令和7年1月〜12月 |
令和七年四月十八日(金) 築百年の建物をリノベーションした複合施設「ハジマル」で毎週金曜日に営業している地ビールを三週連続で飲みに行った。地域おこしを目指す若い人たちが集まり、楽しい雰囲気で飲んでいた。こういう店ができるのをずっと待っていた。三十年前、地域おこしの活動に参加した頃を思い出した。店の客の中で自分が最年長だったが年は関係なかった。 先週の金曜日にここで出会った人たちと大間々駅のトイレ掃除の話で盛り上がり、「一度、参加してみませんか」と誘った。 今朝六時、大間々駅掃除は一四四九回目。先週一緒に飲んだ二十代から四十代の男女が四人も来てくれて「新鮮な感動でした」と言ってくれた。十二人で写真を撮った。先週、一番若いSさんに「何を持ってけばいいですか」と聞かれ「手ぶらでOK」と答えた。「手ぶら、ノーブラ、ノーメイクでOK」と言ったら今はセクハラで訴えられる。 |
令和七年三月十七日(月) 大相撲春場所のダイジェストを観るため毎朝三時半にテレビをつける。日の丸が映り、君が代が流れてNHKの放送が始まる。顔を洗い、体重を量ってからテレビの前に座る。体温を測り、血圧を測るのが一日の日課のはじまりになっている。昨日は春場所の中日。二十代前半の若手力士が台頭している中で、初土俵から連続出場最高記録更新中の四十歳の玉鷲や三十五歳の高安や三十一歳の沖縄出身の美ノ海(ちゅらのうみ)が上位で頑張っている。 観ているだけで力が入り血圧が上がってしまう。高安はインタビューで「今が一番楽しくてやりがいがある。お客さんに喜んでもらえる相撲をとりたい」と言っていた。 我家でも孫の琉馬が台頭してきている。腕相撲や指相撲では勝てなくなり、上毛かるたは全敗。駆け足は「転ぶからやめときな」と相手にされず不戦敗が続いている。口数でも負けて、勝てるのは年の数だけになった。 |
令和七年二月九日(日) 日本を美しくする会の総会が東京新宿で開かれ、オブザーバーとして参加させてもらった。歴代会長や本部世話人、全国のブロック長が顔を揃えていた。会場のスクリーンには、今年一月二日に亡くなった日本を美しくする会の相談役・鍵山秀三郎さんの笑顔の写真が映し出されていた。 鍵山さんは、自転車一台で行商から身を起こしカー用品のイエローハットを築き上げた立志伝中の人物だが、経営者というより求道者だと思った。『君看よ、双眼の色、語らざれば愁なきに似たり』という言葉が鍵山さんの姿と重なる。大間々の掃除の会も鍵山さんの指導で設立し、通算十二回、一年に三回も来てもらった年もあった。 「世の中は澄むと濁るで大違いタメになる人ダメになる人」という言葉がある。鍵山さんは「心の荒みを無くし、心はいつも澄んでいよう」と提唱していた。世間には心が澄んでいる人と心が死んでいる人がいると思った |
令和七年一月十九日(日) 大間々博物館の次の企画展『戦争がもたらすもの』に展示する資料を頼まれて戦争中の写真やハガキなどを博物館に提供した。松ア家では昭和十七年に父が、十八年に弘平叔父、十九年には豊作叔父が十六歳で出征したが三人とも生きて帰ってきた。父がシベリアから出したハガキには 「モウ タカツドノアタリモコウヨウデ キレイデショウ ナガメハ アイカワラズ ヤッテオリマスカ」とカタカナで書いてあった。 ながめ余興場では戦争中、出征兵士を送る会が開かれた。父がシベリアでの強制労働に耐えられたのは「生きて帰って、また家族でながめに行きたい」という強い思いがあったからかもしれない。「シベリアのことを思えば何でもねえ」が口癖だった。寒いのにストーブもつけずに鼻水を垂らし、「一日や二日食わなくても大丈夫」と言いながらポケットに羊羹やどら焼きを入れていた。今、親父と同じことを自分がやっている。 |