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十二月十三日(土)
ながめ余興場で「おもちゃ図書館・もみの木」のクリスマス会があった。心身にハンデを持った子ども達とそうでない子供達がおもちゃで一緒に遊び、楽しいひとときを過ごした。地域のお年寄りやボランティアの中学生も参加して総勢百三十人の大きな会になった。数人で始めた小さな活動も十年という地道な積み重ねで大きな力になった。まさに「継続は力なり」だ。
沢入の国際サーカス学校の生徒三人も来てくれた。一輪車のひろみちゃんの演技にみんなが目を輝かせた。ひろみちゃんの芸は見るたびに進歩している。毎日、厳しい練習を続けているに違いない。これも「継続は力なり」だ。一輪車で股ズレにならないかと低俗なことを考えた。靖ちゃん日記はそれもまたよし。「テイゾクも力なり」だ。
十一月十九日(水)
桐生のえびす講へ行った。参拝者は二日間で三十万人、参道から商店街まで七百軒もの露天商が出るという。今年も大変な賑わいだった。参道を歩いているうちに子供の頃を思い出した。昔は家族揃ってえびす講へ行った。昔の方がずっと寒かった。姉弟四人がかわるがわる親父のオーバーのポケットに手を入れて歩いた。親父のポケットは大きくて暖かかった。お宝を買い、必ずタイ焼きを買った。親父の大好物だった。そして、第一山本で鍋焼きうどんを食べるのが一年に一度のぜいたくだった。
長蛇の列に並んでタイ焼きを買って帰った。仏壇に供えた。親父の写真がえびす様に見えた。ネズミに食われるのが心配だった。えびす講のタイ焼きをネズミが食うとネズミ講になる。
十月十九日(日)
今年も埼玉県武蔵嵐山で行われた志帥塾に参加した。
いい生き方をしている人達との出会いを通して自分を磨くこの集まりに七年前から参加したお蔭でいいご縁が次々に生まれた。一日目の夜、押し花絵作家の庄村昌子さんと話した。庄村さんの作品はトイレ美術館でも二度飾らせてもらったが本人に会うのは初めて。庄村さんは花に「あなたを最高に輝かせるからね」と語りかけながら花を育て、作品を作っているという。年月がたっても色褪せるどころか益々色鮮やかになると評判の作品はルーブル美術館にも展示されると聞いた。
謙虚に押し花を語る庄村さんの一言一言に深く感動した。夢中で話を聞いていたら夜中の二時になっていた。ベッドに入っても興奮してなかなか寝付けなかった。寝返りをうち、うつ伏せに寝たら鼻が押し鼻になった。
九月二十三日(火)
彼岸の中日。親父の三回目の命日でもあった。店の朝礼で全員で一分間の黙祷を捧げた。元気な頃は融通のきかないクソ親父だと思っていたが、いつも店のこと、家族のことを思い続けていたいい親父だった。
昼過ぎ、姉弟家族揃って墓参りに行った。今年は光栄寺開山四百年でタイムカプセルに入れるメッセージを募集している。松ア家の墓の前で皆で記念写真を撮った。曼珠沙華がきれいだった。
五十年後、タイムカプセルが開けられる時には裕子姉の孫の千佑李ちゃん以外は皆、墓の中だろう。
夜、決算書のチェックをした。親父が会社組織にして五十三期目。おじいちゃんが商売をはじめて九十年を超える。お墓に足を向けて寝られない。足を曲げて斜めに寝たら今度は墓にケツを向けていた。
八月三日
大間々まつり最終日、仮装大会があった。毎晩のように町内の仲間とビールを飲みながら準備を続けてきた。新しい仲間も加わった。都合で本番に出られない仲間も準備を手伝ってくれた。この仲間が町内の色々な行事の核になってきているのが嬉しい。孔雀の羽根をつくり、女物のパンティを水色に染めた。昨日は夜中の十二時過ぎまで十五人全員で何度もリハーサルをした。本番ではTシャツの下にウレタンを入れて胸を膨らませ、網タイツをはいた。八度目の優勝で三十万円を獲得した。
町内に戻り、婦人会のビジョ軍団の歓迎を受けたのも嬉しかった。
最高に楽しいお祭りだったが、仮装で穿いた網タイツが股間にくいこみ赤くすりむけて痛かった。これだけが「タマに傷」だった。
七月二十二日
東京出張の帰りに相田みつを美術館へ立寄った。相田みつをさんの長男でもある相田一人館長にも久しぶりに会って話をした。「親子で見るこころの詩」という企画展を開催中だった。若い親子連 れも多かった。売店には書家で詩人だった相田さんの色紙やハガキが販売されている。母親が小学生の男の子に「何か好きなのを買ってあげる」と言った。その子が迷った末に選んだのは「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」という色紙だった。この少年もこの言葉に励まされて生きてゆくのかと思うとなぜか嬉しくなった。日本中の親子が相田さんの作品に触れたらきっと良い世の中になる。以前、PTAで相田さんの話をしたら若い母親が「あら、お笑いだけじゃないのね」と言ったのを思い出した。彼女は「せんだみつお」と間違っていた。
六月二十日(金)
郷土を美しくする会の主催で中牟田真甫さんの講演会を開いた。『笑顔の人生〜出逢いに導かれて生きる〜』というテーマだった。多くの人との出会いのお陰で今の自分があるという中牟田さんの話に感動した。耳が聞こえなくなった福井県のお父さんに毎日ハガキを書き続け、すでに千二百通以上にもなっているということを聞いて驚いた。「幸せだから感謝するのではなく、感謝するから幸せになる」という言葉にも深く共感した。
笑顔の大切さを多くの人に広め、「ほほえみ天使」を自称する中牟田さんの笑顔は天使そのものだった。中牟田さんの真似をしてトイレの鏡の前で作り笑顔をしてみた。不自然だった。てんしの笑顔というよりぺてんしの笑顔だった。
五月二十三日(金)
夜、サンレイク草木でロンダリア・オン・ホイールズ(フィリピンの車椅子楽団)のコンサートを聴いた。体に障害を持つ十人の若い男女が素晴らしい演奏をした。「世界に一つだけの花」や「翼をください」の曲に震えるほど感動した。数え切れないほど辛い思いをしてきたはずなのに彼等の笑顔はみな明るかった。熊本から来た大野勝彦さんが義手で彼等の笑顔をスケッチした。二次会でフィリピンの若き演奏家達と一緒に飲んだ。一時過ぎまで飲んだ。リチャードとローリーの間に可愛い女性が座っていた。両目でウインクをしてロレツの回らない英語でファット・ユア・ネーム?と聞いたら笑われた。ボランティアで来ていた東京の女子大生だった。
四月十三日(日)
小山市に住む谷口ようこさんがご主人と一緒に訪ねてきてくれた。谷口さんは手漉き和紙の人形作家。日本的な母と子の温かい情愛を和紙人形で表現している。足利屋とアスクで飾らせてもらい大好評だった。「観てくださる方にほほえんで頂ける人形を作りたい」という谷口さんの陽香人形は見ているだけで安らぎを感じる。和服姿の母子が向かい合って手をつないでいる「だっこ」と名付けられた人形がパリのルーブル美術館に飾られることになったそうだ。谷口さんの作品が世界的に認められたことに拍手した。うちで飾っていた人形が世界一の美術館に飾られる。いつかルーブルへ行ってみたいものだ。体がチューブルにならないうちに。
三月二十三日(日)
シアトルに住む若林茂さんからアメリカのビールとビーフジャーキーが届いている。若林さんはワシントン大学で日本経済や文化を教えている同年代の先生。インターネットで「虹の架橋」を読んでくれて、七十回以上もメール交換をしている。若林さんが北米報知に連載の「私の読書案内」も送信してもらっている。一度も会ってはいないが心の交流ができるのが何より嬉しい。
お彼岸で子供達が帰ってきたので若林さんからもらったビールで乾杯した。テキサスビールとカリフォルニアビールと一番絞りを飲み比べているうちにすっかり酔っていい気持ちになった。お酌をしてくれる娘にチップをやりそうになってしまった。
二月三日(月)
昼間、お神明さまで豆まきをして夜は家でも豆をまいた。神棚、えびす様、玄関、トイレ、台所、お稲荷さん、井戸で「福は〜内」をした。昔は隣近所どこの家からも豆まきの大きな声が聞こえたが今では聞かれなくなった。子供のころ豆まきのたびに「もっとでっけー声を出さなきゃダメだ」と親父に叱られたのを思い出した。「鬼は〜外」と言っている親父が鬼に見えたがそんな親父も三年前に仏になった。天に向かって「福司は〜内」と親父の名前を呼んで豆を撒いたら仏の親父の顔が浮かんできた。来年もでっけー声で豆まきをやろうと心に誓った。
昔から、歳の数だけ豆を食うと病気にならないと言われているが五十を越すと腹をこわす。
一月二日(木)
何度も立小便をする夢を見て目が覚めた。縁起のいい初夢を見たいと願っていたのにガッカリした。昨夜、ビールを飲み過ぎたのがヘンな夢の原因だったかもしれない。
元日の夜、東京から娘が帰ってきたので久々に家族全員が顔を揃えた。ビールで乾杯した。息子もファッション関係の学校へ行っているので共通の話題があるのが嬉しい。娘も十二月三十一日まで仕事で二日から初売りだと言う。朝、五時十一分の始発で東京へ戻って行った。赤城駅で「頑張ってな」と言って送り出した。一面の銀世界だった。裏庭で散歩を待つプーがはしゃいでいた。子供の頃のように雪の上に小便で書初めをしたら気持ちがいいだろうと思ったがやめた。昔は筆に勢いがあったが今は見る影もない。
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