歴史教育 大間々町の明治期からの学校教育
        第四節  近代教育の整備
六.教育諸制度の整備
小学校令の制定と    明治十八年(一八八五)内閣制度が創設され、初代文部大臣に森有礼が就任し学校制度全般に関する改
義務教育方針の確立  革に着手した。明治十九年「帝国大学令」同年四月十日「小学校令」「中学校令」「師範
学校令」によって諸制度を改革した。小・中・師範学校のそれぞれを尋常と高等の二段階に分けた。「小学校令」では各修業年限を四カ年とし、就学義務を六歳から十四歳までの八年間とした。父母及び後見人は、尋常小学校四カ年を修了するまでは就学させる義務があると定め一学級八十人以下、高等小は六十人以下とした。
  明治十九年の小学校令をうけて、山田第五小学校(明治十八年、桐原学校と大間々校が合併したもの)が、第二百学区第十一尋常小学校となった。山田郡第五小学校分校(明治十八年・光塩学校より改名)が、山田郡第十三番西尋常小学校になった。また、新たに、山田高等小学校第二分校が設立された。山田第七小学校(明治十八年六月小平南校より改名)が、山田郡第十三番東尋常小学校として開設された。山田郡第七小学校第一分校(明治十八年小平北校より改名)は、山田郡第十三東尋常小学校分教場となり、山田第七小学校第二分校(明治十八年浅原学校より)が、山田郡第十三番西尋常小学校分教場となった。
 明治十九年の小学校令により、大間々には、明治二十年代初期、尋常小学校五校、高等小学校一校が開設されて、義務教育の方針が確立した。
 その後、明治二十三年、第二次「小学校令」が制定された。義務教育の修業年限を三年または四年、高等小学校は、二〜四年とした。尋常小学校の科目は、修身・読書・作文・習字・算術・体操で、高等小学校は、修身・読書・作文・算術・日本地理・日本歴史・外国地理・理科・図画・唱歌・体操・裁縫で学年に応じた内容が指導された。この小学校令の特色は第一条に目的を明示したことで以後、昭和十六年の国民学校の制定に至までの初等教育の重要な規定であった。
  明治三十三年の第三次小学校令においては、尋常小学校を四年として、二年制の高等小を併置して関連を図り、将来の義務教育を四年から六年への延長の準備とした。この小学校令において授業料の徴収を廃止し、義務教育を無償とした。学齢について「満六歳ニ達シタル翌年ヨリ満十四歳に至ル八カ年」としているが、大間々においては明治三十六年の学事年報によると当時、尋常科四年と高等科四年で小学校が規定通り施行されていると報告している。

町村合併と    明治二十一年市制・町村制、二十二年府県制・郡制により地方自治制度を確立するために諸条項を
小学校の統合  定めた。群馬県は二十二年三月四日県令十九号によって町村合併が実施された。三十四町、一七二村の新しい町村が発足した。大間々町では、大間々町・桐原村が合併して大間々町が誕生し、浅原村・塩原村・小平村・長尾根村が合併して福岡村が生まれた。これより先、明治十七年「小学校区域校数指定」では山田郡は、学区番号一四六〜一五三までで、学区数八、本校数八、分校数十五合計二三校であった。また、県の「尋常小学校小学教場数及び設置」(明治十九年)よれば山田郡は、尋常小学校の学区数は一四で、学校数は一九校となり、高等小学校は一校となっている。山田郡における市町村制の実施と学区の改正は、地方自治上の重要な骨格であった。
 明治二十年三月小学校設置区域及び位置を指定したけれどもあまり変更はなかった。明治二十二年三月町村区域名称を改正し、四月一日より施行するのに従って、学区制も十二月に改正し、尋常小学校設置区域を定め、その区域はすべて町村の区域によることとした。明治二十三年第二次小学校令において小学校を尋常校と高等校の二種類として、併置して尋常高等小学校と称するようにし、高等小学校の併置を奨励した結果、尋常小学校及び高等小学校は、少なくなってきて、尋常高等小学校の数が増えてきた。
 山田郡の高等小学校は、明治二十二年四月、台之郷村と大間々町に分校を設置した。前者を山田高等小学校第一分校、後者を山田高等小学校第二分校と名付けた。
明治二十四年四月この両分校は独立し、山田第二高等小学校、山田第三高等小学校と名前を変えた。両者ともいくつかの町村からなる組合立となったが明治二十六年各町村の尋常高等小学校の併置校となる。
町村合併と第二次教育令を受けて、明治二十五年に、大間々尋常高等小学校となり、また、山田郡福岡第一〜第四尋常小学校(明治二十五年ころ)が統合し、明治二十八年、山田郡福岡尋常高等小学校、山田郡福岡東尋常小学校、山田郡福岡西尋常小学校となって開設された。神梅地区は、明治二十三年、神梅尋常小学校が開設された。小学校の統廃合が一段落した。
これ以後、昭和期の国民学校が開設されるまで、初等教育は大間々町に大間々尋常高等小学校、福岡村においては、福岡尋常尋常高等小学校が教育の中心となっていった。
大間々町の小学校(明治二十年代から四十年代)
◯山田第五小学校(明治十八年)  山田第十一尋常小学校(明治十九年)    大間々尋常小学校(明治二十二年)   ┌大間々尋常高等小学校(明治二十五年)────大間々尋常高等小学校(明治四十一年)
                山田高等小学校第二分教場(明治二十二年) 山田第三高等小学校(明治二十四年)┘
◯山田第七小学校(明治十六年)  山田郡第十三東尋常小学校(明治十九年)        山田郡福岡第三尋常小学校(明治二十六年)山田郡福岡尋常高等小学校(明治二十八年)福岡尋常高等小学校(明治四十一年)
◯山田郡第七小学校第二分校(明治十六年) →山田郡第十三番西尋常小学校分教場(明治十九年)→山田郡福岡第二尋常小学校(明治二十五年)→
◯山田郡第七小学校第一分校(明治十六年)山田郡第十三東尋常小学校分教場(明治十九年)→山田郡福岡第四尋常小学校(明治二十五年)山田郡福岡東尋常小学校(明治二十九年)→福岡尋常小学校東分教場(明治四十一年)
◯山田郡第五小学校分校(明治十八年)→山田郡第十三番西尋常小学校(明治十九年)→山田郡福岡第一尋常小学校(明治二十五年)→山田郡福岡西尋常小学校(明治二十八年)→福岡尋常高等小学校西分教場(明治四十一年)
◯黒保根第二尋常小学校分教場(明治十九年)→神梅尋常小学校(明治二十三年)──────────────────────黒保根尋常小学校神梅分教場(明治四十一年)
                                                                                塩沢尋常小学校(明治四十一年)福岡村へ
郡視学 明治十八年十二月太政官制にかわり内閣制度が発足した。内閣の一員として文部大臣が置かれ、初代の文    部大臣は森有礼であった。視学制度は内閣制度施行以降の文部省において確立され、明治十八年全国を五つに分け五人の視学をおき、各地方の教育視察と指導を行わせた。二十四年から視学委員をおき、二十六年視学規程を定めて、職務内容を明確にした。第二次小学校令において府県知事は郡に視学を置いて「郡長ノ指揮命令ヲウケテ郡内ノ教育事務ヲ担当ス」と郡の教育行政の指導に当たらせることにした。給与その他の報酬は郡から支給され当初の身分は官吏待遇であった。その但し書きに郡の申し出により、郡視学をおかないことができるとあつたので山田郡においては視学を配置しなかった。しかし、明治三十年の五月勅令第百四十号により地方視学が設置されることになり群馬県においては、二名任命した。三十二年に地方官として位置づけられ、百人を定員として「地方長官ノ指揮ヲ承ケ小学教育ニ関スル学事ノ視察ヲ掌ル」として任用資格に一定の制限を設けた。山田郡の最初の
視学は、田中美名人であり、明治四十二年までつとめ、その後北甘楽郡富岡小学校長として転任した。明治四十二年より郡視学になったのは、櫻井菊次郎で明治四十三年より、神保錬太郎が、明治四十五年より、中嶋幸平大正八年より、塚越輝平が、大正十二年より森田登がなった。大正十五年六月、郡役所の廃止しともに廃官となり、県視学が引き続き本郡を担当した。県視学は、埴田好蔵、羽鳥耕作、矢野幸三郎、木暮國廣がなった。
郡視学が、各小学校を巡視し、指導した記録が福岡尋常高等小学校巡視簿(資料集二九四)として残されており、その内容は授業参観指導、諸表簿を検閲、トラホーム患者の扱い方、出席督励など指示した。

学事会  学事会は明治二十八年群馬県令第七十二号によって設立した。学事会は甲乙二種類あった。甲種学事会は、    町村長・学務委員・学校医・市町村小学校教員で組織し、学校設備、学齢児童の就学勧誘、学校衛生等ついて研究し、普通教育の向上を目指した。乙種学事会は、小学校教員をもって組織し、教授法・管理法、その他教育上のことについて研修を目的とした。山田郡では一区から三区まで乙種学事会があり、大間々は、第二区乙種学事会で明治三十五年山田郡長森重毅が大間々町・川内村・福岡村(大間々尋常高等小学校・川内南尋常高等小学校・川内北尋常高等小学校・福岡尋常高等小学校)を範囲として作った。会場を大間々町に指定し、大間々尋常高等小学校で五月十日発会した。事業としては、総会・体操巡回研究及び大会・教育視察及び実地授業研究会・名士の講演・会員の研究発表・各種講話会への出張であった。発会当時の会員数は七一名、経費は三四八円四銭であった。
初代学事会会長は小島正中(明治三十五年〜三十七年)であり、望月郷次(三十七年〜三十八年)、小島正中(三十八年〜四十年)、高橋總次郎(四十年〜四十二年)、小林大蔵(四十二年〜四十三年)、五十嵐謙二(四十三年〜大正十二年)、荻野國松(大正十二年〜昭和十四年)が順次会長を務めた。

山田郡教育会 明治二十三年十月、山田郡教育会は、創立した。発起者は、松井山田郡長以下郡内有志及び教育関       係者七十六名であった。その目的は、山田郡教育の改善向上を図るもので、その設立書によれば、
「将来国家の基礎となるべき最も活発にして最も愛らしき子女弟妹を一人前の人間として育て上げんには第一教育が大切なりと云うことは何人も認めて疑わぬ所なり。そしてその教育は色々の種類あり、色々の教育とは家庭教育即ち家内の仕付けなり、学校教育即ち小学校の教えなり、社会教育即ち世間の習わしなり。此の三の者は恰も衣服、飲食、住所の如く最も密なる関係を持てる者にして著しくは別々に孤立するか、又は、其中の一を除くときは決して真の教育は出来ぬなり。是故に三教育の実に任する主人は誰かといえば正しく父兄なり。管理者なり。教員なり。有志者なり。是故に三教育を全く仕遂げんには今の四主人が一心同体と為るより外に良き道やある。一心同体とならんには四主人互いに意志を通ずべき機関即ち道具なくて相叶わぬなり。然るに我山田郡にはさる機関なし我々之を残惜く思うこと久し。且つ地方自治の制度となりしより教育の衰微を来す様にては、深く心に憂きことと思い益々その機関発生の必要を促すに至りぬ是我々が今回同感の人々と打ち語らいて山田郡教育会を設けて本郡教育の目とも耳とも為さんとする所以にぞある。下略(上野教育会雑誌第三十八号)」
とあり、講演会、通俗講話会、表彰、雑誌刊行などを行っていた。明治三十五年の一月十九日に集会を山田第一高等小学校にて開催し、演説を明治女学院長 巖本 善次と群馬県高等女学校長が行っており、討議の議題として、来年度の事業及び予算、小学校教員制服に関する規則改正を其筋に建議する事、奨学児童に賞与を与える可否などをあげている。午前中協議し、午後講演が行われた。
 明治四十四年、山田郡教育会では准教員養成講習会を開催した。また、県より、補助金百円が交付された。大正期まで活発に活動し、大正八年には山田郡役所に評議員会を開催し、社団法人として定款を協定した。昭和七年より事務所を大間々尋常高等小学校に置いた。機関雑誌は千三百部、百二一号まで発刊し、昭和期には予算千九百九十円となり、町村巡回講話会、夏季講習、体育研究、会誌発行、教育功労者表彰を行っていた。

学校行事 明治二十二年(一八八九)大日本帝国憲法が発布され、「大日本帝国ハ万世一系の天皇之ヲ統治ス」(第      一条) 「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」(第三条)と天皇中心の国家を建設しようとした。そのため、教育においても翌年第二次小学校令公布・教育勅語発布して国家主義の教育を強めていくことになった。また、明治二四年には、小学校祝日大祭日儀式規程が制定された。これによって紀元節、天長節、一月一日の四方拝が儀式として挙行することが義務づけられ、三大節が学校儀式として確立された。
 勅語の発布により小学校の教育活動や子供たちの学校生活にも変化がうまれた。大間々尋常小学校の儀式の内容を見ると紀元節・天長節などの祝祭日に教師・児童が式場で行い、御真影(天皇・皇后両陛下の肖像写真)への礼拝、万歳奉祝、勅語奉読、校長訓辞、唱歌合唱などであった。また、式終了後紅白の饅頭を持ち帰らせた。「君が代」も学校で歌うことにより国歌として扱われるようになり、子供を通じて普及していった。教育内容についても小学校教則大綱の同じ二十四年に制定され、勅語にもとづく徳性の涵養を重視し、全教科で道徳教育・国民教育に留意して教えることとしていた。そして通信簿にもみられるように「修身」を重視されるようになった。
 また、このころになると、修学旅行・運動会・遠足が盛んになった。文部省が国策のために奨励した。修学旅行は、大間々尋常高等学校沿革誌によると明治三十三年十月十二日妙義山へ高等科三、四年生男子生徒三十余名を竹内、小林両訓導が引率し、修学旅行をおこなったと最初の修学旅行が記されている。三十四年には、高等科男四十二名神保、小林両訓導の引率で二泊で茨城水戸地方に修学旅行実施。五月には鍛錬旅行として赤城登山を実施した。三十六年には栃木県の唐澤山に修学旅行をおこなった。福岡尋常高等学校の沿革誌によると最初の修学旅行は、明治三十六年無十月二十三日、前橋・高崎方面であった。赤尾校長、吉川、橋本、深澤の三訓導、阿久津学務委員、小野里村会議員が同行し、費用は生徒一人七十三銭であった。また、明治四十二年十月二七日福岡尋常高等小学校生徒修学旅行計画書によると旅行先は東京方面二泊三日で尋常六学年以上高等科全員五十八名であり、赤尾校長、中島訓導、篠原教員、山同嘉四郎学務委員、落合校医、藤生役場書記が引率した。支度は美麗を戒め、草履またはワラジで常装とした。生徒一人に付き一円五十銭で父兄の寄付的預金か区内の有志者の寄付により旅費とした。福岡村長深澤太郎次名で区長・学務委員宛に寄付を依頼する書面を出している。
 運動会については、上毛新聞の記事にその様子が取り上げられている。明治三十四年十一月二十二日上山田(大間々、川内、相生、福岡)小学校連合運動会を大間々町の新田原で開催し、参加児童数は一千百人で盛況であった。その後、各学校においても運動会が実施されており、大間々尋常高等小学校では明治三十五年十月三十日、明治三十七年と隔年に実施されていた。種目は、徒競走、遊戯、帽子とり、棒倒し、騎馬戦などて赤城、榛名、妙義の三団に分かれて競技した。騎馬戦などの入場行進には高崎十五連隊の歌を歌いながら入場した。
 福岡尋常高等小学校では、明治四十四年十一月三日校庭において、第一回運動会を午前九時より午後四時まで行った。大間々尋常高等小学中山校訓導外二名で二百余名を引率し来観した。村内の有志者及び父兄、来観者数千人に及び盛会であった。寄付金も九十七円九十五銭も集まった。

学校の建築 明治二十六年一月一日、尋常科・高等科の二校を併置したことにより、大間々尋常高等小学校と名前      をかえた。その時の校長は、五等上級俸で月給二十一円で三十四歳の大塚鋼太郎であり、訓導を兼務していた。校長を含め七名の職員であった。二月二十日になり、附属幼稚園も認可され、深沢かねが保母を命じられその給料は六円であった。幼稚園の開設は群馬県下でも初期であった。(資料二九九)その時、幼児教育のため校舎を増築した。その後、明治二十八年四月二十六日午後三時頃大間々二丁目西側須永テフ方より出火、折からの強風のため、たちまち八方へ延焼し、二百四十八戸、土蔵三十余りが焼けた。当時大間々尋常高等小学校は児童数五四一人であったが、学校では、教育勅語、御真影、風琴二個と諸帳簿を入れた戸棚だけが残った。五月十日には、桐原の旧校舎で授業が再開したが狭かったので、光栄寺の本堂を借りて高等科の生徒をうつし授業をした。師範学校の教師や花輪小より学用品・本が寄贈された。明治二十九年二月十九日に桐原に新校舎設立に着手し、明治二九年三月一八日の学校新築委員会において工事分担通達が大間々町長藤生一次郎よりだされた。用材検査係・道路開削敷地に玉石地盤・外堀係・大工仕事内装・屋根土居葦係大工仕事の内造作畳・建具係、粘土壁・取水・漆喰係などと分担して行われた。四月三日には、その敷地において日清戦争の出征軍人凱旋祝賀式をおこなった。日清戦争の時の戦利品、砲弾数個、ゲベル歩兵銃一個、銃三角剣一個、軍衣が学校に寄付された。
 七月十九日新校舎の上棟式が行われ十二月には山田郡長利根川孫六が工事視察に来た。校舎建築の費用は、寄付金、町債、大間々銀行より一時借入金など六千五百八十九円の収入があり、校舎新築には四千五百五十二円かかった。
  明治二八年福岡第二、第三尋常小学校の合併し、福岡村大字浅原村乙八十四番地に福岡尋常高等小学校を設置することになった。尋常小学校二学級高等小学校一学級の三学級で生徒数は、百七一人であった。明治二八年二月二一日福岡村尋常高等小学校校舎新築の許可が下りた。( 資料二八七 )
明治中期の校舎建築は、文部省の設計によるものが基本的であった。山田郡長吉見邦正が群馬県知事中村元雄にあてた校舎建設伺い書によると福岡村の尋常高等併置小学校を新築することについて設備規則第十条により申請書を福岡村長山同藤十郎が提出した。その申請書内容をみると、気候については、華氏寒暖計九十度冬三十五度風向南より西北へ冬季西北より東南へとあり、建設費は二千円はおおよそ寄付金によるものであった。寄付金を出した者には山同村長は、領収書をかねてその篤志をたたえ、証明書をだした。学級編成は3学級であった。学齢児童は、三九九人男百九七人女二百二人である。また、小学校本科正教員免許状所有者一名、尋常小学校本科正教員免許状所有者二名、教員の給料は、四百六十八円であった。尋常科は四年まであり一年四四人、二年三八人、三年十八人、四年二五人で、高等科は、一年二四人、二年九人、三年六人、四年、0人三八人であった。千四百五十六坪の敷地面積であった。当時の学校の見取り図は、つぎのようであった。

 福岡東尋常小学校も明治二八年九月二十四日福岡村長山同藤十郎が新築許可申請を提出した。( 資料二八八 )建設費は四百円ですべて寄付金でまかなった。一学級で尋常小学校のみであり、児童数は三十名であった。一反六畝十歩で建坪は、四十坪であった。小平千九百六三番地大字狸原に建設した。
 明治二十七年十月二十六日黒保根村巡視表によれば学事の状況によると水沼尋常小学校、上田沢尋常小学校、下田沢尋常小学校、宿廻尋常小学校、神梅尋常小学校、黒保根高等小学校があった。尋常小学校高等小学校ともに四年の修業年限であった。当時、大間々町に属していなかった神梅地区の大間々町に関係のある小学校は、水沼小学校であり、水沼村、八木原村、塩沢村の三村を通学区として学齢人員のうち修学していたのは、百六人で二学級であった。教員は、七等下級の訓導と一名の委嘱員で教えていた。明治二十三年開設の神梅尋常小学校は、神梅村、下神梅村二地区より通学し人員は百四十二人の内七十三名で二学級であるが、教室等は修理が必要であり、新築する必要があると巡視表では述べている。その後、三十二年、神梅尋常小学校は滝ノ沢に七十五坪の学校を新築した。明治四十二年に黒保根尋常高等小学校の神梅分教場となる。大間々町立となるのは、昭和三十三年大間々小学校神梅分校となり、その後、三十七年大間々町立神梅小学校となった。

明治二十年代の この時期の学校経営の予算は、寄付金と町の補助金と授業料の収入に寄っている。では、一ヶ月学校経営    の授業料はどれくらいであったのだろうか。明治二八年三月九日福岡村尋常高等小学校の授業料を村会に意見を聞き、議決したものを三月福岡村長山同藤十郎は、県知事中村元雄に伺いをあげている。その内容は、尋常一年は三銭、二年五銭、三年七銭、四年十銭、高等一年十五銭、二年二十銭、三年二五銭、四年三十銭であった。また、明治二十二年の大間々尋常小学校の収支決算書( 資料二八二 )をみると次のようであった。収入は、八百四十二円で、内訳は授業料四百四十円、町村補助三百九十八円、寄付金十五円、であった。支出は、職員の給料は、訓導で一ヶ月十二円で合計三百三十六円で、その支出の大部分を占めていた。その他に借地・借家料五十円、書籍・教具費三十四円、定期試験費などであった。当時は一銭でうどん一杯が食べられる貨幣価値であった。
 山田高等第二分校でみると在籍生徒数は、百四人、男七三人女三一人であり、二十三年の経費予算金は七九七円で内三八七円十五銭は授業料歳入予算で、四百九円九五銭は、町村費補助であった。このことを明治二十四年一月二十四日に大間町助役石原繁蔵は、山田郡書記山寄金四郎に報告している。
 教育内容は、明治二十八年の生徒の算術帳を見ると「炭商あり十俵の俵三円七十五銭にて買い半年の後十俵四円二十銭にてうった年利幾割になるや」などの問題や平方根の定義など「開平方トハ平方数ヨリ其平方根ヲ求メル法ナリ而シテ平方数ト葉ハ同一ノ数ヲ相乗シタル積ニシテ其乗スル所ノ数ヲ其平方根ト云フ」など筆でノートを作って学習していた。

郡会及び町村会の 郡会は、山田郡教育会に対して補助金五十円をだし、教員補充のため、準教員養成の講習会開様子       催のために開設費二百五十円を出すことを可決した。町村会においては、教育費は町村費の五割以上をしめたにも関わらず削減をしようとしている。教員の俸給は、郡内あまねく義務額以上決議し、最高額は、尋常校において、平均十五円に決議をした。これは、郡会・町村会が教育を重きを置いてみている。郡の学事兼任郡書記一名、視学一名別に一課をなして教育事務に当たっている。町村においては、町村長・学務委員め主任書記等があり、職務に精励していた。

御真影と教育勅語 群馬県における御真影の下賜については、明治二十一年十月二十五日、群馬県師範学校及び群         馬県尋常中学校がはじめであった。その後、二十三年三月各郡立の高等小学校へ、下賜された。山田郡は、三月四日で郡長、郡書記と校長が生徒代表を引率して県会議事堂に参集し、御真影を拝戴した。訓諭書が朗読され、それを校長が受け、その後御真影を拝受した。君が代を斉唱し、校長が「両陛下、万歳」と発声し、皆唱和し、軍歌とともに退場した。
明治二十四年四月八日、「小学校設備準則」により「校舎には御真影と教育勅語を奉置すべき場所を定める」ことが規定された。御真影は白木の箱に収め校内の一室または奉置場を設置し、くさりなどで区画して奉置し、教員が宿直して警護にあたることが義務づけられた。
 その後高等小学校は郡立から組合立へ、さらに尋常高等小学校へと統廃合が進められる中で尋常小学校、幼稚園にも二十八年九月七日から御真影の複製が下賜された。そこで県では十二月二十六日「御真影拝戴手続」を公布した。その手続きにより、山田郡の福岡尋常小学校の御真影の下賜の様子は次のようであった。
 明治二十八年十月十四日、福岡村長山同藤十郎が、御真影の下賜のための上申書を、県知事中村元雄宛に出した。それは、福岡尋常高等小学校、福岡西尋常小学校、福岡東尋常小学校の福岡村全部の小学校のためであった。明治二十九年二月十一日午前九時村長、福岡尋常高等小学校長勝島周弥、福岡西尋常小福山藤吉郎、福岡東尋常小訓導 海野良太郎、学務委員 阿久津広吉、小野里章二、金子初太郎、前原源三郎等が、山田郡役所に行き、十時に人力車で桐生駅を出発、正午に村境に着いた、そこには、小学生、赤十字社員、在郷軍人、村議会議員、区長が、出迎えた。高等科の生徒が軍歌を歌いながら先導した。周りの民家も国旗を掲げて、祝意を表した。三時に学校に着き、式典を行った。式次第は、御真影を見せ、敬礼し、君が代三唱し、教育勅語を読み、その後、祝辞、万歳三唱、紀元節の歌、号令、奉拝、御真影をしまい、福岡小学校万歳三唱をして、午後四時に解散した。
  教育勅語については、明治二十三年十月三十日教育に関する勅語が発布された後、十二月二十三日県下の学校へ教育勅語が下付されていった。群馬県では知事訓辞を成文にして、各学校へ交付し、「勅語奉読心得」により三大節と学校で定めた式日には教育勅語を奉読することが義務づけられた。各学校長は御真影と教育勅語の奉蔵が義務づけられた。教育勅語の内容は、国体を明らかにして国民の実践すべき道徳の大綱を示す形で出され、政府が教育の目的を勅語の形式でしめしたものであった。勅語の精神は、教育全般の中で指導されたが修身科において強く指導された。福岡村においては、教育勅語は福岡尋常高等小学校には、二十四年一月三日に下賜されたのがはじめであった。大間々町では、明治二十三年十一月二日に大間々尋常高等小学校に下賜された。
これ以後、教育勅語奉読と御真影礼拝は、終戦まで学校教育の中で立憲君主の国を維持するための重要な要素となった。

七.大間々町の幼児教育
 大間々町の幼児教育は、群馬県においても早い時期から行われていた。明治二十四年には、「幼稚教育」として七月から十一月までの間に十五円八十銭を授業料として徴収し、二十四名の幼稚園生を尋常小学校内の幼稚場で行っていた。明治二十五年一月十五日大間々町長藤生一次郎は正式に大間々尋常高等小学校内に附属幼稚園を設置したいと伺いをあげた。その前年、尋常小学校の校長大塚鋼太郎を事務取扱者として高草木與四衛外八十五名より寄付金百三十二円集めて準備をした。
小学校令の実施に伴い、満六歳になると修学することになるが、一ヶ月でも足りないと修学できないそのために幼稚園が必要であるとの理由であった。四十七号設置の規則と保護者の希望があることがのべられている。山田郡長吉見和直は、県知事中村元雄に調査の結果その幼稚園の維持に対して保育料・町税で、維持でき、創立資金は寄付金で賄えることを副申をつけて提出している。附属幼稚園は、大間々町大字大間々二百十五番地の大間々尋常高等小学校内に設置し、四十人を定員としている。保育内容は、修身・談話・唱歌・恩物使用・遊戯運動を教えた。修業年限は二年間であり、一日の保育時間は九時から午後二時までであった。一時間は三十分単位で行われた。保育料は、一ヶ月十五銭であった。最初の幼稚園の経費は、二百三十二円七十四銭であった。小学校内の一室を開誘室としての開園であった。
 

八.明治三十年代の教育
 明治三五年の学事年報取調書によれば山田郡内の学校の施設は漸次進歩をしてきているが従来の組合組織で設置してきた高等小学校が組合を解除して、明治三十五年より、各町村独立の高等小学校もしくは尋常小学校高等小学校を併置する計画をすすめていた。また、学齢児童においては、就学に関する規程の励行が町村長・学務委員が保護者に奨励した。それでもだめな場合は、郡書記・郡視学を派遣して説得した。また、学齢調査簿を整理して、町村に責任者を定めて整理させ、郡視学、書記により検査をさせた。そのため児童数の把握がきちんとなされてきた。小学校においては、そのため尋常小学校の学級数が三学級ふえ、高等小学校の学級数が、二学級増えた。学業は進歩したが、教員数が不足し教育上の課題であった。
 各種学校においては、郡内に二校あって、一つは大間々共立普通学校であるが値創立してまだ日が浅く、設備などがまだ不完全であり実効があがっていない。もう一つは川内学校であるが生徒が一名出校しているだけで、閉鎖の有様であった。
明治三十六年の福岡尋常高等小学校の一覧表によると、福岡村の戸数は二三六戸で人口は男八六四人、女八九五人であった。学校の校地は、一四九六坪で運動場は三八三坪、五教室、特別教室一、総建坪一三八であった。創立以来の卒業生数は、尋常科男一七六人、女一二六人、高等科男一一九人、女九九人で毎年三0人前後の卒業生であった。また、授業日数は、二五一日であった。校長兼訓導は赤尾豊三は、高等科三、四年を担任し、訓導吉川篤太郎は、高等科一、二年を、訓導橋本作四郎は尋常科三、四年を、それに代用教員園田豊松尋常科二年、そして唱歌・裁縫を教える永橋ソヨがいた。村長は小池仙太郎で塩原出身で年報酬は二十五円と少額であった。学務委員は無報酬で、阿久津直三郎(小平)星野安蔵(塩原)荻原吉太郎(浅原)の三名であり、校医は、高瀬清で、報酬は年十円であった。
 明治三十四年認可の大間々尋常高等小学校の増築費用は、総額三千二百円で明治三五年一月二十三日大間々町長藤生一次郎により届けが提出された。
 明治三十四年五月十六日の大間々尋常高等小学校は、尋常科 一年男七五人・女八0人、二年男五一人・女五五人、三年男六四人・女六四人、四年男五六人・女三八人、四年男五六人・女三八人、合計男二四六人・女二二一人で四六七人だった。高等科は、一年男六二人・女三0人、二年男四四人・女一四人、三年男一五人・女九人、四年男二七人・女四人、合計男一四八人・女五七人二0五人であった。
 
九.義務教育と教育四大方針
日露戦争  明治三十七年(一九九四)二月十二日、日露国交断絶し、宣戦が布告された。学校においては、全児童と学校   に訓話が行われ、三月八日には動員令があり、町内の軍人が出征するのを役場前で児童・職員が見送った。五月三十日には本町出身の宮田上等兵が戦死した。尋常三年以上の児童・職員が会葬するなど学校教育の中に戦意高揚に関する行事に関することが行われようになった。遼陽占領の公報が入ると国旗を揚げて祝意を表した。また、明治三十八年三月十八日奉天付近の合戦の祝賀のために運動会をした。同年六月日本海海戦勝利のため運動会をした。十月十九日日露戦争、平和克復の大詔の奉読式を行った。二十七日、日本海戦の様子を準訓導で海軍水兵として参加した藤生林二郎が大間々尋常高等小学校で海戦談をした。十月三十日教育勅語下賜記念日につき挙式後運動会を行った。十一月二十五日凱旋軍人(小暮・落合・鈴木)帰郷につき児童、職員、総代でこれを出迎えた。また、明治三十九年二月二十九日凱旋祝賀式を校庭で開催する。出席者は、在郷軍人、山田郡長、分署長、学校職員、児童であった。四月二日には凱旋軍人記念のため校庭に枝垂れ桜の大樹を学校坂を上るときにみられるように植えた。このような事実が沿革誌に書かれており、学校教育の中で、国家主義・軍国主義的行事が行われていた。

義務教育年限 明治四十年小学校令の一部改正により翌年より、義務教育が尋常小学校の修学年限が四年から六年のびる    に改めた。これまでの高等科一、二年の生徒が尋常小学校に移されたのである。修業年限が尋常小六年、高等小二年となったのである。尋常小学校の教科は、修身、国語、算術、日本歴史、地理、理科。図画、唱歌、体操、裁縫(女子)であり地域により手工を加えるものであった。高等小学校は、その他に農業、商業の一科目または、数科目加えた教科で授業がなされた。
 しかし明治三十年代後半から群馬県の就学率は鈍化していった。それは日露戦争後の経済の不況、特に製糸・紡績業の操業短縮による失業者の増加や風水害の被害による影響であった。

教育の四大方針  義務教育の年限が六年となった明治四十年以降、群馬県においては、就学率が伸び悩んでいた。        そのため、群馬県は、明治四十四年六月三十日「教育の四大方針」を県下に発令した。内容は、学齢就学児童就学出席ノ成績ヲ良好ナラシムべシ、小学校の基本財産ノ増殖ヲ計ルベシ、内容の充実ヲ期スベシ、小学校ヲ以テ教化ノ中心タラシムベシ、の四項目よりなっている。大間々町においても就学督励と基本財産の増殖が計られた。
 そして、明治四十五年の山田郡町村長会においても、「小学校基本財産蓄積並びに管理規程」に小学校経費を基本財産より生じる利益をあてることとした。基本財産を蓄積する方法として小学校児童の報恩寄付金として、尋常科第一学年から四学年まで一人一ヶ月一銭、尋常科五年から六年までは二銭、高等科は、三銭をあつめた。樹栽地より生ずる収入、授業料徴収による収入、教育経常費予算の残余、有志者指定の寄付金をもとにした。基本財産の現金は、郵便貯金か銀行にあづけるたり、国債証券・地方債・銀行債の購入することとした。
 基本財産の増殖については、明治四十一年より項目はでてくるが福岡尋常高等小学校では始まったのは、明治四十五年で、現金で九一円六六銭であった。その後、大正期に入り増殖を続け、大正九年には、預金一八00円、有価証券一五0円、山林十三町九段一畝二四歩二、0000円までになった。大正期になり、各小学校の基本財産は蓄積され、就学率もあがっていった。

十.教育内容の変化と統制
教科と教授細目 明治中期の小学校の教育課程の変化をみていくと明治十九年「小学校令」においては基本的事項、        教科や方策は概要のみであった。明治二十三年「第二次小学校令」では教育の目的、教科が具体的になった。明治二十三年の「小学校教則大綱」は教育内容を細かく規定した。目的を「小学校ハ児童身体ノ発達ニ留意シテ道徳教育及び国民教育の基礎並其生活ニ必須ナル知識技能ヲ授クルヲ以テ本旨トス」とした。また、その年「教育勅語」が教育の基本理念としてだされた。
明治二十五年群馬県では「小学教則」教科課程・教授時間を決めた。高等小では従来の博物・化学・物理・生理を「理科」とした。大間々尋常高等小学校は、明治三十年に唱歌と裁縫を教科に加えることが認可されている。
 明治後期の尋常小学校の教育課程は、従来の読書・作文・習字を国語科として、その国語、修身、算術、体操の四教科を必修とし、図画、唱歌、手工の一科目または数科目を加えられ、女子のためには裁縫を加えることが出来た。また、明治三十三年には「第三次小学校令」尋常小学校に二〜四年の高等小学校が併置されていた。高等小の教科は、修身、国語、算術、日本歴史、地理、理科、図画、唱歌、体操、裁縫(女子)であった。終業年限が三カ年以上の場合は男子のために手工、農業、商業の内一教科が加えられた。
 三十五年には粗悪教科書販売の不正摘発がなされ全国的な教科書疑獄事件で群馬県視学が検挙されるという事件がおきた。これを契機に三十六年国定教科書制定をなし、その教育内容も全国共通のものになっていった。明治四十年「第四次小学校令」義務教育六年、高等科二年となったことにより、尋常小の教育課程もかわり、教科は国語、算術、日本歴史、地理、理科、図画、唱歌、体操、裁縫(女子)となった。高等科の教科には農業、商業、手工の一教科の選択が加わった。

学級・通信簿と校訓 明治初期の学校は寺子屋のように一学校一教室のところが多く、異年齢の児童が一緒に学習          していた。同年齢による学級はなく、進級についても能力主義であった。一年たたなくとも試験にうかり、進級する者もいた。明治二十四年学級編成についての規則が定められて、一学級は一学年児童をもって編成することが原則となった。県でも学級編成について児童数とともに報告させており、大間々尋常小学校は、次表のとおりである。学級としてのまとまりのある教育がなされ、組長がおかれ、担任の助手的な役割をはたしていた。
  通信簿については、明治二十四年の小学校教則大綱に「教授上二関スル記録ノ外ニ各児童ノ心性、行為、言語、習慣偏僻等ヲ記載し道徳訓練上ノ参考ニ供シ、之ニ加フルニ学校ト家庭ト気 ヲ通スルノ方法ヲ設ケ相提携シテ児童教育ノ功ヲ奏センコトヲ望」とあり、通信簿の必要性を説明している。学校教育の中で現在まで法的に義務づけられてはいないが通信簿は家庭との連絡や学校教育の向上に重要な役割を果たしてきている。明治期にこの原型が作られている。大間々尋常高等小学校では、明治二十八年に「考績簿」という名の通信簿が発行されている。その内容は、生徒の操行及び学術を奨励することを目的とし、保護者に注意を促した。試験成績表・出席日数・賞のもらった回数・修身・読書・筆算・珠算・作文・習字・体操、平均点などを十段階で評定されていた。そして一ヶ月一回成績を保護者にしらせていた。また「学校より」「家庭から」などの通信欄もあった。 明治三十三年「小学校令施行規則」により、「学籍簿」の編成が義務づけられ、これ以降、学籍簿に準拠して通信簿は作成されるようになった。この当時の学籍簿の評定は教科は十点法で、操行などについては、甲乙丙で評定された。明治四十年ころより教科、操行とも甲乙丙の評定になった。
 校訓として、大間々尋常高等小学校「我校の教育」の中で@標語「自分ノ為スベキコトヲカゲヒナタナク真剣ニヤリトホセ A徳目として、主たるもの=勤勉・親切、従たるもの=正直・共同・秩序・綿密・清潔・敏捷・勇気・強壮をあげている。校訓の必要性と任務について児童の日常の規範とするために経済的に徹底すること、公民的、自治的訓練のため活動方針として必要であること、自立的訓練の指導上、自己教育のため古来より座右の銘があるように修養のため有効であること、教育勅語の趣旨を徹底するため、修身教授の帰結点であり、児童訓練の方針とし標準となるものであるとしている。徳目の関係として勤勉は学童の本務、親切は共同生活の要となるため主たるものとした。また、自治との関係を
         ┌  熟慮 親切                                ┌  自分ノ為スベキコト動機の純粋┐ 
自治=至誠│       正直・共同・秩序・綿密      校訓訳語│ カゲヒナタナクーーー全心的   │徳の本質
         └  断行  勤勉                                └  ヤリトホセーーーー不撓不屈  ┘ 
                   勇気・強壮・敏捷・清潔
としている。徳目選定上の注意点として、国民性の長短と国家の要求として、教育勅語、戊申詔書、軍人直喩をもとにし、通俗社会の理想の人をあらわす、という三点をあげている。このような校訓を目標として学校教育が明治中期より行われてきた。
十一.中等教育の普及
私立謙譲学舎 私立謙譲学舎は、大間々町の六丁目八十九番地に入学生の定員三十五名、内訳は、男二十名女十五       名として設立された。教科は、修身六時間は、論語・孝経教えたところをその大意をはなさせた。その他に読書講義・作文・習字・算術を教えた。授業料は、一ヶ月一年は四十銭、二年生は、五十銭、三年生は七十銭とした。一年間の経費はどの程度てあったかというと百八円であり、教員の給料は、六十円であった。その設立者は、河村武彦で広島県出身のの士族で祖来派の漢学を修得した人であった。明治二十七年七月三日のことである。

井上浦造 共立普通  日清戦争後、経済の発展により国民生活は、向上してきて上級学校への進学希望者が、増加
学校を設立          し、県立普通及び郡・私立中等教育機関が設立されてきた。政府も尋常高等小学校卒業後の国民の把握のため、中学校を指導者層として、実業補習学校労働者の育成のため設立しようと意図していた。本県では、明治三十年四月より、群馬県尋常中学校と分校として群馬分校、多野分校、甘楽分校、利根分校、新田分校の六分校を設置した。三十三年には、中学校は六本校二分校となった。山田郡は、中学校は設立されなかった。
 このような情勢下で、勢多郡宮城村出身で同志社神学部出身の井上浦造(慶応三年十一月十一日生)は、キリスト教の牧師として伝道生活を送っていたが、文化に接することが少なく学問の道が閉ざされている地方において青年を教育することが自己の使命であると悟り、山田郡大間々町桐原の本要寺境内に移り住み、そこで、青年に英語を教えながら学校の設立の準備をした。三十三年一月六日大間々小学校内に創立委員会を作った。二月一日には、中等教育機関の必要性を説いた「設立趣意書」を配布し、賛同者を募った。創立発起人の代表者は、新里村名誉職村長 竹内忠蔵であり、山同藤十郎、阿久津直三郎、沢 与八郎、松井泰次郎の調印をもって県当局に申請した。しかし、中学と称することはできないというので名称を共立普通学校として、四月十日に古荘知事が設立の認可となった。生徒数は十三名であった。教室は本要寺の一室、黒板は当時、英語会というのがあったがこの会が寄付、腰掛け等は新川、福岡小学校の不用のものを借用して授業を進めた。共立普通学校は、修業年限は三カ年で、修身・国語・漢文・英語・地理・歴史・博物・農学・法学・経済等を教え、特に農学を三カ年週三時間ずつ指導していた。その学科課程は、次の通りである。

明治三十四年四月には二学級となり、三十五年には三学級となり狭くなった。この時、福岡村の郡会議員阿久津直三郎の助力で新校舎建築のために郡から百五十円の補助金を得てこれを基礎として新校舎建築費を募集した。木造校舎平屋建四十八坪工費七百五十円の見積もりであった。本要寺の南隣りに借地して桑畑をたいらにし、基礎工事に取りかかった際、現在の大間々高校の所に三百坪の土地を寄付するという有志が現れた。このことが、北部、南部の間に紛争を生じ時の警察署の世話にまでなったが、当時の有力者の仲裁により大間々尋常高等小学校の南隣り、現在の大間々高校(大間々町大字桐原一九十一番地)に明治三十五年十一月、新校舎の移転となった。その後数年間は賛助員組織であったが経済的に困窮していた。明治三十七年日露戦争が起こり、不景気がとなり入学生は減少し、三十九年には新入生八名三学級合わせて三十八名で生徒数が最も少ない時代であった。明治三十九年農業科を加設した。
 明治四十年代には、経営困難な時代が相当長く続いたので評議員会において協議し、明治四十三年大間々町長新井栄太郎を設立者として管理規則を議決して運営にあたった。明治四十三年には、生徒数三学級五十一名、教員数三名、講師一名、一年間の経費九百五十一円、卒業生第一回より合わせて六十六名となった。その後、規模が大きくなった。当時の教員には岩沢正作(大間々で博物学者で「毛野」発刊した)(資料   )、井田宗二郎などの教員がいた。大正二年の頃のようすは第十三回卒業生角田氏の回顧録によると校舎と職員について「教室は三教室で一教室が三間、北に廊下があり、南向きのトタン葺きの一階建で窓はガラス張りで、欄間は障子紙、先生は4人、校舎の前が運動場、その南に桃畑があり、運動場には鉄棒2本、テニスコートがあった。読書部、庭球部、剣道部があり、一人会費五銭であった。服装は小倉袴に薩摩絣、下駄は朴歯の八寸歯を履き、帽子は学生帽に の記章をつけて往復15Kmを徒歩通学した。一年の半分くらいはコウモリを持ち、本を風呂敷に包んだものをさして通学した。」と書いている。
 大正七年体操科を加設、大正十年三月校旗樹立式、同十一年校歌を制定し、同十三年には四年制となる。昭和元年には生徒数四学級二百五十名、教員七名、一年間の経費八千三百七十五円、卒業生数五百名となった。昭和三年には県立桐生高等女学校の寄宿舎を県より交付され使用する。昭和七年、四学年四学級、在籍生徒数一一五人、教員数6名、経常費八、二三五.四二円である。
井上浦造は、昭和十三年まで共立普通学校の教育に尽くした。その年共立普通学校から町立大間々農業学校となった。井上浦造の教育により、後に県会議員となる須藤利雄など多くの人材を輩出した。