令和6年1月〜12月 |
令和六年十一月十五日(金) 大間々駅のトイレ掃除の朝、まだ薄暗い駅に着くと人影が動いていた。「おはようございます」という明るい声で林さんだとわかった。林さんは十四年前、初めてトイレ掃除に参加して以来、大間々の実家に帰ってくる時は掃除に参加してくれる。 文科省のエリートだが大間々の街おこしの若手のリーダーとしても活躍している。 掃除の後、林さんと大間々高校文化祭の地域探求発表会に来賓として出席した。生徒たちは地域の観光や商業などのテーマで学んだことや問題点等を発表した。大間々高校の「井上浦造みらい塾」の生徒たちは去年「高校生まちづくりコンテスト」で全国最高賞に輝いた。大高生たちの地元を愛する発表を聴いて嬉しくなった。 夕方、大高生の男女が手をつないで歩いていた。商店街が明るく見えた。 我々の世代が夫婦で手をつないで歩いていたら、老々介護と間違われそうだ。 |
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令和六年十月四日(金) ながめ余興場で中村勘九郎・七之助錦秋歌舞伎特別公演が開かれた。十八世中村勘三郎十三回忌追善公演でもあり、入口には勘三郎さんの遺影と生花が供えられていた。昨日の朝は八時に大型トラック三台が到着、大道具小道具の運び込みを黒子の会が手伝った。舞台と花道には足のすべりと足拍子の響きをよくするために分厚い檜の板を敷き詰め『檜舞台』に仕上った。 二日間の三公演に集まった千七百人の来場者は七之助さんの常盤御前、鶴松さんの牛若丸、勘九郎さんの弁慶の『五條橋』での大見得を切るシーンに大満足だった。 今から三十年前、廃墟同然だったながめ余興場を壊して文化センターにするという案もあったが黒子の会を結成して保存活用の運動を起こして芝居小屋が生き残った。 あの時「将来ここで歌舞伎公演をやる」と見得を切った黒子の会の弁慶達は歌舞伎公演を実現させ、赤子の会のように無邪気な牛若丸になっていた。 |
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令和六年九月十八日(水) 足利屋の定休日。夕方から和子と二人で「あいのやまの湯」に行った。ここは赤城山の麓にあり、夜は前橋の夜景が美しい日帰りの温泉施設。 この温泉は筋肉痛、慢性消化器病、冷え性、健康増進などに効くと書いてある。大間々から三十分で到着。フロントで年齢を聞かれた。高齢者は夫婦二人で六百二十円。驚くほど安かった。 サウナもプールもある。雨が降っていたのに露天風呂に入り冷えてしまった。サウナにも入った。サウナの中にテレビがあり、相撲をやっていた。大の里が十一連勝し、両膝にサポータを巻いた宇良が勝って勝ち越した。サウナに二十分も入っていたので冷えは収まったがのぼせ上ってしまった。 七十歳を過ぎてから冷えのせいか足がつるようになった。夫婦で足利屋の膝サポータをするようになってからは足がつらなくなった。結婚して四十五年。足の冷えも夫婦の冷えも温泉と膝サポータが温めてくれた。 |
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令和六年八月十五日(木) 大間々中でコロナ以降五年ぶりに開かれた『ラジオ体操会』に参加。六十年前、ここは大間々小学校だった。夏休み中は姉弟で首から出席カードを提げて体操し、判を押してもらって、夏休みの終わりにノートや鉛筆をもらうのが楽しみだった。三十年前は我家の子どもたちと一緒に参加した。 ラジオ体操は、昭和三年に昭和天皇が即位されたのを記念して始まり、大間々のラジオ体操会は日本で二番目に結成された歴史ある体操会だという。六十年前は、この校庭に子供が溢れていた。今朝の参加者は六十名ほどだったが子供は一人もおらず、ほとんどが同世代の高齢者ばかりだった。長い歴史を誇る大間々の体操会を存続させるためにも何とか子供を増やさなければならないと思ったが今朝の顔ぶれを見ると子供を産めそうな人も、産ませられそうな人もいなかった。でも、みんな楽しそうで重い体型の割には口も軽く、尻も軽そうだった。 |
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令和六年七月十三日(土) 足利市立美術館で『生誕百年相田みつを展』が始った。長男・一人(かずひと)さんのオープニングトークは笑いを誘いながら父・相田みつをの魅力を紹介していた。一人さんとは二十数年前、足利屋と足利のつながりがきっかけで親しくなった。 美術館へ行く前、法玄寺の相田家のお墓にお参りした。相田みつをさんの墓の隣に戦死した二人のお兄さんの墓があった。 ひぐらしの声』の詩を思い出した。ひぐらしの声は若くして死んだ二人の兄の声であり、死ぬまで二人の名を呼び続けた悲しい母の声であり、兄のことには一言も触れずに黙って死んでいったさびしい父の声だという詩を読むたびに涙が流れた。 相田みつをさんは不遇な時代も長かった。 『金が人生の全てではないが 有れば便利、無いと不便です 便利の方がいいなぁ』という作品もあった。 多くの人が「そのひぐらしの声」として共感している。 |
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令和六年六月二十一日(金) 富弘美術館で星野富弘さんのお別れの会が開かれた。みどり市長、群馬県知事のあとに友人代表として富弘美術館を囲む会千葉県支部長で群馬大学時代の親友の渡辺護さんがお別れの言葉を述べた。「星野、よく頑張ったな、ありがとう」という言葉にもらい泣きしてしまった。仙台支部、愛知県支部、徳島県支部、宮崎県支部の支部長さん達とも再会。富弘さんが世に知られるきっかけとなった『愛、深き淵より』の編集者の山崎園子さんとも十三年ぶりに再会した。富弘さんのお蔭で多くの人たちと知り合い、再会できたことに感謝した。 生前、富弘さんの家に行くといつもダジャレや親父ギャグで笑わされた。富弘さんの詩画に『メン類』があった。『うどんが好き、そばが好き、ラーメンも好き、麺類は何でも好き。そんなわけでシクラメンも好き」。メン類好きな富弘さんは今頃天国で「アーメン」と言っているかもしれない。 |
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令和六年五月十日(金) 大間々駅前のトイレ掃除が今朝で千四百回目を迎えた。二十七年前、街づくりの勉強会で東京から来た講師に「この町はいい町だが駅のトイレが汚かった」と言われたのが掃除のきっかけだった。夜の飲み会で「明日の朝から俺達で掃除しよう」と酔った勢いで始めた。あの日以来、大雪の日も台風の日も一週も途切れることなく八年前の九月九日に千回を迎えた。あの時は宮城県や静岡県や兵庫県からも掃除仲間が来てくれて前夜祭で盛り上がり、翌朝は六時から二日酔いで三十三人で掃除した。 千四百回目の今朝はお茶で乾杯だった。 千五百回目は再来年の四月十日。その時には香川県の親友國方卓さんも「生きていれば必ず行く」と早々に名乗りを上げてくれた。今から前夜祭の酔いが楽しみだ。 思い起こせば、人生の節目は酔った勢いに助けられた。四十五年前にプロポーズをした時は酔った勢いだったかどうか忘れた。 |
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令和六年四月十七日(水) 渥美清の『男はつらいよ』を第一作から第五十作の『お帰り寅さん』までネットで全部観終った。第一作の寅さんは55年前だった。 今、観直してみると昭和の時代がいかにいい時代だったかを改めて感じた。今なら「セクハラ」「パワハラ」「不適切にもほどがある」と言われそうな言葉や行動が飛び交っているがその言動の中に親しみや温かみがあり笑って許せる大らかな時代でもあった。 寅さんは失恋するたびに旅先から「拝啓 思い起こせば恥ずかしきことの数々、今はだた後悔と反省の日々を過ごしております」と絵葉書を書いていた。 二十五年間、寅さんを演じた渥美清さんは実生活でも旅先から毎日、お母さんに『俺元気』と葉書を書いていたという。 そんな優しくてシャイな渥美清さんとコンビを組んで失恋ネタの漫才をやってみたかった。コンビ名は「やすし・きよし」 |
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令和六年三月五日(火) 今回が三十回目のジョイ会に参加した。中国人の女医(ジョイ)徐桂琴先生とワシントン大学の故若林茂先生を中心に御殿場の『時之栖』で数人で始めた勉強会だったが今回は二十三人が集まった。 徐先生は『嬉しい』と中国語の『我来喜』(ウォーライシー)は似た発音。いつも嬉しいと言っていると身心も健康になります」と教えてくれた。人生をエンジョイしているジョイ会の仲間は皆、嬉しそうな顔をしている。『時之栖』の庄司社長が「やっちゃん日記の下ネタを読むと嬉しくなる」と言っていた。熊本の大野さんも「やっちゃん日記のけがれない下ネタは国宝級」と褒めてくれた。徐先生は「今はマスクをするため炭酸ガスが肋骨の下にたまってイライラする人が多い。白いネギを煮込んで食べると効く」と言っていた。 ネギといえば下仁田ネギ。下仁田も下ネタも体によく効く. |
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令和六年二月十八日(日) 全国芝居小屋会議に参加。会場の熊本県山鹿市に全国から芝居小屋関係者が集まり、会議や交流会で旧知の仲間と楽しいひと時を過ごした。 旅先での楽しみのひとつは朝のウォーキング。昨日の八千代座周辺の賑わいがウソのように朝の街は静寂に包まれ、ゴミも落ちていなかった。 朝六時、歩いて十分の「さくら湯」へ行った。四百年近い歴史があり、道後温泉と同じ雰囲気の九州最大の木造の銭湯は天井が高く、男湯と女湯の仕切りも古風だった。毎朝来ているというのおじいさんたちと話が弾んだ。「昔は風呂が五円で、近くに赤線?もあったばい。あの頃は男湯と女湯の湯舟の間に人がくぐれるくらいの穴が開いてたばい」と言って笑っていた。朝から色っぽい昔話を聞いてエッチな想像をしてしまった。穴があったら入りたいと思った。昔の共同浴場は男たちの大衆欲情だったのかもしれない。 、 |
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