野間清治と八木昌平先生

桐生市教育資料室室長 大里 仁一

 明治25年(1892)3月、山田第一高等小学校(現桐生市立西中学)を卒業した清治は、人生の進路に悩みつつ1年を過ごしてしまう。幸い翌年、桐生郵便局長望月観三郎から息子昌二の東京遊学の寄寓先を探してほしいとの依頼を受けた清治の父は、義兄の医者喜多川俊朝にこの願いを受け入れてもらった。その際、清治も一緒に面倒をみてもらいたいと頼み、それも承知してもらったのであった。こうして清治は友人の昌二と共に伯父の家から静観学院に通学することになった。しかし郵便事務に就くことを目的としていた静観学院の学びは、清治の求めていた青雲の志を満たすものではなかったようだ。1年で帰郷した。しかし医者でクリスチャン。漢学の造詣も深く、豊かな知識を持った伯父との出会いは清治を大きく成長させたものと思われる。
 明治28年4月、かって清治の父好雄が新宿小学校(現桐生立南小学校)の教員になる際に尽力した田口廣吉(当時の校長)の力添えで、新田郡木崎尋常小学校の臨時雇に採用され、小学校教員としての第一歩を踏み出した。16歳であった。若年だが天性の子ども好き、明朗で快活、1年間とはいえ東京で学んできた若さ溢れる教師、指導技術は稚拙であったろうが、子どもたちには好かれ、慕われたにちがいない。
 当時、小学校教員が自分たちの資質を向上させることを目的にした「教育会」という組織が各郡市につくられていた。新田郡教育会は土曜日の午後に学習会を開いていた。この学習会が清治の勤務する木崎尋常小学校で開催された。この日の講師は高等師範学校文科卒業で群馬県尋常師範学校の大戸榮吉先生、新進気鋭の大戸先生の講義を清治は熱心に聞いた。
 大戸先生が講師として来校する際にいつも随行してくる学生がいた。師範学校の制服を着用し、磨き上げた靴をはき、落ち着いた態度の秀才タイプの好青年である。清治はその姿に憧れにも似た感情を抱いたようだった。この師範学校生が八木昌平であった。(群馬県師範学校卒業後、東京高等師範学校に進学。吾妻郡実科高等女学校校長、館林高等女学校校長、桐生高等女学校校長を歴任。郷土史研究者として著名。吾妻郡誌、山田郡誌、桐生織物史、桐生市史等を編纂、執筆。地方史研究に多大な業績を残す)清治は、八木青年のような学生が県内各地から集まり、大戸先生のような優秀な先生について学べる師範学校に入学したいという思いに駆られた。
 当時、師範学校に入学するためには、入学試験を受けて入学する他に、郡長の推薦によって入学が許可される方法があった。木崎小学校での日頃の勤務態度が好ましく評価されたのだろう。清治の師範学校進学の希望は叶えられ、郡長の推薦によって明治29年4月、群馬県尋常師範学校に入学した。