はじめに
常々文化の最も基本的なものに“言葉”があると思っていました。そんな私の思いを「学校教育における方言の取り扱いについて」と言う項目にまとめて市の執行部に聞いてみました。
1.小学1年生の時の思い出
私が小学生の1年生の時の話ですから、今からもう四十数年前の話になりますが、今でも昨日の出来事のようにはっきりと覚えていることがあります。確か国語のテストで、いくつかの簡単な絵が何であるか書きなさいと言う問題でした。いくつかある絵の一つですが、横には丸が四つありその中にひらがなで絵の名前を書く問題でした。その時の私はちゅうちょなく“きりばん”と書いて提出しました。帰ってきた答案を見ましたら大きなバツが付けられており、不正解でした。
不思議に思った私は家に帰って親に聞きましたら、その正解はまな板ではないかと言われ、きりばんはまな板とも呼ばれていることをその時に始めて知りました。両方ともに4文字だったのでテストの時は疑問に思わなかったのです。担任の先生はきりばんと言う名称を知らなかったのだと思われます。大人になってから何人かの友人に聞いたのですが、このきりばんと言う呼び方は当時の佐野市全体で使われていたのではなく、どうも私が住んでいる鐙塚町とあとはわずかの地域だったようです。この言葉などは非常に限定された地域で使われていたのかもしれません。
でも、包丁で野菜や魚などを切る板つまり、切板(きりばん)と呼んでいたと考えると、語源から言ってもまな板よりもきりばんの方が今でも相応しい呼び方であると信じています。このたび"きりばん"を広辞苑で調べましたら、まな板と同じとの説明があり掲載されていました。しかし、ばんは私が思っていた板ではなく、旋盤の盤の字を使用しておりました。今ではきりばんと言う単語が死語になってしまったのはとても残念に思っております。
2.佐野に残っている方言
また私が勤務する会社は、この地方以外の出身者が多いので、言葉が通じないことも良くあります。自動車の“はま”がと言うと、何だその“はま”とはと聞かれます。はまとはタイヤの事かと聞かれて、いやタイヤとは違うよ、ではホイールか、いやタイヤとホイールを合わせて“はま”と呼ぶんだと説明すると、俺の方では“はま”とは横浜の事だけどなと言われたりします。また貸したものを返してもらう時に“なしてくれ”と言いますが、これも通じません。洗濯物を“おっこむ”の、この“おっこむ”なども通じない言葉の一つです。このような言葉は、嬉しいことにまだいくつか残っております。
現在はグローバル化との言葉がはやり、さかんに世界標準を目指さなくてはならないような錯覚に襲われますが、真に守っていかなくてはならないのは地方の独自性の文化、言葉で言えば方言だと思います。地域に強く根ざしたものこそ世界に通用するものだと言われています。考えてみれば、今や全世界で通用しているクラッシック音楽と言え、世界的に見ればヨーロッパと呼ばれる一地方での完成された音楽文化ではないしょうか。
3.人は言葉によって思考する
今年の春に元マイクロソフトの副社長そしてアスキーの社長であった西和彦氏の講演を聞く機会がありました。その中で西氏は、英語は単に流ちょうに話せれば良いと言うことではない。ゴットつまり神と発音しても、アメリカ人、中国人、日本人、アラビア人、エジプト人それぞれにゴットの意味している文化的な背景が大きく異なる。この言葉の持つ背景を良く理解していないと大きなトラブルが生じることになる。これは英語を流ちょうに話すこと以上に重要であり、あまり日本人はこのことに気が付かないようだ、と語っていました。
ある一人の日本人の話ですが、親の仕事の関係で日本とアメリカを往復しながら成長し、発音上は完全なるバイリンガルとなりました。しかし日本語と英語ともに発音はともかくとして、言葉としての完成度がどちらとも中途半端になってしまったために、思考を高めることが出来ずに、友人たちと少し高度の話をするとついて行けなくなってしまったそうです。日本人、アメリカ人とも深く話し合うことが出来ずに本人は悩んでいるそうです。この事例を一般化することは危険かも知れませんが、英語教育を始めとする外国語教育に対して一つの示唆を与えているようにも感じます。つまり考えると言うことは言葉を介してであり、特に高度な思索は本人には意識されないにも関わらず、生まれ育った地域での言語がその人の人格形成に対して多大なる影響を与えているのだと思います。
つまり、世界的にグローバル化が進めば進ほど反対に地方独自の文化が重要になり、その文化の中心になるのが日本語そしてその中にある方言、人によっては生活語と呼んでいる言葉が需要になってくると思われます。そしてその方言によって世界に通用するような独自の考え方を持った子供たちが生まれるのだと思います。
佐野市史や田沼町史を読みますと、この地方での方言の数は多くあったようですが、今ではかなり失われてきているように思います。やはり言葉は時代の移り変わりとともに変わっていくのはしかたない面も多くありますが、書籍の中だけに記録しておくだけで使わないのはもったいないような言葉もあります。しかし、言葉は生活する上での人々の共有財産であり、一人が使用するだけでは言葉の利用価値がありませんからなかなか難しいところもあります。
4.方言は地方の文化的な財産
ここではあまり深くは触れませんが、言葉には文化の優越性があります。京都弁を自信を持って話す人はいますが、東北弁を自信を持って話す人はマスコミに出ている少数の人を除いてはほとんどいません。それは昔文化経済の中心であった京都で話されていた京都弁は、話す人に優越性を感じさせるからだと言われています。京都弁には東北弁には無い、文化の優越性とそれに伴う自信があるのです。そう考えると、私たち大人は子どもたちに大きな自信を持って方言、生活語を子どもたちに伝える義務があるようにも感じます。
方言はこの地方独自の文化的な財産であると同時に生きた重要な生活上の道具でもあると思います。言葉は生きていますから、ある程度の変化はやむを得ないとは言えますが、やみくもに標準語や外来語のみを重用するのも疑問であり、積極的に方言を残す努力をするべきだと考えます。
2007年12月13日(木) 佐野市議会一般質問 「学校教育における方言の取り扱いについて」を抜粋してまとめる