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「小耳にはさんだいい話」へ


161号〜170号


161号 無力と微力の2人の天使

 ひとりが変われば未来は変わる」と、映画製作や環境問題に取り組んでいる「てんつくマン」(天国を創るニューヒーロー)のメールマガジンに素敵なお話が載っていましたよ、と八潮市の「あいさん」に教えてもらいました。

『その街に二人の天使が舞い降りた。天使が舞い降りた街はゴミだらけの街だった。あまりのゴミの多さや、人の心に天使は悲しくなった。
一人の天使は自分を「無力」と呼び始めた。もう一人の天使は自分を「微力」と呼び始めた。無力の天使の口癖は
「私だけがゴミを拾ってもしょうがない」。微力の天使の口癖は「私は私が出来ることをやってみるわ」。
無力の天使はゴミだらけの街を見て絶望を感じて街から目をそらして、毎日空をながめていた。微力の天使は一度は絶望を感じたものの一日一個、ゴミを拾い始めた。
一年後、無力の天使は空の素晴らしさをいっぱい知った。
朝日の美しさ、夕日の美しさ、虹がかかった時の素晴らしさ。一年後、微力の天使は微笑んだ。街から365個のゴミが無くなった。それから一年、微力の天使は毎日「ありがとう」って言いながら過ごしていた。それは、微力の仲間がいっぱい増えたから。「一緒に拾うよ、私の力も微力だけど」。10人の微力達が一緒に拾った。3650個のゴミが無くなった。
それから、一年、無力の天使は空の美しさだけでなく、街の美しさにも気づき始めた。街がピカピカになっていた。なんと、街では1000人がゴミを拾っていて、一年間で365000個のゴミが無くなった。微力の天使は言いました。「始めはゴミを拾うのは大変でした。でも、今は拾うゴミを見つけるのが大変です」
無力の天使の心から絶望が消えて行きました。「あなたが動いてくれたから、この街は天国になった。天国は動いたら創れるんだね」と無力の天使は言いました。…』

 12年前から毎週金曜日の朝に行っている大間々駅前トイレ清掃は1週も途切れることなく、1月9日に600回を迎えます。微力ですがこれからも長く続けて参ります。

162号 命のバトンを受け取るために
 島根県隠岐に浮かぶ小さな離島、知夫里島。この島で看取りの家「なごみの里」を運営する柴田久美子さんとは数年前からご縁を頂いています。その柴田さんの「命のバトンを受け取るために」という本を読んで感動しました。
 柴田さんはこの本の冒頭で「人間は両親から『身体、良い心、魂』を頂いて産まれてくる。そして、この世を旅立つ時、身体は朽ち、良い心と魂は縁ある人に『生きる力』として渡されていく。これが『命のバトン』であり、その受け渡しこそが人としての最大の使命と、幸齢者様は死をもって私に教えて下さる。
この大切な命の秘密を一人でも多くの方にお伝えしたいという思いを、私はこの小冊子に託した」と書いています。
 様々な最期の場面の中で、看取りの時も誕生の時と同じように、新たな家族の絆が結ばれることを知りました。
介護日記A友に寄り添って、では柴田さんの腕の中で逝った友人とその子供さんとの最期の場面が綴られています。

「二時二九分ですね」、医師はそう言って退室。この時から、また私達だけの時間が始まった。「お母さんの温もりを感じて」、そう声をかける私に子供たちは長い時間、温もりの残る場所を探しながら感じ続ける。「脇の下がまだ温かいよ」、そうほほ笑んだ娘さんの顔が友の顔に見えた。一番下の娘さんが言う。「私は、死は怖いと思っていました。お母さんが死んでも、こんな風に触れるなんて思ってもみませんでした。柴田さんがいてくれたから、触れて感じることができました。死って怖いものではないんですね」
冷たくなっていく友の体に私たちの温もりを伝えながら、朝を待つ。温もりも冷たさも、命がけの友からの贈り物。生きるために人は生まれてきたことを、そして、最期の時「命のバトン」を次の世代に伝えることが最大の使命だと教えてくれた友に感謝、合掌。」

 この章を読みながら、大間々の福田ミツさんから頂いた歌集「擬宝珠」の中にあった一首を思い出しました。
ぬくもりのほのかに残る
  母恋ひて
   頬よせ呼びぬ涙にむせび
163号 未来に向けて
 今年、立志式を迎えた桐生の樹徳中学校の生徒さんたちが書いた「立志」という文集を読ませてもらい、樹徳生たちの「志」の高さに感動しました。中でも林千尋さんの「未来に向けて」という作文は読みながら涙が出ました。

 昨年の三月二十五日、一緒に暮らしていた大伯母が亡くなった。父は、翌日、公共事業の検査があるためどうしても行かなければならず、長い時間、大伯母に手を合わせてから出かけていった。母も、その晩、翌日の保育園の卒園式で読む式辞を涙を流しながら書いていた。「どんなにつらい時でも、投げ出すことはできない。やることはやらなければならない。仕事って大変なものだな。」とつくづく思った。
 十月十二日には、祖父が亡くなった。夜中、病院から電話があり、すぐに家族のみんなでかけつけた。そこには、すでに動かなくなっている祖父の心臓を一心不乱にマッサージしている看護師さんの姿があった。医師が臨終を告げると「助けられなくて、ごめんなさい、ごめんなさい。」と何度も何度も泣きながら謝っていた。「最後まで自分の持っている力を全部出し切っていたにもかかわらず。仕事って厳しいものだな。」と強く思った。
 私たちは、なぜ、つらい大変な思いまでして働くのだろう。「自分のため」だけならいつでも投げ出すことができる。しかし、そうではない。自分を取り巻く「まわりの人のため」、さらにそれら全てを包み込む「社会のため」という大きな目的がそこにあるように思われる。(中略) 
 去年は大切な家族が二人も亡くなり、とても悲しいつらい年であった。しかし、家族の死を通して、仕事に立ち向かう父や母、看護師さんの姿からたくさんのことを学ばせてもらうことができた。まだ、「○○になりたい」という答えは出ないけど、私にとって大きな一歩を踏み出すことのできる年となった。

『メメント・モリ(死を想え)』という本に「死とは、死を賭して周りの者を導く、人生最期の授業」と書いてあったのを思い出しました。
164号 娘の言葉があればこそ
 2ケ月に1度、夜7時から9時まで、高崎で「まごころ塾」という勉強会が開かれています。学校の先生が中心の会ですが、有難いご縁で第1回から参加させて頂いています。有名無名を問わず、まごころを大切にしている方々を講師に招いてお話を聴き、それを毎回、書記の新井国彦先生が「まごころ通信」にまとめて送ってくれています。前回の講師のYさんのお話も感動し、考えさせられました。 
「…電気工事士として引き抜かれ、次の会社でも頑張っていたのですが、その会社が不振になり、リストラをせねばならぬ状態になりました。
私は誰かが辞めさせられるなら、自分が辞めれば一人は救われると思い、自分から申し出て退社しました。その後、屎尿汲み取り(役場の現業職)に従事することになったのです。妻と長女は事情を理解し、早くに納得したのですが、長男が反発して一週間も飯を食わないような状態でした。長女は高校生で、長男は中学生だったので無理もないことです。でも、『職業に貴賎なし。誰かがやらねばならない仕事が世の中にある。お前は、もし、友達の父親が汲み取りをしていたら、そいつと付き合わなくなったり、その父を軽蔑したりするのか』と諄々と言い聞かせ、ようやく長男も納得させたのです。
 ある日、地元の本屋さんで汲み取り作業をしていたら、女子高生数人が遠くから来るのが見え、長女もその中にいました。友達の手前、こんな父親の姿を恥ずかしく思いやしないかと、とっさに物陰に隠れようとしたのです。その時『お父さん、頑張って〜』と離れた所から長女が声をかけてきたのです。私は、日頃言ってきたことと、自分のとった行動の違いに情けなさを感じました。娘の方が人間としてどれほど立派か、と思い知らされた場面でした。今でもこの時のことを思うと涙が出てきます。この時の娘の言葉が私の人生を支えてきてくれたのです。…」
 
 平成13年に始まった「まごころ塾」は毎回、深い感動と学びを重ね、今年5月には50回を迎えます。 
165号 ハムロ(我らの)OKバジ
 「神々の山嶺(いただき)」、「世界の屋根」と呼ばれる雄大なヒマラヤの山々。その美しい大自然は、そこに暮らす人たちにとっては苛酷な環境でもありました。ネパールの中でも特に貧しい東パルパ地方。その中でもさらに山また山を越えたところに点在する村々の支援活動を続けているのが、「OKバジ」と呼ばれている垣見一雅さんです。
 パルパ県の中でも最も標高の高いところに作られた灌漑用水路もOKバジの支援と村人たちとの汗と涙の結晶でした。僻地の村には政府やNGOの手が届かず、多くの事業がOKバジの支援に頼っています。この困難な水路建設に挑んだ村人は19人。山肌の固い岩盤を鑿(のみ)で掘り進み、5年がかりで4キロの水路を完成させたそうです。村人たちのためにOKバジは食料や道具を調達し、村人と一緒に鑿を振るいました。それまでは年に1度、トウモロコシしかできなかった880アールの畑が田んぼに変り、村の暮らしも豊かになりました。単なる資金援助でなく、村の生活向上のために一緒に考え、一緒に働くOKバジの姿を見て村人たちの自立心も大きく向上して行きました。
 今から5年前、OKバジのネパール滞在10周年を記念した式典にはパルパ県の各地から1万5千人もの人が感謝とお祝いのために何時間も歩いて集まったそうです。その時にネパール語で出版された「ハムロ(我らの)OKバジ」という本は英語や日本語にも翻訳されました。その本には「時間と約束を守る人。村の生活向上と子供たちの将来のために限られたお金を最大限に活用し、神様のように尊敬され、家族のように愛されているOKバジ」の姿が多くの村人たちの言葉で生き生きと記されています。  支援者から贈られた新しいTシャツは村人に与え、自分は色あせたTシャツを着て、首にタオルを巻き、ニコニコと村々を歩くOKバジ。
 毎年6月・7月には一時帰国して全国の支援者に対してお礼の報告会や講演会を開いており、6月20日には桐生でも報告会が開かれます。
166号 半ケツとゴミ拾い
 数年前に志帥塾という勉強会で知り合った荒川祐二さんが樹徳高校の緑蔭祭で「半ケツとゴミ拾い」というテーマで記念講演を行いました。
 知り合った当時は上智大学に入学したばかりの学生だった荒川さんは3年前に「自分を変えたい」という一念から、たった1人で新宿駅東口のゴミ拾いをはじめました。集めたゴミをヤクザに蹴られたり、「偽善者」とののしられたり、ツバを吐きかけられるといった屈辱を受け、「もうダメだ」と続けることを諦めかけた時にホームレスの石浜さんというオジサンが手を貸してくれるようになりました。いつもズボンが半分ずり落ちて「半ケツ」状態。毎朝「はじめまして」というのが口癖のチョッと変わった石浜さんが手伝ってくれるようになってから荒川さんもゴミ拾いが楽しくなり、続ける決心がついたと言っていました。
石浜さんと2人のゴミ拾いが続くうちに3人、4人と少しずつ仲間が増えました。そして、1ヶ月が過ぎたころ、「偽善者!」とののしり、顔にツバを吐きかけたあのヤクザのおじさんが無言で缶コーヒーを差し出し、小さな声で「いつもありがとうな」と言ってくれたそうです。「ボクは裕福な家庭に育ち、どんな高価なものをもらっても感謝などしたことがなかったのに、たった1本の缶コーヒーと『いつもありがとうな』のひと言が素直に嬉しくて、あの時初めて心から感謝ができました」と話していました。
 一昨年の5月3日(ゴミの日)、荒川さんは、この日を日本全国でゴミを拾う日にしようと提案し、「全国同時多発エコ」というイベントを開きました。北海道から沖縄まで全国30ヶ所で444人がゴミ拾いに参加したそうです。そして3回目の今年は世界26カ国、国内200ケ所、15,534人がゴミ拾いに参加したのです。この日は郷土を美しくする会も荒川さんの提案に賛同、赤城駅周辺のゴミ拾いを行いました。
「ひとりの一万歩より一万人の一歩。勇気を出して一歩を踏み出せば楽しい世界が待っています」という荒川さんの言葉には、実践した人だけが持つ説得力がありました。
167号 ありがとうの行脚
 ネパールの山奥の村々を歩き、単身で支援活動を続けているOKバジ(OKおじいさん)こと垣見一雅さんは毎年6月に一時帰国し、全国の支援者への報告会や講演を行っています。6月20日には、ネパールのサチコール村で活動を続けている桜井ひろ子さんも参加して桐生市昭和公民館で報告会が開かれました。  
 21年前、ヒマラヤトレッキング中に垣見さんと運命的な出会いがあった桐生市の富澤繁司さんはその時以来、親交を深めて、16年前に垣見さんが教職を辞してネパールに移住したのと同時に桐生市で支援団体を結成しました。16年の間に支援した総額は1850万円を越えました。この1年で「OKバジを支援する会」の支援で実現した事業は図書館建設、橋の建設、飲料水確保の支援、小学校建設や運営基金など。垣見さんは報告の中で「村に橋ができたお陰で子供たちを命の危険から守ることができ、今まで飲料水確保のために1.5キロの道を毎日歩いていた女性や子供たちは近くで水が確保できるようになって喜んでいます。16年前、皆さんの支援で最初の小学校を造った時の一期生が今は21歳。コンピュータの修士の資格を取りました。学士も28人誕生し、村人たちは人の支援に頼るだけでなく自立の道を歩み始めています。今、私は支援の行脚ではなく、ありがとうの行脚です」と話しました。垣見さんと一緒に村歩きをした桜井ひろ子さんは「バジは語らぬ人の声に耳を傾けるために村々を歩いています。バジの支援は村人が自立するためのお手伝い。行く先々の村で『バジのお陰でこの子の命が助かりました』『バジの支援で学校へ行くことが出来ました』という声を聞きました」と。
 足利屋では先月「ネパール写真展」を開催し、OKバジへの支援を呼びかけました。写真展をご覧になった方や虹の架橋のホームページを見た方から合計76,000円の支援金が集まりました。中には「匿名で…」と定額給付金1万2千円をそっくり寄付してくださった方も2人。6月20日、皆様からの善意をOKバジにお渡し致しました。
168号 掃除に学ぶ
7月10日、みどり市立笠懸東小学校の6年生85人が授業の一環として校内8箇所のトイレ掃除を行いました。「スーパートイレ掃除」と名づけられた掃除は除菌クリームを塗ってから素手素足でひとり1便器を1時間磨き続けるというもの。掃除から何かを学ぼうという趣旨で3年前から続けられています。
 今年の6年生にとって最初のスーパートイレ掃除となったこの日は大間々駅や赤城駅のトイレ掃除を続ける「郷土を美しくする会」のメンバー8人が手伝い、子供達と一緒に心地よい汗を流しました。
 数日後、6年生全員の感想文が届きました。どの感想文も子供たちの心の動きが手にとるようにわかって感動しました。その中の武井里紗さんの感想文をご紹介致します。

『私は最初トイレそうじがいやでした。汚れているだろうなーとか、便器に手はつっこめないと思いました。でも、前の6年生やその前の6年生もいやだったけどやってきたんだと思い、トイレそうじをする決心がつきました。最初はあまりつまらなかったけどやっていると楽しくなってきました。スポンジで水をぬくと、よく見えなかった奥の部分や汚れが見えてきました。便器のまわりの見えないところはひどくてサンドメッシュで強くこするとたくさん汚れが落ちてきました。水を流してみると白くピカピカになりました。とても楽しくなってもっとやりたくなりました。
 私はこのトイレ掃除でたくさんのことを学びました。いやなことでもやれば必ずいいことがあるということ。きれいにする気持ち。一歩ふみ出す勇気。私はこの三つをスーパートイレそうじをして教わりました。トイレがきれいでいやな気持ちになる人はいないと思います。私はトイレそうじが好きです。みんなの笑顔が私は見たいと思います。郷土を美しくする会のみなさん、本当にありがとうございます。皆さんのお陰で世界の学校のトイレがきれいになるといいです。家でもやりたいです。私はこの学校が続くかぎり伝統を残してゆきたいと思います。』
169号 1/4の奇跡
 ながめ余興場で上映され、全国でも感動の輪が広がっているドキュメンタリー映画「1/4の奇跡〜本当のことだから〜」を観ました。そして映画の原作ともいえる「本当のことだから」(山元加津子著・三五館)という本を読んでとても感動しました。
 養護学校の山元加津子先生と「大ちゃん」や「雪絵ちゃん」との心のふれあいを通して「生きることの素晴らしさや命の尊さ」を学びました。字は書けなくてもワープロは上手に打てる大ちゃんの詩は特に感動的でした。
 僕が生まれたのには
 理由がある 
 生まれるってことには
 みんな 理由があるんや

 この本の中に、「1/4の奇跡」というのはどういう意味かが書かれていました。
『アフリカでは鎌状赤血球貧血症という遺伝子の病気があります。その遺伝子を持っている人の兄弟を調べると、4人に1人が貧血症を発症し、呼吸困難などの障害を持ち、そのうちの2人は同じように鎌状赤血球の遺伝子を持っているけれど障害はなく、そして残りの1人は、その遺伝子を持たないのだそうです。鎌状赤血球の遺伝子を持つ人がたくさんいる一帯でマラリアが流行った時、鎌状赤血球を持つ人はマラリアにかからずに、その一帯の人たちが絶滅することなくすんだというのです。だから障害を持った人は、その一帯の人たちにとってものすごく必要な人だったのだ、ということでした』

 目が見えなくなり、手足が動かなくなり、息ができなくなるMSという難病で亡くなった「雪絵ちゃん」の詩も感動的でした。

 私、決めている事があるの
この目が物をうつさなくなったら目に、そして、この足が動かなくなったら足に、
「ありがとう」って言おうって決めてるの ‐笹田雪絵‐

 障害や病気は人類を救うために、人に優しさや強さを教えるために存在するのかも知れないと思いました。
 9月1日2日朝4時から、NHKラジオ深夜便に山元加津子さんが出演します。感動の話を是非、お聴き下さい。
170号 和顔と愛語
 秋田市の元山王中学校長の船越準蔵先生から「天網恢恢(てんもうかいかい)」という著書をいただきました。
 中国の老子の「天網恢恢、疎にして漏らさず」という言葉は、天の網は広く大きく、その目はあらいけれども、どんな小さなことでも見逃すことはない。お天道様はいつも見ています、という意味。
36編の心に響く随筆の中で「知らない人」というお話がとても印象に残りました。
 船越先生が教師になる時、お母さんから「この世で出会う人は、必ず前世でお世話になった人なのだから誰にでも『やさしい顔』と『思いやりの言葉』で接するように心がけなさい」と教えられ、その言葉を教師生活の生涯の道しるべにしていたそうです。
 定年退職後、船越先生は、市内の小中学校の子どもたちが野外活動をする「少年の家」に勤務していました。
ある時、研修に来た中学生の引率者のなかに教育実習の大学生がいました。彼女は以前、船越先生の中学校の生徒で、全国大会金賞を目指す吹奏楽部に所属していました。大会前の練習のし過ぎで腱鞘炎になった彼女に船越先生は精一杯のいたわりの言葉をかけました。幸い、腱鞘炎は順調に回復し、本番では立派にピアノを演奏して、全国大会でも金賞を受賞しました。
 すっかり大人になったその子と、研修開始までの短い時間に、中学校在学中の、懐かしい話をたくさんしました。その子のそばに、もうひとりの実習生がいましたがその人とは話す時間がありませんでした。研修開始の合図があり別れ際に、もうひとりの実習生が「私も山王中学校の卒業生です」と言いました。船越先生はアッと思いました。彼女の気持ちを思うと心が痛みました。研修中は何度も、この実習生に笑顔と優しい言葉をかけました。
 このとき以来、船越先生は「私の前に、知っている人と知らない人が連れ立って現れたら、必ず「知らない人」の方に「和顔」と「愛語」を先におあげすることにしよう」と心に決めたそうです。
「自覚なき加害者ほど恐いものはない」という言葉や気づきの大切さを学びました。