言 葉 の 森



日常生活の中で見聞きした言葉について、個人的な感じ方を思いつくままに書き記しました。時には手元の辞書をひも解き、客観的な考察もしてみました。日本語が乱れていると言われている今、美しい日本語をいつまでも残したいと考えています。
(私自身の言語感覚も問われそうですが・・・^^;)


○「無事に」
 2006年5月20日に佐賀県で小学校5年生が車にひき逃げされ、頭の骨を折る重症を負った。被害者は一時行方不明とされたが事故後数時間経ってから発見され、手術の結果意識は戻り命に別状はないという。
 このニュースについて、5/21のお昼頃の某民放テレビ局のニュースで、現地警察署前から記者がレポートした内容に次のような言葉があった。
「男の子は無事に発見され・・・」。男の子は頭部骨折し、意識不明だったのに「無事に」はないだろう。まぁ、2〜3日前に秋田県で小学1年生が連れ去られて殺害されたという事件があったばかりだから、命あって戻ってきたという意味であれば「無事に」と言いたくなる気持ちも分からなくはないが、家族などの当事者が聞いたらきっと怒るよね。(2006/05/21)


○「遺憾である」
 政治家や企業の不祥事などがあると、記者会見で決まって謝罪の言葉として使われている。随分前から気になっていてその当時すでに辞書を引いて意味は確認した。その後も相変わらず多用されていて、耳にする度に何とかならないのかと感じている。
 「遺憾」の意味は、「思い通りにいかず心残りなこと。残念。気の毒。」(広辞苑第五版)とある。謝罪の中で使われる場合、ほとんどはこの中の「残念」の意味で用いられていると思う。だったら率直に「不祥事を起こしてしまったことを残念に思います。」と言ったほうが一般市民には分かりやすいし、気持ちが伝わってくるように思うが、いかがだろうか。わざわざ難しそうな言葉を使って、いかにも権威ありそうにしなくてもいいではないか。むしろ、かえって「遺憾」という言葉を使うことによって、謝罪が形骸化しているような気がする。そこには誠意はない。企業や団体のトップに立って責任ある立場の方は、もう少し考えて言葉を選んだほうがいいですね。もちろん、不祥事など起こさないことがいちばんいいに決まっていますがね。(2005/08/26)


○「夜御飯(よるごはん)」
 最近あるTV-CMで「夜ごはん」という言葉を聞くようになった。もちろん「夜ごはん」が「夕食」のことを言っているのだなとは分るが、聞き馴れない言葉で違和感を感じたので調べてみると・・・。
 まず、「○○ごはん」という言い方は、逆引き広辞苑では「昼御飯」「晩御飯」「炊込み御飯」「混ぜ御飯」「赤御飯」「斎火の御飯」が見出しにあった(順不同)。「炊込み御飯」以下はここでは省略する。さて、「夜御飯」は広辞苑の見出しにない。おそらくは「朝御飯」「昼御飯」に引きずられて使われたことは想像に難くないが、「朝御飯」も見出しにはなかったので、ちょっと驚いた。自分の中では「朝御飯」は“あり”と思い込んでいたし、たぶん日常会話の中で使ってもいたような気がするので・・・。「夜御飯」は“朝・昼・夜”の連想から来たものだろうが、“朝・昼・晩”もあって夕食のことはこちらの流れで「晩御飯」と言うのが正統派らしい。「夜御飯」だと、「夜食(やしょく)」との区別が無くなってしまいそうでもある。念のため「夜食」を広辞苑で確認すると、三番目の意味として「夕飯。ばんめし。」とあるので、さらにややこしくなる。
 ちなみに「朝食」「昼食」「夕食」のそれぞれ別の言い方を記しておこう。
   「朝食」・・・あさめし、あさげ
   「昼食」・・・ひるめし、ちゅうじき、昼御飯(ひるごはん)、ひるげ
   「夕食」・・・ばんめし、夕飯(ゆうはん)、晩御飯(ばんごはん)、ゆうげ
最後に、「御飯(ごはん)」を広辞苑で引くと「めし・食事の丁寧な言い方」とある。「朝食」だけ丁寧な言い方の「朝御飯」が広辞苑の見出しにないのは、単なる見落としか。(2004/11/23)


○「〜個」
 「数量を表す語の下につける語」(広辞苑)を「助数詞」と言いますが、「助数詞」を分かり易く言うと「物を数えるときの単位」と言い換えてもいいでしょう。日本語にはこの助数詞がたくさんあります。「〜人」「〜台」「〜枚」「〜匹」・・・・。例えば箪笥は「棹(さお)」と言ったり、刀は「振り(古来は「口」と書いて「ふり」と読む)」など、物によっては聞き馴れない言い方をします。英語でも「a cup of tea」(一杯のお茶)、「a pair of shose 」(靴一足)、「a sheet of glass」(一枚のガラス)などと物によって言い方は異なりますが日本語の比ではないでしょう。でもって、以前にもどこかで述べたようにこの多様な表現方法が豊かな表現を可能にしているわけです。
 ところが箪笥や刀の数え方はともかくも、日常で頻繁に使う助数詞が曖昧になってきているふしがあります。そのうちの一つで最近気になっているのが、年齢差を表す言葉です。「二歳年上」や「二つ年上」という言い方が通常(正しいと言っていいのかな)だと思うのですが、最近の若い人たちはこれを「二こ(個)年上」と言う人が増えていますね。学年差を表すときも同じです。「1コ上の先輩」なんてね。考えてみると、これも省略形の一種のような気がします。多様な表現法を集約して、一つの言葉あるいは少ないいくつかの言葉で代用するという方向に動いているようです。やがて生き物も「〜個」と数えられてしまうのでしょうか?「猫が三コと犬が五コいる」なんて、言葉を覚えたての子供ならいざ知らず、いい大人がこんな言い方をしたあかつきには日本は(日本語ではない)完全にだめになっているでしょうね。
 こうして日本人の語彙力がどんどん、どんどん衰えていき、由緒ある表現方法が失われつつあるのは残念でなりません。
 余談ですが、三省堂の「新明解国語辞典」には第四版から実際の使用例から採集した物の「かぞえ方」を示しています。
(2004/08/15)


○「〜好き(ずき)」
 「男好き」「女好き」「下手の横好き」等々、慣用的に用いられている言葉はあるが、それ以外の「名詞」+「好き」で「〜好き」という言い方が気になっている。「男好き」「女好き」「下手の横好き」だって「名詞」+「好き」で成り立っているので、文法上は間違いではないのだろうが、かといって例えば「お米好き」「チーズ好き」・・・・などの表現がしっくりしないと感じているのは私だけでしょうか。あわせて「私ってお米好きじゃないですか」などと言われたあかつきには「そんなこと知るかっ!!」と心の中で叫んでしまう(爆)。
 「お米好き」「チーズ好き」の類いはおそらく「(私は)お米(チーズ)が好きなんです」の省略形だと思われる。ここでも省略形が出てくるのかと感じるほど現代口語の問題と省略形というのはその関係が根深いのですね。それほど現代人が横着になってきているという証拠でもありましょう。
 思い余って『逆引広辞苑』で「〜好き」を引いたら次のような言葉が載っていました。
   遊び好き・男好き・女好き・客好き・奇麗好き・子供好き・好き好き・好き不好き・世話好き・大好き・出好き・
   若族好き(にゃくぞく・ずき)・派手好き・話し好き・人好き・不好き(ぶ・すき)・不物好き(ふもの・ずき)・目好き・
   物好き・横好き・立派好き・侘好き(わび・ずき)  以上  (2003/05/11)


○「リクルート」(recruit)
 現在の日本語中で使われる場合には、「就職」「求職」などのニュアンスで用いられている感があるが、果たして本来の意味は何なのかと思い、英和辞書に当たってみると・・・名詞では「新会員・新入社員」や「新兵(rookie)」とあり、動詞では
「(新会員・新入社員・新兵などを)募集する」とあり、さらに自動詞では「新兵を徴募する」「補充兵を隊に入れる」などとあった。ということは、もともとは軍隊において新兵を募ることを意味していたのが拡大解釈され、さらには日本語で言うところの「就職」「求職」までに至ったと推測される。時が時であれば、軽々しく口にはできない言葉であったかも知れない。やはり俗に言うカタカナ言葉は、本来の意味を知った上で使うかどうか判断するのが得策のようだ。
 ついでに、「rookie(ルーキー)」が気になったので英和辞書を引いてみると、まず「rookie」は「recruit」の変形という説明があり、第1義は「(プロ野球の)新人選手、ルーキー」、第2義に「新米、初心者、(米)新兵」とあった。何でもかんでも新人のことを「ルーキー」と言うのかと思っていたが、本来は「野球選手の新人」に対してだけ用いた言葉のようだ。これも意外な発見であった。(2003/01/11)


○「ご飯を食べに行く」

 芸能人などが友人たちと「食事に行く」ことを、「ご飯を食べに行く」としきりに言うことを最近テレビで頻繁に耳にするが、どことなく落ち着かない気がするのは僕だけなのだろうか。「食事に行く」と言えばいいじゃないか、と思うのだ。思い余って「御飯」を辞書で引くと「めし・食事の丁寧語」とある。「御」が付けば丁寧語になるのは分かるが、だからといって「ご飯を食べに行く」が「食事に行く」の丁寧語にはなっていないだろう。さらに思い余って「食事」を辞書で引いてみた。「おなかがすくに従って、主食と副食物を組み合わせて食べること」(新明解国語辞典第五版)とあり、これは納得がいく。
 さて、自分の中でどのようにこれらをまとめて合点がいくようにしたらいいのかと思案するに、日本人の日本語に対する語彙力が衰えてきているのではないかと言う結論に至った。つまり、「食事に行く」という少し抽象的な言葉よりも、より直接的で具体的な「ご飯を食べに行く」という表現を好んでいるということなのではないか。もっと言えば、「食事」という言葉が使えなくなりつつあるのではないか、ということである。人間は易きに流れるものであり、言葉の面においても簡易な方へ流れていくのは歴史が証明している。ごく最近の例で言えば、いわゆる「ら抜き言葉」だってそうだ。
 日本語の特徴のひとつとして、同じ内容を表すのに複数の表現がある、ということが挙げられる。実はこのことが日本語を複雑にもし、逆に表現力を豊かにもしている。ところが最近は今回の例のように、ひとつのことをひとつの言葉で表そうという傾向が無意識のうちに働き始めているのではなかろうか。そしてそれが、テレビやラジオといったマスメディアを通じて流れ始めると、あっという間に広がって、それまで使われていた言葉が忘れ去られてしまい“死語”になってしまうなんてことにもなりかねない。マスメディアを通じて表現をする方々には言葉に対する注意力を払っていただきたいと申し上げたい。
(2002/12/01)


○「師走」

 言うまでもなく、陰暦の12月の異名。高校1年生の時に古典の授業で1月から12月まで、睦月・如月・弥生・・・・師走と暗記させられた人が多いと思う。それぞれに意味があってそう名付けられたのだろうが、「師走」は現在随分と勘違いされて使われているようだ。というのは、「師」を「教師」の師の意味と解する人が多く、12月になるとテレビやラジオから「先生も忙しい12月になりました」云々(本当はいつも忙しいんですが)、という挨拶代わりの言葉に使われているのだ。しかしながら、この師は実は 「法師」つまり僧侶の意味であるという説が有力らしい。暮らしのことば『語源辞典』(講談社)には次のような解説がされている。
    平安末期の『色葉字類抄』に「しはす」の注として「俗に師馳と云ふ、釈有り」とあり、当時すでに「師馳す」という
    民間語源があったようである。これは、師匠の僧が、経をあげるために東西を馳せる月であるという解釈に基づく。
昔の僧侶は、現在のお寺さんがお盆に各檀家の家々を回って経をあげているようなことを、年末にやっていたのかも知れない。ただ、この解釈も決定的なものではないらしく、上記『語源辞典』には「四季の果てる月の意である『四極(しはつ)』」、「1年の最後の月になし終える意の『為果つ』」、「年が果てる意の『年果つ(としはつ)』の変化した語」など、さまざまな説があるようだ。
(2002/12/01)


○「ピンチヒッター」(pinchhitter)

 野球で「代打」のことだが、一般に「代役」の意味でも用いられる。
 野球の場合、得点のチャンスに起用される打者のことを言うのに「ピンチ(危機)」とは如何に・・・と思って辞書をひも解くと、英和辞典では
   【pinchhitter】(名詞)野球で代打者、ピンチヒッター
とある。和製英語かと思っていたら、れっきとした英語だったことにまず驚き。でもピンチの場面で使うのか、チャンスの場面で使うのかは不明。
「pinchhitter」のひとつ前の見出しには
   【pinchhit】(動詞) 1)ピンチヒッターになる  2)危急の代役を務める
とあり、本来は予定されていた人物が登場できないピンチの場面で使われる言葉らしい。新明解国語辞典(第4版)を引くと
   【ピンチヒッター】1)(野球で)得点すべきチャンスなどの時、予定されていたバッターに代わって起用される選手。
            2)差し迫った(危険な)時に、他の人に代わってその役(仕事)をする人。
とあって、野球ではチャンスの場面で、それ以外では差し迫った場面で使われるという、相反する場面で使われる言葉であるという結論に至った。
ただ、野球の場合でもおおもとは本来出てくるべき選手が怪我などでゲームの続行が不可能な場合、つまりチームにとって「ピンチ」の場面で代わりに起用される選手と言う意味であったであろうことは容易に想像できる。それが作戦上の「代役」になり、「ピンチヒッター」という言葉だけが残ったと考えられる。
(2002/10/27)


○「〜系」
  辞書によれば、「系」は「深い関係で次々につながっている」「つながりを持つ一連のもの」とある。熟語となる場合は「系」の上には漢語が付くようだ。例えば「太陽系」「銀河系」「家系」「体系」「神経系」「消化器系」「文科系」等々。ところが最近のテレビなどから聞こえてくるのは、「癒し系」「お笑い系」などといった言葉で、本来「系」が持つ意味は失われているように思う。では、どんな意味を伝えようとしているかといえば、「グループ」の意味を表そうとしているのだ。それも確固としたグループが存在するわけではなく、何となくこんな集まりの中に分類できるのではないか?という非常に曖昧な世界である。「お笑い」であれば「落語」「漫才」「漫談」などの確固たる分類があるが、落語家でもなく、漫才師でもなく、漫談家でもない「何となく面白い話が出来て笑いがとれる人」が「お笑い系」と言われるのだ。
 日本語には曖昧な部分が多々あるが、日本の世の中も曖昧なところがたくさんあるようだ。
(2002/09/22)


○「さまざまな紆余曲折」
  民放某テレビ局の若手男性アナウンサーが、朝の情報番組の中で使った言葉。「紆余曲折」だけで「〈いきさつなどが〉あれこれ込み入っていること(状態)」(新明解国語辞典)の意味なのに、輪をかけるように「さまざまな」がついている。よっぽど込み入ったいきさつがあったのか・・・と言うと、そういうわけでもない。このアナウンサーは、「紆余曲折」の本来の意味がわかっていながらも、無意識のうちに「さまざまな」を付け足してしまっているのだろう。「紆余曲折」だけでは意味が通じにくいという判断が、「さまざまな」をつけることによって「紆余曲折」の意味を分かりやすくするという効果を生み出しているように思う。言ってみれば、こういう言葉を使う側と、受け取る側に十分な語彙力がないと、こういった表現が増えて、間違いと気づかない人も増えてくるのではないだろうか。極端に言えば「頭痛が痛い」とか「腹痛が痛い」と言っているようなものだよ。
 最近では、テレビやラジオから誤った言葉遣いが多く聞こえてくる。日本語の標準と目されているNHKのアナウンサーでも時々「??」というような言葉を発しているのを聞くと、この国の言葉は大丈夫なのだろうか、と心配になってくる。
(2002/08/16)


○「〜じゃないですか?」
  ここ数年来のことだろうか、単純な疑問形(この場合は語尾が上がる)としてではなく、語尾のイントネーションを下げて相手に同意を求める使い方を多く耳にするようになった。例えばA子さんが特に親しいわけではないBさんに向かって「私って面食いじゃないですか?」と言うような用い方だ。Bさんはそんなこと言われても「そうだよね」と言える立場になかったとしたら、A子さんは何を求めて「〜じゃないですか?」を使うのだろう。
 これはたぶん、文中の語尾を微妙に上げて相手に同意を求めるような言い方(書き言葉では表しにくいのだが、タモリが半疑問形と呼んだあれ、でわかるかな)と同じで、断定してしまうと相手に失礼、あるいは無礼になるのではないかという意識が知らず知らずのうちに働いて、決定権を相手に委譲することで自己の責任を回避しようとしているのではないだろうか。少し大袈裟になるかも知れないが、決定や断定というある意味では自己主張することで目だってしまい、それをたたかれるのではないかという恐れからくる自己防御の意識が働いているような気がする。
 現在の若い世代には、人と違うことを極端に恐れる傾向があるように思われ、同じことを知りたい、同じものを所有したいという意識がいつの間にか身に付いてしまっている。それが言葉の面にも現れたのが、「〜じゃないですか?」ではないのかという気がする。この言い方、人によってはやたらに使うので、聞くほうとしては耳障りこの上ない。
(2002/04/16)


○「告る(こくる)」
  朝夕の通勤時に車の運転中に地元のFM局を聴いているのだが、若いリスナー(中高生くらい)からの投書(FAXやメール)の中で、「今日○○さんに告(こく)ります」なんて言うのが読まれることがある。もちろん、「告白します」の意味だとは分かるのだが、あんまりきれいな表現ではない。ただ、単に表現を省略しただけではない、何かを感じる。自分の想いを愛しい人に伝える、告白するという行為には非常に大きな精神的エネルギーを必要とし、当人にとっては重大事だから、それを真正面から「告白する」という言葉で表現することは重荷になってしまうのだろう。そこで、「告る」というちょっと変化を付けた言葉にすることで、「軽さ」を演出しているように感じる。「告る」ことによって、愛しい人に対する想いまでもが軽くならないように、他人事ながら祈るしかない。
 あなたは、「告られたい?」、それとも「告白されたい?」。
(2002/03/17)


○「カメラ撮って」(?)
  「写真撮って」と言うべきところを、表記のように言う人が多くありませんか。この言い方が使われている場面を見てみると、急いでいたり慌てていたりする状況が多いように思われる。とっさのシャッターチャンスを逃すまいと、言葉の方もとっさに「カメラ撮って」となりがちなのでしょうね。おそらく慌てている場面で「早くカメラを持ってきて」と「写真撮って」という思いが一緒になってしまって「カメラ撮って」になってしまうのではないでしょうか。そういう状況下でやむを得ず出てきた言葉ならば笑ってやり過ごせるが、日常的に「カメラ撮って」を使い、何の疑問も持たない人がいたら日本語の感覚が鈍っている証拠ですよ。あなたはどうですか?。
(2002/02/03)


○リストラ
 正しくは「リストラクチャー(re-structure)」で、正しく訳すと「再構築」という意味だ。「re」は接頭辞で「再び」「元へ」「新たに」の意味、「structure」は「構造」「構成」「組み立て」の意味。この「リストラクチャー」が例によって略されて「リストラ」として使われている。しかも、略されただけに留まらず、意味も本来の意味を通り越して、ものすごく狭い意味で使われている。
 その狭い意味とは、率直に言うと「首切り」、少し柔らかく言うと「人員削減」「人員整理」。例えば、会社経営者が会社経営の健全化に向けて組織や経営のあり方を見直して実行するのが本来の「リストラクチャー」だろうが、その方法のうちもっとも安易で効果が大きいのが人員削減による人件費のカットなのだ。そこから
  「リストラクチャー」=「リストラ」=「首切り」「人員削減」「人員整理」
となってしまったのだろう。
 それではなぜ、こんなにも「リストラ」という言葉が使われるのか。「首切り(略して首)」「人員削減」「人員整理」と言わないのか?それは、日本語で率直に表現してしまうと、あまりに生々しく聞こえてしまうため、外来語を用いてしかもそれを略して使うという、「オブラート2枚重ね」の効用を無意識のうちに期待しているのではないかと思われる。
(2001/10/21)


○ペンネームとラジオネーム
 ラジオ番組に投書(お便りやリクエスト)をするのに、昔はハガキが中心だった。その時使う名前で本名でないのが、「ペンネーム」。時は流れ、ハガキに代わってFAXやメールになった頃から「ラジオネーム」に変わった。そこには、単にメディアの違いによる呼称の違いにとどまらず、メディアに対する思い入れの深さの違いまでもを表しているように感じる。
 特にハガキに対する思いというのは、FAXやメールに対するそれとは格別に違うものがあると思う。FAXやメールが比較的思いつくままに、言ってみれば直感的に書きやすいのにたいして、ハガキはそのスペースも限られるため、自分が伝えたいことを時間をかけて文章を練りに練って書く必要がある。その時間や手間まで含めたものがハガキであり、それを書いた方のペンネームの重みである様な気がする。
 この10月から復活したラジオ番組「セイヤング21」月曜日担当のさだまさしは、そのあたりのことをよく心得ていて、今日のオンエアでも、月曜日はハガキだけで受け付ける「ハガキ・コミュニケーション」番組だと言っていた。お気軽なことや物が横行する世の中にあって、このような「文化」を残していくことは、とても大切なことなのではないか、と感じた次第。文化放送の「セイヤング21」月曜日、ぜひ聴いて欲しい。
(2001/10/15)



○後味(あとあじ)
 
最近、テレビなどのレポーターがものを食べた後に「後味が良い」という言い方をするので気になっている。「後味」を広辞苑で調べると、「食べた後に残る味。また比喩的に用いて、物事がすんでからの感じ。「-が悪い」」とある。また、新明解国語辞典には、「(1)食べた後に舌に残る感じ。「-がいい(悪い)」(2)何かが済んだ後に、当事者・関係者に与える感じ[よくない事について言うことが多い]」とある。
 何かが済んだ後の「後味が悪い」は慣用的に使われており、この場合「後味が良い」とはほとんど言わないと思う。その感覚に引きずられるからなのか、ものを食べた後の「後味が良い」に違和感を感じずにはいられない。だいいち、味が良かったら「後味が良い」などと言わずに「美味しい」とか「うまい」で済むだろう。
 しかしながら、新明解では「後味がいい」の用例を示しているし、広辞苑でも、例示まではしないものの、「後味が良い」の用法を否定もしていない。ものを食べた後の「後味が良い」は正しい用法なのでしょうかねぇ。
(2001/10/08)



○「コミュニケーション(communication)」
 「社会生活を営む人間の間に行われる知覚、感情、思考の伝達」(広辞苑)。
 「伝達、報道すること」(英和中<研究社>)。などと辞書にはある。
 日常何気なく使っている言葉だが、いざ的確な日本語に置き換えようとすると、上記のような辞書上の言葉ではニュアンスが伝わらない。我々が日常の中で「コミュニケーション」と言った場合にはどちらかといえば「相互の意志疎通」の意味合いで使っている。この意味が「コミュニケーション」の中に含まれているのかどうか、或いは「コミュニケーション」を「相互の意志疎通」の意味で使っていいかどうかはわからない。辞書にある意味では、どうも一方通行の意味合いが強い。
 ある外国語の単語を、日本語の的確な単語で言い表せないと言うのは、その外国語の意味する概念が日本には存在しないか、存在していても一般的には希薄である場合かも知れない。とすると、現在の日本語に外来語が氾濫しているのは、もともと日本には存在しない様な概念が多く流入している事になるのだろうか。
(2001/01/22)



○「Can you keep a secret ?」
 つい先日始まったドラマの主題歌のタイトルという。歌っているのは宇多田ヒカル。ラジオからたまたま流れてきた。誰が何を歌ってもかまいはしないが、なぜ英語のタイトルなのか。「秘密を守れる?」「内緒にしてね」とか何とかではいけないのか。そしていつも思うのだが、歌詞の中にやたらと英語をはじめとする外国語を散りばめるのか。そこまでやるのだったら、いっそすべて英語(外国語)で歌詞を書いて歌ってほしい。
 洋楽の中に日本語が散りばめられている楽曲なんて無いでしょう?
(2001/01/12)



○「知識」と「知恵」
 「知識」は「ある事項について知っていること」(広辞苑)、「知恵」は「物事の理を悟り、適切に処理する能力」(広辞苑)とある。つまり、「知識」を上手に活かすことができることが「知恵」なのであろう。
 しかしながら、昨今では「知識」は持っていても、それを活かす術を知らず「知恵」を働かせていない人が多いのではないか。さらには、「知識」を身につけることすら拒否してしまう人も増えているような気がする(例えば、学校の勉強が何になるのかと否定的になり、学習をしない中学生や高校生)。  「知識」がないところに「知恵」は生まれず、極端にいえば社会の荒廃や衰退につながっているのではないか。「知識」を身につけない人が増えていることは憂慮すべきである。
 ではどうやって「知識」を身につけるのか。第一には学校教育の重要性を再認識すべきである。知識偏重ということが言われてから久しいが、それは「知識」を詰め込むことに対する批判であって、「知識」そのものを否定しているわけではないだろう。「知識」を身につける事は必要なことなのだから、教育の現場で「なぜ勉強をするのか」という点についての指導をきちんとすることが重要なのだ。
 学校を離れたところでは(既卒者や社会人)、日頃から好奇心を持っていることが大切だろう。新しいものに対する興味・関心や、ポジティブな意識を持つことが知的生活を豊かにしてくれると信じたい。
(2001/01/10)



○「IT革命」
 「IT」はinfomation technology(情報科学技術)の頭文字をとったもの。「IT革命」は西暦2000年の流行語大賞にも選ばれた。発端は東京都内のある商店街をインターネットを通じて活性化させようと試みて社長になってしまった高校生であると聞いた。
 それはともかくとして、近頃は「IT」あるいは「IT革命」という言葉を見聞きしない日がないぐらい巷に氾濫し、言葉だけが一人歩きしている感がある。
 そもそも「IT革命」とはどの意味で使われているのか。「ITを革命すること」なのか、または「ITによって何かを革命すること」なのか。たぶん、両方がごっちゃになって「IT革命」という一語で表現されてしまっている気がする。
「ITを革命すること」の具体的な意味は、通信環境(インフラ)の整備における革命であり、光通信をはじめとする大容量高速通信や次世代携帯電話の技術開発・普及を意味すると思う。
 一方、「ITによって何かを革命すること」の具体的な意味は、整備された情報科学技術(IT)を社会生活・日常生活に活かして今までにない便利な生活を推進するという意味だろう。
 しかしながら、、現時点での一般庶民の感覚からすれば、「IT革命」=「インターネットの普及」という点に集約されているような気がする。
 政治家やマスコミが盛んに「IT革命」と言う言葉を使うが、実はあまり深く考察された上で用いられているのではないと思われる。
(2001/01/10)



○間違いやすいカタカナ標記単語
 以下に示すのは、00/12/23放送のサタデー・ウエイティング・バー・AVANTI(FM東京系列)の中で、常連の西田善太氏の話で紹介された標記の間違いやすい単語である(HP参照)。
・avocado     ○アボカド       ×アボガド
・communication ○コミュニケーション  ×コミニュケーション
・simulation    ○シミュレーション   ×シュミレーション
・exhibition     ○エキシビション    ×エキシビジョン
・close-up     ○クロースアップ    ×クローズアップ
・news       ○ニューズ       ×ニュース
・Gips       ○ギプス        ×ギブス
・smooth     ○スムース       ×スムーズ

このうち、「Gips」の「G」は大文字で表記することが正しいらしいことがわかった。(広辞苑四版ではドイツ語で「G」は大文字表記で見出しが出ている。 また、新明解四版ではオランダ語として「G」は小文字表記であった。)
 ちなみに、AVANTIのHPは http://www.avanti-web.com
(2001/01/05)



○「灸を据える」
 「痛い目にあわせる。強く叱責する意」と広辞苑にある。ところが、昨日の新聞各紙に鍼灸師などの団体から、「本来の意味だけで使ってほしい」と各メディアへの要望書が出されたそうな。某芸能人の犯罪に対する週刊誌か何かの記事の中で使われたことが事の起こりで、鍼灸業界へのイメージダウンを防ぎたいとの思いからのようだが、はたして、業界の考える方向にいくのは難しいと思うのだが。
 少々事情は異なるが、過去には「トルコ風呂」が「ソープランド」に名称を改めるという事例があった。確か、日本に留学中のトルコ人学生の申し出に端を発して、業界を動かしたということだったと思う。
(2000/12/20)



○「ファン」と「フアン」
 あることへの熱心な愛好者を「ファン(fan 米語)」というが、この語を「フアン」と3音節で発音する人が多くなっている気がする。ラジオの某DJの発音も何度聞いても「フアン」としか聞こえない。
 類例として「フィルム(film)」と「フイルム」がある。手持ちの電子辞書(広辞苑)で「ふいるむ」と入力して検索したらきちんと「フィルム」の項目が表示された。
(2000/12/15)



○「袖振り合うも多生の縁」
 意味は「見も知らぬ旅人同士が同じ木の下に一時いこい宿るのも、決して偶然ではなく、この世に生まれる以前からの深いつながりによるものだ」(新明解四版)だが、標記は見出しに記したものが正しいようだ。
 間違いやすいのは、「袖ふれ合う」「他生」の標記だ。新明解四版では、「他生」と書くのは俗用とある。一方、広辞苑四版では「他生とも書く」とあるが、見出しは「多生」になっている。
 ところで、ワープロ(一太郎ver.9 ATOK12)では「そでふりあうもたしょうのえん」を一括変換すると「他生」と表示される。
(2000/12/15)



○「生足」「なま足」「ナマ足」
 下記と同じ類で、従来の日本語にきちんとした言い方があるのに、(たぶん)あえて奇を衒って刺激的な言い方をする例の見本。由緒ある日本語では「素足(すあし)」「裸足(はだし)」という。「なま〜」では情緒もへったくれもない。ただあるのは「性的ないやらしさ」ばかりである。
 あえて「奇を衒って」ということを意識して使っていればまだしも、実は「素足」や「はだし」という本来の言い方が忘れられて、苦し紛れに新たに造られた言葉だとしたら、これは日本語にとって由々しき問題である。
(2000/11/20)



○「携帯用の傘」
 たぶん、「折りたたみ傘」のことをさしているのだろうが、あまりにひどくないか?嫌みたっぷりに「じぁ、携帯用でない傘ってどんなの?」と言ってみたくなる。「携帯用の傘」は、朝のFM情報番組の中の天気情報の中で女性DJが使っている。毎回に気になってしょうがない。いやしくも、アナウンサーが使う言葉ではないだろう。是非とも、改善して欲しい。この言葉だけでなく、正しい日本語をわざわざ乱さないような改善を望みたい。
 ちなみに、「折りたたみ傘」が言いにくければ、ただ「傘」と言えばそれで済む。「折りたたみ傘」を選ぶか、折りたためない「傘」を選ぶかは各自の自由だ。
(2000/11/20)



○会話文末の「〜けど。」
 インタビューなどに答えて、「〜と思いますけど。」という「けど」が気になる。
 「けど」は「けれども」の口語的表現と辞書にある(新明解四版)。「けれども」には「後の句を略し、言いさしにして、ためらったり相手の反応を待ったりする柔らかな表現」(広辞苑四版)の意味があり、これが用いられているのだろう。「〜と思いますけど」は決して誤った用い方ではないようだが(1)接続助詞としての「前に述べた事柄と後に述べる事柄とが矛盾する関係にあることを表す」(広辞苑四版)という意味に引きずられて違和感を感じたり、(2)「〜と思います」で文を断ち切れば比較的強い意思表明になるところを「けど」をつけることによって意思表明を曖昧にしたり、判断や決定権を相手にゆだねているところがしっくりせずに、気になるのだろう。
(2000/10/18)



○「ゲストの方(かた)」
 テレビなどで司会や番組の進行者が「今日のゲストの方を紹介します」などと使っていることを多く耳にする。NHKのアナウンサーでさえも使っている場合が増えているような気がする(実際に昨日も聞いた)。
 「ゲスト」=「客」=「人」だから、そこに更に人を意味する「方」を付け足す表現はおかしいのではないか。「ゲスト」を使うなら「今日のゲストを紹介します」で充分なはずだし、「ゲスト」を使わないならば「今日のお客様を紹介します」で良いはずではないか。
 原因は、「ゲスト(guest)」の本来持っている意味が使用者の中で曖昧になり、「ゲスト」に対して失礼になってはいけないとの思いから、人に対して敬意の意味を持つ「方」を付け足したということであろう。
 やはり安易に外来語を用いることは注意しなければならないし、こういったことを機会に日本語を(外来語の使用も含めて)見直すべき時が来ているのではなかろうか。
(2000/10/10)



○「可能性」と「おそれ」
 「可能性」はそうあって欲しいこと、そうなって欲しいことについて、そうすることが出来る見込みを表す意味で使うのが正しいような気がする。つまり、物事が有益な方向に向かう時(向かって欲しい時)に期待を込めて使うべきだと思う。例えば、「○○大学に合格する可能性は80%です」のように。
 ところが最近は、憂慮すべき物事が起こりそうな場合に用いられているケースが多く見受けられ、ちょっと気になる。例えば、「堤防が決壊する可能性があります」 などのような、この手の表現がテレビやラジオから多く聞こえてくる。この場合、注意や警告を促す意味で発している表現であり、誰かが堤防の決壊を期待しているのではないのだから、本来は「堤防が決壊するおそれがあります」(「おそれ」はいやな事が起こるのではないかという心配の意味)と表現すべきだろうと思う。
 ただ、こういった「可能性」の用い方は必ずしも間違っているとは断定できず、聞き手の、あるいは話し手の微妙なニュアンスや言語感覚によって感じ方が異なってくるのであろう。このあたりにも日本語の難しさがあるのだろう。
(2000/10/07)



○「シミュレーション(simulation)」
日本語の中で用いられるときに、「シュミレーション」と思いこんで使われていることが多いのではないか。新聞のテレビ・ラジオ覧の投書欄にテレビの字幕にも細心の注意をとの投書があったので、改めて辞書で確認した。自分でも「シュミレーション」と使っていたように思う。以後注意しよう。
(2000/07/26)