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<日光の楽しみ方>

日光観光の一味違った楽しみ方、
日光の名所旧跡に伝わる伝説や面白い話を紹介しています。
日光修学旅行の事前学習にもぴったり! 日光の謎と神秘をお楽しみ下さい!!

PART:1 世界遺産編
其の壱:伝説的彫刻師 左 甚五郎の話
其の壱:伝説的彫刻師 左 甚五郎の話:番外:落語 「甚五郎のねずみ」の話
其の弐:勝道上人を救った二匹の蛇・神橋の話
其の参:「我こそ二代権現!」 父嫌い・超ジジっ子だった徳川家光の東照宮改築 Part 1
其の参:「我こそ二代権現!」 父嫌い・超ジジっ子だった徳川家光の東照宮改築 Part 2
其の四:偉大なる老僧「南光坊天海」の謎
PART:2 戦場ヶ原編
其の壱:戦場ヶ原 神戦譚
PART:3 史跡探勝路:滝尾神社コース編
其の壱:神秘なる日光開山の路
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PART:1 世界遺産編
其の壱:伝説的彫刻師 左 甚五郎の話
 
 日光東照宮の「眠り猫」ほか、たくさんの優れた彫刻を遺した事で有名な「左 甚五郎(ひだり じんごろう)」ですが、その腕前があまりに神業的であることから、「実は架空の人物である」という説もあるほど。江戸初期、彫刻だけでなく、講談や落語にも多く名を残した稀有の人物ですが、印象深いその名には、こんな逸話が残っています。

 昔、甚五郎という優れた腕を持つ彫刻大工がおりました。

ある年、日光東照宮が大改装される運びとなり、全国から選りすぐりの大工達が集められることとなりました。甚五郎も、当時「日本一」とうたわれた彫刻師、栗原遠々江(くりはらとうとうみ)とともに選ばれ、日光に招集されました。
 甚五郎と栗原遠々江は互いの力量を意識し合い、夢中で彫り仕事をしていきました。まわりの大工達も互いに名の知れた天才2人のどちらが日本一の優れた彫刻師か興味深々、仕事の様を見比べては「さすが栗原だ」「やはり甚五郎だ」とはやし立てます。

 しかし次第に彫刻が仕上がって来ると、丁寧で細部までこだわった美しい遠々江の彫刻の繊細さに比べ、どうも甚五郎の彫刻は粗っぽく野暮ったいようにも思え「これは、栗原遠々江の勝ちかもなぁ」と大工達は噂し合いました。

 いよいよ彫刻が完成し、実際に高みに上げられ飾られてみると「あっ!」と大工仲間達は息をのみました。
 あれほど繊細で美しいと思われた栗原遠々江の細工は遠目では全くその仕事が見えず、逆に粗すぎると思われた甚五郎の彫り物は、遠くから見上げるとまるで今にも動き出すのではないかと思えるほど生き生きとし、言い知れぬ存在感と生命力を宿しているのでした。

 「これは、甚五郎の勝ちじゃ、見事見事、甚五郎こそ日本一の仕事師じゃ!」
 大工仲間達は甚五郎の腕前を褒め称えました。
 面白くないのは栗原遠々江。完成まで、あれほど「遠々江こそ!」とはやし立てていた者たちまで、一斉に甚五郎の取り巻きとなってしまい、自分自身も勝利を確信していただけに悔しくてなりません。
 「甚五郎さえ居なければ、自分が日本一の彫刻師であるのに・・・。甚五郎の奴さえ居なければ・・・。」

 ついにある晩、栗原遠々江は弟子の龍五郎に「この刀で甚五郎の首を切り落として来い」と一振りの刀を渡しました。
 師匠の言いつけに「へい」と言って刀を受け取った弟子・龍五郎でしたが、実は、師匠を打ち負かした彫刻の腕前にすっかり感激していたため、「自分より腕が良いというだけで命を奪うのはあまりに酷い」と甚五郎を殺す覚悟が固まりません。かと言って、師匠の言いつけに逆らうことも出来ず、仕方なく、闇夜にまぎれて甚五郎を襲い「許してけろ」とその右腕を切り落としてしまいました。

 逃げるようにして右腕を師匠の元に持ち帰った龍五郎は、首を取らなかったと激怒する栗原遠々江に、「職人は右腕が命、右腕を失ったからには甚五郎は死んだも同然、せめて命だけは助けてやって下せえ」と必死に懇願し、栗原遠々江も「なるほど、彫り物のできぬ甚五郎、殺すまでの者でもあるまい」と龍五郎の説得を聞き入れました。

 命からがら逃げ延びた甚五郎は傷の癒えるのまでの日々、死に瀕した床より失望の中考えました。
 「失った右手には指が5本、残った左手にも指は5本。右手にできた仕事が左手にできぬわけが無い。」

 やがて傷の癒えた甚五郎は左手で再び彫刻を始めました。
 しかし、勿論思うように彫れるものではありません。何度も失敗し、何度もくじけそうになりながらも必至に左手一本で彫刻を彫り続けました。
 いく年かがすぎた頃、その地方に「恐ろしく腕の良い彫刻師がいる」という噂が流れ始めました。
 「まるで、あの甚五郎の再来のような彫刻だ」と人々は見事な彫刻に見とれていましたが、その彫刻師こそ右腕を失い、左腕だけになった甚五郎その人であることに気づくと、「なるほど、天才とは持って生まれた才のみならず、人知の及ばぬ努力の賜物でもあるものだ。」と、畏敬の念よりその名を「左 甚五郎」と呼ぶようになったということです。

 (左 甚五郎の作と言われる『眠り猫』。真裏にあたる部分には雀の彫刻が施されている。
猫が起きているときは雀が食べられてしまうが、猫が寝ているので雀も安心して羽を休めている。つまり、戦が終わり、天下泰平となったのだという安泰のシンボルと言われている。)
其の壱:伝説的彫刻師 左 甚五郎の話:番外:落語「甚五郎のねずみ」の話
 
 さて、「左 甚五郎」の名前の由来についてはいささかおどろおどろしい伝説の他に、単に「左利きの名工だったから」という説や「飛騨(ひだ)の甚五郎」がなまって「ひだりじんごろう」になったとの言い伝えもあります。いずれにしても全国各地に数多くの「左 甚五郎作」と言われる彫刻が残されている事や、甚五郎を語る落語や講談の数の多さから見ても、江戸初期に活躍したこの彫刻師が、当時の庶民の間に絶大な人気を誇っていたのは間違いありません。

 とある落語の話の中に、東照宮の眠り猫に相通じるような興味深い話が残されています。落語らしく、面白おかしく脚色された話の中に、人情深い甚五郎の人柄がうかがえます。
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「 甚 五 郎 の ね ず み 」

 
あるところに、甚五郎という彫刻師がおりました。腕利きの彫刻師であった甚五郎は、「名匠(めいしょう)」とうたわれ大人気、西の神社だ東の寺だと全国各地にひっぱりだこ。今日も奥州(おうしゅう)仙台での大きな仕事を終えて宿場町を宿を求め歩いておりました。
  さて今夜はどこに宿をとろうかと考えていると薄汚いかっこうの子供が走りよってきました。
  「おっちゃん、旅のひとでっしゃろ、もう宿はきまっとるんか?」
  甚五郎が「まだだ。」と答えると、子供は「そんならおいらんとこの宿にとまっておくれ」と言います。
  こんな小さい子供が商売の手伝いか宿屋の客引きをしているのに感心した甚五郎は、「よしよし、今夜はぼうずのところにやっかいのなろうかの」と言って案内を頼み「して、ぼうず、名前はなんと言う?」尋ねると「おいらは卯之吉(うのちき)」と答えました。

 
歩きはじめると卯之吉は「おっちゃん、泊まってくれるんは良いけれど、実はな、うちんとこ、ちょびりとせまいんや。」と申し訳なさそうに甚五郎に言います。甚五郎は「良し、良し。旅の道々、せんまい宿には慣れている。心配はすな。」と笑います。
  「でもなぁ、おっちゃん、実はな、うちんとこ、ちょびりときたないんや。」とまた申し訳なさそうに甚五郎に言います。甚五郎は「良し、良し。仕事の帰り足、汚れて困る着物であるわけでなし。」と笑います。  
 
 やがて「ほれ、あの角がうちんとこのいえや。」と指差しました。そちらを見ると「虎屋」と書かれた金の縁取りの立派な看板の揚げられた、それはそれは立派な宿屋が建っています。
  驚いた甚五郎が「さっきから何を心配しておったか、こんなに立派な御宿(おやど)とは。こんな御宿では、宿賃が足りるかこちらの方がかえって心配だ」と卯之吉に笑いかけると、卯之吉も笑って「おっちゃんこそ、そんなに何を心配するか、うちんとこはこっちゃで。」と虎屋の向かいを指差します。
  「ん?」見ると、あまりに小さくて気づきませんでしたが、そこには風がそよと吹けば今にもぱたりと倒れるようなほったて小屋が一つ。よく見ると、傾いた板にきたない字で「お宿 ねずみや」とあります。
  「やや・・・・。」これにはさすがの甚五郎も閉口してしまいました。

 
布団を借りてくるという卯之吉と別れ、一人汚い小屋・「お宿 ねずみや」に入ると、小屋に負けないくらい汚いおやじがはって出てきました。「わっ!!」と甚五郎が驚くと、おやじは「これはこれはお客人、ようこそ、『ねずみや』においでくださった。腰を痛めておりますで、こんなカッコで失礼しますで。」と頭を下げます。
  「これは、こちらのおやじどのかな。今晩やっかいになりますよ。」
  甚五郎が旅のほこりにまみれたわらじをぬごうとすると、「あ、これお客人、お宿の裏に小川が流れておるで、そちらで汚れを落とされては。」と言います。「ほう、これは風流な。」さっそく裏に回ってみるとなるほどきれいな小川があります。冷たい流れに汚れを落としさっぱりして宿に戻りました。「おやじどの、これは良いものですな、長旅の汚れもさっぱりしました。して、今夜の部屋は・・・。」「こちらの奥に。」奥も手前も、一つしか部屋はありません。案内されたせまい部屋に入ると、足の裏には妙な感触が。
  足を持ち上げ裏をのぞいてびっくり。先ほど小川できれいに洗った足が、今は墨でも塗ったかのようにほこりで真っ黒。
  これにもさすがの甚五郎は閉口してしまいました。

 
そこへ、布団を抱えた卯之吉が帰ってきました。
  「おっちゃん、布団借りてきたでぇ。」よっとこさと甚五郎の足元に布団を下ろします。拍子に舞い上がったほこりを呆然と見ながら、「ぼうずの言う通り、ちょびりとせんまくてちょびりと汚いお宿だなぁ・・・。」と言うと「あんまり広くてきれいやったら、懐(ふところ)心配になるもんなぁ。おっちゃん、良かったなぁ。」卯之吉がしみじみと言いました。「・・・。」
  あっけにとられる甚五郎を残し、卯之吉はまた飛び出して行きました。
  「せわしないこって、申し訳ありません。」おやじが入ってきてわびました。
  「いやいや、なんの。ところでおやじどの、卯之吉はいくつかの。」「十二の年になります。」「ほう・・・。」
  甚五郎は感心してしまいました。
  「遊びたいさかりの年頃だろうに、おやじどのの商売の手伝いとは感心な。」
  すると急におやじは寂しげな顔になりました。
  「私の身体が思うようにならないばかりに、卯之吉には苦労をかけっぱなしで・・・。」
  
 
聞くと、驚いたことに、この卯之吉のおやじ・卯兵衛(うへえ)はもともとは、「ねずみや」の向かいの御殿のような立派な宿屋「虎屋」の主だったそうな。
  五年前不幸にも妻に先立たれた卯兵衛は、宿屋家業に差し支えあってはとすぐに後妻を迎えましたが、ある時不幸な事故で腰を悪くして以来寝たきりの生活となってしまいました。忙しく立ち働く後妻のお紺は、店の多忙を言い訳に卯兵衛の面倒もみない有様、心優しい卯之吉だけがおやじの世話を焼いていましたが、そうこうしているうちに、もともと欲の深かったお紺は、卯兵衛の目の行き届かぬことを良いことに番頭とグルになり「虎屋」を乗っ取りをたくらんで卯兵衛と卯之吉を追い出してしまいました。
  あまりの悔しさに、せめて、向かいに立って商売敵をはってやろうと開いたお宿が、元々ねずみのすみかだった壊れかけの物置で、部屋も一部屋、ほったて同然のこの「ねずみや」だったのでした。

 
そんな話を聞いてみると、何やら、うす汚くせまっちいこのほったて小屋もまんざら悪いものではない気がしてきました。
  「実はの、おやじどの、私は彫刻大工の仕事をしてましてな、名前を甚五郎と言います。」
  その名を聞いて親父は「げげげっ!」と驚きました。「お客人がかの有名な名匠・左甚五郎さま・・・。」
  「おやじどのの話をきいて、私も一宿一飯の御礼に、なんぞ繁盛の手助けをしたくなりました。手ごろな木片などありますかな?」
  そこは、元が物置小屋。おやじが奥に投げられていた木切れの山から1つを渡すと荷物の中からぎらりと光るノミを取り出し、どっかと部屋に座り込むとそれから一晩中何やら黙々と木切れを削っておりました。
  明くる朝、卯兵衛と卯之吉が起きてみると、すでに甚五郎の姿はありません。代わりに、布団の上には宿代。「ねずみや」の入り口には、手洗いの桶の中に置かれた小さなねずみの彫り物と、「繁盛の助けとなるでしょう」と書かれた紙切れが置いてありました。

 
その日の夕暮れ、宿を探して「虎屋」の前を通りかかった一人の旅人がチューという小さい声に足を止めました。振り向いて、薄汚いボロ小屋の前におかれた手桶にふと目をやると、何やら小さなものがひゃっと動いた気がします。「ん??」のぞき込むと、「なぁんだ、木彫りのねずみか。こんなものが動いて見えたとは長旅で頭も疲れたようだな」。苦笑いをして通り過ぎようとすると木切れのねずみが「チュー!」。
  旅人は腰を抜かしてしまいました。

 
生きているように動き回る木切れのねずみの話はまたまく間に広がり、その日から一目見ようと集まった人々で「ねずみや」の前は大行列。おまけに、「木切れのねずみを一目見たなら『ねずみや』に一晩とまるべし 左 甚五郎」と書かれた紙切れが手桶に張られていたので、一つ部屋しかない「ねずみや」には、宿泊客が殺到しました。旅の客は言わずもがな、物好きな隣近所の者までねずみを覗きにきて泊まるハメになったため、横になっては寝られぬというので、さては、天井からおのおの縄を吊るしてぶら下がったまま寝る始末。これでは、たまらぬというので、隣の空き地に一回り大きい小屋を建てるが、そこにも入りきらない。もう一つ隣に大きいのを建てるが、そちらも入りきらない。そうこうするうちに木切れのねずみはいつしか「幸運を呼ぶ木のねずみ」として全国に知れ渡り、見物客も連日全国から押し寄せます。
  あれよあれよという間に、いつしか「ねずみや」は「虎屋」をもしのぐ大店となりました。

 
面白くないのは「虎屋」の女将・お紺と番頭。せっかく卯兵衛・卯之吉親子を追い出して繁盛していたものが、どういう風の吹き回しか向かいの薄汚いねずみ小屋に物好きが集まるようになり気づけば連日の大賑わい。聞けば、かの名工・左甚五郎が彫ったちっぽけな木切れのねずみが、チューチューと動くのを見たさの大行列だといいます。
 そんな噂に客を取られたばかりか、このところは「虎屋の女将が番頭とつるんで旦那の卯兵衛を追い出した」なんて悪評がたち、ますますもって客足は遠のくばかり。
  「これではまずい」というので、仙台で名人と謳われていた彫り物師に頼み込み、大金をはたいて大きな虎の彫刻を彫ってもらいました。実はこの虎、弟子が彫ったものでしたが、そんな事を露(つゆ)ともしらない女将と番頭は、鼻息も荒く「ねずみや」の木切れのねずみを見下ろせる場所に、高々と虎の彫り物を掲げました。

 
すると、女将と番頭の悪巧み(わるだくみ)がうまくいったものか、今まで元気に走り回ったねずみがぱたりと動かなくなってしまいました。
   慌てたのは卯之吉。「おとっつぁん、大変だ! ねずみが死んだ!」 微塵(みじん)も動かなくなった木ねずみの手桶をもっておやじの寝床へ駆け込みました。「なな、なんと! ねずみが死んだと!?」卯兵衛もびっくり仰天、がばっと飛び起きた拍子に腰がぐきり! 具合の悪かったのがうまくはまったものかなんなのか、ともかく「どうしたどうした」と集まり来る群集をものすごい力で押しのけるや、山のような人だかりの中から隅の机を引っこ抜き、紙と筆を取り出すや、甚五郎に火急の手紙を書き付けます。
  「われ、腰なおる、ねずみ、腰ぬける。」
  まもなく、知らせを受けた甚五郎が駆けつけました。

 
「どうされた、おやじどの。」旅支度も解かぬ甚五郎に、卯兵衛は「あやつめのせいです!」と「虎屋」の虎の彫り物を指し示しました。
  甚五郎は虎を見上げてびっくり仰天。「やや、なんたる不細工な虎なことか。」卯之吉の持つ手桶の中の木切れのねずみを覗き込みました。よくみると、ねずみは死んだのではなく、ちいさな体をよけいにちいさくちぢこませ小刻みに体を震わせているのでした。
  「これ、ねずみ、お前はこの左甚五郎が魂を込めて彫り上げた木っ端のねずみ。そのねずみの中のねずみのお前が、あんな不細工でヘンテコ顔の虎が何故怖い? お前はそんなに臆病者か?」
  甚五郎が手桶に顔を突っ込むようにしてねずみに尋ねると、ねずみはハッと気づいたように甚五郎を見上げて言いました。

 
「なぁんだ、虎だったのか。てっきり猫かと思ってた。」

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其の弐:勝道上人を救った二匹の蛇・神橋の話

 日光の国道119号線をいろは坂・中禅寺湖方面に向かうと、東武日光駅より車で約15分。左手に朱塗りが美しい印象的な橋が見えてきます。ご存知「神橋(しんきょう)」です。
 この神橋にも、勝道上人(しょうどうしょうにん)の日光山開山にまつわる、こんな伝説が残っています。


 日光山開山の祖と言われる勝道上人は、天平7年(西暦735年)、下野国芳賀郡(現在の栃木県真岡市)に生まれました。日光開山の道に進んだきっかけは、上人が7歳のある夜に夢の中に現れた明星天子に「仏の道を学び、日光山を開け」と告げられた事といわれています。
 
 天子のお告げに導かれ仏の道に入った上人は、厳しい修行を積み、天平神護2年(西暦766年)、弟子10人と共に日光山に入山すべく日光に訪れました。
 ところが、険しい道のりを旅してきた上人一行の行く手に絶壁と、激しい流れの大きな川、大谷川(だいやがわ)が現れました。一行は対岸への道を探しましたが、どうにも激流を渡る術は見つかりません。
 
 やむなく、一行はその場で護摩を焚き、神仏に助けを求めました。すると、妖しい雲の中から深沙王(じんじゃおう)が現れて、一心不乱に祈りをあげる一行の前に二匹の大蛇を放ちました。蛇はごうごうと流れる大谷川を越えて対岸に架かり、その背からは見る間に山菅(やますげ)が生え見事な橋となりました。こうして上人一行は無事大谷川を渡り、対岸に日光二荒山神社の起源となる本宮神社を建立、日光信仰の基礎を造ったのでした。
 この伝承から「神橋」はその名を「山菅の蛇橋(やますげのじゃばし)」とも呼ばれています。

 なお、現在の様な朱塗りとなったのは1636年。1902年に大洪水で流されましたが、2年後、再建されました。2006年、およそ8年にも及ぶいわゆる「平成の大改装」を無事終了し、現在の美しい姿となりました。
 山間の峡谷に用いられた「はね橋」の形式としては日本一の古橋で、日本三大奇橋(山口県錦帯橋、山梨県猿橋)の1つに数えられています。

 勝道上人には、その他にも困難や危機の度に神仏より援護を受けたり、人知を超えた力を見せるなど伝説も多く、日光産のスーパーヒーロー的人物でもあります。現在、神橋から長坂を登り日光山輪王寺前に出た所に、勝道上人の銅像が建っています。ぜひ、輪王寺の三仏を前に凛々しく立ち誇るその姿をご覧になって下さい。

 

 「平成の大改装」を終え、美しく甦った「神橋」。

 
神橋向かいの「長坂」を登りつめるた先、日光山輪王寺の前に建つ勝道上人の銅像。
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其の参:「我こそ二代権現!」 父嫌い・超ジジっ子だった徳川家光の東照宮改築 Part 1
 
 江戸時代より、「日光を見ずしてけっこうというなかれ」と人々に言わしめてきた日光東照宮の絢爛豪華な建築美術。
しかし、建立当初の日光東照宮は、現在の姿からは想像もできない、簡素な作りであったそうです。では、何故それが現在のような世界屈指の美術技法の数々を用いたきらびやかな建物となったのか?
 それには、「父嫌い」三代将軍:家光(いえみつ)のこんな話があったからなのです。


 徳川家光は1604年、徳川二代将軍、徳川秀忠(ひでただ)の次男として生まれました。先に生まれた長男は2歳で亡くなってしまったため、実質、世継ぎという大きな運命を幼少より背負っていました。幼名は生涯敬愛してやまなかった祖父:家康と同じ「竹千代(たけちよ)」と言いました。

 ところが、幼い頃の家光:竹千代は病弱であったこともあり、あまり快活な性格とは言えず、「これで立派な将軍となれるのだろうか」と秀忠をイライラさせることもたびたびあったそうです。
 そのうち、三男が誕生すると秀忠の期待は自然、弟に向けられました。
 三男につけた名前は「忠長(ただなが)」。自分の名前の一文字を与え、長男を表す「長」をつけたことからもその期待の度合いが分かります。やがて秀忠の寵愛(ちょうあい)を一身にうける忠長(幼名:国松)に家臣達の人気も集まり、一段と家光は内にこもった性格にとなり、逆に忠長の周りには「もしや世継ぎは国松さまになるのでは」という噂も広まって行きました。

 そんな事態を憂いた家光の乳母、春日の局(かすがのつぼね)は、将軍の座を息子・秀忠に譲り隠居して大御所となりながらも今だに絶大な発言力を持っていた徳川家康(とくがわいえやす)に相談します。局の必死の懇願に家康は心を打たれ、ある約束をしました。

 ある日、家光(竹千代)と弟・忠長(国松)は祖父:家康に呼ばれました。可愛い孫二人を前ににこやかに座る家康。家臣に、孫の為に用意していたお菓子を運ばせました。
 「それ、竹千代、国松、旨い菓子だぞ。食べなさい。」
 偉大な祖父:家康を前にしてただでさえ引っ込み思案の家光(竹千代)はただおどおどするばかり。
 そんな兄を尻目に屈託無い忠長(国松)は自分を溺愛する父:秀忠の時と同じように遠慮なく菓子に手を伸ばしました。
 その時です。
 「これ!国松っ! 兄を差し置いて先に菓子を食べるとは何事かっ!!」
 家康の雷が落とされました。先ほどまでの穏やかな顔からは想像も出来ない恐ろしい家康の怒りの表情に幼い忠長は泣き出すことも忘れてただ驚き、震えていたと言われています。

 忠長を世継ぎにと考えていた取り巻きの家臣達は、当然、家康も性格の明るい快活な忠長を可愛がっているものと思っていました。そして、遠慮がちな兄:家光を差し置いて忠長が菓子を頂戴することは想像できた展開であり、それを家康がにこやかに見守ることこそ、忠長が世継ぎとして家康にも認められる事だと考え、また当然そうなるものと思っていました。
 ところがこの家康の一声で事態は一変しました。
 「これ、竹千代、さぁ菓子を食いなさい。うまいぞ・・・。」
 再び穏やかな笑みで家康は、その場に居合わせた者同様に驚いている家光に優しく話しかけました。
 家光はまるで眩しいものをみるように家康を見ていました。
 この瞬間、三代将軍は家光と決まったのでした。
 そしてこれこそ、世継ぎは忠長にとなかば考えていた将軍:秀忠の威光を汚すことなく、家臣たちの前で「世継ぎは家光」と暗黙に知らしめたいという春日の局との約束を守った瞬間でした。
 

 春日局(かすがのつぼね)は1579年、明智光秀の家臣・斉藤利三の娘として生まれました。幼名は「お福」。小さい頃に愛する父を失い、幼い頃からたくさんの苦労をしたといわれています。
 1604年、家光の乳母となるため江戸城に入り、以来、病弱でどもる癖を気にしていた幼い竹千代を、「あわよくば忠長さまを将軍に。」と画策する家臣一派より守るため、身をけずる努力をしました。
 このように、春日局は竹千代を将軍にすべく尽力するとともに、将軍即位後は、江戸城における大奥の制度を確立し支配した人物として、多くの本や映像化されたことでも有名です。
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其の参:「我こそ二代権現!」 父嫌い・超ジジっ子だった徳川家光の東照宮改築 Part 2

 徳川家康が亡くなった翌年、1617年、二代将軍:秀忠は日光東照宮を建立しました。

 家光が三代将軍として江戸城に入城を果たしたのは1623年。しかし当時はまだ父:秀忠が権力を握っていました。1632年に秀忠が死去するまで、父の権力と三男:忠長への寵愛は変わりませんでした。家光は孤独でした。

 1633年、家光が風邪をこじらせて危篤状態に陥った時、事件は起こりました。
 家光が病床にある間に、かつて忠長を将軍へと考えていた者達が、一気に巻き返しを謀ったのです。
 一命をとりとめた家光は激怒、忠長を群馬県の高崎に幽閉し切腹を迫りました。家光の弟への怒りはそれだけにとどまりませんでした。家光は忠長の墓を建てることを許さず、やっとお許しが出たのはおよそ30年後、しかも「罪人の墓」を意味する鎖が巻かれ、将軍家の家紋である「葵紋」の使用を許されなかったため、違う家紋が施され、「うらみ葵」と呼ばれているそうです。

 自分を愛してくれなかった父、父に愛された弟。二人への家光の想いはどのようなものだったのでしょうか。家光の日光東照宮改築は、父の寵愛を独り占めしてきた弟:忠長の死の翌年に始まります。

 家光は自分が唯一人崇拝する祖父、東照大権現:家康を祀る日光東照宮を父:秀忠が作ったものとまるで違ったものに創りかえる事は、父を否定すると共に、大好きな祖父:家康と自分をより密接なものにする為に不可欠でした。その証拠に生涯家光が肌身離さず身につけていたお守りには「二世権現」と書かれていたと言われています。これは嫌っていた父を排し、自分こそが家康の直接の跡継ぎであるという意志の表れと言えます。

 父:秀忠へのコンプレックスの裏返しか、家光の日光東照宮大改装には、父:秀忠による建立の費用とは比べ物にならない、568,000両と銀100貫、米1000石、現在に換算するとおよそ500億円とも言われる莫大な工費をかけています。これはもはや改築ではなく「新築」と言っても過言ではないかも知れません。
 また、莫大な費用をかけ自分の命によって日光東照宮をこの世のものとは思えない美しく神々しいものに創りかえる事は、民々に徳川の威光の大きさを知らしめるだけでなく、幾度と無く将軍の座を奪われかけた家光が家臣達に無言のうちに確固たる権力の有様を示す目的もあったのです。

 家光は1651年、その生涯を閉じました。
 3歳の頃、大病の際、祖父:家康より頂いた調薬により命を救われて以来、幾度と無く病床に現れた家康の霊夢により励まされ救われてきた家光は、東照宮改装後、死去するまで10回も社参しました。
 そして病床にて死を悟った家光は「天上に渡って後も東照大権現さまにお仕えする」と遺言を残し、日光東照宮を望める場所、日光山輪王寺「大猷院 家光廟(たいゆういん いえみつびょう)」に葬られ現在も、大好きだった祖父:家康の祀られる日光東照宮近くに眠っているのです。
 

改築前の日光東照宮に似ているといわれる久能山東照宮。家光の眠る大猷院にも通じる外観。


家光の眠る「大猷院廟 奥の院」に続く皇嘉門。
中国様式を取り入れ、その外観より別名「竜宮門」とも呼ばれています。
ちなみに秀忠は現在の港区芝公園の三縁山広度院増上寺に祀られている。
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其の四:偉大なる老僧「南光坊天海」の謎
 
 家光の日光東照宮大改装には、南光坊天海の、宗教的な見地からの様々なアドバイスが生かされたといわれています。家光の祖父、初代将軍:徳川家康に気に入られて宗教政略のアドバイザーとして仕えて以来、二代将軍:秀忠、三代:家光と、実に三代に渡って将軍を支え続けてきた天海ですが、彼には様々な謎にまつわる噂があります。

 中でも、もっとも有名なものは、天海の正体は、実は「明智光秀」であるという説です。
 生まれや経歴について謎の多い天海ならではのものと言えます。事実、天海の年齢については定かではなく、108歳まで生きたとされる説が今日もっとも有力とされています。天海の「光秀」説では、豊臣秀吉との戦に破れ後に殺されたのは実は影武者で、本物の光秀は辛くも生き延びて家康にとりいり、後に家康と協力。豊臣を滅ぼし恨みを果たしたというストーリーになっています。

 その説の根拠として、@秀光が死亡したと言われる後に、比叡山に秀光より寄進された石碑があること、A家康の子、孫、つまり二代、三代将軍の名付け親となった天海がつけた名前は「秀忠」と「家光」で、それぞれ、自分の名前から一文字ずつ授けたというもの。Bまた、日光山のふもと、現在の上り専用の第二いろは坂途中にある、一番展望の美しい場所につけた名前が「明智平」。C天海が家康と親しくなるきっかけとなった大好物の「納豆」は実は光秀も好物だったなどなど、真偽のほどは分かりませんが諸説俗説が驚くほど多いのも、天海の素性が謎に包まれている証拠と言えます。

 将軍職に仕える僧侶であるだけでなく「陰陽師」としても家康の信頼を一身に集めていた天海は、家康を崇拝する孫:家光からも絶大なる信用を得ていました。ことに、日光東照宮の大改装に至っては、宗教的見地のみならず改修の全てに渡って多大なる影響を与えています。

 徳川将軍でさえもその意見を聞き時にはアドバイスに従ったと言われる威厳と存在感ですが、意外とユーモア溢れる一面もあったようです。

 家康が江戸入りを果たした年、川越の無量寿寺の住職となった天海は、寺を代表し家康に謁見しました。これが2人の初めての出会いでした。天海は将軍:家康に進物として自身が大好物として食していた納豆を献上しました。納豆と言えば、当時は庶民が好んで食べていたもので将軍への贈り物としては奇異な食べ物。「これはこれは、異なるものを。」家臣の1人が天海に真意を尋ねると「これなる食べ物は私の健康の源、丈夫な身体こそどのような宝にも勝るもの」と答えたのでした。家康もこの納豆をとても好み、後、天海の人柄を好んだ家康が天海を度々城に招くようになります。「納豆談義」と呼ばれる会合の始まりでした。ちなみに、この納豆献上で家康の寵敬を頂いた話を聞いた各寺の僧侶達が、謁見の際、こぞって高価な贈り物を献上し家康のご機嫌を取ろうとしましたが、家康はこれらを受け取らなかったそうです。

 また三代将軍家光とはこんなエピソードが。
 ある時家光に招かれた天海は、とても美味しい柿をご馳走になりました。小者が空いた皿を下げようとすると「おや、これこれ。」と呼びとめ、皿に残った小さな種をつまみ上げ懐に入れました。それを見た家光が「何故そんなものを」と尋ねると、天海は「持ち帰って植えるのです。」と答えました。当時すでにかなりの高齢であった天海に「老人が気の永いことよ」と家光は半ば呆れて笑いました。
 幾年か経ち、家光に招かれた天海は、立派に熟れた美味しそうな柿を持参しました。「これはこれは見事な柿じゃ。美味い美味い。」とぺろりと平らげた家光が「して、何処の柿だったか。」と天海に柿の産地を問いました。天海は「先年頂戴したちっぽけな柿の種が、老人の気の永い道楽のお陰で見事に実を実らせました。」と涼しい顔で答えました。これには家光も苦笑いで頭をかくしかありませんでした。

 このような、将軍達にもへつらう事のない正直な性格が、家康・秀忠・家光の三代将軍達に愛され信頼を得たのでしょう。

 自らの出生については弟子達にほとんど語らなかったといわれる天海坊、戦乱の時代から家康の天下統一、その後の統治、家康没後の日光東照宮建立や家光による大改装など劇的な時代に日光に多くの功績と足跡を残したその一生には、まだまだ数多くの謎が残されているのです。
 



国道119号沿い、神橋の向かいに建つ天海の銅像。その眼はまっすぐに日光東照宮の方向に向けられている。
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PART:2 戦場ヶ原編
其の壱:戦場ヶ原 神戦譚
 
 中禅寺湖、男体山よりさらに日光の奥、高度1400メートル地点に広がる広大な湿原、ご存知、戦場ヶ原。2005年には、水鳥の多く住む湿原を守るというラムサール条約にも登録されました。
 さて、「戦場ヶ原」という地名、変わっていると思いませんか? この地名にはこんな伝説に基づくいわれがあるのです。

 はるか大昔の事、中禅寺湖の所有権をめぐり上野(こうずけ)の国:群馬県の赤城山の神さまと、下野(しもつけ)の国:栃木県の二荒山(男体山)の神さまとが戦いました。

 大蛇に姿を変えた二荒山の神さまと大ムカデの化身と化した赤城山の神さま。神々の威信をかけた戦いです。しかし、次第にムカデの軍勢に押され劣勢にたたされた二荒山の神は鹿島大名神に相談し、二荒山の神の孫にあたる弓の名手、小野猿丸に加勢を頼むことにしました。二荒山の神さまは美しい真っ白の鹿に変身して、狩りをしていた猿丸を誘い出し、助勢を頼みました。
 承諾して戦場ヶ原に赴いた猿丸は、大挙して二荒山の神の化身の大蛇に群がるムカデたちの中から、大きな角を持つ大ムカデの大将・つまり赤城山の神さまを見つけ出し、得意の矢で見事大将の左目を射抜き、大群を撤退せしめ二荒山の神に勝利をもたらしたのでした。

 こうして、戦争によって草木が倒され湿原と化したこの地を「戦場ヶ原」と呼び、勝負を決した中禅寺湖湖畔を「菖蒲(しょうぶ)が浜」、二荒山軍勢が勝利の歌を歌った地を「歌ヶ浜」と名づけたとの事です。
 また、争いによって流れ出たおびただしい地で真っ赤に染まって出来たのが、「赤沼」。
 中禅寺湖にただ1つ、南岸付近にある小さな島には、上野の神々の勇敢な戦いをたたえ「上野島」と名づけたとされます。この島には、二荒山開山の祖、勝道上人(しょうどうしょうにん)の首の骨が納められているといわれています。

 この神戦譚(しんせんたん)は若干のディティールを変えて群馬県にも残っています。
赤城山の由来も、戦いに敗れて山を越えて群馬に逃れた神様の血によって山が真っ赤に染まり「赤き山」となったことからきたとの説があり、有名な老神温泉の地名も、「追われた神」が自らの身体に刺さった矢を地面に突き刺すと湯が湧き出て、創を癒すことができたという説や、創を癒したのが一番の大将=老いた大神だったことから「老神」、など諸説があるようです。

 今でも、毎年1月4日の「武射祭」には、この古事に基づき、神官と氏子の代表達が「ヤーッ!」という勇ましい鬨(とき)の声と共に赤城山に向けて矢を射る慣わしが残っています。ちなみにこの矢を拾って二荒山神社中宮祠に持参すると「災難よけ開運お守り」をつけてくれ、矢を持ち帰ることができます。

 恐ろしい姿に化身した神々の大地を震わす大戦。何か、ジブリアニメかなにかの様なファンタジックなお話ですが、きっとそれほど昔の奥日光は、人間の侵入をこばむような霊気溢れる、険しい自然に守られた魅惑の地だったのでしょう。 


(中禅寺湖と男体山)

(武者祭)
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PART:3 史跡探勝路:滝尾神社コース編
其の壱:神秘なる日光開山の路
 
  日光の世界遺産の中で最も有名な「日光東照宮」。しかし建てられたのは1617年、徳川家康の死去より1年後と、世界遺産の中では最も新しい建物です。実は、それより800年あまりも以前、勝道上人によって、日光山輪王寺・日光二荒山神社(ともに東照宮とならび世界遺産)の起源ともいうべき神社や寺がすでに建立されていました。そしてそこから、日光は真言宗の宗祖、弘法大師=空海や天台宗の高僧・円仁=慈覚大師らが来山するなど「山岳信仰の聖地」として多くの修行僧や参拝者が訪れ、日光は繁栄の道を歩みます。
 東照宮よりはるか以前にさかのぼる「宗教の聖地」としての日光を知る素晴らしい観光コースがあります。
 「史跡探勝路:滝尾神社コース」です。

 日光を開山し、現在の世界遺産の社寺の起源を作り上げた勝道上人と山岳信仰の聖地として繁栄を極めた日光の軌跡をたどるこの探勝路には、霊地:日光にふさわしい、神秘的な史跡と言い伝えが数多く残されています。
1 神橋(しんきょう)  深沙王(じんじゃおう)が放った二匹の蛇が橋となり、勝道上人一行の日光入山を助けた。ちなみに、この深沙王は「西遊記」にも登場、三蔵法師の危機を救った神としても知られている。
深沙王堂
2 板垣退助銅像(いたがきたいすけどうぞう)  戊辰戦争で官軍参謀として、日光山内に立てこもる旧幕府軍を説得した。
3 星の宮(磐裂神)(いわさくのかみ)  勝道上人7歳の時、夢に現われ仏の道へと導いた明星天子を祀っている。
4 天海大僧正銅像(てんかいだいそうじょうどうぞう)  日光山貫主となり、疲弊していた日光山信仰を復興した。徳川家康に気に入られ、二代・秀忠、三代・家光と三世代の徳川将軍に仕えた。
5 深沙王堂(じんじゃおうどう)  国道120号線をはさみ、神橋の真向かいに立つ小さいお堂。勝道上人の日光入山を助けた深沙王を祀っている。
6 太郎杉(たろうすぎ)  樹齢530年の老杉。高さ43メートル、目通直径5.75メートル、周囲の杉巨木の中でも群をおいて巨大な杉。ちなみに、「太郎」は元来、長男や優れた男子を意味し、一番古いものや最も大きなものなどに使われた名称でもある。
杉並木寄進碑から本宮神社への石段。探勝路への入り口。

本宮神社

四本竜寺と三重塔と
7 杉並木寄進碑
(すぎなみききしんひ)
 家康の死後、家臣:松平正綱が東照宮への参道整備のため日光街道3ヶ所に植えた杉並木を寄進した際の記念碑。
8 本宮滝(ほんぐうだき)  杉並木寄進碑脇の小さな滝。水量が少なく、流れていないときも。
9 本宮神社(ほんぐうじんじゃ)  767年、勝道上人が二荒山=男体山の神さまを祀る為に創建した神社で、日光二荒山神社の始まりとなる。紫雲立寺(日光山輪王寺の基)と並び、日光山の信仰の起源といわれている。
10 四本竜寺紫雲石(しほんりゅうじしうんせき)  激流の大谷川を渡った勝道上人と10人の弟子が、もうもうと紫雲の立ち上る光景を目にし、その地に行ってみると、大きな石から清竜(東)、朱雀(南)、白虎(西)、玄武(北)の四雲がわいたと言う。そこで766年この地に寺を建立し「紫雲立寺」(しうんりゅうじ、後の四本竜寺)とし、石は紫雲石と名付けた。
11 四本竜寺三重塔(しほんりゅうじさんじゅうのとう)  1219年に暗殺された源実朝の霊を慰めるために造られた。現在の建物は、消失したものを建て替えたもの。
12 四本竜寺観音堂(しほんりゅうじかんのんどう)  大同2年(807年)、下野国司、橘利遠(たちばなとしはや)により千手観音が祀られた。四本竜寺はもともと、「紫雲立寺」(しうんりゅうじ)と呼ばれていたが後に改名された。
13 児玉堂(こだまどう)  その昔、弘法大師=空海が滝尾神社で修行中、大小二つの光の玉が飛び交うのを見つけ、追ってみると、小さい玉は、四本竜寺近くで消え、大きい玉は中禅寺の方向へ飛び去ったという。
何かの思し召しと考え大師は小さい玉の消えた場所にお堂を建立し児玉堂と命名、大きな玉のために、中禅寺湖近くに妙見寺を建立した、と言われている。
14 甲良豊後守宗広銅像(こうらぶんごのかみむねひろどうぞう)  現在の東照宮有料駐車場、桜の馬場公園内にある銅像で、甲良豊後守宗広は、家光による寛永の大造替の際の東照宮の設計・施行の責任者で作事方大棟梁。
15 教旻僧都の墓(きょうびんそうずのはか)  教僧都は、勝道上人とともに日光を開いた10人の弟子の中でも一番の高弟で、上人の死後、跡をついで日光の座主となった。人一倍上人への忠心が深く、東照宮建立に際し、幾度か僧都の墓を移転しようとしたがその度に恐ろしいことが起こりついには断念したという言い伝えが残っている。
16 養源院跡(ようげんいんあと)  家康の側室、於六の方の菩薩を弔うため姉の英勝院により1626年に建てられた。松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中で日光を訪れた際、東照宮より先に立ち寄ったとされている。明治以降は廃寺となり、現在は墓石と痕跡のみ残る。
17 開山堂(かいざんどう)  勝道上人を祀る為に建てられた朱塗りの堂。内部には本尊地蔵菩薩像と勝道上人の座像、さらには弟子10人の木像も納められている。
開山堂と産の宮

断崖下の六部天像
18 勝道上人の墓(しょうどうしょうにんのはか)  817年勝道上人が亡くなった際、仏岩谷で荼毘(火葬)にふされ、当初は谷の上方に埋葬されたが、東照宮鎮座にあわせ、上人を祀る為に開山堂が建立された。現在はここに埋葬されている。上人の墓の横には、弟子3人の墓も建てられ、死後も上人に仕えている。
19 観音堂(産の宮)  開山堂の左側に建てられた、楊柳観音(ようりゅうかんのん)を祀る小さな社で別名「香車堂(きょうしゃどう)」とも呼ばれている。その名は安産祈願から由来しており、まっすぐにのみ進む事のできる将棋の駒「香車」のように、まっすぐに元気な子供が生まれるようにとの願いがかけられている。
 香車堂に奉納された香車を1つ持ち帰り無事に子供が生まれたら、借りた香車の駒と、一回り大きい駒とを御礼に堂に返すという慣わしがあり、堂には現在でも沢山の駒が並んでいる。
20 陰陽石(おんようせき)  観音堂左手にある2つの自然石で、安産祈願から、それぞれ男と女を表している。
21 仏岩と六部天像(ほとけいわ・ろくぶてんぞう)  開山堂の裏の切り立った断崖で仏に似た岩が並んでいたことから「仏岩谷」と呼ばれていたが、地震で崩れてしまった。現在は、六部天の石仏を安置し祀っている。
22 北野神社
(きたのじんじゃ)
 神社という建物がなく、「梅鉢紋」のある巨石と数個の石からできている。学問と書道の神・菅原道真を祀った神社で学問向上と書道の上達を祈願しての参拝者が多く訪れた。
北野神社の梅鉢紋を印した巨石

美しい白糸の滝
23 手掛石(てがけいし)  学問と書道の神として崇められた北の神社を詣でた後、この石を「手で欠いて」持ち帰り神棚に飾ると学問が向上すると言われている。現在は「手を掛けて=乗せて」祈ると良いとされている。
24 神馬の碑(しんめのひ)  関が原の戦いの際、家康公が乗った愛馬の為に建てられた碑。家康公の死後14後の1630年に死んだ。
25 飯盛杉・昌源杉(いいもりすぎ・しょうげんすぎ)  日光山第44世別当となった昌源が滝尾神社付近に植えた数万本とも言われる杉群で「昌源杉」と呼ばれた。そのうちの一本はまるでこんもりと飯を盛り上げたように茂り特に目立ったため「飯盛杉」と呼ばれ愛されたが、1963年、突風で倒れてしまい現在は見られない。
26 大小きんぜいの碑(だいしょうきんぜいのひ)  行者堂・滝尾神社・観音堂へのY字岐路に立つ道標で、これ以降、滝尾神社への歩道は聖地となるので大小便などの不浄をしてはならぬとの知らせを、参拝に訪れる漢字の読めない人にも読めるようにひらがなで記してある。
27 白糸ノ滝(しらいとのたき)  弘法大師の滝尾神社創建にともない、聖地として、修行の場として栄えた。昔は滝つぼにて大師も修行したとの言い伝えがあるが、現在は滝つぼはなく、高さ約10mほどの涼やかな流れが見えるだけ。四季を通して美しく、滝を見に訪れる観光客は現在も多い。
28 別所跡(べっしょあと)  滝尾神社の別当があったとされる場所。日光山輪王寺に伝わる神事「強飯式(ごうはんしき)」の始まりの地と言われている。
29 影向石(ようごうせき)  「影向」とは神仏が仮の姿でこの世に現われることを言う。その昔、弘法大師がこの巨石の前で神霊の降下を祈願したところ、美しい女神が現れたという。
30 運試しの鳥居(うんだめしのとりい)  白糸ノ滝脇の石段を登ると見えてくる鳥居。中央の石版・額貫に開いた丸い穴に、3つの小石を投げ、うまく穴を通れば幸運が舞い降りると言われている。現在も、鳥居の付近には参拝者の投げた小石が散らばっている。
運試しの鳥居に石を投げる観光客

滝尾神社
31 滝尾神社(たきのおじんじゃ)  820年真言宗祖、弘法大師=空海が入山した際に創建されたとされる。1617年に東照宮が建立されるまで、日光の山岳信仰の中心としてもっとも人気の高い神社だった。
32 縁結びの笹(えんむすびのささ)  滝尾神社境内内にある。親指と小指だけを使って笹の葉を切れずに結ぶことができれば良縁に巡り合う、または、恋人同士が片方ずつの手の親指と小指を使いうまく結べれば恋路がうまくゆくなどの諸説があり、良縁を求めての参拝も多かったという。現在は笹が枯れてしまうのを防ぐため笹を結ぶことは禁じられている。二社一寺、世界遺産の神社仏閣で求めたおみくじを先の方法で結ぶのが良い。
33 無念橋(むねんばし)  その昔、俗界との境として俗世に失望し信仰の世界に身を投じる者の渡る橋として「無念橋」と呼ばれていたが、いつからか、女峰山信仰から健脚祈願のための「願い橋」と呼ばれるようになった。短いこの石橋を、自分の年齢の歩数(20歳=20歩)で渡ると女峰山山頂の奥の宮まで登頂したことと同じとなり願いがかなうと言われている。
34 御神木・三本杉(ごしんぼく・さんぼんすぎ)  弘法大師がこの地で修行していた際、田心姫命が現れた場所とされている。初代の御神木の三本杉は約300年前に倒れ現在立っているのは二代目。寛文7年(1667年)、鶏頭院山舜の下僕の小僧が御神木を見て「なんと小さい御神木だ」と馬鹿にした途端、神罰によって口がきけなくなってしまったという。
35 滝尾稲荷神社(たきのおいなりじんじゃ)  弘仁11年(820年)滝尾神社とともに弘法大師によって創建された。その昔、大師が朝のお供え物をうっかり忘れてしまうと、稲荷の神さまが化けて現われお供え物を催促したという。
36 酒の泉(さけのいずみ)  昔からこの泉の水で酒を作るととても上質な酒ができると信じられていて、酒醸造業者の信仰もあつい。すくって飲むと酒の味がするという。
女峰山登山道入り口に建てられた行者堂。探勝路はここから石段の下り道が大猷院入り口まで続く。
37 子種石(こだねいし)  史跡探勝路:滝尾コースの最も奥、滝尾稲荷後方に祀られた石で、この石に願いをかけると子宝に恵まれると信じられている。現在でも子供が授かるようにと願掛けに訪れる人が多いという。
38 行者堂(ぎょうじゃどう)  奈良時代の山岳呪術者、役の小角(えんのおずぬ)を祀る堂で役の小角が健脚であったことから、女峰山の登山口に建てられたこの堂には、健脚になるようにと行者が草鞋を備えたと言われている。また足の弱い者はここに参拝すると足が丈夫になるとの言伝えがあり多くの信者が訪れた。現在の堂は平成2年に改装されたもの。
39 空烟地蔵(くうえんじぞう)  その昔、地蔵尊が男体山への入山を導いたとされる場所にあり、三代将軍:徳川家光の忠臣、安部豊後守忠秋の墓を建てる際、すぐ裏に阿部家によって造立された。なお、この地蔵の背後にあたる大猷院家光廟境内、家光の墓の前後には、死後も主君に仕えるとして、安部忠秋と同じく忠臣:梶定良の墓が建てられ、家光の墓を守っている。

 
などなど、数々の伝説・言い伝えの残る史跡探勝路:滝尾コース。昌源杉のうっそうとした並木林の中を、叙情たっぷり、神秘の香り漂う約3時間の「日光ミステリーツアー」をどうぞお楽しみ下さい。

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