平成21年1月〜平成25年12月 |
平成25年(2013)1月〜12月 平成25年12月1日(日) 5丁目常夜灯200年祭当日。午後3時から、みどり市重要無形民俗文化財の笠懸町横町太々神楽が披露された。笛と太鼓の軽快なリズムに合わせて、ひょっとこのお面をつけた滑稽な舞いに拍手が沸き起こった。4時からは白装束の金棒引きや太鼓、提灯を先導に神明宮の宮司さんが5丁目クラブから常夜灯まで行列し、祝詞を奏上した。厳粛な中で常夜灯の点灯式。練習ではうまくいっていたが本番ではロウソクに火がつかず顔から火が出る思いだった。 200年に因んで、常夜灯の焼印入どら焼きを200個用意した。すぐに配り終えてしまい、スタッフの分が足りなかった。常夜灯の点灯式の後は5時から、大間々駅のイルミネーションの点灯式も行われた。ここでもどら焼きが配られる予定だったのでどら焼き欲しさに大間々駅まで全力で走り、信号の角でつまずいた。「点灯式」が危うく「転倒式」になるところだった。 平成25年 11月17日(日) 今朝、相模原のSさんから「公募展入選バンザイ!」というメールが届いた。すぐに富弘美術館のホームページを見た。第1回・詩画公募展の大賞、優秀賞、奨励賞の次の入選者44名の中に松ア靖の名前が本当にあった。 『母への想い』と題する作品を応募した。自分を産んで3時間後に亡くなった母が女学校時代に描いた「ケイトウ」の絵を真似て描き、「あれから60年、母を想って生きてきた。私はあなたと同ケイトウ」というオヤジギャグを書き添えた。 母が子供の頃に描いたケイトウの絵の方がずっとうまかったが、何度も描き直しているうちに写真でしか見たことのない母が隣りで微笑んでいるようで嬉しかった。 「汗をかく、恥をかく、ものをかく」と、人生は面白いと教わった。美術館に飾られるという。絵を描いたお陰で、冷汗も恥もかくことになった。恥とかけてヘタな絵と解く。そのこころは、かいたら消すのに苦労する。 平成25年10月24日(木) 笠懸公民館で、県民スマホ・タブレット入門講座を受講した。 スマートフォンやタブレット端末の操作方法を教えてもらった。3時間があっという間だった。タブレットの「音声検索」がスゴイ。画面に向かって「近くの駅は?」と言うと、現在地から最寄りの駅までの地図が表示される。翻訳機能で「トイレはどこ?」と画面に向かって言うと、英語や中国語をはじめ70カ国の「トイレはどこ」の言葉や音声に変換されて出る。 好きな曲名を言うとカラオケも出来る。小声で「今夜は離さない」と囁いた。「やり直す」「お話しください」と出てきた。 周りに聞こえると恥ずかしいのでやめた。 家に帰ってスマホに向かって「今夜は離さない」と言ったら歌詞と画像が出てきた。 スマホに何度も「今夜は離さない」と話しかけていると愛妻に不審に思われそうなので1回でやめた。 もう、「今夜は話さない」 平成25年9月26日(木) 細長い小田原提灯をぶら下げて、老舗の銭湯・醤油屋・うどん屋を巡る『大間々まちなか夕涼みツアー』の案内役を務めた。5時半足利屋隣りの創建200年の常夜灯にローソクの火を灯し、散策をスタート。河内屋木道を歩き、三方良しの井戸を説明して、銭湯・千代の湯に入った。今日はフロ(26)の日。岡商店の庭の夏蜜柑をもらって、湯船に浮かべた。湯船の絵は、東京芸大大学院出身の皆川俊平さんが描いた現代アートの山水画。以前、彼と風呂に入った時「この絵は夕日が射す頃に見てもらいたい」と言っていた。赤と銀を基調にした大作だ。 60年前に千代の湯に通っていたという参加者もいて驚いた。 なぞかけが浮かんだ。銭湯とかけて「夕涼みツアー」での出会いととく。 そのこころは、あったかい(会った甲斐)がある。 男同士の裸のつきあい、タオルの陰で細長い小田原提灯が見え隠れしていた。 平成25年 8月15日(木) 父・松ア福司が昭和51年から54年まで毎日書き続けていた日記を発見してから1年が過ぎた。 親子といえども読んではいけないと思っていたが、読むこともお盆の供養と思い直して読んでいる。 「11月1日、今日は61回目の誕生日。空は日本晴。靖は高崎へ出張、明後日の新築祝の準備に何かと落着かない…」と書いてある。37年前は古い店を壊して新築した年。父は今の自分と同じ61歳だった。 店のことで言い争いばかりしていた父の日記に「靖は最近、胃の調子がよくない様子、何だか心配でならない」と書いてあるのを読んで涙が出た。 店のことや嫁に行った娘達や初孫のことも書いてある。日記っていいなと思った。 湯上りにパンツ一丁で読んでいたら股間を蚊にくわれた。 なぞかけが浮んだ。 日記とかけて、蚊に食われた股間と解く。 そのココロは?「無性に書きたく(掻きたく)なってきた。 平成25年7月25日(木) 『致知の会』の78回目の例会は勉強会ではなく納涼会だった。 21人が参加。88歳の矢野会長から若い富岡先生まで多士済々。知識、見識、行動力…、ひとりひとりの魅力がこの会を輝かせている。メンバーに共通しているのは、自分の仕事に命をかけている、人を憎まない、いつも今を楽しんでいる、出逢いの縁を大切にしている等々。 若い女性会員の星野さんと前原さんも参加。全員にお酌をして回り、最後にこの二人にお酌して話こんだ。 前原さんに携帯番号を聞こうとしたら、「赤外線で送信します」と言われた。赤外線モードにして、お互いの携帯を近づけたら一瞬で番号とメールが登録されて縁がつながった。「縁赤外線」だった。 家で早速、愛妻に操作方法を教えたが、既に登録されていたので二重登録はできなかった。 赤外線ではなく、赤い糸で結ばれていた。 平成25年 6月21日(金) 夜、大間々南幼稚園の歓送迎会。 任期満了で退任する松村さんも後任の新理事長の横塚さんも家族と仕事を大切にする人生の先輩。 昨夜も、人間学を学ぶ勉強会『致知の会』でお二人と一緒だった。 今夜の歓送迎会には理事、評議員、先生方やPTAの役員の人たちも参加し、総勢35人。グラスを片手にテーブルを回り、全員の人達と話ができた。PTAの若いお母さんたちとは初対面だったが話をしてみると、ご両親やお祖父さんは良く知っている人ばかり。「虹の架橋を毎月読んでいます」と言われ、いっそう親しくなった。普段、子どもたちに優しい先生方はオジサンにも優しかった。酔ったふりして寄っていって酔わされた。『酒と女は2ゴウまで』の戒めを破り3ゴウ飲んでしまった。ふと1ゴウの愛妻の顔が頭に浮かんだ。 女は1ゴウだけなので合計4ゴウ。帳尻は合っている。 平成25年5月22日(水) 大間々町商工会女性部の総会の後の講演会に招かれて話をした。 参加者は35名。40代から70代まで、この町を支える頼りになる元気オバチャンたちばかり。「虹の架橋の世界」というテーマで話をした。虹の架橋を読んでないという人は一人もいなかった。 虹の架橋を発行するようになったきっかけや続けることの難しさや続けられることの幸せを話した。「言葉の力」についても話をした。結婚した時に仲人さんから頂いた「家庭の平和なくして事業の繁栄なし」という言葉のお陰で、夫婦喧嘩も腹を立てることも思いとどまった。 「腹だけはまだ立つのねと笑う妻」という川柳があった。それをヒントに「どどいつ」が頭に浮かんだ。「腹を立てずに女房を立てる、立たぬ男の生きる道」。どこの家でも、長年連れ添った女房に対しては、「腹は立っても歯が立たない」 平成25年 4月5日(金) 今年は免許証更新の年。誕生日の今日、桐生まで更新手続きに行った。今まではメガネなしでも視力検査でラクに1 ・2まで見えたが今回は自信がなかった。高瀬薬局で目薬を買ってから行った。 行く前に長澤薬師にお参りをして行った。長澤薬師は目に効く仏様。紙の真ん中に「め」と書き、その周りに小さい 「め」を12個書いて薬師様に納めるとご利益があると言われてる。 交通安全協会では、いきなり視力検査で名前を呼ばれた。目薬をつけ、目をパチクリさせながら係の女性にウインク をした。視力検査機の覗き窓を覗きながら○の切れているところを、右、下、左…と順調に答えた。我ながら覗きには 自信があった。下の方は判らなかったので「め」と答えた。係の女性が笑って、「ハイ結構ですよ」といって検査をパ スした。長澤薬師のご利益だったかも知れない。 平成25年 3月11日(月) 平成25年2月19日(火) 昨日、今日の2日間で人間ドックに入った。3日前から節制したお陰で前回のドックと比べて体重が300グラム減った。年のせいか身長は5ミリ縮んでしまった。 血液検査、視力、聴力、心電図、腹部エコーと検査が進んだ。脳のMRIも初体験。耳栓をして、仰向けに寝かされた。ドーム型の機械に入るときは、火葬場のかまに入るような心境だった。騒音地獄が20分続いた。 最後は一番イヤな胃カメラ。「口と鼻とどっちがいいですか」と聞かれた。迷った末、「話のタネ」に鼻を選んだ。管が「鼻血のタネ」になって少し血が出たが口よりずっとラクだった。「ゲップをしないで下さい」と言われた。「はい」の代わりに「ゲップ」が出た。 最後に「体内年齢42歳」の判定をもらいガッツポーズ。 上半身と下半身の内訳は書いてなかった。 平成25年1月18日(金) 4日前、熱と咳が出て、のどが痛くなった。幼馴染みの萩原医院の昭ちゃんに診てもらった。数年前、ノロウィルスで3日寝込んだことがある。今度はノドウィルスかと思ったらインフルエンザA型と診断された。今まで一度も予防注射をしなかったことを反省。 タミフルを飲んだ。熱はすぐに下がったが5日間は感染の恐れがあるので外出はしないようにと言われた。仕事と会議と新年会を全部キャンセルしてみんなに迷惑をかけてしまった。 和子が「大丈夫?」と心配しながら朝昼晩、おかゆを作り、リンゴを擦って持ってきてくれた。リンゴが旨かった。 その和子も昨日から熱が出て寝込んだ。頭が上らなくなった。隣の部屋で寝ている女房に足を向けて寝られないと思い、膝を曲げたがケツを向けていた。咳は止まったがオナラを連発。でも、オナラではインフルエンザはうつらない。 |
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平成24年(2012) 平成24年 12月19日(水) 産みの母・松アちよ(旧姓中野ちよ)が少女時代に描いた水彩画が納戸の奥から出てきた。絵は全部で16枚。裏に前橋高等女学校「一年二組 36中野ちよ」と書かれてあった。今日、額縁に入れて、紙風船の絵とシクラメンの絵を店に飾った。 80年前に13歳の少女が描いたとは思えない見事な絵だ。中野ちよはこの絵を描いた10年後に松ア家に嫁ぎ、その10年後に僕を生み、その 日に亡くなった。33年の短い生涯だった。嫁入り道具と一緒に学校時代の絵を持ってくるほど絵が好きだった母は結婚して死ぬまで絵を描く時間はなかったのだろう。 去年、自分でも絵を習い始め、柿の絵を描いた。仲間から「柿のヘタがうまい」と褒められた。その絵に似た柿の絵を80年前に母も描いていたのを発見して驚いた。いつか母のような絵が描きたいと思った。母の絵には純粋な絵心が感じられる。自分の絵はヘタなくせにうまく見せたいと思う不純な下心しかない。 平成24年11月23日(金) 娘の恭子の結婚式だった。 10年以上前から、親戚や知人の結婚式に招かれるたびに、いつか自分も花嫁の父になる日が来るのかと複雑な心境だった。その日がついに来てしまった。 ウエディングドレス姿の恭子と教会に入場する直前に「おめでとう、幸せにな」と言うのがやっとで、あとは言葉にならなかった。恭子と腕を組んでバージンロードを歩き、新郎に恭子を託して2人の後ろ姿を見送った。 披露宴は終始華やかで和やかな雰囲気だった。披露宴の最後は両親への花束贈呈。恭子が両親への手紙を読みはじめた途端に今日までのことが思い出されて涙があふれた。新郎が最後に挨拶をした。真心のこもった最高の挨拶だった。心の片隅に残っていた固いしこりのようなものが溶け「娘をよろしく」と素直に思えた。 哲学者のソクラテスが『君がよい妻を持てば幸福になるだろうし、悪い妻を持てば哲学者になれる』と言った。 新郎には幸福な哲学者になってほしいと思った。 平成24年10月17日(水) 大間々街路灯組合のバス旅行で中尊寺、松島方面へ行った。 今年の4月にも被災地買物ツアーで訪れた場所。南三陸町に泊まり、鉄骨だけが無残に残る防災庁舎前で、用意した白い菊の花を皆で1本ずつ手向けた。般若心経を唱えているうちに声が震えてきた。近くの「南三陸さんさん商店街」で蒲鉾や海苔を買った。半年前に知り合った松原食堂の渡邊浩さん夫妻と嬉しい再会。夏に送った、みどり市の「復興元年」のシャツをみんなで着てくれていて嬉しかった。松島では小畑貞雄さん、塩釜では菅野さんが土産を持ってわざわざ会いに来てくれた。 今朝の日の出はホテル観洋の露天風呂から見た。タオルを頭に乗せ、右手にデジカメ、左手にスマホ持って日の出を待った。その瞬間を写メールで和子に送った。全てを忘れさせる静かな海と日の出の神々しさにまるで心が洗われるようだった。振り向くと前も隠さず歓声を上げる男達。まるでイモを洗うようだった。 平成24年9月25日(火) 桐生市新宿の「香り屋尚香堂」へお香を買いに行った。玄関で猫が猫なで声で迎えてくれた。一歩店内に入ると、お香の香りと昔風の落着いた雰囲気が心を癒してくれる。いつも愛用の「堀川」と、お土産用に「貴公子」という名のお香を買った。明るい雰囲気の2階で、足ツボマッサージをしてもらった。足の裏には全身のツボが集まり、臓器とつながっている。足のツボの痛い所が内臓の血流が悪い所だそうだ。腎臓のツボが痛かった。生殖器は大丈夫と太鼓判を押され、もう不要なのにニンマリ。マッサージのあとは気分爽快になり、お香の香りも一層心地よく感じた。 「沈香(じんこう)も焚かず屁もひらず」という言葉がある。香木を焚くような芳香もなく、オナラのような臭いもない平凡という意味。それを「沈香(チンコ)も立たず屁もこかず」と言う人がいた。つまらない人生という意味では同じだった。 店を出て、オナラをしながら太鼓判のことを思い出して、またニンマリした。 平成24年8月15日(水) 4時半起床。今日は終戦記念日。父のシベリヤ抑留の手記を読み返し、般若心経を唱えた。5時40分、いつものように散歩に出た。3丁目の裏通りに貼ってあった「ラジオ体操」のポスターを見てハッと思った。 毎年8月15日は全町合同ラジオ体操の日。「大間々中学校に6時までにお越し下さい」という招待状を貰っていた。昨日まで覚えていたのに「これはとんだことになった」と思った。和子と愛犬プーちゃんと別れ、散歩姿のまま、急いで学校坂を駆け上がり、何とか間にあった。開会式の挨拶の後、広い校庭で何百人もの人達と一緒の体操は気持ちがよかった。 「足を開いて正面で胸そらす」運動の時、下半身がスースーした。短パンの下にパンツをはいていないことに気がついた。「足を戻して両足とび」の運動では短パンからはみ出してしまうのでは、と心配だった。 飛んだふりをして飛ばなかった。 とんだことだった。 平成24年7月14日(金) 大間々駅の掃除の後、いつものように「もう一人のやっちゃん」と一緒に吾妻山へ登った。今日が174回目。往復1時間の山歩き。途中に2つの男坂と女坂がある。第2男坂は心臓が飛び出すかと思うほど苦しいが般若心経を唱えながら頂上へ。 着いたときの爽快感は格別だ。 今日は富士山は見えなかったが雲の下に雨上がりの桐生の街並みが美しかった。帰りは緩やかな女坂を下りた。坂の上と下で「ヤッホー」と呼び合っている高齢の夫婦らしい声が聞こえた。 「日本中にある坂のうち、登り坂と下り坂はどっちが多い?」というクイズに一瞬迷った。同じ坂を登るときも下るときもある。五木寛之著『下山の思想』に、登山より下山の方が景色や物事がよく見える、と書いてある。還暦は人生の下山の時。足を滑らさないように、口を滑らさないように、女坂で人生の道を踏み外さないように。山をくだりながら、くだらないことを思った。 平成24年6月14日(木) 天川洋さん夫妻、新井規夫さん夫妻が中心になって「虹の架橋200号記念祝賀会」を開いてくれた。参加者は20代の窪田くんから97歳の星野さんまで86名。尊敬する鍵山秀三郎さんも東京から来てくださった。 夫婦で壇上に上がり花束を頂いた。虹の架橋を陰で支える和子の方が5倍も大きな花束だった。発起人の心憎い演出に感謝、感激だった。 横山ゆうこさんの筝の伴奏に合わせて「さっちゃん」の替え歌で「やっちゃん」を全員で歌った。 「靖ちゃんはね『やすし』っていうんだほんとはね だけどオッサンでも自分のこと靖ちゃんて呼ぶんだよおかしいな靖ちゃん」 2番は「靖ちゃんはね美人が大好きほんとだよ…」と続いた。場内大爆笑! 美人には「超美人」と「チャー美人」の2種類がいるという。 チャー美人とは「美人ッチャー美人」のこと。 気配り美人、しぐさ美人、笑顔美人… 32人の超美人とチャー美人に囲まれて幸せだった。 平成24年5月26日(土) 「三方良し」の会で、四丁目常夜灯200年祭を執り行った。古式に則り、法被姿の二人の金棒曳きの後にふれ太鼓が続き、白装束に烏帽子姿の若者たちが提灯を提げて神官を先導して常夜灯の会場まで行列を行った。 神明宮の齋藤宮司の厳かな祝詞が常夜灯の周囲に響きわたり、神聖な雰囲気を醸し出していた。 常夜灯の焼印入のどら焼を300個用意したがアッという間に配り終えた。 伝統的な奉納神楽も大勢の見物客で賑った。200年祭は大成功だった。 準備、実行、後始末、これも皆が協力してくれて「三方良し」だった。 夜遅く、一人で常夜灯をながめた。静まり返った町の中でロウソクの炎がほのかに揺れていてロマンを感じた。 なぞかけが浮んだ。 200年の常夜灯とかけて200号の虹の架橋ととく。そのこころは「いし(石・意志)が固い」 常夜灯とかけて、シャイな飲み友達ととく。そのこころは「夜しか目立たない」 平成24年4月5日(木) 60回目の誕生日を迎えた。娘の恭子といっしょに光栄寺に墓参りに行った。本堂の前の枝垂れ桜がこれから咲くところだった。「さまざまの こと思ひ出す桜かな」と芭蕉が詠み、「世の中は3日見ぬ間に桜かな」と弟子の大島蓼太が詠んだ。桜は一瞬と永遠を連想させる花。「あのとき一緒に見た桜」の思い出を心に残しておきたいと思った。 姉弟から還暦の祝いに花が届いた。 和子と恭子と彰人から赤いチャンチャンコと帽子をもらった。チャンチャンコの背中には金色で「寿」の字が入っていた。ネクタイとベルトももらい早速使いはじめた。赤いチャンチャンコと帽子をかぶり、みんなからもらった花の前で写真を撮った。「花咲か爺さん」の気分。鏡を見たら「小太り爺さん」だった。なぞかけを思いついた。 「還暦」とかけて「徒然草」と解く。そのこころは、「健康」(吉田兼好)のことが頭に浮かびます。格調高っ! 平成24年3月23日(金) オヤジ携帯のラクラクフォンからスマートフォンに替えた。ラクラクフォンは電話と手帳と万歩計と目覚しの1台4役だったが、スマホは地図もニュースも動画も見られ、取引先の在庫状況も瞬時に確認できる。スマホは、文字が小さく、使える機能が多すぎて最初は戸惑った。娘の恭子に頼んで、使いやすいようにメニューを整理してもらった。使いこなせればこんなに便利なものはない。インターネットの「音声検索」の機能には驚いた。スマホに向かって「マツザキヤスシ」と言うと、「虹の架橋」「足利屋洋品店-ぐんまの名物商人」などのホームページを見ることもでき、アンテナを立てればテレビも観える。でも問題は「電磁波」だ。身体に悪いので持ち歩く時はズボンや胸ポケットには入れない方がいいと言われたが、他に入れる所はない。電磁波で下半身のアンテナをやられる方が怖いので胸のポケットに入れておくことにした。 平成24年2月24日(金) 親友7人が御殿場「時之栖」に集まり「ジョイ会」を開いた。女医・徐桂琴先生の名前とエンジョイから名づけた「ジョイ会」に今回も、広島と静岡と埼玉の友人が集ま った。「病気の正体」の著者・徐先生は西洋医学と中医学を統合して「いのちの力」を取り戻す治療を行い、3年先まで予約が入っているという。御殿場高原ビールを飲みながら、健康談義やそれぞれの近況を語り合った。前向きに生きる人の話は実に面白い。 仲間のSさんが専務を務める「時之栖」には多くの宿泊施設や風呂が点在している。中東の死海の塩を使った「塩風呂」に入った。海水の十倍の塩分で体がプカプカ浮 いて気持ちがいい。美肌効果もあるという。長く入りすぎて体中がヒリヒリ痛んだ。鏡の前に立ってみた。顔は美肌効果で「いい男」になった。上半身は「ゆでダコ」のように赤かった。その下は「塩漬けのなめくじ」のように萎えていた。 平成24年1月20日(金)雪 大間々駅トイレ掃除の朝。予報通りの雪だった。右手にホースとポット持ち、左手に掃除道具の入ったバケツを持って長靴をはいて暗い道を駅へ向かった。 13年前の大雪の日のことを思い出した。あの日、掃除仲間のK君がたったひとりで掃除をしてくれたお蔭で1週も途切れることなく758回目の今日がある。あの日の朝の彼の気持ちを思いながら、1歩1歩、雪を踏みしめて歩いた。 今日は誰も来られないかも知れないと思ったがTさんとJさんが来ていた。6時には8人も集った。嬉しくて心がポカポカになった。帰り道は足どりが軽かった。駅の方を振り返ると、雪道に長靴の足跡がくっきり残っていた。「僕の前に道はない、僕の後ろに道はできる」という高村光太郎の詩を思い出した。がに股の長靴の足跡がハ、ハ、ハ…と笑っているように見えた。良い1日が始る予感がした。 スキップをしようとして飛び跳ねたらスリップをした。 |
平成23年(2011)1月〜12月 平成23年12月21日(水) 遂にダイエットの目標達成。10月30日に74・8キロあった体重を年末までに70キロ以下にすると決めて「16時間断食」を続けてきた。16時間断食とは、夕食後から翌日の昼食まで、何も食べず、人参ジュースと生姜紅茶だけで過ごすダイエット。慣れると空腹感が心地よく感じる。若いうちは『早寝、早起き、朝ごはん』が大事だが、年をとると1日2食でも十分らしい。 今朝も、トイレで出すものを全部出して、体重計にソーッと乗ってみた。 70.0キロだった。保温肌着と股引を脱ぎ、パンツ一丁で再挑戦した。ヤッター。69.8キロ。寒さに震えながらデジカメを持って、体重計に乗り、足元の目盛りを 写そうと思った。70.0キロに上っていた。デジカメが200グラムあった。パンツも脱いでみたが変らなかった。頼んで撮ってもらった。「バカじゃないの」と笑われた。 同い年のムスコが縮み上がって減量に協力していた。 平成23年11月15日(火) さくらもーるの従業員親睦旅行でディズニーランドへ行った。朝7時にバスで大間々を出発。10時にディズニーランド着。アスクの店員たちと一緒に1時間以上並んでスペースマウンテンに乗った。未来の宇宙空間を急速で疾走するジェットコースターに年を忘れて絶叫した。 みんなとお昼を一緒に食べてから別れ、一人で上野へ行き、国立博物館で「法然と親鸞展」を観た。800年前の世界にタイムスリップし、心が穏やかになった。時間があったので西洋美術館で「ゴヤ展」も観た。「着衣のマハ」の妖艶な姿に見惚れてしまった。 夕方6時にディズニーランドへ戻り、今度はビッグサンダーマウンテンに乗った。夜空を急速で駆け巡る絶叫マシンに我を忘れた。夜9時に出発。バスの中でいい気分で寝てしまった。 そこで「なぞかけ」を一席。「ジェットコースター」とかけて、「帰りのバスの中」と解く。その心は、「どちらも急速(休息)が必要です」 平成23年10月20日(木) 大間々街路灯組合のバス旅行。一泊で北陸へ行ってきた。金沢の兼六園を見学し、4時に和倉温泉へ到着。目の前に能登湾が広がる絶景の旅館だった。七福神巡りの地図をもらい、下駄をならして一人で散歩した。七福神を回り、女将から輪島の箸をもらった。いいコースだったので夜の宴会で「明日の朝、七福神巡りをしようよ」とみんなを誘った。 朝6時、元美女9人集合。女学生のようにはしゃぎながら七福神を巡った。 途中の青林寺でおみくじを引いた。「吉」と出た。「仕事も金運も良くなるが調子に乗ると道を踏み外す」と書いてあった。仏様の横に「具合の悪いところを仏様にお願いしながらなでると治る」と書いてあった。元美女たちが仏様の頭や胸や腰の辺りをなで回していた。皆がいなくなってから、仏様と自分の股間を交互にそっとなでた。気のせいか元気が出てきた。 調子に乗って、下りの石段を 踏み外しそうになった。 平成23年 9月25日(日) 今日は朝10時から午後4時まで、大間々の観光ガイドを手伝った。午前中は「駅からハイキング」があり、800人も の老若男女が本町通りを歩いた。午後は「はとバスツアー」が来た。大間々の街歩きツアーは大好評で30日まで延長した 募集も6日連続で満席だという。 はとバスツアー客の中に、横浜から来たMさん母娘がいた。30数年前に足利屋の裏の一軒家に数年住んでいた人だった 。「あの頃はとてもお世話になりました」とお母さんが言い、娘さんのまどかさんは「大間々が私の故郷です」と幼い頃の 家族の思い出を話してくれた。思いがけない再会が嬉しかった。岡商店の中庭のレンガ煙突の前でMさん母娘と写真を撮っ た。「パチッ」という音がなぜか心に響いた。 人から「シャッターを」と頼まれると「はいはい、背中でも腰でも何でも押します」と答えている。「記念写真」とかけて 「贅肉」ととく。 そのこころは「誰かにとってもらいたい」なんちゃって! 平成23年8月23日(火) 「三方良し」の会の役員会を開いた。「売り手よし、買い手よし、世間よし」という近江商人の精神は二宮尊徳の「分度と推譲」の思想に通じるところがある。勤勉、倹約で得たものをみんなで享受しようというのが江戸時代からの精神でもある。 最近は「はとバスツアー」での来訪者も増え、地図を片手に街の中を歩く姿が目立ってきた。岡商店北隣りの路地の整備などを行い、観光客に楽しんでもらいながら「三方良し」の心を地道に精力的に伝えて行きたい。 会議の後、みんなが持ち寄った酒やビールやワインを飲んで盛上がった。新宇さんが秘蔵の蜂酒を出してきた。コハク色に変った焼酎の下に黒くなったスズメバチがたくさん入っていた。精力剤だという。1匹出してみた。スズメバチの目が怒っているように見えた。尻からかじった。マズイ。焼酎と一緒に一気に飲み込んだ。腹の中を蜂の針で刺され、吐気がした。精力剤どころではなかった。 スズメバチのバチが当った。 平成23年 7月18日(日) 昨日から、尊敬する鍵山秀三郎さんが大間々へ来てくれた。 昼間は、今年96歳の星野精助さんを囲んで、「愚翁会」と称する食事会を開き、夜は郷土を美しくする会の仲間も加わって楽しい一夜を過ごした。鍵山さんは月刊誌「致知」の中で「このような人になりたい、と私が人生のお手本と仰ぐお方は、星野物産梶E相談役の星野精助氏です」と言っている。鍵山さんや星野さんを囲んで全員が深い学びと感動を味わった。 翌朝5時、旅館の風呂の入口にスリッパが一足、測ったように並んでいた。鍵山さんだった。風呂上がりに洗面台を丁寧に拭いている後ろ姿に感動した。「凡事徹底」の実践が人格と品格を高めるのだと納得した。鍵山さんの本『ムダな努力はない』を愛読しながら「ムダな努力はしない」自分を恥じた。1文字で大違い。「世の中は澄むと濁るで大違い。タメになる人、ダメになる人」という言葉や「刷毛に毛があり、禿に毛が無し」を思い出した。 平成23年 6月24日(金) アスクの従業員のお父さんのSさんは震災後、南相馬市から一家6人で群馬に避難してきた。今日、Sさんが同じ避難先で暮らすご婦人方を乗せて買物に来てくれた。ご婦人方の楽しそうな様子を見て心が和んだ。 店の前でSさんと話した。Sさんは素朴で面倒見がよく、人を喜ばせるのが大好きな人だと感じた。郷土芸能の神楽やひょっとこ踊りが趣味で、地元では保存会を作って若い人たちにも教えていたという。「鼻くそと耳くそを、こうして丸めて薬にして…」というひょっとこの身振り手振りを見て大笑い。これは何かで使えると思った。Sさんのひょっとこ踊りのDVDを見せてもらうことにした。 相馬といえば千年以上続く勇壮な「相馬野馬追」の祭りで有名な所。Sさんは法螺貝(ほらがい)も吹くという。「法螺貝は難しいが昔、トランペットを吹いていたのですぐ覚えられた」と言っていた。本当に趣味が多彩で驚いた。 ただの法螺吹きとは訳が違う。 平成23年 5月26日(木) 昨日の朝、散歩の途中で愛犬プーちゃんと相性の悪い犬に遭遇した。 なぜかその犬の鎖が外れていた。その犬がプーちゃんの背後から近づき、いきなり尻に噛みついてきた。プーちゃんを守ろうとして、間に入った瞬間、その犬に足を噛みつかれた。プーちゃんを連れて、急いで逃げ帰ってきた。靴下が破れ、血が出ていた。消毒液を塗って傷バンを貼って。みんなに「破傷風が心配だから病院へ行ったほうがいい」と言われた。今日、病院へ行った。半年前、野良猫に顔を引っかかれたときに診てもらった女医先生だった。カルテを見ながら、「あらー、今度は犬に襲われました?次は何かしら」と笑っていた。次は女房かもしれない。「傷口を濡らさないように」と言われた。お風呂で右足を湯舟から出して入った。シンクロナイズドスイミングのような格好になった。シンクロの真似をして、右足を真上に上げた。尻がすべり、左足も上がり、溺れそうになった。チンクロナイズドスイミングをしてしまった。 平成23年4月26日(火) 東日本大震災の影響で、毎年行われている旅行や花見などが「自粛」の名のもとに中止になった。景気が停滞し「自粛を自粛しよう」「自粛するよりお花見を」という声も出てきた。計画停電やガソリン不足を経験した御蔭で、当り前の生活の有難さに気づいた。その上で、自粛で萎縮せず、景気回復のためにも、買うこと楽しむことも必要だと思った。 明日は足利屋が休み。「スパークリング赤城山」と柏餅を買ってきて、夜、花見気分で1杯飲んだ。日本酒好きの友人は邪道と言うが、炭酸入りの清酒「純米赤城山」は和風シャンパンのような口当たりで、季節の和菓子とピッタリ合う。つい飲み過ぎてしまう。 食べ過ぎ飲み過ぎと家庭の平和を維持するために、自粛の基準を決めた。以前、友人のSさんが「酒とオンナは2ゴウまで」と言って笑っていた。我家では「オンナは1号 お酒は2合 柏餅なら3個まで」を自粛の目安にした。 平成23年 3月18日(金) 計画停電がはじまる前に大間々駅のトイレ掃除に行った。ガソリンが無くて来られない人もいたが8人が集まった。流れる水がアッという間にザラメのように氷りつく真冬並みの寒さの中、いつもと変わらず便器を磨いた。掃除の後、みんなで一緒に温かいお茶を飲んだ。地震からちょうど1週間。いつもの仲間といつものように掃除ができることが当り前でなく有難いことだと実感した。 今日は彼岸の入り。朝飯前に歩いて墓参りに行った。国道122号の信号も全部消えていた。墓地の石塔がいくつも傾いていた。帰宅後、停電を忘れてパソコンを開こうとした。テレビもつかない。コタツもだめ。何から何まで電気に頼った生活に今更ながら気づいた。トイレに入った。ズボンを下ろし、赤い腹巻をたくし上げて便座に座った。その冷たさに飛び上がり、縮み上がった。便座まで電気のお世話になっていたのを忘れていた。そこで一句、頭に浮かんだ。 停電を肌で感じる便座かな 平成23年 2月15日(火) ついに体調不良でダウンした。新年会や夜の会議で不摂生が続いたことも原因かもしれない。萩原医院で診てもらった。院長の昭ちゃんとは二葉保育園時代からの幼なじみ。昔と変わらぬ穏やかな性格の昭ちゃんと診察室で話しているだけで気持ちも少し和んだ。今日は、アスクの店休日。半日寝ていることにした。 「赤い腹巻をしてみたら?」と愛妻に勧められた。「へそ下3寸」にある丹田は心や体調を整える大事な場所。ここを赤い肌着で覆うと「赤の魔法」の効果で血行が良くなり、足利屋でも赤いパンツや腹巻が売れている。腹巻をしてみた。本当に効果抜群だった。大事な場所がじんわりと暖かくなった。もっと大事な「へそ下6寸」まで下げた。愛犬プーちゃんも10歳の誕生日に赤い腹巻にフリルをつけて着せた。我家は全員「赤い絆」で結ばれた。太っ腹に真赤な腹巻姿を鏡に映し、ひとりで大笑いした。腹巻が離せなくなる。でも、人に見られたら「赤っ恥」をかく。 平成23年 1月21日(金) 群馬県内で活動を続けている街づくり団体や行政関係者が「ながめ余興場」に集まり、『まちづくり発表会』が開催された。 「まちづくり大学・大間々ゼミ」の他3団体が事例発表を行った。その後、大間々の町並みを案内。野口蔵屋敷の建物や調度品、岡商店の仕込蔵のスケールの大きさに参加者は皆驚き、非公開の蔵が並ぶ大間々の町並みを見て歴史と文化の奥深さを想像していた。 午後は余興場へ戻り、大間々ゼミ生による「街づくり大喜利」を行った。座布団運び兼審査員兼幕引係りを任された。なぞかけで「大間々町」とかけて「警察官」と解く。その心は?渓谷(警告)で皆立ち止まります、の答えに拍手が沸いた。座布団を運びながら自分でも考えた。「大間々の蔵屋敷」とかけて「フンドシ」と解く。その心は「どちらも中に金目のものが入っている」。フンドシも蔵屋敷も簡単に中を覗くことはできないが機が熟せば中も見せられる。 |
平成22年(2010)1月〜12月 平成22年12月25日(土) 先月、80歳で亡くなった前橋の叔父の四十九日法要を光栄寺で営んだ。故人の家族や兄弟夫婦や甥や姪が集った。法要、お清めのあと、本家である我家にみんなが寄ってくれた。親父の葬式以来10年ぶりの従兄弟たちとも再会した。高島平に住む叔父は87歳。現役時代は一流商社に勤め、品格と教養があり、憧れの人だった。頑固なところは親父とそっくりで松ア家の血統だと思った。我家は古い家ですきま風が入る。「コートを着たままでどうぞ」と言ったら、「家の中でコートなんか着るもんじゃない」と言われた。厳格だった親父と言い方も同じで懐かしかった。帰る時には畳に両手をついて深々とお辞儀をしてくれた。そのしぐさが美しかった。礼を尽くすとはこういうものかと感動した。今、ベストセラーの曽野綾子著『老いの才覚』にも「親しき仲にも礼儀あり」と書いてあった。 ちっぽけな『甥の才覚』では筋金入りの『叔父の才覚』の足元にも及ばない。 平成22年11月22日(月) 15年前、県内のユニークな商人を集めて「チャレンジ商人ネットワーク」という勉強会ができた。その一期生仲間と今でも春秋に情報交換会を続けている。当時、県の経営指導課にいてメンバーの人選を決めた小川由紀夫さんに敬意を表して「小川会」と名づけている。「春の小川会」は出られなかったので今回は前々から予定に入れていた。今日は男8人。仲間が持ち寄ったチラシや最新の情報は参考になった。懇親会も楽しかった。2次会でカラオケを歌った。別の席の見知らぬ女性3人組にデュエットを誘われた。歌った事のない歌だったが何とか歌えた。楽しかった。風呂に2回入った。露天風呂が気持ちよかった。すぐ横に利根川の源流が流れていた。湯船の端に頭を乗せて、仰向けに両手両足を大きく開いた。利根の川風が気持ちよかった。湯船の上でプカプカと「太」の字が揺れた。露天風呂の入口に「たまゆらの湯」と書いてあった。 平成22年 10月13日(木) 朝、愛犬プーちゃんが裏庭の古い物置に向って吠えていた。 「野良猫が入り込んだか」と思い、窓から覗き込んだ。その瞬間、中に隠れていた猫に引っかかれた。目を閉じるのが一瞬でも遅れていたら目をやられるところだった。顔から血が出た。洗濯をしていた和子が驚いて、すぐに消毒をしてくれた。9時前に病院へ行った。「目の方は大丈夫」と言われてホッとした。優しい女医先生だった。目の下2ミリの傷口をジーッと診られた。女医先生と顔を見つめ合っているような格好になった。恋心が芽生えそうだった。破傷風予防の注射をチクッと打たれて我に返った。 傷口を止める絆創膏が格好悪かった。皆に「その傷はどうした?」と聞かれて、「野良猫にやられた」と答えた。冗談を言ってると思われ、「いたずらが過ぎて奥さんにやられたんだろう」とからかわれた。細かく説明するのも面倒なので「実はうちの女房が猫をかぶっていて…」と笑ってごまかすことにした。 平成22年 9月25日(土) 富弘美術館で、仙台在住の「言の葉アーティスト」・渡辺祥子さんとギタリスト・佐藤正隆さんの朗読コンサートが開かれた。富弘さんのエッセーや詩の朗読を聴いて感動した。今、美術館では、20周年記念企画展『ささえられて』を開催中。「…支えられているから見えない明日に夢を見られる 綱渡りのような私の人生 あなたに支えられて生きている」優しいギターの調べに合せた祥子さんの朗読に目頭が熱くなった。 昨夜は祥子さんや正隆さんと縁のある仲間に声をかけて、新里のペンション「がるば」で食事会を開いた。男6人と若くて美しい女性7人。オーナー夫婦も加わって楽しい一夜を過した。 カッコいい正隆さんと同部屋で寝た。昔は神経質で枕が変わっただけでも寝られなかったが今は老若男女「いつでも、どこでも、誰とでも」寝られる。「松崎さんは寝つくのが早いですね。1分もかからなかったですよ」と正隆さんに言われた。相手が女性なら話は別だ。 平成22年 8月16日(月) 今日でお盆が終った。今年も叔父たちや姉弟、その家族たちが線香を上げに来てくれた。お盆やお彼岸には欠かさず大間々へ集まってくれるのが嬉しい。夕方、お盆のお飾りと、ナスで作った牛と、キュウリで作った馬をまとめて送り火を焚いた。 娘の恭子と二人でご先祖様たちをお寺へ送って行った。松ア家の墓の前でいつものように般若心経を唱えた。唱えている途中でおならが出そうになった。恭子に気付かれないように「色即是空」の声を大きくした。腹に力を入れた瞬間に「色即是プー」になった。後ろでくすくす笑い声が聞こえた。親父も晩年は、おならをしながら歩いていた。やはり血は争えない。 友達の圭ちゃんに「今度、靖ちゃん日記に、なぞかけを書いたらどう?」と勧められた。そこで早速考えた。今日の御題、「お寺、墓参り」とかけて何と解く?「破れたフンドシ」と解く。 そのこころは、「時々、坊主が顔を出す」お粗末!何が? 平成22年 7月16日(金) 町田市のロックンロールワンというラーメン店の店主嶋ア順一さんは岡商店の「日本一醤油」を使ったラーメンで2年連続日本一になった。「日本一の嶋アさんを招いてラーメンのイベントを開く」という計画を群馬県商店街活性化コンペに応募した。24件の応募の中の上位5件に残った。今日、公開プレゼンテーションで概要を説明をした。緊張の余り、思っていたことの半分も説明できなかった。最優秀賞は高崎の7商店街連合チームだった。大間々は前橋、桐生、館林と並んで優秀賞をもらった。 11月6・7日、足利屋隣りのいきいきセンターでラーメン界のカリスマ・嶋アさんが日本一のラーメンを作る。 三方良しの会、わたらせ渓谷鐵道、大間々高校、観光ガイドの会、まちづくり大学大間々ゼミも協力してくれる。 当日は、「ながめ」で観光物産まつりや菊花寄席も開かれ大間々が賑わう。ラーメンにも行列ができることを神様に祈る。アーメン。 平成22年 6月22日(火) 足利屋でウイッグを買ってくれたお客様を招待して昼食会を開き、26人が集まってくれた。みんなウイッグをつけてきた。みんな10歳以上若く見えた。料理を運ぶ仲居さんが「皆さんきれいなヘアスタイルだなぁと思ったけど、ウイッグとは全然気づかなかったわ」と驚いていた。お客様同士で初対面の人も多く、チョッと心配したが5つのテーブルからは食事をしながら楽しそうなおしゃべりと笑い声が聞こえてホッとした。 和気あいあいの食事のあと、和子がウイッグの手入れの仕方と上手なつけ方を皆さんの前で説明した。モデルになって、和子のウイッグをひとつ借りて、説明された通りにつけてみた。 「やっちゃん、かわい〜ぃ」「お店でもつけるとい〜わよ」と褒められた。かぶっただけで20歳は若く見えた。履くだけで足どりが軽くなる靴や、穿くだけで20歳若返るような魔法のパンツもあったらいいなぁと思った。 平成22年 5月9日(日) 『いい旅夢気分』というテレビ番組のロケに立ち合った。女優の佐藤藍子さんと北川弘美さんという若い2人が新緑のわたらせ渓谷鐵道沿線を旅するという番組。「岡さんの醤油蔵や街並みも紹介してもらいましょう」と「わ鐵」の樺澤社長と相談。大間々駅から停車場通りを歩いて醤油蔵を見に行く場面を収録した。大きな反射板や重いカメラやマイク付きの長い竿を持ったスタッフが走り回る中を若い2人がのんびりとした雰囲気で新国商店の土蔵の蔵を眺めながら歩く。野口さんやコメヤさんの蔵も撮ってもらった。仕込蔵の撮影の後、醤油アイスを食べる場面があった。硬すぎず、やわらか過ぎないように冷蔵庫から出したり入れたり、裏方さんも大変だった。女優の2人は大間々駅を見ても、やまと豚弁当を見ても、何を見ても「かわい〜ぃ」と言っていた。若い子の口癖なのか。でも最後まで「おじさん、かわい〜ぃ」とは言われなかった。 平成22年 4月14日(水) 毎年恒例の大間々街路灯組合の親睦旅行。昨日は美しい富士山をバックに御殿場や河口湖の桜が「今を盛り」に咲いていた。箱根湯元の水明荘に泊った。宴会では「盛り」をチョッと過ぎた奥様方と飲んで歌って楽しく盛り上った。 朝5時半に目が覚めて散歩に出た。15分ほどのところに、早雲寺があった。本堂の裏に北条5代の墓が祀られていた。木漏れ日の中に5基の石塔が横一列に並び、10本の竹筒に同じ高さで菜の花が供えられていた。携帯で写真を撮ってメールで送った。「今こちらもプーちゃんと散歩中」とすぐに返事がきた。朝食は格別にうまかった。名物の蒲鉾が出た。蒲鉾の串に「あたり」と書いてあればお土産に温泉饅頭がもらえる。でも外れた。「やっちゃんは奥さんに当たったからいいがね」と言われた。ズッコケた拍子に浴衣が乱れ、パンツが見えた。パンツの中に「あたり」と書いてみたくなった。 平成22年 3月20日(土) ながめ余興場で「朝日さわやか寄席」があった。今年は、六代目を襲名したばかりの三遊亭円楽、春風亭小朝、柳亭市馬といった豪華な顔ぶれ。市馬さんは古典落語の「長屋の花見」、小朝さんは「夢八」を演じ650人の観客は超一流の話芸に酔いしれた。落語に入る前の小噺も軽妙で面白かった。飲み屋で口の悪い酔っ払いが飲んでいるところに犬を抱いた女性が入ってきた。酔っ払いが「ブタを店に入れるな」と怒鳴った。女性は「これはブタじゃなくて犬ですよ」と言い返した。すると酔っ払いは「ブタは黙ってろ。オレは犬に言ってんだ」…大爆笑だった。そういえば小朝さんも以前「金髪ブタ野郎」と呼ばれた。ブタは黙ってろ、と言われたかもしれない。 寄席が終わり、打ち上げで飲んで食べて盛り上った。 腹も盛り上ってブタになった。 上機嫌で帰った。 愛犬プーちゃんと目が合った。 ブタ野郎と思われた気がした。 平成22年 2月22日(月) 大間々町の貴重な歴史資料「関口家日記」を読んだ。 明治時代の老舗商家の生活の様子が3代目・関口善次郎と4代目・吉之助によって克明に記され、それが470ページの本にまとめられている。3代目善次郎の日記は実にリアルで面白い。大きな事業を行い、世間の付合いもよく、遊びも桁外れ。精気に溢れ魅力的な人だった。 ある日の日記には「…岡本エ行、奥八畳エ泊ル。酒二本、午後十二時頃致ス。午前三時頃又致ス。四時ニ帰ル」とあり、翌々日にも「岡本奥座敷ニテ酒四本、ノリ、生玉子、ヨセナベ、壱円ヲくま・たま・てつノ三人エ遣ス、たまなる者ヲ致ス積リノ所、くまナル者シキリニジャマヲ致シ、それゆえ其意ヲ得ズ、午後十二時帰ル」など、頻繁に精力的に「致ス」話が出てくる。善次郎もこの日記が百数十年後に読まれるとは思わなかったろう。「靖ちゃん日記」もうっかりなコトは書けない。 平成22年 1月24日(日) ながめ余興場で「雪見寄席」があった。黒子の会の山吹色のハッピを着て駐車場係を受け持った。赤城おろしの風が冷たかったが常連のお客様も多く、挨拶を交わすたびに心が温かくなった。黒子の会の美女軍団の手作りの味噌や七味唐辛子や切り干し大根やティッシュケースなどを持ち寄り、抽選でお客様に渡した。大好評だった。 年4回のながめ亭は今回で34回目。じっくりと聴かせる古典落語の奥深さに惹かれたお客様が増えてきた。 真打・柳家さん生師匠は落語「夢金」の中で「欲深き人の心と降る雪は積もるにつれて道を忘るる」の古歌を詠んだ。「深イイ」と思い、手のひらにメモした。今日も来ていた柳家紫文さんの『都々逸のススメ』を家に帰って読み返した。「惚れた数からふられた数を引けば女房が残るだけ」「お尻に惹かれて女房にしたが今じゃお尻に敷かれてる」紫文さんにうちを覗かれているような気がした。 |
平成21年(2009)1月〜12月 平成21年12月18日(金) ネパールの少女からラブレターの返事が届いた。彼女の名はイサシェレスタ。12歳。今年3月にネパールの山奥の村々を訪ねた。タフーンという村で民泊させてもらった。その家にイサとイシャンというかわいい姉弟がいた。 イサは英語が話せた。すぐに仲良くなった。イサからネパール語を習い、イサに日本語を教えてあげた。最初に教えた日本語はヤッチャンだった。今日またイサに手紙と「わたらせ渓谷鐵道」のカレンダーを送った。 ネパールではトイレで紙を使ってはいけないのでペットボトルに入れた水と左指で処理をした。最初はトイレに行くのが不安で出たいのに出なかったが日本を発って5日目のタフーン村ではすっかり慣れて「多糞」になった。タフーン村は夜空も朝日も山々の景色も人の心も何から何まで美しかった。 日本では「花粉症」だったがこの村の美しさに出会って「タフーン症」になった。 平成21年11月22日(日) 今朝、桐原グランドで恒例の大間々北地区ソフトボール大会があった。7年前、2打席連続ホームランを打ち優勝に貢献したのが今でも忘れられず朝から気合が入っていた。 チームワークではどこにも負けない4区チームだったが相手ピッチャーを打ち込むことができず、5回までで13対2と大差をつけられた。1番セカンドで先発出場。2打席目にセンター前にヒットを打った。次の回の守りで1、2塁間のライナーをダイビングキャッチしようと瞬間的に左に飛んだ。肩から落ちて「とんだ」ことになった。途中退場。高校時代、ハンドボールのゴールキーパーをしていて左に飛ぶのが得意だったが、あれから40年も経っていた。仕事中も痛くて腕が上がらなかった。「いい年をして、まったくぅ…」と和子に言われた。頭も上がらなかった。肩に湿布を貼ってもらう時、「もう年なんだから…」とまた言われた。同い年だろう。 平成21年 10月24日(土) 今朝、「ながめ余興場」からNHKの生中継があった。昨日に続き入念な打合せとリハーサル。本番では黒子の会や全国芝居小屋会議の紹介をし、今回新調した桟敷席の座布団の話をすることにした。「座布団に名前を刺繍で入れます」ということで協賛を募ったところ、250口の募集に対して半月で494口の寄付が集まった。中には「百歳と99才を元気で迎えた両親の名前を連名で入れて…」という娘さんからの応募もあり感動した。NHKの入田さんから「そのいい話をしてもらって、最後は松崎さんのオチで締めましょう」ということになった。いよいよ本番。入田リポーターの絶妙な進行。最後に「ところで松アさんが敷いている松崎和子という座布団は」「愛妻の名前で、時には尻に敷き、時にはこうしてやさしく抱き締めて」と座布団を胸に抱えて生中継が終った。ルンルン気分で家に帰った。「またあんなバカなことをして」ときつく締められた。 平成21年9月22日(火) 四国松山の小倉くめさんと電話で話をした。くめさんは脊椎側弯症という障害を抱えながら、季刊誌「秘めだるま」や「くめさんの空」というラジオ番組を続けている。いつも大切なことを教えてくれる人生の師。「人間の脳が一番求めているのは人から認められることです」と言っていた。 今朝の朝礼で読んだ「職場の教養」に「ほめられサロン」というインターネットのサイトが紹介されていた。すぐに検索してみた。名前や性別や年齢や職業を選び、最後の「ほめられたいですか」で「はい」と押すと軽快な音楽と共に次々にほめ言葉が画面いっぱいに出てくる。「やっちゃん、頼もしい!」「やっちゃん、男前やな」「やっちゃん先輩が夢に出てきました」読んでいるうちに気持ちがよくなってきた。家族や従業員の名前を入れてほめ言葉を印刷して渡してやた。 今度は試しに「ほれられサロン」はないかと探してみたがそんなサロンはなかった。 平成21年 8月1日(土) 大間々祇園祭りが始まった。今年は京都の八坂神社のご分霊を大間々の地に祀ってちょうど380年の節目の年。伝統の重みを感じた。初日からあいにくの雨。それでも昼間は商工会で神輿パレードに参加し、夜はお囃子競演会で山車を引いた。商工会のハッピとお囃子保存会のハッピと4丁目の揃いの浴衣と3回も着替えた。商工会の神輿パレードには会員が60人も参加していた。担ぐのは若手に任せ、一番ラクな先導役を務めた。行く先々で酒やビールを振る舞われ、途中から千鳥足になってしまった。4丁目の山車小屋前で慎ちゃんからバケツに2杯水をかけられた。酔いが醒めて元気回復。 6丁目からは若いオネエちゃんと2人で神輿の上に乗った。「玉の輿」に乗る気分を満喫した。あちこちで水をかけられ、雨にも濡れて、気がついたら白い半股引の下の柄パンが透けて見えていた。縮み上った「輿の玉」がパンツからはみ出していないか心配だった。 平成21年 7月1日(水) 新里の安養寺さんの本堂でOKバジこと垣見一雅さんの講演会が開かれた。住職の舩戸さんは「にんげん」という新聞を発行し、ネパールで支援活動を続けるOKバジに支援金を送っている。本堂いっぱいに集まった人はOKバジの話を興味深く聴いていた。百校もの学校を作り、奨学金制度を作って子供たちの教育環境を整え、村人たちと一緒に汗を流して井戸や灌漑用水も数知れず作ってきた。病気やケガをした人の命を救い、神様のように尊敬され家族のように愛されている。 舩戸住職に「松アさんがネパールで体験した話もしてほしい」と頼まれた。OKバジを真ん中に舩戸さんと3人が上座に座った。OKバジの話のあと、おハチが回ってきた。足が痺れて転びそうになった。ハヂをかくところだった。気がついたらご本尊様にずっとケツを向けていた。バチが当たるところだった。ご本尊様からケツを左に移動させた。今度はOKバヂに当たるところだった。 平成21年 6月25日(水) 垣見一雅さんと桜井ひろ子さんから今日、同時に手紙が届いた。3日前に別れたばかりなのにすぐに礼状をもらって感激した。2人に共通するのは再利用の封筒と、使い残しのノートや紙を便箋代わりに使うこと。物を大事に使う習慣が染み付いている。垣見さんは、長年のネパールでの支援活動が評価され、今年の「吉川英治文化賞」を受賞した。「一糸乱れぬ」丁寧な字は垣見さんの生き方そのもので、手紙をみんなに見てもらいたくなる。 OKバジを密着取材したひろ子さんの著書「道を楽しむ」は「吉川英治文学賞」を上げたいくらい感動的な本だ。天真爛漫、ありのままを飾らず隠さず飛んだりはねたり「一糸まとわぬ」ような手紙も味がある。ひろ子さんの手紙は誰にも見せずに涙を流したり、笑ったりして何度も何度も読み返した。「私、人のふんどしで相撲をとってま〜す」というひろ子さんのふんどし姿を今夜もまた想像してしまった。 平成21年 5月20日(水) 昨夜は水上温泉に泊った。いつもの習慣で5時に目が覚め、5時半に起きて散歩に出た。利根川の源流と残雪の谷川岳の景色が美しかった。 うちのプ〜ちゃんも今頃は散歩の時間。テレビの「お父さん犬」と違ってプ〜は携帯を持っていないので、代わりに和子に電話…。でも、今朝は電話でなく、谷川岳の写真を携帯で撮ってメールで送ってみることにした。初体験だった。慣れない手つきで「送信」。それから電話。「届いた?」「写真が見られない」…。再度挑戦。「今度は?」「今度もだめ」。利根川の橋の上と渡良瀬川の遊歩道で悪戦苦闘する2人をプ〜も心配して見ていたに違いない。臆病だが空気が読める賢い犬。以前、散歩の時「柴犬?」と聞かれ「いえ、オカマの雑種です」と答えた。プ〜は淋しそうな顔をしていた。 以来、「シバですか」と聞かれた時はプ〜のプライドを傷つけないように「女房はチバです」と誤魔化している。 平成21年4月2日(木) ネパールで1番の心配はトイレだった。紙を使わず水と左手で処理をする。正露丸を手放せなかった。民泊初日は緊張した。ズボンを下ろし、便器の小さな穴を確認してしゃがみこむ。無事に出たあとは右手に水の入ったビール瓶をもち、左手で尻を洗う。最初は戸惑ったが慣れると快感に変わった。ビール瓶を大きく傾け、左の指で健康状態を確認するかのように洗い流す。ビール瓶1本の水は尻を洗って手を丁寧に洗うのにちょうどいい量であることを知った。小瓶ではチョッと物足りないというのはビールを飲む時と同じだった。 民泊4日目の今朝はペットボトルに水をつめて、散歩を兼ねての野外トイレ。道端には大きな牛の糞や特大の正露丸のような山羊の糞が落ちていた。牛や山羊との道端勝負を避け、道なき道を分け入り、慣れた腰つき、慣れた手つきで用を足した。澄んだ空気、眼前に広がる雄大な山々。神々の座と呼ばれる山の中でカミは必要なかった。 平成21年3月22日(日) ネパール出発まであと4日。 旅行の目的は15年前から現地の寒村で支援活動を続けるOKバジこと垣見一雅さんに会うことと、我々の支援金と村人の労力で出来た図書館のオープニングに出席し、蔵書第一号として預った星野富弘さんの英語版の詩画集を届ける事。18人の仲間が手分けして富弘さんの本をリュックにつめて持って行く。首都カトマンズから飛行機で30分、バスで2時間半。更にジープと徒歩で5時間、2時間、2時間半…と民泊4日を含めて村々を訪問する。現地の人達との交流とヒマラヤの「神々の山嶺」をこの目で見るのも楽しみだ。 11日間も仕事と家を空けるのは初めて。留守中の段取りに追われ旅行の準備が出来なかった。親友のYちゃんから寝袋を借りた。試しに一晩寝てみた。快適。赤と青のツートンカラー。赤は遭難した時に目立ちそうだ。女房の元気が出る赤いパンツも借りて行こうと思ったがやめた。遭難した時目立ちすぎる。 平成21年2月16日(月) さくらもーる閉店後、センターコートで従業員とその家族のための「お笑いイベント」を開いた。日頃はイベントがあっても観られない従業員のための粋な計らい。一昨年はモノマネのホリ。昨年は口からトランプを出す藤井あきら。今年はジョイマン、しずる、5GAPのお笑い芸人のギャグを270人が楽しんだ。 お笑いイベント終了後、近くのカラオケ店へ行き、打ち上げパーティで盛り上がった。今日はダイエットのことは忘れてビールを飲み、イチゴパフェと焼きおにぎりを食べた。さくらもーるの看板娘のY子ちゃんと「今夜は離さない」を歌った。熟女のSさんとIさんと未熟女のYちゃんが次々と両隣に座った。飲ませるつもりが飲まされた。酔うと口説きたくなる癖がある。『惚れた数からふられた数を引けば女房が残るだけ』というどどいつを思い出した。残る女房がいるだけましか。「ジョイマン」でなく「酔いマン」で帰宅した 平成21年1月21日(水) 全国亭主関白協会(全亭協)に入会して3ヵ月が経った。 「亭主関白」の亭主とは茶道でいう「もてなす側の人」であり、関白とは天皇を補佐するナンバー2の人のこと。家庭にあっては天皇である愛妻を補佐し、もてなすのが全亭協の唱える亭主関白である。 全亭協には「愛の三原則」がある。 @「ありがとう」をためらわずに言おう A「ごめんね」を恐れずに言おう B「愛してる」を照れずに言おう 「愛してるよ〜」はなかなか言えないので、我家ではこれを省略して「愛・よ〜」と返事に使っている。 「お風呂、お先〜」「愛・よ〜」 「明日はゴミの日ね」「愛・よ〜」 亭主力が高まると愛妻の笑顔もよくなる。「妻の顔は通知表」だ。何を言われても口答えせず「あいよ〜」に愛を込めれば夫婦喧嘩はなくなる。 戦わずして負けてやる「無条件幸福」であり、「白旗攻撃」であり、「妻害対策」でもある。 |