野 間 清 治 と 講 談 社

 世界の雑誌王として知られ、出版界の雄と謳われた講談社の創業者、野間清治は明治11年(1878年)12月、当時の山田郡新宿村(現在の桐生市新宿)に生まれた。
 清治の家は貧しく「東京へ出て勉強したい」との希いも思うようにならなかったが、それでも清治14歳の時、上京して靜観学院に入った。しかし、学費が続かず一年で郷里に帰ることになった。
 明治28年(1895年)、16歳で木崎町の小学校の代用教員となるが、向学心止み難く、師範学校、文化大学教員養成所に学び、沖縄県沖縄中学校の教員を経て、東京帝国大学法科大学主席書記官に迎えられる。
 再び、東京に戻った清治は、多くの優れた友人たちに囲まれ、その中で新しい見識や思想を多くの人に知って貰うのには、雑誌の発行が最適と考えて、明治42年(1909年)大日本雄弁会を創設、翌43年、雑誌『雄弁』を創刊した。
 「発刊の辞」で清治は、「雄弁衰えて正義衰ふ。雄弁は世の光である。」と述べて、活発なる言論こそ、時代の先駆になると信じた。
 明治44年(1911年)、『講談倶楽部』を創刊、講談社を興した。その後『少年倶楽部』『現代』『婦人倶楽部』『少女倶楽部』と次々に創刊して、講談社の基礎を固めた。
 大正14年(1925年)、関東大震災によって創刊を一年遅らせた『キング』を、75万部という大部数をもって世に送り出した。その後、『幼年倶楽部』も創刊し、大人から子供まで国民のすべてが読める内容の雑誌を発行する。
 清治の出版業は事業のためではなく、雑誌の発行を通じて国民の教育を常に考えていた。そのためには、社内には少年部と呼ばれる年少の社員も多く雇い、働きながら学ばせて立派な人間を養成した。又、昭和11年(1936年)には「講談社の絵本」シリーズを発刊して子供たちの情操教育に役立てた。
 昭和13年(1938年)、清治は60歳にてこの世を去ったが、清治の考えは現在の講談社の活動方針にも取り入れられ、多くの文化事業を推進するとともに、平成10年(1998年)新社屋第一期工事が竣工し、翌年、創業90周年を迎え、21世紀の今日、講談社は将来に向かって確実に歩みつづけている。