8.地獄の坂と女性の怒鳴り声

 来る時に今回の最高速度59キロを記録した非常に快適な連続した下り。この連続した下りが、今度は当たり前の事だが、連続した上りとなって私を苦しめる。最初のうちは無理をして上り続けることにした。もろん最も軽いギアを使ってだ。それでもペダルは象でも引っ張っているかのように重い。それなのに全く自転車に乗っていられないのだ。それだけ身体が疲れていたのだろう。ただ坂は長いだけで、日本の山岳道路のような急坂ではない。
 山に行った時、連続した登りがあると「ああ、ずいぶん楽しませてくれるな」などと言いながらお互いに慰め合ったものだ。なのに今回は一人だったせいもあるが、そんな気にもなれなかった。まさに地獄の坂と呼びたいような坂である。
 自転車に乗りながら坂を登るのをあきらめる。転がしながら歩いて登ることにしよう。自転車のシューズで歩きにくいが、幸いレーシング用のシューズではないので、靴の底にペダルとの固定用の金具がついていなく、歩行はそれほど困難ではない。しばらくすると歩くのもいやになり、道端に横になった。いままでは座る程度だったが、今度は酸化鉄を含んだ赤色っぽい土の上に寝ころんだ。十分程してからだろうか、突然ボランティアの救護の車が現れて「大丈夫か」と声をかけてくれた。むろん私は疲れていたとは言え、この坂を登り切ればゴールはすぐだし、「大丈夫です」と答えた。再び自転車を転がし始めた私を見届けて、救護車は先に走って行った。
 坂はさらに続く。長さにして15キロは超えるだろう。一つの大きな坂を登り切り、あそここそ最後の坂だと思い、そこまで行くとさらに別の坂が私を待ちかまえている。水筒の水は残り少なくなり、その水はなま暖かくなっている。疲れ切っているせいかバナナも食べたくない。しかし、他に食べるものがないせいか、腹がへってはますます力が抜けていくみたいなので、無理して食べることにする。いや、食べ物は自分で用意した菓子も少しばかりは持っていたが。だが、こんなものは全然喉を通らない。バナナの皮はエチケットとして目立たないように道から遠くへ投げ捨てた。
 この坂を登り切ればエイドステーションもすぐだという思いだけで頑張った。このカメハメハ・ハイウェーは海岸ベリの道路と違い、車が多くしかも猛スピードで走り抜けて行く。このツアーのパンフレットに「クルマに邪魔されることなく、美しい景色の中を、おもいっきり走ってみたい………。真っ青に澄んだ空の下、クルマや排気ガスになやむことなく、走りっぱなしの二百キロメートル………。」と書いてあったけれど、ここは日本よりも車が多いくらいではないか。
 さらに登り坂は続いた。距離計は160キロを示している。センチュリーランとは100マイル、つまり160キロを走りきることではないのか。(160キロならここで終わりなのになあ)と、こんな事を考えながら歩き続ける。(もういい、もういい、もう走りたくない)こんな気分になってきた自分に気がついた。空には雲がほとんどなく、絶え間なく太陽の光が降り注いでいる。これは帰国後にわかったことだが、両腕の皮膚が強烈な紫外線のために死んでしまい、汗が出なくなってしまった。汗をかくと水泡となり、皮膚の上に出られない。膚の健康に悪かったのは明らかだ。こんな時は長袖や日焼け止めクリームは必需品である。
 町並みが始まった頃、やっと登り坂が終わる。すると、片側二車線の広い道路になっていた。すると、真ん中にグリーンベルトが走っている。行きにこの道を通ったはずなのに、全く覚えがない。道幅は60メートル以上はあるだろうか。これだけ広いと、道の両側の風景も異なり、見覚えがなくなってしまっても当然なのかも知れない。しかもここは外国で、初めてのハワイなのだから。
 もうすぐだと思っていたエイドステーションにはなかなか到着しない。喉がカラカラになってしまって我慢できなくなり、コーラなどの飲み物が欲しくなった。しかし、いたる所に自動販売機がある日本と異なりほとんど見あたらない。ニュージーランドに行った時や、昨年ハワイに来た吉沢さんからも聞いて、自動販売機が無いの知っていたので別に驚きはしなかったが、こんな時には非常に不便なものだ。
 道路の反対側にやっと自動販売機があるのを見つけると、注意深く渡った。中央のグリーンベルトには自転車を持ち上げて。値段は50セント。25セントを二枚入れる。きょう始めて使うお金だ。350ミリリットルのコーラを飲みながら道の反対側を眺めていると、なんとあの外山さんが通るではないか。ああ、やっぱり抜かれてしまった。無念さと共に、もしかしたら道を間違えてしまったのではないか(なかなかエイドステーションに到着しないので)と言う不安が、外山さんが通った事でなくなった。しかし、すぐに後を追いかけようという気は起こらなかった。何故ならあまりにも疲れ切ってしまっていたから。
 再び走り始める。私がかってに決めたライバルの外山さんは、ずっと先に行ってしまって見えなくなってしまっている。エイドステーションはまだかな、などと考えている時に自動車の中の女性が窓から乗り出した姿で、私に向かって突然大きな声で怒鳴った。すごい剣幕なのには私自身、何が何だかわからなかった。
 言葉がわからないと言うのは時によっては幸いするものだ。わからない事によりショックが少なかったのだから。推測するに、信号を無視したのをしかられたのだと思っていた。しかし、後にこの事を杉井さんと言う女性に話すと、「自転車が自動車の走る中央の方に寄りすぎていたのではないか」と言われた。確かに言われてみればその通りだった。端を走ると砂利が多く、その分パンクする可能性が高くなり、どうしても中央よりを走ってしまうのだ。それにしても若い女性があんな怒鳴り方をするとは、ここはさすがに異国だ。