講談社と社友会

野間清治顕彰会副会長 野間 信子

 私の住む梅田の山里に講談社社友会より、機関誌が沢山届けられます。さすが出版社OBの冊子だけあって読み易く、写真が豊富で同僚の思いやる記事が文脈に現れており、毎号届くのを楽しみにしております。
 早速、野間清治顕彰会役員さんのところへお届けに行きます。顕彰会が桐生で創設されてから今年で10年を迎えるわけですが、その間に、最高顧問の小保方宇三郎さんをはじめ、須藤博社友会会長、ベレ−帽がよくお似合いの楢橋さん等が物故されたことは痛恨の極みに耐えません。楢橋さんの偲ぶ会に参列させて頂きました時、娘さんが最後の謝辞を述べた時の事は、今でもハッキリと瞼に浮かんで来ます大きな声で、万感の想いをこめて…「父は講談社が大好きでした!」と溢れる涙を流して述べたのです。このひと言で楢橋さんの講談社への愛社精神がよくわかりました。
 図書館前庭での顕彰碑除幕式では社友会会長として挨拶された須藤さんのお姿が思い出されます。とり分け梅田出身で初代野間清治から4代の社長の近くにいて補佐した楢橋さんは、事あるごとに桐生を訪れては中央の情報や消息を知らせてもらいましたのが残念でなりません。
 野間省一は「戦後講談社を再生した人」と言われましたが、永くその秘書を務めた小保方さんは、終戦の混乱時、また経営危機が叫ばれた昭和20年代末、省一社長の傍らにいて尽力し、光文社争議には自らが社長として解決に努力した人ですと、前社友会丸山昭会長が述懐しております。その後省一社長の秘書を勤めたのが現社友会市原徳郎会長であります。同氏は文才に秀で、特に「音羽界隈今昔」は興味深く読ませて頂ました。そして昨年度より野間清治顕彰会には有志での参加とあったのを、社友会として参加され賛助会費を頂き感謝のほかありません。
 野間清治が地方の小学生を募って少年部を創り、社員教育に剣道を取り入れ、社長と起居を共にした方々は、その後講談社の副社長にまで昇るほどの人物に成長したが、その人徳を慕う人々は数知れず。展示会など機会あるごとに桐生市を訪れる93才の南雲春雄氏、戸谷正雄氏、一場正義氏、牧正重氏などがあり、社友会事務局を預る堀越徳雄、新井善久両氏のご努力にも感謝申し上げます。