顕彰碑建立までの思い出

野間清治顕彰会監事 岡田 一男

 桐生市立図書館には、昭和54年から毎年講談社からの図書の寄贈が有り、既に32,000余冊が「野間文庫」として蔵書を構成している。
 私が、図書館長となって間もなく図書寄贈のお礼に講談社を訪問、対応して下さったのが社長室長に就任したばかりの、野澤遵宣さんであった。
 野澤社長室長曰く「野間清治の顕彰碑を建立する話がありましたが、その後どうなりました?」と…これまで何度となく顕彰碑建立の話が出ては消え、消えては出ての繰り返し、そして銅像を造る話がやや確定の段階で、顕彰碑ならぬ銅像とは今の時代、いかがなものかとの異論もでて実現に結びつかなかった。
 この時の野澤社長室長と私の共通理解は、講談社・桐生双方でこれまで顕彰碑建立の話に関わった方々に経緯を尋ね、今後の方向を探りましょうとの事でした。
 時期を同じくして、織物協同組合の倉庫を壊し駐車場を建設した際、放出されてしまった大正期の織物図案資料を買いませんかとの話が、伊勢崎の古書店から持ち込まれた。
 桐生を語る上で貴重な資料であったので、とにかく図書館に運んで貰ったが、買い取る予算が無く返納しようかとしていた矢先、かって中央ビルにオ−プンした郷土資料展示ホ−ルの初代館長として勤務、企画展に暗中模索している時に、個人のコレクションで応援していてくれ、以来交流を蜜にさせて頂いている河原井さんが図書館に見え「岡田さんこれなんだい?」と…事情を話して数週間後、「俺が買って寄付するのではだめかい!」と大変嬉しい申し出に涙がこぼれるところであった。
 そんなことの中から、野間清治顕彰への筋道を模索、平成8年野間清治顕彰会を立ち上げのための発起人準備会を、そして平成9年1月発起人会を発足したのである。
 メンバ−は、河原井さんが一本釣りで選び商工会議所の理事が大半であった。当初から現在残っているのは、河原井・相沢・山口・大里・岡田の5人である。
 発起人会設立間もなくして、講談社の社長室にて、講談社・桐生での野間清治顕彰に関わった者が一同に会し、野間清治顕彰碑建立・顕彰会活動に対する講談社の支援方について話し合いが持たれたのである。
 顕彰会に顧問として、増山商工会議所会頭・大川美術館館長・小池共立織物社長・塚越桐生倶楽部理事長を頂き、「野間清治顕彰会」が平成9年4月正式に設立され、先人の偉業をどう伝えて行くか、慎重に積極的に顕彰活動を進める事となったのである。
 3月市議会にて「講談社創業者である桐生出身の顕彰活動と本市との関わり」を市議会議員であった飯山順一郎さんが市議会での一般質問をした。
 これに対して当時の矢村教育長は「市民有志が発起人となって動き出したと聞いている。野間清治さんを郷土の先輩として広く知っていただき、郷土桐生を愛するという意味からも、市としてできることを積極的に協力して行きたい」と答弁した。
 その後講談社の浜田専務が日野市長を訪問、関係者も交えて顕彰碑建立へと道が開けたのでる。
 私は、野澤社長室長と連携を取りながら、「野間清治の顕彰碑」にふさわしい石探しに入る。
 建設省河川局に足を運びながらの河川からの石の払い下げ許可申請を繰り返す。
私は、長靴を履いて、梅田高沢・桐生川上流を歩くこと数週間、数個良い石に巡り合った、しかしながら払い下げの条件に「河川の美観を損なわない所」「水の流れを著しく変更しないこと」等の条件があり、良い石が見つかって申請しても許可にならない、良い石があって許可されたが現場に、重機が入らず運び出し不可能であったりで、まず石探しの壁に突き当たってしまった。
 結果的には高沢の岩森庭石店に保管してあった高さ2.3幅1.9メ−トル、講談社浜田専務・野澤室長・講談社社友会須藤会長・楢橋国武事務局長等と顕彰会は河原井会長以下役員が一同に会し、「この石で行こう」と石の選定の決着を見たのである。
 碑文は野間清治の言葉から幾つかが提案されたが、最終候補に次の2つが絞られ、私は「大きな声を出して本を読みましょう」を強く希望、河原井会長・浜田専務もこの意向に傾いていたが、しかし講談社社友会の総意として「水あるところ道自ら生ず これを追求すること真剣なれ 道は近きにあり」を「志あるところ道自ら生ず(前途に希望を抱き)これを追求すること真剣なれ 道は近きにあり」と一部加筆した碑文が提案され、この言葉の碑文が基本として最終決定となつたのである。
 早速石のデザインに入り、茨城県真壁(石の加工・産地)に石を搬送、加工が始まった。
 野澤社長室長と出来具合、文字の深さなどが気になり何度と無く真壁を往復したことも懐かしく思い起こされる。
 平成9年度の顕彰会の活動は、顕彰碑建立のプレ事業としての意味合いも含めながら、その啓蒙活動として、秋には尾崎秀樹さんを招いて市民文化講演会「思い出の少年倶楽部時代」(於:桐生市民文化会館)そして「野間清治と少年倶楽部・講談社の絵本」展を11月21日〜30日、郷土資料展示ホ−ルで開催した。
 絵本原画も一流絵師によるもので、その素晴らしさに魅了されたと同時に、かって桐生の学校に講談社からの図書が沢山寄付され、読み物も少なかった当時としては、本当に貴重な楽しい読み物であったと異句同音に年配者から発せられていた。展示会場で「その本・雑誌」で育った多くの方々が、懐かしさに目を潤ませていたのが、私の目に残像として今でも強く焼き付けられている。
 さて、顕彰碑建立へのカウントダウンも佳境にはいり、平成10年11月3日文化の日、奇しくも野間清治生誕120年、没後60年の節目の年に待望久しかった郷土の偉大なる先輩「野間清治顕彰碑」の建立が実現した。
 顕彰碑建立の式典には、野間佐和子講談社社長・浜田専務以下役員・講談社社友会もバスで大挙参加、日野市長、矢村教育長、野間清治の姪の故野間定子さん(当時94歳)も式典に参加された。そして200名近い参加者を得て式典が厳かに進行…除幕の紅白のロ−プが引かれると薬研堀で彫られた、「志あるところ 自ら生ず…」見事な桐生川の自然石に碑文が浮きだしたのである。
 顕彰碑建立記念事業として、文化会館シルクホ−ルにて、瀬戸内寂聴さんの「源氏物語−千年のラブストリ−」渡部昇一さんの「野間清治を語る−その人と偉業−」と題しての講演会・地下展示室ではこの日から6日まで「野間清治と講談社展」が開催され、そして、夜にはケ−ビックホ−ルでの祝賀レセプションも盛大に開催された。
 祝賀会場では、郷土の誇り野間清治の偉業と文化の町づくりへの思いをはせながらの、和やかなそして文化の香豊かな語らいの時間がながれていた。今日この日、郷土桐生に文化の芽の新しいペ−ジがつづられたのであった。
 野間清治顕彰会は、碑建立で終わりではなく桐生の先人を顕彰する活動として「先覚者を紹介する冊子」を刊行、読書を啓蒙して行くための「野間文庫読書推進賞を制定」それと野間清治の収集したコレクションを展示公開出来る「野間清治記念館」を建設するという活動の3本柱を定めた。
 平成9年からの発足から10年の歳月が流れ、本日の記念事業へと歩みを進めて来たのである。長いようで短い 短いようで長い10年の時の流れであったが、この間多くの方々との親交が芽吹き、文化活動無くして街興しはあり得ないことも痛感した。
 また新しい目標に向って、顕彰会の歩みが始まったことに感慨ひとしおである。