236.ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ

 滝本竜彦 著
 角川書店 刊

 とっつきにくいタイトルです。外来語が氾濫する現在ですが、ここまでカタカナだらけのタイトルはさすがに珍しい。しかし、主人公はいまどきの高校生。白けた思考と希薄な人間関係、コンピュータサウンドに彩られた生活には、湿っぽい漢字かな混じりは似合いません。やはり、「ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ」なのです。このタイトルには本書の特長がそのまま詰まっています。
 『何かをしなきゃいけないような気がするけど、何をしたらいいのかわからない。(中略)信じるものが欲しかった。これだけは絶対に正しいと思えるような、何かが欲しかった。でも、あいにくオレは頭がいい。だからこの世にそんなものは、そうそうないってことを知っている。』と、いう緩慢な焦りの中に主人公はいます。そんなとき、謎の怪人と戦う美少女を目撃します。自分の見たものが荒唐無稽だとは承知していますが、そのことについては無視します。主人公にとっては、怪人が『本当の悪者』であることが一番大切だから。通常なら、「少女を救うためチェーンソー男を倒し、二人で平和な世界を生きる」という結末を目指すでしょう。ところが、主人公は、『悪と戦ってかっこよく死ねるのなら、オレの人生は、それでオールオッケー』と、言うのです。これが、「ネガティブハッピー」。「チェーンソーエッヂ」とは、怪人の武器であるチェーンソーの端、つまり「死」の象徴です。何も目標が見つけられなくて、思い余って死を目指してしまうという極端さは、現代の若者の状態を如実に現しているようです。この点が本書の手柄でしょう。
 本書は、おそらく一気に書き上げられたのでしょう。練り上げ方が足りない印象を受けるのは否めません。しかし、その粗雑ともいえる描写がかえって男子高校生の現実把握の荒っぽさそのもののように感じられ、次第に好感が持てるようになっていきます。読後には、切なさと爽快感の入り混じった不思議な、でも確かに快い感じが残ります。つまりは良い青春小説だということです。 (2009/10・みず)


237.球形の季節

 恩田 陸 著
 新潮社 刊

 恩田陸は、現在最も人気のある作家のひとりです。ファンタジー、ミステリ、SFと作品は多ジャンルにわたり、「六番目の小夜子」でデビュー後、一作品ごとに既存の小説にはない仕掛けを凝らしてくれます。文章が平易で、魅力的な登場人物や謎があり、読みやすいことも大きな魅力でしょう。キヨスクでも恩田作品がずらりと並んでいるのを見かけます。
 今回紹介する「球形の季節」は、初期の作品です。他の作品に比べて知名度が低い気がするので取り上げてみました。ジャンルは、一応ホラーに分類されるでしょうか。最近の恩田作品は、大掛かりなからくりが話題となることが多いのですが、この作品は仕掛けよりも、文章力に注目です。人間の心理描写が極めて優れており、日常の中にも恐ろしさが潜んでいるのか、と、背筋がぞくぞくし、後ろを振り返れなくなるほどです。家事を機械的にこなしながらも娘の帰りを待って焦る母親の心情描写は圧巻です。
 舞台は、東北の閉鎖的な地方都市。なんだかくすんだ感じのする地方です。そこには、男子高校と女子高校が二つずつあります。この四つの高校が合同でやっている「地歴研」なるクラブがあり、その会員たちが主人公です。「地歴研」は、町で流れている奇妙な噂を調べ始めます。五月十七日、如月山にUFOが来てエンドウさんがさらわれる・・・。昔、非常に話題を呼んだ、「口裂け女」の噂や、「赤マント」を思い起こさせますね。その話題の発生場所を突き止めようというのです。わくわくする展開ではありませんか。
 また、恩田陸は、日常の感覚を切り取る名手です。栃木には男女別学が多いので想像しやすいと思うのですが、『男子校というのは、その領域に足を踏み入れたところから既に男くさい。(中略)ついこのあいだまで机を並べていたのに、いつの間にこんな違った生き物になってしまったのだろうか?』こういう感覚、ありませんでしたか?
 奇妙なお話にのめりこみながらも、大人になる直前の、高校生の心の揺らぎを感じてください。 (2009/11・みず)


238.ゆれる

 西川美和 著
 ポプラ社 刊

 06年に公開された映画「ゆれる」は、日本映画大賞、読売文学賞など数々の賞を受賞し、日本映画史に残る作品となりました。じわじわと広がる哀しみに身動きがとれなくなるような映画です。本書は、同名の映画を監督自らが小説化したものです。小説では、映画では伝えきらなかった登場人物の思いが詳細に描かれており、人間に対する考察が更に深くまで及んでいます。
 田舎町で生まれ育った兄弟・稔と猛。兄の稔はお人好しで、文句ひとつ言わず実家のガソリンスタンドを継ぎ地味に暮している。弟の猛は、女遊びも激しい奔放な男。家業を嫌い上京し、今ではカメラマンとして有名になっている。あらゆる点で対照的な二人です。一見、世話焼きの兄と手間の掛かる弟という単純な関係に見えます。しかし、本当はそうではない、ということが徐々に明らかになっていきます。
 小説では、「繰り返される因縁」が暗示されています。猛の父親が家業を継ぎ、その兄は東京で弁護士をしているという、主人公兄弟と同質の関係。女にだらしなかった父親を恨みながらも同じような男に惹かれてしまう幼馴染みの智恵子。暴力的だった父親と同じように自分の娘に手を挙げてしまう洋平。このような血の因縁が描かれることで、わずか200ページの物語にも関わらず、聖書のような重厚さが醸し出されます。
 タイトル通り、さまざまなものがゆれます。ゆれる心。ゆれる関係。ゆれるそれぞれの印象。その最たるものは吊り橋です。ゆれて落ちてしまった吊り橋は断絶の象徴ではないでしょうか。小説中、吊り橋を渡るのは猛と弁護士の伯父の二人。二人とも故郷を捨てた人間です。智恵子は、このままで一生を終わりたくないと思った途端、吊り橋から落ちます。つまり、吊り橋を渡りきるということは、世間から隔絶された田舎町の呪縛、すなわち血の因縁を振り切って逃げるということなのです。橋を渡るのも困難、渡らないという決断も困難、壊れてしまった吊り橋を戻ることは、果たしてできるのでしょうか。。 (2009/12・みず)


239.あるようなないような

 川上弘美 著
 中公文庫 刊

 私は、始終この本を持って歩きます。落ち込んだときや、仕事で疲れたときに開くのです。すると、凝り固まっていた心がゆるゆると溶け出していくのです。
 本書は、川上弘美さんのエッセイ集です。川上さんは、お茶の水女子大理学部卒業後、教職を経て作家としてデビュー。芥川賞をはじめ、数々の文学賞を受賞しています。小説は独特で、現実と幻想の狭間にあるような、類を見ない不思議な世界が構築されています。
 本書は、そのような輝かしい経歴と実力にも関わらず、読者が劣等感を抱いてしまうような「すごさ」とは無縁です。書かれていることといえば、『誕生日が一年に一回しか来ないのはつまらないと思ったので、贋の誕生日をつくることにした。』・・・のような、ちょっととぼけたことばかり。タイトル通り、『日々の中で感じた「あるようなないような」』ことを書いたとのこと。日常の些細なことばかりのこの本には、しかし、学歴や受賞歴といったわかりやすい「すごさ」よりも「すごい」ものが隠されているように思います。
 特徴は、前記のような親近感のもてる内容と、剽軽な文体でしょうか。『せつじつに、手ぶらで歩きたくなる。』、『いやだいやだと思いながら、部屋の丸四角をけんめいに眺める』、『ふだん食べない甘くてとろとろしたもの』、『ひゃあ、と言いながら大皿に戻してしまう』・・・ひらがなが多く、擬音語・擬態語が多く可愛らしいのです。一方、その文体に油断していると、『このひとの骨は太いこのひとのはきゃしゃ、そんなふうに価値づけてみたことがあった。造作と違って、骨も頭蓋骨も美醜の基準が世につれていないので、思うことは楽しい。太くともきゃしゃでも細長くとも丸くとも、それぞれに迷うことなく良しとすることができる。開放される気分である。たとえば、桜のころの天気ならば雨も晴れも曇りも良しとできるような、そういうのに似た開放の気分である』のような鋭い考察が自然に入ってきたりして、ちょっと驚いたりもするのです。
 大きくて優しい慈愛。それが、本書の持つ「すごさ」だと思うのです。 (2010/01・みず)


240.リアルワールド

 桐野夏生 著
 集英社 刊

 トシ、テラウチ、ユウザン、キラリンの女子高校生4人グループ。彼女たちはそれなりに仲良くやってきました。高校三年の夏休み、トシの隣家に住む少年・ミミズが母親を殺して逃走。ミミズがトシの携帯電話を盗んだことにより4人は犯罪に関わってしまいます。ある者は無視し、ある者は逃走を助けます。そんな非日常が降りかかってきたことで、4人の隠された顔が明らかになり、安定していた関係が崩れてゆきます・・・。登場人物を5人に絞ったため物語の展開が速く、転げ落ちるように結末へと急ぎます。それぞれの独白という形式を採ったことでわかりやすさと深さの両方を獲得し、読みだすと止まらない抜群のおもしろさがあります。
 少年の心を扱った小説は数あれど、本書ほど孤独な少年たちを描いた小説は他にありません。仲間にも本心を打ち明けず、両親や教師に対する視線は驚くほど冷徹です。本来庇護されるべき大人や社会に不信感を抱く姿はひどく痛々しく感じます。登場人物の性格・境遇は様々ですが、共通する部分がひとつあります。コミュニケーションに信頼を置いていない点です。
 『ミミズはその気持ちを大人たちには絶対言わないだろうと確信しました。いや、どう説明していいのかわからないんだろう。あるいは説明した時のあまりの単純さを知って言い淀んでいるのだ。』、『普段、仲が良くても、三人は私の傷なんか何も知らないで成長していく。』、『他人を救うことができると信じているお目出度い近代科学に身を委ね、自分の思考をがんじがらめにされるといい。いかに自分のやったことが歪められ、矮小化されるかが、はっきりわかるだろう。』・・・十分に知的であり、教養があり、客観性もある彼女たちは、いくら言葉を連ねたところで本当の理解が得られないことを知っています。そして何も語らぬまま、絶望の底に沈んでいるのです。
 インターネットや携帯電話、コミュニケーションツールの発達が実に皮肉です。言葉を交わす機会が増えても、私たちの表現技術や理解力はまるで進化しないのです。なんと、最後に彼女たちが選択するのは、"手紙"なのです。 (2010/02・みず)