| 371号~380号 |
| 372号 大間々祇園祭発祥の地 | ||
| 戦国時代の末期まで、大間々は「吹払い野」と呼ばれた荒地でしたが文禄二年(一五九二)に「大間々草分け六人衆」(高草木家を筆頭に、長澤、大塚佐藤、金子、須永)の人たちの手によって町づくりがはじまりました。そして六年後の慶長四年(一五九九)には、大間々神明宮が現在の地に遷座して大間々の町並みが徐々に形成されてきました。神明宮の初代神主大楽院勝尊の屋敷は街の中心であった三丁目にありました。勝尊は寛永六年(一六二九)産業振興や五穀豊穣、悪疫退散の神として知られる京都八坂神社の御分霊を勧請し、屋敷内に八坂神社を祀りました。そして三年後の寛永九年六月二十四日(新暦の八月二日)に祇園祭を始めました。八坂神社の主祭神である素戔嗚尊(すさのをのみこと)は牛頭天王(ごずてんのう)ともよばれ、お釈迦様の生誕地の祇園精舎の守護神であったことから八坂神社の祭りを祇園祭と呼ぶようになりました。大間々の祇園祭でも当番町のことを天王町と呼んで、御祭神を天王様と呼んでいるのは牛頭天王のことを指しています。八坂神社は全国に二千三百から三千社あるともいわれます。桐生市相生町の八坂神社のある場所を天王宿と呼んでいるのも牛頭天王が祀られている場所ということに由来しています。 現在、三丁目の集会場の横には小さな石の祠があり「大間々祇園祭発祥の地」という看板が設置されています。その案内看板には、「八坂神社は国の政策でやむなく神明宮境内地に移転合祀しましたが、御神徳を仰ぐ熱心な地元の人々により跡地に石宮を建て、毎年お祭りを行っております。 神明宮宮司 齋藤巌書」と記されています。 「三方良し」の会と三丁目八坂会では、合祀百年に当たる二〇一三年に「天王横丁」の名を後世に伝えるために説明板を立て、「天王横丁」と書かれた行燈三基を横丁内に設置しました。 今年は三丁目が天王町として祇園祭を盛り上げます。祭りの歴史を知ることは、先人たちの思いを受け継ぐことでもあると思います。 |
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| 371号 ぺんぺん草の子② | ||
| 先月の『虹の架橋』370号の「小耳にはさんだいい話」で「ペンペン草の子」という話を紹介したところ、多くの方から「感動した」「涙が止まらなかった」「やさしい気持ちが伝わってきた」という手紙やハガキやメールをいただきました。このお話は、富弘美術館を囲む会三重県支部長の田上啓子先生からいただいた『ぺんぺん草』という冊子に載っていた感動的なものでした。田上先生は、ある時、授業の中で生徒たちに星野富弘さんの『ぺんぺん草』の詩を紹介しました。「神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら…星野富弘さんは何をしたかったと思う?」と生徒達に問いました。生徒たちからいろいろな答えが出てくる中で、豊田聖(せい)君が「お母さんの肩を叩く」と言い当てたのです。 『ぺんぺん草』の詩は、『神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら母の肩をたたかせてもらおう 風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたら そんな日が本当に来るような気がした』という詩です。 「お母さんの肩をたたく」と言い当てた聖君には、重度の障害を持ったお姉さんがいて、そのお姉さんを献身的に介護するお母さんの姿をいつも見ていた聖君も富弘さんのように、お母さんへの感謝の気持ちを持っていたのだと思います。 この冊子を作った三重県の田上啓子さんに、読者の方々からのお便りをコピーして送ったところ、とてもお喜びになり、「虹の架橋を読んでくださった方にお渡しいただけたら嬉しく思います」と『ぺんぺん草』の冊子をたくさん送っていただきました。全二十一ページの冊子の中には、虹の架橋で紹介できなかったたくさんの感動的なお話も収録されています。当時、中学一年生だった聖君が父親となり、娘さんと描いたぺんぺん草の絵は、この冊子の表紙や各ページのカットとして使われています。 『ぺんぺん草』の冊子をご希望の方は足利屋で差上げています。(先着二十名)ます。 |
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