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神橋(しんきょう) |
深沙王(じんじゃおう)が放った二匹の蛇が橋となり、勝道上人一行の日光入山を助けた。ちなみに、この深沙王は「西遊記」にも登場、三蔵法師の危機を救った神としても知られている。 |

深沙王堂 |
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板垣退助銅像(いたがきたいすけどうぞう) |
戊辰戦争で官軍参謀として、日光山内に立てこもる旧幕府軍を説得した。 |
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星の宮(磐裂神)(いわさくのかみ) |
勝道上人7歳の時、夢に現われ仏の道へと導いた明星天子を祀っている。 |
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天海大僧正銅像(てんかいだいそうじょうどうぞう) |
日光山貫主となり、疲弊していた日光山信仰を復興した。徳川家康に気に入られ、二代・秀忠、三代・家光と三世代の徳川将軍に仕えた。 |
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深沙王堂(じんじゃおうどう) |
国道120号線をはさみ、神橋の真向かいに立つ小さいお堂。勝道上人の日光入山を助けた深沙王を祀っている。 |
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太郎杉(たろうすぎ) |
樹齢530年の老杉。高さ43メートル、目通直径5.75メートル、周囲の杉巨木の中でも群をおいて巨大な杉。ちなみに、「太郎」は元来、長男や優れた男子を意味し、一番古いものや最も大きなものなどに使われた名称でもある。 |

杉並木寄進碑から本宮神社への石段。探勝路への入り口。

本宮神社

四本竜寺と三重塔と |
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杉並木寄進碑
(すぎなみききしんひ) |
家康の死後、家臣:松平正綱が東照宮への参道整備のため日光街道3ヶ所に植えた杉並木を寄進した際の記念碑。 |
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本宮滝(ほんぐうだき) |
杉並木寄進碑脇の小さな滝。水量が少なく、流れていないときも。 |
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本宮神社(ほんぐうじんじゃ) |
767年、勝道上人が二荒山=男体山の神さまを祀る為に創建した神社で、日光二荒山神社の始まりとなる。紫雲立寺(日光山輪王寺の基)と並び、日光山の信仰の起源といわれている。 |
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四本竜寺紫雲石(しほんりゅうじしうんせき) |
激流の大谷川を渡った勝道上人と10人の弟子が、もうもうと紫雲の立ち上る光景を目にし、その地に行ってみると、大きな石から清竜(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)の四雲がわいたと言う。そこで766年この地に寺を建立し「紫雲立寺」(しうんりゅうじ、後の四本竜寺)とし、石は紫雲石と名付けた。 |
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四本竜寺三重塔(しほんりゅうじさんじゅうのとう) |
1219年に暗殺された源実朝の霊を慰めるために造られた。現在の建物は、消失したものを建て替えたもの。 |
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四本竜寺観音堂(しほんりゅうじかんのんどう) |
大同2年(807年)、下野国司、橘利遠(たちばなとしはや)により千手観音が祀られた。四本竜寺はもともと、「紫雲立寺」(しうんりゅうじ)と呼ばれていたが後に改名された。 |
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児玉堂(こだまどう) |
その昔、弘法大師=空海が滝尾神社で修行中、大小二つの光の玉が飛び交うのを見つけ、追ってみると、小さい玉は、四本竜寺近くで消え、大きい玉は中禅寺の方向へ飛び去ったという。
何かの思し召しと考え大師は小さい玉の消えた場所にお堂を建立し児玉堂と命名、大きな玉のために、中禅寺湖近くに妙見寺を建立した、と言われている。 |
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甲良豊後守宗広銅像(こうらぶんごのかみむねひろどうぞう) |
現在の東照宮有料駐車場、桜の馬場公園内にある銅像で、甲良豊後守宗広は、家光による寛永の大造替の際の東照宮の設計・施行の責任者で作事方大棟梁。 |
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教旻僧都の墓(きょうびんそうずのはか) |
教旻僧都は、勝道上人とともに日光を開いた10人の弟子の中でも一番の高弟で、上人の死後、跡をついで日光の座主となった。人一倍上人への忠心が深く、東照宮建立に際し、幾度か僧都の墓を移転しようとしたがその度に恐ろしいことが起こりついには断念したという言い伝えが残っている。 |
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養源院跡(ようげんいんあと) |
家康の側室、於六の方の菩薩を弔うため姉の英勝院により1626年に建てられた。松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中で日光を訪れた際、東照宮より先に立ち寄ったとされている。明治以降は廃寺となり、現在は墓石と痕跡のみ残る。 |
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開山堂(かいざんどう) |
勝道上人を祀る為に建てられた朱塗りの堂。内部には本尊地蔵菩薩像と勝道上人の座像、さらには弟子10人の木像も納められている。 |

開山堂と産の宮

断崖下の六部天像 |
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勝道上人の墓(しょうどうしょうにんのはか) |
817年勝道上人が亡くなった際、仏岩谷で荼毘(火葬)にふされ、当初は谷の上方に埋葬されたが、東照宮鎮座にあわせ、上人を祀る為に開山堂が建立された。現在はここに埋葬されている。上人の墓の横には、弟子3人の墓も建てられ、死後も上人に仕えている。 |
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観音堂(産の宮) |
開山堂の左側に建てられた、楊柳観音(ようりゅうかんのん)を祀る小さな社で別名「香車堂(きょうしゃどう)」とも呼ばれている。その名は安産祈願から由来しており、まっすぐにのみ進む事のできる将棋の駒「香車」のように、まっすぐに元気な子供が生まれるようにとの願いがかけられている。
香車堂に奉納された香車を1つ持ち帰り無事に子供が生まれたら、借りた香車の駒と、一回り大きい駒とを御礼に堂に返すという慣わしがあり、堂には現在でも沢山の駒が並んでいる。 |
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陰陽石(おんようせき) |
観音堂左手にある2つの自然石で、安産祈願から、それぞれ男と女を表している。 |
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仏岩と六部天像(ほとけいわ・ろくぶてんぞう) |
開山堂の裏の切り立った断崖で仏に似た岩が並んでいたことから「仏岩谷」と呼ばれていたが、地震で崩れてしまった。現在は、六部天の石仏を安置し祀っている。 |
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北野神社
(きたのじんじゃ) |
神社という建物がなく、「梅鉢紋」のある巨石と数個の石からできている。学問と書道の神・菅原道真を祀った神社で学問向上と書道の上達を祈願しての参拝者が多く訪れた。 |

北野神社の梅鉢紋を印した巨石

美しい白糸の滝 |
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手掛石(てがけいし) |
学問と書道の神として崇められた北の神社を詣でた後、この石を「手で欠いて」持ち帰り神棚に飾ると学問が向上すると言われている。現在は「手を掛けて=乗せて」祈ると良いとされている。 |
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神馬の碑(しんめのひ) |
関が原の戦いの際、家康公が乗った愛馬の為に建てられた碑。家康公の死後14後の1630年に死んだ。 |
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飯盛杉・昌源杉(いいもりすぎ・しょうげんすぎ) |
日光山第44世別当となった昌源が滝尾神社付近に植えた数万本とも言われる杉群で「昌源杉」と呼ばれた。そのうちの一本はまるでこんもりと飯を盛り上げたように茂り特に目立ったため「飯盛杉」と呼ばれ愛されたが、1963年、突風で倒れてしまい現在は見られない。 |
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大小きんぜいの碑(だいしょうきんぜいのひ) |
行者堂・滝尾神社・観音堂へのY字岐路に立つ道標で、これ以降、滝尾神社への歩道は聖地となるので大小便などの不浄をしてはならぬとの知らせを、参拝に訪れる漢字の読めない人にも読めるようにひらがなで記してある。 |
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白糸ノ滝(しらいとのたき) |
弘法大師の滝尾神社創建にともない、聖地として、修行の場として栄えた。昔は滝つぼにて大師も修行したとの言い伝えがあるが、現在は滝つぼはなく、高さ約10mほどの涼やかな流れが見えるだけ。四季を通して美しく、滝を見に訪れる観光客は現在も多い。 |
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別所跡(べっしょあと) |
滝尾神社の別当があったとされる場所。日光山輪王寺に伝わる神事「強飯式(ごうはんしき)」の始まりの地と言われている。 |
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影向石(ようごうせき) |
「影向」とは神仏が仮の姿でこの世に現われることを言う。その昔、弘法大師がこの巨石の前で神霊の降下を祈願したところ、美しい女神が現れたという。 |
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運試しの鳥居(うんだめしのとりい) |
白糸ノ滝脇の石段を登ると見えてくる鳥居。中央の石版・額貫に開いた丸い穴に、3つの小石を投げ、うまく穴を通れば幸運が舞い降りると言われている。現在も、鳥居の付近には参拝者の投げた小石が散らばっている。 |

運試しの鳥居に石を投げる観光客

滝尾神社 |
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滝尾神社(たきのおじんじゃ) |
820年真言宗祖、弘法大師=空海が入山した際に創建されたとされる。1617年に東照宮が建立されるまで、日光の山岳信仰の中心としてもっとも人気の高い神社だった。 |
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縁結びの笹(えんむすびのささ) |
滝尾神社境内内にある。親指と小指だけを使って笹の葉を切れずに結ぶことができれば良縁に巡り合う、または、恋人同士が片方ずつの手の親指と小指を使いうまく結べれば恋路がうまくゆくなどの諸説があり、良縁を求めての参拝も多かったという。現在は笹が枯れてしまうのを防ぐため笹を結ぶことは禁じられている。二社一寺、世界遺産の神社仏閣で求めたおみくじを先の方法で結ぶのが良い。 |
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無念橋(むねんばし) |
その昔、俗界との境として俗世に失望し信仰の世界に身を投じる者の渡る橋として「無念橋」と呼ばれていたが、いつからか、女峰山信仰から健脚祈願のための「願い橋」と呼ばれるようになった。短いこの石橋を、自分の年齢の歩数(20歳=20歩)で渡ると女峰山山頂の奥の宮まで登頂したことと同じとなり願いがかなうと言われている。 |
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御神木・三本杉(ごしんぼく・さんぼんすぎ) |
弘法大師がこの地で修行していた際、田心姫命が現れた場所とされている。初代の御神木の三本杉は約300年前に倒れ現在立っているのは二代目。寛文7年(1667年)、鶏頭院山舜の下僕の小僧が御神木を見て「なんと小さい御神木だ」と馬鹿にした途端、神罰によって口がきけなくなってしまったという。 |
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滝尾稲荷神社(たきのおいなりじんじゃ) |
弘仁11年(820年)滝尾神社とともに弘法大師によって創建された。その昔、大師が朝のお供え物をうっかり忘れてしまうと、稲荷の神さまが化けて現われお供え物を催促したという。 |
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酒の泉(さけのいずみ) |
昔からこの泉の水で酒を作るととても上質な酒ができると信じられていて、酒醸造業者の信仰もあつい。すくって飲むと酒の味がするという。 |

女峰山登山道入り口に建てられた行者堂。探勝路はここから石段の下り道が大猷院入り口まで続く。 |
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子種石(こだねいし) |
史跡探勝路:滝尾コースの最も奥、滝尾稲荷後方に祀られた石で、この石に願いをかけると子宝に恵まれると信じられている。現在でも子供が授かるようにと願掛けに訪れる人が多いという。 |
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行者堂(ぎょうじゃどう) |
奈良時代の山岳呪術者、役の小角(えんのおずぬ)を祀る堂で役の小角が健脚であったことから、女峰山の登山口に建てられたこの堂には、健脚になるようにと行者が草鞋を備えたと言われている。また足の弱い者はここに参拝すると足が丈夫になるとの言伝えがあり多くの信者が訪れた。現在の堂は平成2年に改装されたもの。 |
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空烟地蔵(くうえんじぞう) |
その昔、地蔵尊が男体山への入山を導いたとされる場所にあり、三代将軍:徳川家光の忠臣、安部豊後守忠秋の墓を建てる際、すぐ裏に阿部家によって造立された。なお、この地蔵の背後にあたる大猷院家光廟境内、家光の墓の前後には、死後も主君に仕えるとして、安部忠秋と同じく忠臣:梶定良の墓が建てられ、家光の墓を守っている。 |