされています。「今を盛りに咲き競っている桜の中で一本だけ遅れて咲けない木があります。例えてみれば今度の仕事は、拒んでいるこの一本とどんな会話が出来るか、という仕事です。」とK先生。先日、K先生は「…学校へ行けず担任の先生とも顔をあわせたことがなかったという生徒に会えたんですよ」と話してくれました。家に何度も通い、一方通行のメッセージを送り続けたK先生の心が通じたのでしょう。「帰り際に部屋の窓からそっと手を振ってくれたように見えました」…と。
 K先生の新しい仕事は教員生活37年の集大成として神様が与えてくれた天職のように思えました。
34号 びよういんの木

 岡村理君は、大気汚染が原因で気管支喘息になってしまいました。入退院の繰り返しで小学校にはほとんど通学出来なかったそうです。そんな岡村君が、病室で五ケ月かけて「びょういんの木」という絵本を作りました。この絵本は、病院の庭にある一本の木と対話しながら、患者さんやお医者さんや看護婦さん達の心温まるエピソードを紹介してゆくというもの。本の一節をご紹介します。
 びょういんの木。おおきな木。あなたは何をささやくの?ちょうど今、あの子らのおばあちゃんが死んだのさ。とってもすてきなおばあちゃん。ガンで、骨がとけてしまっても、「困った人を助けるためのバザーにだすの」「老人会の一人住まいのなかまにあげるの」「孫たちが、外で元気に遊べるように」ってチクチクいつもベストをあんでいたんだ。「おばあちゃんの体はなくなっても、おばあちゃんは君達の中に生きているよ。」おいらはそうささやくのさ。… 
絵本には家族に囲まれたやさしそうなおばあちゃんの姿がクレヨンでていねいに描かれています。
高崎市の小学校の内堀一夫先生は授業でこの絵本を子供達に紹介しました。そして子供達から岡村君に「病院にいても絵をじょうずに描き、素晴らしい文が書ける岡村君はすごい」「いのちを大切にすればきっといつかはいいことが発見出来る」と三十六通の手紙を送りました。そして岡村君からの返事には 「白血病で亡くなった同級生に比べれば、僕なんか足元にも及ばないよ。苦しくて吐きながらでも『早くよくなってお母さんを楽にさせたい』と死ぬ直前まで頑張った子もいるんだ。」「自殺を考えている人がいたら、生きたくても生きられなかった子がいることを教えてあげたい…」と。「弱虫だった僕だけど、生きる勇気と希望、人間の輝きと暖かい思いやりを教えてもらった。今度はそれをみんなに伝えたい」そんな岡村君の思いが届き『びょういんの木』が映画になったそうです。機会があれば大間々で上映し、みんなで観てみたいですね。   


35号 いのちの根
 相田みつをさんが生前に発行していた「円融便り」という新聞を友人からお借りして読みました。その中で相田さんの師である武井哲応さんの話はとても印象的でした。
「ぼくは秋田の田舎の生まれでね。家は百姓だった。父親が早く死んだため、ぼくは親父の顔を覚えていない。おふくろが畑や田圃の仕事に行く時は、大きな籠を背中に背負ったおふくろの後を必ずついて行った。今から思うと、おふくろも親父に早く先立たれてたいへんだったろうなと思う。そのおふくろがね、畑に行く途中で、道端に咲いている野の花を少しだけ鎌で切ってね、背中のかごに入れるんだな。「今日は仏様の命日だから…」といってね。ぼくは子供だったからよく解らなかったけれど、多分なくなった父親の月の命日か何かに当たっていたんだろうな。「のんのさんにあげようね」といいながらおふくろが花を採るわけだ。するとこどものぼくは、畑へ上ってゆく途中でね、お袋が採った花よりももっと大きい花を発見するんだな。そしてその花を抜こうとしたんだ。それを似たお袋がね、その時こういったんだな。「揺すぶっておくだけだよ、抜かなくてもいいんだよ」と言ってね、ぼくが掴んだ花をね、「抜いちゃいけない」て、注意したんだな、ぼくは「のんのさんにあげるんだから採って行くんだ」とだだをこねたんだな。するとお袋がこういった。「のんのさんにあげたよ、といって、花をゆすぶっておけ場、のんのさんにあげたことになるんだからね、抜かなくてもいいんだよ」と。小さな子供のぼくにね、花の命を大切に、何て言ったって解りはしないな。ただ自然にね、「のんのさんにあげたよ、といって花を揺すぶっておけばいいんだよ」と具体的なやり方、具体的な事実だけを教えたんだな。モノの命を大切にしなければいけない、と、しゃっちょこばった理屈を言ったわけじゃない。もっといっぱい花を採ろうとした子供のぼくにね、その時さりげなく言っただけだ。ところが、その時のさりげないおふくろのことば、しぐさがね、年を取って考えるとね、いつのまにかぼくの命の根になっているんだな、すべてのものの〈いのち〉を大切にするというね、人生観と言うか、物を考える時の根底になっているんだな。山の畑へ仕事に行く途中でね、さりげなく言った園子とが根、ぼくの一生のいのちの根になった。理屈じゃないんだなあ」  

36号 心温かきは万能なり

 さる七月十九日、ながめ余興場で鍵山秀三郎さんの講演会がありました。鍵山さんは、現在店舗数450店、売上高一千億円を越えるカー用品の「イエローハット」の創業者。三十六年前、会社をつくった頃のことをこんな風にお話になりました。
『私は絵に描いたような心温かい会社をこの世の中につくろうと思い自転車一台の行商からスタートを致しました。本当に屈辱的な目にも何度も会いました。店の中から手で追い払われたり、名刺を出してもチラッと見ただけで無視される。人間無視されたり、冷たくあしらわれるくらいつらいことはありません。ですから私はそういう目に遭えば遭うほど、人にはこういうことはしない人間になろうと心に堅く誓いました。 一方、温かい人もいらっしゃいました。
昭和三十七年の二月のみぞれの降る寒い日に自転車に荷物を積んで歩いておりました。ある小さなガソリンスタンドさんの前で、入って良さそうかどうか感触を確かめてから合羽を脱ごうとしておりましたら、ドアを開けて私の手を持って中へ引っ張り込んで下さる方がいる。「ああ寒いでしょう、冷たいでしょう」といって私の肩に手を掛けて両方の肩を持ってストーブの前へ連れていって「寒いから火におあたんなさい」と言って下さる。私は濡れた合羽のままですから、その方の洋服が濡れてしまうことを気にしたのですが、そんなことはおかまいなく「今団子を買ってきたところだから一串食べなさい」といって私にくれたんです。涙が溢れちゃって食べられませんでした。「世の中には何と心の温かい人がいるものか、私もこういう人間になろう」と強く思いました。その人は今は亡き歌手の藤山一郎さんでした。』
 多くの心温まるエピソードを織り混ぜながらの素晴らしいご講演の最後に、後援団体でもあった「ひいらぎの会」の車椅子の久人君と千恵子さんからの花束の贈呈の際、なんと鍵山さんはサッとひざまずき、二人に目線を合わせて花束とお土産を受け取りました。心温かい人間になろうとお話になった鍵山さんのお話通りの実践を見て更に多くの方が更に感動を強くしました。          


37号  青いあざのおかげで

 上甲晃さんという方の講演の中で印象に残ったお話がありました。『私は、ある育英財団の選考委員もしております。大学に通うための奨学金を出してあげる選考試験でのこと、面接に訪れた人の中で顔の半分にあざがある女性がいました。ああ可哀そうだなぁ、と思ったんですね。他の選考委員の人達も誰もその事に触れず、面接が全部すんだんですが、彼女が、最後にこう言うんです。「私のあざを観て下さい。このあざは病院に行きましたら、治る、取る事ができると聞きました。だけど本当に取っていいかどうか悩んでいます」…そんなものはやく取ったらいいのにと、私は内心思ったんです。ところが彼女の言うには「確かに、このあざのために本当にいじめられました。しかし、いじめられている私を観て、本当に私を支えてくれた友達もいました。青いあざのおかげで本当の友達にめぐりあうことができました」と言うんですね。この子は「学年で成績が一番になれたのも、青いあざのおかげだ」と言うんです。私はその言葉を聞いて、十七歳の高校生だけど、えらいなあと思いました。外見的にみたら、青いあざなんか何のプラスにもならない。何の得にもならない。本当に邪魔にこそなれ、何にも生まないと思ったけれども、彼女はその青いあざのおかげで、ここまで自分が頑張ることができ、本当の友人ができたと言うのです。
「全てこの青いあざのおかげです。だから本当に簡単に取ってしまっていいものか、悩んでいます」と言う言葉に私はたいへん勇気を与えられた気がしました。変えることも逃げることもできないことについては「それもまたよし」というふうに考える時に初めてハンディキャップも「またよし」と生かすことができます。そして、その「生かす」ということが人間の生きるという意味ではないかと思います。』               

38号 ワールドカップ体験記
 水戸市で、お洒落な雑貨と甘味喫茶のお店を経営している親友から手紙を頂きました。
『…長女の華子(十二歳)と私はリヨンのジェランド競技場にいました。ワールドカップ最終戦もジャマイカに負け、虚脱感が応援席を包んでいる中、最前列の二〜三人の日本人サポーターが敗戦の悔しさで目を真っ赤に腫らしながらブルーのビニール袋を手に「皆さん、ごみを袋に入れましょう」と呼び掛けていました。華子も私も彼から袋をもらい周囲の人に声を掛けて紙吹雪や空コップ、紙屑を拾い始めました。すると、多くの日本人の観客が足を止めて座席の回りのごみを拾い始めました。満杯になったビニール袋をもってサポーターの『掃除呼び掛け人』の彼に握手を求め「日本は試合には負けたけどサポーターとしては世界一だよ、感動をありがとう」と伝えると、彼の目にも熱いものがこみあげていました。四万四千人収容のスタンドを日本人サポーターが掃除をした様子に改めて日本人としての誇りを感じました。その光景を見ていたフランス人ボランティアの年配の方々は目頭を熱くして『美しい姿を日本人に見た』と体で訴えてくれました。思わず華子と目を合わせると彼女の目もつき上げる心の高まりで潤んでいました。帰り際にIDカードを首から下げたフランス人に呼び止められました。「フランス語、ワカリマスカ?」「少しなら分かります」「私は皆さんが試合後、掃除をしたことに大変驚いています。このような素晴らしい日本人の方々をリヨンのスタジアムにお招きできたことを至福の喜びに感じております。私たちフランス人の喜びを日本の方々にも知らせてあげてください。メルシ・ボク」と私に固い握手を求めてきました。フランスでは心の財産を得られ、生きる喜びを感じて帰って参りました。』       

39号 見えないものが見えてきた
 井上わこさんという盲目の歌手の人の話を知人から聞きました。
井上さんは34歳の時に交通事故に遭い、後遺症で半年後に右目を失明。「お医者さんから、左目も見えなくなると言われた時には、まだ左目は見えていたのに、その時点で全てが見えなくなってしまいました。
自分で全てを見えなくしてしまったんです」・・・と。
人に面倒を見てもらわなければ生きられないならと毎日死ぬことばかりを考え入水自殺も計りました。「死のうとしても死ねない人っていうのは、生きなあかんよ、と言う病院の先生の侵しい言葉に涙が出ました。
先生は拒食症の私に、もどしてもいいから食べなさい、と言ってくれました。でも本当にもどしてしまって。そうしたら先生が自分の手で私がもどしたものを受けてくださったんです。そんな優しい先生や看護婦さんのお陰で立ち直ることができました。」それ以来、井上さんは歌手としての自分の使命を感じ、老人ホームや養護施設の慰問を続けています。そして、施設の人達へのお土産にマフラーを編み始めました。目が見えないため最初の1枚を編むのに8ヵ月もかかったそうです。しかし、やがて1日に3〜4枚は編めるようになり、10年間で1万枚以上も編んだそうです。
井上さんのもう一つのライフワークは盲導犬の寄贈活動。昭和63年から1年に1頭を目標に寄贈を続けています。「あんなにすさんだ生活をしていた私が人に喜ばれる事ができるというのは大きな幸せです。今まで見えていたものは見えなくなったけど、多くの人との出会いがあって、見えなかったものが見えてきました」・・・と。
11月8日には11頭目の盲導犬の贈呈式が行われるそうです。

40号 友ちゃんの銀メダル
 中村勝子さんは知的障害を持つ人達にスポーツを通して「やる気と勇気」を育てるスペシャルオリンピックスの事務局長さんです。
中村さんは当時2歳のダウン症で難聴の友ちゃんに体操を教え始めました。
「普通の子なら3分もあれば前転は教えられますが理解力の余りない子に教えるのは難しいことでした。また、ダウン症の子は平衡感覚が乏しく低い台から飛び下りるだけでも何ヵ月もかかりました。初めて飛べた友ちやんの満足そうな顔を見て涙が出るくらい嬉しかった」と言っていました。
 コツコツと練習を続けて8年目、国際大会に出場しました。初めての大舞台で耳の聞こえない友ちゃんは音楽が鳴りだしても緊張と不安で立ったままでした。
観客の人達が何とかして少女に演技をさせようと大きな声援を送り、会場全体が揺れました。その雰囲気に気づいた友ちゃんは手を広げてぱぁーと踊り始めました。
曲はすぐ終わってしまいましたが耳の聞こえない友ちゃんは最後まで一所懸命演技を続けました。決勝が終わって友ちゃんは10点満点の4・75でした。
ところがアナウンスは「ジャパン・トモコ・フルモト、シルバー」なんと銀メダルだったのです。
スペシャルオリンヒックスは、どんなに頑張っても5点位しかとれない者が4・75とった大変な努力に対して銀メダルを与えたのです。
中村さんは「ほら見てごらん、世界はこんな素晴らしい価値観を持っているじゃない、今の日本の教育はやはり間違っている」と思ったそうです。
「医学がどんなに進歩しても、2%位は心身にハンデを持った子供は必ず生まれます。それはその周りにいる人達に優しさを教えるために、神様からプレゼントされた人達なのだと思うのです」と熱く語る中村さんの澄んだ瞳が印象的でした。