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靖ちゃん日記へ


令和4年1月〜令和4年12月


 

 令和四年七月十六日(土)

 四区のお囃子保存会の練習日だった。平日は子供たちで土曜は大人の練習日。三年ぶりに山車の上で叩いた。笛と大太鼓の音を聞くと自然に手が動くのが嬉しい。さんてこ、きり、たま、にんば、おうま、きりん、神田囃子、稲荷囃子、しょうでん、四丁目の十曲を通しで叩いた。曲と曲の間で三回間違ったが本番までには完璧にできると思った。

太鼓の後、山車小屋でビールを飲んだ。みどり市に合併前の十五年間、祗園祭の仮装大会があり、四区は十回優勝した。お囃子保存会の指導者たちが仮装の主要メンバーだった。毎晩、山車小屋に集まり、衣装を作り、皿回しを覚え、フラメンコを習って、ハンドベルを練習した。

白鳥の湖の年はレオタードに網タイツ、頭の飾りはレースのパンティをかぶった

天使になった年は長髪のカツラをかぶり胸に風船を入れた。

天使と言うよりペ天使だった。

令和四年六月十六日(木)

 大間々中学校の二年生を対象に「三方良しの町大間々」というテーマで講演をした。去年と同様に、職場体験の代わりに、地域の大人たちから職業観や人生観を学ぼうという取り組み。三億年前は大間々が海の底で「コノドント」が生息していたことや、三万五千年前は「みどモス」が住んでいたかもしれないという話から始まり、三百年前頃から大間々は「あなたよし私よし世間よし」の「三方良し」の町だったことを話した。この中学生たちが三十年後、三方良しの実践者になってくれることを願った。 

 講演後に校長室で糸井校長先生や大間々高校の高橋校長先生と歓談した。壁には歴代PTAの写真が飾ってあった。平成八・九年の本部役員仲間で「八・九(破竹)の会」を作り、二十五年も懇親会を続けてきたがコロナで破竹の勢いも衰えた。二年後にはハチク七十二歳になる。

 令和四年五月二十一日(土)

 富弘美術館で開館三十周年記念式典が開催された。星野富弘さんは「まさかこんなに長く続くとは思っていませんでした。支えてくれた多くの人たちのお陰です」と若々しい声でお礼を言っていた。

 その後、サンレイク草木で、富弘美術館を囲む会の支部長会議が三年ぶりに開かれ、ロサンゼルス支部を含めて十七支部の支部長が集まった。同窓会のような明るくて和やかな雰囲気だった。

「放課後」と題する富弘さんの作品に「私の一生懸命は放課後から始まった 放課後に汗を流し 放課後に笑い 放課後に悩み 放課後に友ができて 大切なことはみな 放課後に学んだ あれから何年すぎたのだろう 私は今 人生の放課後を生きている」という詩があった。

 支部長の多くが富弘さんと同世代。今、人生の放課後を楽しんでいるという解放感に溢れていた。もう「老化後」は考えない。

  令和四年四月十日(日)

 四国の南海放送ラジオで毎週日曜に放送している長寿番組『ラジオエッセーくめさんの空』をスマホのラジコという機能を使って欠かさず聴いている。小倉くめさんのことを知ったのは二十年前。『秘めだるま』という季刊誌を読んで感動して、どうしてもくめさんに会いたくて松山まで二回出かけて行った。『秘めだるま』と『くめさんの空』は日本人としての正しい生き方を温かい愛媛の久万弁でやさしく教えてくれている。

 今日は「追慕の日」というコーナーで虹の架橋四月号の「早逝の母に護られ古希の春」の句とそれにまつわるエピソードを全国のリスナーに紹介してくれた。スマホを仏壇に向けてもう一度聴き直した。ラジコは日本中の放送を聴きたい時に何度でも聴くことができる。何でもできるドラえもんのような存在。でもドラえもんはラジコではなくフジコ(藤子不二雄)だった

 

  令和四年三月十八日(金)

 戦国末期に大間々の町を開いた「大間々六人衆」の筆頭・高草木家の土蔵の調査を行った。嘉永三年九月と書かれた太い梁が百七十年の風雪を支えてきた。梁に駕篭が吊ってあった。江戸時代、黒保根の星野長太郎家から奥方が嫁入りした時のものだという。天保九年、前橋藩主・酒井石見守の一行三百人が大間々に来た際、殿様が高草木家に泊まったという古文書の記述を裏付けるように「御本陣」と墨書された木札もあった。参加した「三方良し」の会員たちは皆、江戸時代の大間々の街に思いを馳せた。

 毎朝四時に『暴れん坊将軍』を観ている。主人公は松平健扮する八代将軍徳川吉宗。その時代の老中は前橋藩主酒井忠恭だった。暴れん坊将軍が最後に悪人を断罪する時の決まり文句は「成敗ッ」。

夕方遅く愛妻と娘に任せっきりの店に帰ってきた。「商売ッ」と斬り捨てられるかと思った。

 

令和四年二月十九日(土)
 今日から大間々博物館コノドント館で始まった企画展『なつかしの昭和三十年代』を観に行った。あの当時のテレビや電気釜を見ているうちに昔の事が蘇ってきた。昭和三十年代は自分の年と重ね合わせると三歳から小学校卒業までの十年。我家には電話もテレビも車もなかった。電話は隣の東群運送で借り、テレビは近所の鰻屋で相撲や赤胴鈴之助を観た。父が仕入に行く時はスクーターの後ろに乗せてもらった。竈で炊いたご飯に味噌をつけたおばあちゃんのおにぎりがうまかった。庭で薪を割り、その薪を竈や風呂にくべて煮炊きをしたり風呂に入った。あれから六十年、薪割りも竈もなくなり、指先ひとつでスマホで電話もテレビも映画も観られ、買物もできる。今は「かまど」と言えば鬼滅の刃の竈門炭次郎だがあの頃は「てなもんや三度笠」の藤田まことの「あんかけの時次郎」だった。 

令和四年一月十六日(日)

 ながめ黒子の会で「シルクドゥながめ」のイベントを手伝った。日本人初のシルクドゥ・ソレイユ団員となった桐生出身の奥澤秀人さん、沢入国際サーカス学校出身の森田智博さんと油布直樹さん、世界的なバレエダンサー熊川哲也さんのKバレエカンパニーでプリンシパル(主役)だった白石あゆ美さんら世界的パフォーマーたちがながめに集結した

客席に7mの3本の柱を組み、奥澤さんと白石さんが「エアリアルストラップ」という天空パフォーマンスを披露。その力強さとしなやかさに魅了された。会場係の仕事を忘れ、白石あゆ美さんの指先から足のつま先までの動きに見惚れた。

終演後、舞台衣装のままの白石あゆ美さんに頼んでツーショットの写真を撮った。鼻の下がだら〜んと伸びていた。

愛妻の悪魔の囁きが聞こえた

「と〜ぉさん と〜ぉさん   お〜はなが長いのね〜」