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「小耳にはさんだいい話」へ


361号~370号


 363号 人生で起こることすべて良きこと    
  親友の小松遊平さんに勧められて『人生で起こること すべて良きこと(PHP研究所)』という本を読みました。著者の田坂広志さんは、この本の中で、「様々な問題に悩まされる日々の中で『偶然』と思える出来事に何かの『意味』を感じ取る、何かの『声』を聞き取る、何かの『メッセージ』を読み取る、そうした『こころの習慣』を持つだけで、その問題を巡る風景が、全く違って見えるようになります。そして、答えの方向を感じ取れるようになります。そして、その『こころの習慣』を、意識的に実践する『こころの技法』にまで深めることができるならば、あなたの人生が大きく変わり始めます」と書いています。                「こころの技法」とは、「人生で起こること、すべて良きこと」や「人生で起こること、すべてに深い意味がある」といった言葉と自分の体験を重ね合わせ、「人生において成功は約束されていないが成長は約束されている」ということに気づくことだと思いました。 あ『困難にも感謝する』の本の中で著者の鍵山秀三郎さんは「すべての困難は必ず意味があって身の回りで起きます。だとするならば、身の回りで起きることはすべて絶対肯定・絶対感謝。この受け止め方さえできれば感謝の念が自然に湧いてきます。艱難がまた自分を鍛えてくれる。感謝以外の何物でもないはずです」と書いています。
 昨日、兵庫県のトイレ掃除仲間の木南一志さんが上梓した『明日へ』という詩集を読みました。その本の最初に「寒さを感じて」という詩が載っています。   
 朝晩の冷えが、冬なのだと自覚させる。寒ければ寒いほど春が待ち遠しいものである。年中暑くもなく寒くもないとすれば、どうだろう。厳しい寒さゆえに暖かな日差しに感謝できる。人生も同じだ。厳しいことばかりの繰り返し、辛いことばかりの人生だ。しかし、やわらかい陽射しがさす時がある。それを感じたいものだ。そこに感謝できれば、季節は変わる。春を迎えるために冬があるのだ。夏の厳しさも、秋の実りのためにある。実りある人生のために、ここを超えていきたいものだ。
   
 362号 ありがとうの不思議な力    
 「虹の架橋」を創刊当初から読んでくれている小松遊平さんは南部煎餅「巖手屋」の副社長。30年前に商売の勉強会で知り合い、同い年であることや自分を磨くためにトイレ掃除を続けていること、個人で新聞を発行していることなどを知り、意気投合して交流が始まりました。 あ小松さん夫妻が発行している『おかげさま』という新聞は、9月号が530号で創刊から何と45年。感動あり、ユーモアありの毎号楽しみな新聞です。 
529号に『ありがとう』の不思議な力という文が載っています。「『ありがとう』の語源は「難有り、あり難し」、モラロジーの学祖の遺した言葉にも、私が今も大尊敬してやまない松下幸之助翁の言葉にも、私が興味を持ち注目している小林正観さんの本にも、二戸出身の『ありがとうは魔法の言葉』の著者の五日市剛さんも、そして母の遺した言葉にも『ありがとう』と『感謝』の言葉の大切さが述べられています。大自然の心だからでしょうか。『ありがとう』の心と言葉を日頃から習慣づけていると、そうなる事柄が起こるということを知り、試してみようと思い、朝走る時の呼吸のリズムに『ありがとう』を入れてみました。するとランニング中に『ありがとう』の言葉を数千回は口にすることになります。…」 
 遊平さんのお母様の小松シキさんは、小学校に入ると子守の駄賃を得るために昼は近所の子供を背負って学校に通い、夜は「縄ない」をして家計を助けました。12歳の頃、百石という小さな町の小さな南部せんべい屋に奉公に出て、そこで覚えた煎餅焼きがシキさんの生涯を決める生業となったのだそうです。
 巖手屋さんの南部煎餅の原点であり、商いの心のシンボルでもあるシキさん人形を小松さんからいただき、足利屋でも飾らせていただいています。
 10月12日(日)午後1時から、桐生文化会館4階で『心豊かな家庭・地域づくりを考える』という、モラロジー生涯学習セミナーが開催されます。講師は、小松遊平さんと松﨑靖です。足利屋でも案内チラシを配布しています。

   
361号 我家の第2次世界大戦    
 今年は戦後80年の節目の年であり、我家でも父や叔父たちの戦争の体験を語り継ぎ、今、生きている有難さを家族全員で感謝したいと思っています。あ わ我家では、父・松﨑福司が昭和17年11月26日に二十七歳で出征。叔父の弘平は18年に20歳で学徒出陣で出征し、その下の叔父の豊作は19年に海軍飛行予科練習生(予科練)として16歳で入隊しました。その時の「御祝受納帳」には親戚や近所の人たちの名前が100人以上も記されています。3人の子供達が次々と出征した時の祖父母の心情や、前橋から大間々へ嫁いですぐに夫を送り出した私の母のことを思うと心が痛みました。幸いにも三人無事に生きて帰ってくれたので私たち姉弟や従兄弟が生まれ、今も皆、仲良く暮らしています。 t父は終戦後、捕虜となり、シベリヤに抑留されました。その時の様子を記した「戦慄の思ひで」と題する父の手記には、過酷な強制労働の様子などが記されていました。
 昭和21年9月8日、強制労働へ行くために小さな舟に大勢の捕虜が乗せられ、アムール河支流の川を渡りました。その時、舟が激流にのみ込まれ、36人のうち24人が亡くなるという大惨事に遭いました。父が生き残れたのは、数日前に戦友が川に飯盒を落としてしまい、その飯盒が左岸へ流れて行ったのを思い出し、元の岸へ戻るのではなく左岸へ向って泳いだお蔭でした。その時の情景が父の手記に記されています。
「…流れにまかせて左岸へ向かった。瞼に家族の顔が次々に浮んでくる。『しっかりしろ、死んじゃ駄目だぞ』と励ましてくれる。故郷の山々や高津戸の峡谷も目に映る。そうだ、家族は毎日俺の無事を祈っているのだ。絶対死んではならない」そう思うと急に元気が沸いてきた。…」 g極寒のシベリヤでの抑留生活に耐え抜いた父は昭和22年6月26日に舞鶴港に着き、念願の故国の土を踏みました。その後、命を落とした戦友の家を一軒一軒探し歩き、抑留生活の様子を伝えてきたと最後に記しています。Jj                            t父は死ぬまで毎年、4月29日に靖國神社に参拝し、亡くなった戦友に手を合わせていました。私の名前の「靖」は、靖國神社の「靖」だと父は生前よく言っていました。