1.遊び論
はじめに
「生きるとはどういうことか」、「愛とは何か」と同程度に「遊びとは何か」を考えるのも無益ではなかろう。特に若者の文化が遊びを主体とした中から創造され、生きがいさえも遊びの中に見いだそうと言う人々が増えた昨今、特に遊びと言うことを原点にまでさかのぼって考察してみる必要性があると考える。
フランスの文学者であり社会学者であるロジェ・カイヨウは、その著「遊びと人間」の中で遊びを次のように定義している。「遊びとは、新しいものは何も生じない。収穫も、製品も、傑作も、資本増加もない。遊びとは純粋な消費―――時間の、エネルギーの、創意の、そしてしばしば金銭の消費―――の機会である」。
(1)余暇活動における尾高氏の分類
ここで、「遊び」と言うことを、総体として述べるのはよそう。なぜならそれは膨大なる紙面を必要とするし、また「遊び」の実体性と鋭利性を欠くことにもなりかねないからである。まず具体例を揚げ、それを軸として話を進めていこう。具体例とは、去る7月5日に佐野市文化会館大ホールにて上映された往年の名作、黒澤明監督の「生きる」についての遊び性について述べていくことにする。
この上映会は、一種の余暇活動として行われた。尾高邦雄氏はこの余暇活動を四つのカテゴリーに分類している。1.休息としての遊び。2.見る遊び。3.行動する遊び。4.創作する遊び、である。映画上映会について言えば、休息の遊びは存在しない。見る遊びと言う行為は「生きる」の観客の人たちに当てはまる。千円を支払って見に来た人たちは、自分が認識しようがしまいが、彼らは遊んでいるのである。何故なら、彼らは義理によってチケットを買わされたのかも知れない。しかし、買ったからと言って見に行かなくてはならない必然性は存在しない。自己目的的であり、拘束あるいは強制されたものではなく、自分の好きで行うものであり、物的な報酬を結果として予想するものではないと言う点で、これは完全に遊びである。義務からの解放という点でも遊びの基本的性格を満足している。
(2)「生きる」上映までの足跡
では次に私たちはどうであろうか。ここで「生きる」上映までの足跡を大ざっぱに追ってみよう。この映画上映の話が持ち上がったのが、1979年(S54)年の夏。今からちょうど三年前である。その年の暮れに金子庸三さんとこの映画を見に上京した。年が明けて1980年(S55)の春、館林映画センターの小林隆男さんを通して、東宝株式会社に問い合わせてもらった処、「十六ミリフィルムはありません」との回答があった。「生きる」上映を断念し、映画「若者たち」に変更、6月1日に上映、そして成功する。
どうしてもあきらめきれず、11月に東宝宛に文書で上映したい旨を提出。12月19日に東宝より連絡が入り、3月22日に営業の方と佐野にて打ち合わせ。3月30日に趣意書を関東支社長宛に提出。5月17日に営業の方と再度打ち合わせ。そして6月17日に営業の方と再度打ち合わせ。そして6月17日に足利にて契約成立。そして7月5日に上映成功。
(3)自主性について
三年間にわたる期間、異例である趣意書の提出、三回の打ち合わせ。二十回以上の電話による打ち合わせ。ある面では仕事より苦労した点も多かった。では、私たちは仕事をしていたのであろうか。否、これこそ典型的な遊びなのだ。典型は必ずしも最高を意味するものではないが、高度の遊びのうちの一つであろう。なによりもここには自主性があるからだ。
自主性の問題について、作田敬一氏は次のように述べている。
「私たちの多くは仕事の場やその他の生活の場において、自らの自主性が損なわれているということを気づきさえしない。これがまず自主性を遊びにおいて実現することの第一の困難である。(中略)遊びの新しい理念を生み出した社会が、まさにその構造によって、理念の現実化を困難にしている」
(4)創作する遊びとは
では四つ目の創作する遊びとは何か。これは映画で言えば、映画製作であろう。これの方が上映よりも、より高度の遊びであり、可能性と多様性に満ちている。より高度になればなる程、遊びがいも生じてくる。また、それに比例して苦労も増大してくるのではあるが・・・・・。
また、この映画上映を別の角度から見てみよう。このような行為は文化活動と言われる。では文化の本質とは何か。これに対する答えをホイジンガは一言で言っている。「文化は遊びとして、もしくは遊びから始まったのではない。言うなれば、遊びの中で始まったのだ」。クラシック演奏を聞くのも、パチンコをやるのも、山に登るのも一種の文化現象であり、仕事とは次元を異にする。クラシック演奏とパチンコを遊びとして、もしくは文化として比較することはできても、仕事とは比較することはできない。
(5)アレアとは
補足として、休息としての遊びについて述べよう。仕事の疲れをいやし、明日への活力をになうための遊びである。戦前には最も普通に行われていた遊びである。これは普通「遊ぶ」と動詞で表現されることはない。しかし、最も基本的な遊びの一つである。今日でも「ゴロ寝」と称してこの種の遊びを行う人も少なくない。
映画の話に戻ろう。この上映会には、映画上映には異例の60万円というお金がかかった。赤字が出た場合には自己負担しなければならないのではあるが、これは一種の賭である。競馬、競輪、宝くじと何ら変わりはない。もしかすると、もうかるかも知れない。しかし、損をする可能性もある。これはやってみなければ分からないバクチなのである。この様な要素を含むのは低級な証拠なのではない。あくまでも遊びを面白くする要素の一つなのだ。カイヨウはアレア(運)と言う言葉で表現している。私たちの周りを見回してみよう。多かれ少なかれ、アレアを楽しみにする場面にぶつかる。正月の年賀状のお年玉くじなどは良い例である。私たちは楽しみながら、意識せずにばくちを楽しんでいるのである。ばくちを低級とみなす社会性及びその背景については別の機会に譲るとして、話を先に進めよう。
(6)外部指向型と内部指向型
また遊びとは、個人的な娯楽ばかりではない。ゴロ寝などを除外すれば、個人的な娯楽というのは、おそらく人の想像するよりもはるかに少ないものなのだ。競争者と観客は遊びに持続性を持たせる。この観客とは、お金を払って来た人ばかりではない。二人でスキーに行った場合で言えば、他の一人を指すのである。この映画会の場合、観客は具体的な観客として存在する。良かれ悪しかれ、これらの観客は反応を示し、この反応が遊びがいにもなりうる。このような意味でも、映画上映は面白い遊びの一つであろう。
上映する側から見てみよう。遊びの種類は雑多あるが、テニス、登山、スキーと言う流行的な遊びとは根本的に異なる。前記の遊びは人口的に言って行う人は非常に多い。私自身、登山やスキーは良く行うし、非常に面白いと思っている。人口が多いゆえに施設が整う。それゆえに行動しやすく、それなりに情報が入りやすいと言う相乗効果の現れで、テニス、スキーをやる人は爆発的に増大する。それに比べて演劇や映画を上映して遊ぼうと言う人は非常に少ない。前者は一種の流行現象に端を発している。つまり前者は、他人がやるから自分もやると言う外部指向型(D・リースマンの分類による)の人間が多く存在するし、映画上映などは、他人がやらないから自分がやる式の内部指向型のひねくれた人間が多く存在するのかも知れない。
(7)青春期の遊びとは
青春期とは、青春期を側面から捕らえた場合、遊びを「生きがい」にでき、しかもそれが社会から許容されうるような時期であるかも知れない。私たち青年は、自己達成欲というものは、必ずしも遊びの場で満足されうるものではなく、昔から仕事の場で求められてきたことを肝に命ずるべきである。
しかし、遊びとは人生の究極的な目的ではないけれど、特に私たちの年代においては真剣に遊ぶ必要があると思われる。なぜならば、遊びは単にただの遊びに留まることなく、人格形成にかかさざるべきことだからだ。では真剣に遊ぶということはどういうことか。それは自らの意志を持っているということと、常に前進的な考えがあるということだ。遊びといえども自ら進んで行うものでなくてはならない。そしてその中で「考える」ことをしなければならない。
独身男性は刹那的な享楽の中に身を沈め、あたかもそれが豊かな青春時代を送っているかのように錯覚している。そして独身女性は、現在から結婚するまでが私の青春だと言わんばかりに、ただ単に「世俗的な遊び」に夢中になり、それが大人になることだと思っている。花嫁修業も重要な遊びの一つであろう。しかし、最も大切な遊びとは、自己を少しでも高めていく努力を怠らない遊びをすることだ。
むすび
私たちは遊ばなくてはならない。「遊び」とは、人間の悲しい生存事実だとも言えよう。どうせ遊ぶなら楽しく遊ぼう。では楽しく遊ぶとはどういうことか。今回の映画会を考えてみよう。映画会を行って最も遊んだ人は誰か。それは映画を見に来た人々ではない。主催した人々である。その中で最も努力した人、換言すれば最も苦しんだ人こそ最も楽しく遊んだと言えると思う。本当の遊びとは、大障害が必要だということだ。遊びの技巧とは、この障害物を越えるための技巧だと言ってもよい。私たちの遊びの中には程度の差こそあれ、みなこうした性格を帯びているものを持っているものなのだ。これが遊びというものの正体であり、宿命なのでもあろう。
現在、遊びは多様化の波に押し流されつつある。 近年、産業化がすすみ生産力が飛躍的にのびた結果、国民の生活水準が相対として高まった。そしてこの結果として、余暇時間が増大しレジャーが多様化していった。その裏には生産の増大に伴う単純単一作業の増大、創造の喜びが感じられないような細分化された労働が増大したことも事実だ。しかし、遊びは遊びであり、それ以上のものでなければそれ以下のものでもない。遊びは労働に変わる生きがいにはなり得ないのではないか。
遊びとは、それ自体に程度の高低は存在しない。ただ、遊びを行う認識の中にこそ程度の高低は存在するのではなかろうか。そして遊びをただ単に享楽にするか、自己完成の一里塚にするかは他人が決めることではなく、あくまでもあなた個人の問題なのだ。
追 録
作家であられる有吉佐和子さんの好きな名句を記しておきます。
「どんな悲劇の最中にも天は遊びを忘れない」
2.青春を考える
青春の定義は個人個人まちまちであろう。それは個々の家庭環境、友人関係、学歴、社会情勢などで大きく異なる。しかし、それは当然のことかも知れない。だが、少ない紙面であるが、ここで青春について少しばかり考察してみようと思う。より良き青春の創造を目指して。
年齢的に見て青春期とは、男で18歳から25歳、女で18歳から23歳くらいではなかろうか。青春期をもっと長期に考えている人もいるであろうが、本当の青春期、換言すれば青春期の中核は長くみても前記くらいではなかろうか。30の青春とか一生青春とか言うのを良く聞くが、「30のと」ことわりを付けた処に真の青春ではないことを物語っている。それが年齢的に見て真の青春であるならば、ことわりを付け加える必要など全くないのだ。
青春とは短い。ほんの瞬間的なものだと思う。短いゆえに尊いのだ。この人生の瞬間は、残りの全ての人生よりもある意味では重い。青春は短ければ短いほど美しく輝くのだ。「一生青春であった」と言う人がいたならば、もはやその人に青春時代などなかったと言っても過言ではないであろう。
この青春期とは、精神の最も高揚する時期であり、また最も孤独をかみしめる時でもあると思う。大人とは、生活に対する諦念的存在だ。青春は様々な可能性を含む混沌の命である。何になるかわからない。何かに成れそうだという気がする。このように青春期(青年期)は未熟だ。未熟を未熟と感じ得ない処に青年らしさがあるのかも知れない。
青春時代に、沈黙せざるを得ない程の大きな感動が、その人の一生を決定するのではあるまいか。素晴らしい青春の日々は与えられるものではない。毎日の生活と戦い苦しみ、その中から「生まれてきて良かった」と言う感動が創造されるのだと思う。
幸福とは、限りなく求め続ける途上に於ける邂逅の感動に他ならない。そして青春とは、邂逅の感動を最も真剣に求められる人生の一時期だと思う。